第一話『港にて』
時を遡る事およそ1日と半分ほど。
中天を超えたばかりの太陽こそ分厚い雲に覆われていたものの、灰色の空は泣き出す一歩前でどうにか耐えていた。
時も天候も違えば、場所もまた異なる。男は自らが住む家であり店を離れ、徒歩にして数十分離れた街の中心──最も大きな市場が立てる喧騒の只中にその身を置いていた。
「いらっしゃい」
4本立てられた簡素な柱の上に、やや弛みを持たせたまま張られた乳白色の布屋根。それが縄で繋がれ目抜き通りの端まで続き、その全てが主に食料を取り扱う店として軒を連ねている。
「今日はまた、随分としけているな」
男はそのうち、恰幅の良い中年の男が鎮座するテントに顔を突っ込み、棚に侘しくぽつぽつと並ぶ品を一瞥してから悪態を吐いた。
「しゃーねえだろ」
不躾でありおよそ礼節を欠いた男の言動にも、店主は慣れ切った様子で半眼と溜息を返す。
「こんだけきな臭くなってくりゃ、モノが滞る時だってある」
まるでその言葉を待っていたように、男の後ろを思い甲冑と長槍を携えた一団が通り過ぎた。彼らが歩を進めるたびに立てる、ガチャガチャといった剣呑を象るような音。それは買い物客の行き交う通りにあって明らかな異物として、残響という形でしばらく居座っている。
「……にしたって、あんまりだろこの品揃えは。仮に全部売れたところで明日の夕飯にありつけるのか?」
その言葉に籠っているのは揶揄が半分で、残りは本気の心配だった。
その割に財布すら出さずに続ける男の悪態に、店主はうんざりした表情を浮かびながら右手の人差し指を点に向け、幌の向こう指差して見せる。
「空と一緒だよ。商いに晴天ばかりは続かねえの。目先だけを見てバタバタすんのは、まだケツが青い証だぜ?」
『自分の店』という一国一城の主としては、店主の方が男よりも10倍は長く勤め上げている。その上市場の真ん中という、最も人が行き来する場所に堂々と構えられている実績を鑑みれば、含蓄の有無は言わずもがなだった。
同時に思い当たる節もあったのだろう。正鵠を射られ悔し紛れに鼻をひとつ鳴らすものの、男は無駄な抗弁を建てることなく口を閉じた。
「ま、明後日か明々後日か……とにかくそう遠くない内にはこれよかマシになるさ」
それを謙虚さの萌芽と認めたのか、店主はたくわえた顎髭を勿体付けて擦る。それから僅かに逸らした目線で通りの端──街の入り口となる大手門を見るように仕向けた。
「……?」
そこには先ほどふたりの後ろを通り過ぎた一団と同じく、重苦しい空気を纏った兵士たちが各々の部下や装備を確認している光景があった。
いつ隣国との戦火となって燃え広がりかねない燐火があちこちでくすぶっている今、街中に
皆一様に敵を撃ち倒すための剣や槍ではなく、岩を砕くためのつるはしや土を掘る為の武骨なスコップを背負い、あるいは手に提げている。纏っているものも身体を守る目的としては随分と軽装であり、男の眼には身の守りよりも身のこなしを重視しているように映った。
「今年はいつもの長雨に加えて大風も気まぐれに吹いてやがる。おかげであっちこっちで木が倒れたり、岩が転がってたり……いろんなもんで道が塞がっているんだよ」
「なるほど、そっちの方が大きな理由だったか」
──どうりで、普段見ないような顔が店に来るわけだ。
男は得心する。さしずめあの兵士たちは戦や治安の維持ではなく、道を文字通り滞らせている原因を取り除くために集められているのか。
「ああ。こんなんだったら前見た時にもっとまとめて買っておくんだったな」
「いつまでもグダグダ言いなさんな」
嘆く男の未練を強引に断つかのように、ぴしゃりと言い放つ店主。愚痴を遮った事で向けられる半眼にも全く動じることなく、ゆったりとした手付きで机からパイプを取り出して火を灯す。
「タイミングってのは度胸の次くらいには商いにとって重要なもんだ……が、こればっかりは人の手じゃどうしようもねえ。そう思って諦めるのもまた、商売には肝心だぜ」
微かに沈めた口調で諭すように言い聞かせながら、言葉尻と一緒に店主は紫煙を口から吐き出す。その眼は男ではなく、空虚を並べる己の棚へと向いていた。あてどなく彷徨う煙とよく似た目線の動きを見て、店主の説教は半ば自分に言い聞かせる為の文句であったと男は悟る。
「……待てば海路の日和あり、か」
「お、良い事言うじゃねえか」
天幕の内を覗き込んでいた上背を伸ばして、男は街の入り口とは真反対の方向を向く。
そうして投げた遠い視線の果てには、この街の興りと繁栄をその異様で威容る大きな港が広がっていた。普段は間の抜けた海鳥の囀りがここまで聞こえる程穏やかな水面を紺碧に染めている海が、ここ数日に限っては泡混じりに濁った灰色に姿を変え、地鳴りのようなうねる波音を待ちの中心にまで響かせてくる。
思わず、男は感嘆の息を漏らしていた。そんな
ただ誰かの命の火が、無慈悲な自然の力によって大きく揺られている──そんな厳しい現実が齎すある種の美しさだけが、そこにはあった。
「そうだ、海路といやあ『あいつ』が帰ってきたみたいだぞ」
「あいつ?」
それは不意に、思い出したかのように呟いた店主の言葉だった。膨らんだ泡が弾けるように男の意識が引き戻され、その視線を再び屋根の下へ向ける。
「ああ、この時化っぷりで予定より数日ズレ込んだけど、どうにか今朝がた入港したらしい」
言葉の尻にそう付け加えながら立ち上がり、店長は庇から顔を出して男の隣へと立つ。とうに火が消えてなお端に加えたままだったパイプを口から離し、その
「あの船か……国の外へ出ていたわけじゃないんだな」
この市場から波止場まで、大人の徒歩にしてゆうに10分は掛かる。その距離を以てなお存在を主張できる程の体躯を誇る船が、まるで子供が水桶に浮かべる紙造りの玩具かのように大きく上下に身を躍らせていた。
その横腹のどこを見ても、在籍する国を示す為の国旗が描かれていない。他国との不要な軋轢を避けるため、領海の外を往く船がすべからく守る法に則っていない事を見て、男はその船が国内の沿岸だけを行き来するものだと当たりをつけた。
「ああ、本来の予定より倍は掛かったみたいだな。おかげで船も積み荷もまぁボロボロだ」
「それでも沈まず帰ってこれたってあたり、あいつも悪運にだけは恵まれているみたいだな」
「悪運か……違いねえや。奴さんにゃぴったりだ」
店主は庇の下へ戻り、男も海から目線を外して顔を見合わせながら悪態混じりの安堵に談笑する。再び幌に視界を遮られたこともあって、軒へと近づいてくるひとつの気配と足音に気付くことが出来なかった。
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