第二話『頼まれ事』

「そんな言い方は、ないんじゃないのぉ?」

「うおっ」


 何の前触れもなく男の首筋を襲ったのは、樹上から蛇が落ちてきたような衝撃だった。男は前のめりに半歩を踏みつつ、丸く広がった眼で己の肩越しを見やる。

 いっぱいに捻った首の先に見えたのはまず、自分の肩を無断で借りるように回している腕だった。その元を辿っていくと、いかにも高級そうな乳白色の背広を余すところなく潮と汚れに塗れさせている、軽薄そうな童顔の笑みが視界へと写り込む。

 

「噂をすれば、か。勇壮な商人様のご帰還だな」 


 その腕を振りほどく事もないまま、袖の先からしたたる水滴にも気にしない様子で男は笑いまじりの声を投げる。そこに多少の揶揄からかいこそ伺えたものの、心根では無事の帰港を喜んでいる──それを細めた相貌から読み取って、商人と呼ばれた男は破顔を返した。


「僕が乗っている船だよ?これしきの荒波で沈むわけがないじゃない」


 ……まぁ、お気に入りの山高帽は犠牲になっちゃったけどね?

 男の背から離れつつ、両腕を広げて見得を切る姿に、市場を行き交う人のいくばくかが奇異の目を向ける。

 モノの良し悪しを鋭敏に感じ取る確かな目利きと、時流に乗る運と勘の良さ。そして何よりこの有様が物語る、命知らずとも取れる思い切りと行動力。そんな幾多の才によって、親の代から受け継いだ商売を瞬く間に数十倍の規模にまで育て上げた実績──それを知らない他人にとって、その姿はせいぜいが与太や法螺吹きを生業とする芝居一座の若手にしか映らないだろう。


「はは、ずいぶんと吹くじゃねえか。そんで?そのお高いナリを海の水で洗う程度にゃ価値はある旅だったのか?」 


 だが、その経歴を知るふたりははじめから眉に唾をつけず、まずは彼の首尾を訊ねる。

 このたわけた目が向く先に商機あり。この街で棚を広げる者たちにとって、それは密かに新たな常識になりつつあるほどだった。


「う……苦労の割に実入りの少ない旅には違いなかったけどさ」

「ほれみろ」


 しかし、今回に限っては当てはまらなかったようで、力が抜けるように下がっていったその肩に、店主も男も目線を明後日に投げながら口の端から溜息を漏らした。

 そんな態度に込められた落胆の意をこれでもかと浴びたせいか、途端に商人はそっぽを向いて口を尖らせてしまう。


「仕方ないだろ。積荷と水夫の半分が波にさらわれちゃったんだから」


 指を編んだ手を頭の後ろに回して、至極あっさりと。

 さきほど帽子が風に飛ばされたことを嘆いた文句とほとんど変わらない重さで、2桁を優に超す人命が失われたことをぼやく。その不謹慎にすら映る態度は、翻って導のひとつもない海を往く旅路の過酷さ、そして往く者の覚悟の座りを物語っていた。


「……まぁ、なんにせよ無事で何よりか」

「ああ。生きている限りはもうけもん、ってな」

「そういうこと……あ、そうだ」


 地図に記されて久しい陸に生きる者ふたりが、無意識に一歩を引いてその勇を労う。文字通りそんな潮目の変化を見逃さなかった商人が、すかさず話題を変えに掛かた。

 それまで追及を避けるように反らしていた目が、そろそろ退散しようと背嚢を持ち上げていた男へと向く。


「今夜、ここでの仕事が終わったら君の店に行くよ。多分締まった後になるだろうけど」

「……なんだ、またウチを倉庫扱いする気か?」


 その一言を聞いただけで伏せられていた用件を鋭く見抜き、男は呆れ半分に眉根を潜める。

 商人の仕事は海を渡って仕入れればそれで終わり、というものではない。例えいくら成果が期待外れだったとしても、その背に荷をひとつでも持ち帰ったのならば、今度はそれを捌くために陸で歩き回らなければならない。彼が商いの相手とするのはこの街であり、いくら円滑に進んだところで今から夕食までのちょっとした合間で済む様な交渉ではなかった。

 つまりその後で彼が男の店に訪れる頃にはどう考えても宵っ張りであり、すなわちあくまで客として店を訪れる気はない。


「いいじゃないか。どうせ今夜も客間は空いてるんだろ?」


 商人もまた一切悪びれる事はなくその洞察が正しい事を認め、返す刀で男の痛い所を突く。果たしてその効き目のほどはというと、図星を突かれてぐうの音も出ない男の、悔しそうな表情が物語っていた。

 もっぱら「仕入れ」と称する商人の旅がひと段落着くたびに、彼は自前の物置に入りきらない荷物──主に、ごく短い期間で次の持ち主に渡る手筈が付いているもの──の仮置き場として、男の店の2階にある客間を使うのがいつからか恒例となっていた。元はと言えば料理の稼ぎに飽き足らず、一丁宿屋の真似事でも……などと目論んで空けてはみたものの、街の外れも外れに立地する男の店にわざわざ逗留する物好きなどいる筈もなく、結局は持て余すだけに終始するだけの空間となっていた。

 そこへ目を付けた商人が、定められた宿賃から少しばかり上乗せしてやるからと、己の商売に役立てたいと切り出して早数年。今日までのところその客間の常連といえるのは、もっぱら彼の持ち帰るがらくたの山しかいない。


「……わかったよ。合図はいつも通り『3、3の2』だ。いい──」

「さっすが、話が分かるぅ」


 諦めの入り混じった男の声に被さる、神経を逆撫でするような煽り調子の声。

 まるで交渉の着地点が初めから見えていたかのような速さで男の言葉を巻き取って、商人はさっさと背を翻して雑踏へと混じり込んでしまった。


「羨ましいねえ。これから年の瀬で物入りになるってときに、思わぬ救いの手じゃねえの」


 立ち止まりも振り向きもしないまま、ひらひらと振った掌だけを残して去り行くその背中を見送る男。その渋みがいっぱい広がる顔へと、店主はやっかみ混じりのからかい文句緒を投げかけた。

 荷物は人間と違って手間が掛からない。歓待の必要もなく、一度置いてしまえばあとは取りに来るまで部屋の戸を閉めておくだけでいい。更に商人はその矜持からか旧知のよしみを値引きに利用する事は決してなく、むしろ単なる宿代よりも数割色を付けて支払ってくれる。

 懐事情を見透かされているという一種の屈辱感を除けば、文句のつけようがない上客だった。


「……ま、殆ど放っておいて金が入るからな。せいぜい吹っ掛けてやるさ」


 何よりここでいかに取り繕ったところで、自分が目先の小銭に転んだ事実は変わらない。下手に言葉で上塗りするだけ、かえって矮小さを強調するだけだ。

 その気の無い悪態を返しながら、男は内心で今日この場に訪れた自分の幸運と巡り合わせに感謝の念を抱く。





 ──しかし。

 それがとんだ見当外れであり、幸運どころか災難の予兆であることを、男はまだ知らなかった。

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