第三話『荷物の正体』

「うっわ、酷い降りだな……」


 日の入りまでは何とか耐えていた空も、男が看板を下ろしに外へ出る頃には視界を遮るような雨脚が音を立てる程までに悪化していた。店を開けている最中、特に掻き入れ時である夕方からは、客たちの賑わいやそれに伴う厨房の忙しさに追われる。ひとりで切り盛りする男には、窓の外にまで回すほど気の余裕を持てという方が無理な相談だった。

 時折吹く薙ぎ払うような強風に木々がしなってがさざめきを重ね、男は思わず眺める瞳を閉じる。もともと水はけの悪い立地だ。ひさしの向こうへと目をやれば、店の灯りが微かに届いている範囲全てが余すところなく坂を流れる水面へと変貌している。その事に気付いた男は店の右手──国境へ向かう山へと続く坂の方へと目線をやる。

 ……塞がれなきゃいいけどな、道。

 男の脳裏には昼間の市場で目に下した、スコップを背負った兵士たちの姿が蘇っていた。

 ここから4、5分程登った先にはもはや崖と呼んで差支えが無いほど切り立った段差があり、側面から突き出た古木が山道を覆うような形で幹を伸ばしている場所があった。晴れた日であればその威容は道を行き交う者たちが、決まって脚をつい止めてしまうほど壮大な眺めを誇っており、転じて直近にある男の店にも多少の恩恵を与えてくれる。そのため普段であればありがたい存在でしかないのだが、こと悪天候になれば事情は一転する。仮にこの雨によって少しでも根を張る斜面の土が緩もうものなら、全く別の意味で往来を止めてしまう可能性すらあった。

 そうなれば売り上げは、良くて半減か……男は亡き止む気配の無い空を見上げ、何の意味もないと知った上で『なるべく早く止むように』と手短に注文を付け、舌打ちを残して畳んだ看板を手に店へと戻る。

 それから片付けを済ませて帳簿に売り上げを書き込み、残った食材で夕餉の支度へ取り掛かったところで、店のドアを叩く音が誰もいないフロアへと響き渡った。


「……」


 しかし男はドアへ向かうそぶりを見せず、研いでいたナイフの柄を逆手に握り直してじっと耳を澄ませる。

 この店が立地しているのは街の外れも外れであり、中心部と比べて治安を守る憲兵の目が十全に行き届いているとは言い難い。予定されていない突然の訪問は、往々にして物盗りなどの望まざる客だと踏んでかからなければ財産──あるいは己の命がいくつあっても足りない。それがこんな夜半ともあればなおさらの話だった。

 だからこそ取り付けた約束、それをドアの向こうも思い出したのだろう。それまで無遠慮さから一転し力を加減して3回、一度止んでまた3回、そして2回。叩き方が改められたのを認めて、初めて男はナイフを置いてドアへと向かった。


「思ったより早かったな」

「待たせちゃ悪いと思って、急いで来たんだよ!」


 扉越しに訊き慣れた声が返って来て、男の肩がするりと落ちる。最後の警戒心を解いて鍵を回すと、その音とほとんど同時にドアが外へと引っ張られた。


「やー、ひどい雨だよ全く」


 男が許し下すより先に店の中へと踏み込んできた商人が、うんざりした様子で頭を振る。お気に入りの山高帽を海に捧げて来たという金髪の端から水しぶきが飛んで、乾いた床板にいくつかの斑点を作った。


「ああ動くな動くな。今拭くもん持ってくるから」

「悪いねえ」


 男は怒らずマットの上を指差して、さっと奥へと取って返す。

 商人の手には畳まれた傘が携えられていたものの、木々を揺らすほどの横風が混った雨の前には大して役に立たなかったのだろう。せっかく着替えたスーツもすっかり元の色が藍なのか黒なのかもわからないほどずぶ濡れで、単に浸すものを海水から雨水へ変えただけの事に過ぎなくなっていた。


「そういや、馬車で来たんじゃないのか?」


 そもそも商人の訪問は、その手に余る『荷物』をここへ預けるという用向あってのもだったはずだ。いくら大雨といっても幌の中で揺られていただけならば、ここまでの濡れ鼠になる事はないだろう。 

 つまりは身ひとつで来た──となれば、肝心の預ける荷物はどこにある?

 戻ってきた男がタオルを寄越しながら口にしたその疑問に、なぜだか商人は困ったように眉根を潜めて苦笑を浮かべた。


「いや、まぁ荷物の量自体は大したことないんだ。だから馬車は置いてきた。足代もタダじゃないしね」

「ふーん……?」


 今ひとつ要領を得ない回答に、男はただ唸り声だけを返す事しかできなかった。商人もまた、その返答だけで疑問を払拭できるとは思っていなかったのだろう。重ねての質問を封じるような性急さで身体を拭うと、丁寧に畳んでからタオルを男へと差し戻した。


「まぁいいや。飯食ってくか?ちょうど今から賄いなんだが──」

「その申し出は魅力的なだけど、生憎これから市場へ戻ってまたひと仕事なんだ」


 商人の意外な返答に、男の眉がぴくりと上がった。

 店を構えるずっと前からその腕を認め、開業資金の半分を無利子で融通してくれるほどに魅了されている舌の持ち主。それが長い付き合いの中で男の、それも無料でありつける食事の申し出を袖にしたのは初めての事だったからだ。


「宿もそっちで取っているから……それより、預け賃の事なんだけど」


 これまた理由を訊ねられる前に話題を逸らし、商人は懐からメモ紙とペンを取り出す。しかしいずれも水の滴り落ちる惨状に深い息を吐いた。男はその様を見て胸元から自分のペンを摘まみ上げ、テーブルに置いた紙のナプキンと一緒に寄越してやる。

 言いたくない、ということは相応の理由があるのだろう。何もかもをつまびらかにすることだけが友人付き合いじゃあない──


「おい……なんだこれは」


 そんな殊勝な考えは、商人の走らせたペンが書き出した数字の羅列の前にあっさりと吹き飛んでしまった。


「え、足りない?」

「いや、そうじゃなくて……」


 それが素の反応かどうかも判別のつかないような、きょとんとした声を返す商人。その返事を前に男の声はよけいに濁ったものとなる。

 ……逆だ。多すぎる。

 商売人が数字の桁など間違う筈がない。だが額面通りに受け取ったなら預け賃どころか人を3、4人食事付きで歓待したとしても十二分に利益が手元へ残る程の金額だった。商人はその才を存分に金へと変えてはいるものの、だからといって余計な支出を厭わないような質ではない。


「それが適正価格だと、僕は思っているんだよ」


 つまりは、その価格を出すに値する何かがある。

 男の考えがそこへ辿り着くよりも先に、商人の方から答えが呈された。あるいはここでもまた、余計な詮索を嫌ったのか。理由を訊ねるべきかどうか、男が逡巡に口を噤んでいるうちに商人は窓の外へと目線を逸らす。


「その代わりといってはなんだけど理由や、聞かないでほしい。それさえ守ってくれるなら、もっと上乗せしてもいいよ」 


 自分に視線を合わせないままそう続ける商人を不審に思い、男はついその目線の先を追った。そこで丁度折悪く閃いた稲光に、ほんの一瞬小さな影が映り込む。

 男はそこで初めて、閉じたドアの向こうに何者かの息遣いが潜んでいることに気付いた。


「おま──」


 そうして抱いた胸騒ぎに駆られるまま、男は商人を呼ぼうと口を開きかける。だがほんの肩口だけを向けて来たその顔を見て、喉奥へと言葉の続きが引っ込んでいく。

 普段『商売の基本』と常に貼り付けている軽薄な笑みを絶やした、無色そのものの表情。それは男へ何も語る気が無いという宣言であり、同時に次の一手が交渉の分水嶺であることを言外に示しているものでもあった。 

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