短編『奴隷と粉チーズ』パイロット版

三ケ日 桐生

プロローグ『ある男と子供の食卓』

 「ほらよ」


 テーブルの端に置いてあるボックスからフォークとスプーンを取り出して子供の前に置き、男は客間と調理場を仕切るカウンター目掛けて脱いだエプロンを放る。そうして伸ばした腕の勢いをうまく使って子供の対面にある椅子へと身体を投げ出し、姿勢を直すのもほどほどにいそいそと自分のフォークを手に取った。 

 ……よし、今日も文句なしの出来栄え。

 昼から煮詰まって少し味の濃くなったミートソースが、一日の労働で汗と体力を出し切った身体に染み渡っていく。空腹からしばらく無心に食べ進めていた男は、皿の4分の1ほどを空にしたところで初めて、食器の音が自分一人のものしか立っていないことに気付いた。


「おい、どうした?」


 フォークを皿に置いて目を離すと、肩を縮めて対面に座っている子供は一向に動く気配がない。パスタから立ち上る湯気と芳香に瞳を揺らしてはいるものの、やがて内にある心を律するようにぎゅっとその瞼を閉じてしまった。


「……やっぱり、頂くわけには」

「告げ口したりしねぇって。ガキが一丁前に遠慮なんかしてんじゃねえよ」


 床から立ち上がるまでは割とあっさりと従ったのに──ここまできてやけに強情なその様子を男は訝しむ。

 作った身としては、むしろ並べた料理を口に運ばない方が失礼なのだが。そう思えど口には出さず、男は子供が食器を手に取るのをただじっと待っていた。相手が己の意思を表出する事が許されない身分であることは重々に承知している。同時にただのひと言命令として言葉を投げれば、──そんな身分であることも、またよく知っている。

 だがそれでも、男は黙って待っていた。

 降りた夜の帳を縫う雨脚にも、湿気を擦った床板が立てる軋みにも一切気を取られないまま、微塵も視線を動かさずに見つめる。

 そんな男の眼力に折れたか、あるいは沈黙の中で派手に鳴らした腹の音のせいか。子供はしばしの逡巡の果てに、とうとうそのやせ細った小さな手を恐る恐るフォークへと伸ばした。


「よし──……?」


 料理人としての小さな勝利を内心で噛みしめたのも束の間、男の顔はすぐ怪訝さに染まっていく。というのも子供がフォークの柄の先を摘まむように握り、それきり固まってしまったからだった。

 しかしその眼は変わらずに揺れ動き、口の端からはいよいよよだれが垂れている。それに気付いた男は得心し、もう一度自分のフォークを握り直した。


「ほら、こうやって、巻き取ってよく絡ませるんだ」


 まるで親鳥が雛に教えるように、ゆっくりと口に運ぶまでの動きを見せてやる。すると子供はすぐにフォークを握り直し、その動きを真似て巻き取ったパスタを恐る恐る口へと運んだ。


「……んっ」


 刻んだオニオンが光を照り返す、鮮やかな赤銅色のソースが絡むパスタがその小さな口に入ると同時に、子供の口から小さく息が漏れた。

 口の中の風味を逃したくないのだろう。すぐさま口を閉じ咀嚼を始めると、それまで所在なさげに揺れるだけだったその瞳に、確かな輝きが灯った。

 ──これだから、この商売はやめられない。

 心の内に沸き上がる高揚をひた隠し、男もまた残りを平らげにかかった。


「──っと、『アレ』を出してなかったな」


 後から食べ始めたはずの子供が猛然とペースを上げ、ふたりして皿の半分を空にしたころ、男はこの食卓に欠けているものを思い出し、やおら椅子から立ち上がった。


「チーズ取って来るから、少し待ってろ。全部食うと損するぞ」

「チーズ……」


 興味を惹かれたのか、子供はその顔に微かに感情の色を乗せ、男の言葉を繰り返す。


「ああ。こいつの上にドカ雪みたいにかけてやると、また一段と美味うまくなる」

「雪……」


 ふたたび鸚鵡に返した子供の手が止まり、その眼が宵闇を四角く切り取る窓へと向かう。秋の暮れ、冬の入り口に空を覆った雲は未だその身に抱く水の粒を凍らせないまま、しとどに地面へと下ろしていた。

 ついでにスープも温め直すか。

 立ち上がる横目にすっかり空となっていた子供のボウルが目に入り、男は思い立つ。鍋底をかき集めればあとひとり分くらいは残っていたはずだ。残飯は出さないに越したことはない。

 厨房に取って返してスープの鍋にごくごく小さな火を入れ直し、蓋から漏れる湯気を気に掛けながら男は調味料の棚を漁る。しかし目的のものが一向に見当たらなず、端から端まで探っているうちに踊り出したスープの蓋が時間切れを告げてしまった。


「あー……悪い。今ちょうど切らしちまってるみたいだ」


 仕方なく鍋だけをもってテーブルに戻った男は、椅子を引きながらばつの悪そうな顔を浮かべる。だが子供にとってはお預けを解かれた方が嬉しかったのか、再び満たされたボウルの中身と一緒にパスタの残りを食べ始めた。

 このソースの本当の味を伝えられないのは残念ではあるが、ここまで勢いよく食べている様を見ると、残り僅かな皿へチーズを掛けて中途半端に伝えるのも野暮な気がしてくる。


「まぁ、次までにはちゃんと仕入れておくから――」


 子供が食器を置くタイミングを見計らって、ほとんど無意識にいつも客に対して浮かべる文句が口から零れ──男はそこ己が犯した過ちに気付き、はっと口に手を当てる。


、ですか」


 だが、もう手遅れだった。

 置いたフォークから手を離す子供の目に、食べている間は確かに宿っていた光がみるみる消えていく。それはこの食卓によってもたらされた一時の幸福な幻から、男の迂闊な一言によって子供の心がどうしようもない現実へと引き戻されたという証だった。

 それは決して失言という一言で水に流す事の出来ず、そして取り返しようもない過誤という名の刃となって、たしかに子供を射抜いてしまった。


「……悪い」


 ──『あいつ』は、このいのちに一体どれほどの値をつける気なのだろう。

 一瞬、男の頭には確かに、目の前の子供をその悲痛な運命から救うが浮かんでいた。

 だが不幸にも男は夢想家でも楽天的でもなくむしろ逆、常に至極現実的な眼を己の弾き出す数字に向けなければならない身分である。迂闊な約束事を憚ったその口から出るのは、ただただ何の意味も為さない謝罪のことばだけだった。


「お気になさらず」


 それもまた、透けて見えていたのだろう。

 返ってきた子供の声はいたって平静で、むしろ表情と比べれば抑揚があるとまで言えるものだった。そんな反応を見て、男は座ったまま思わず天井を仰ぐ。


 ──ああ、もう諦めているんだ。こいつは。


 ならば今までの自分の行いは、全てが余計な事だったのかも知れない。

 悔しさ交じりの倦怠が包み込み、男はいつまでも食器を下げに立ち上がる気になれなずに背もたれに沈んでいた。対する子供もテーブルの中央に下げた視線を置いたまま口を開かず、ふたりの間に流れる沈黙を平坦な雨の音が埋めていく。

 いっそ言われた通り、単なる預かりの荷物として放っておいた方が良かったのかもしれない。

 そう知れば無責任な希望を匂わさずに済んだのに。

 いつ開けるとも知れない無言に沈んだ空気。その最中にあって男の頭は、この子供を置いていった旧友への呪詛を今更にして紡いでいた。


 ここから時を遡る事、1日と半分。

 ふたりの話はそこから始まる──

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