第1話 前世の記憶

 ——横たわる少女は、既に死んでいた。


 彼女の赤い長髪と背中から生える白い翼が、血と泥で汚れている。

 開いたままのくすんだ真紅の瞳は、乾き切っていない涙で濡れていた。

 魔道具の青白い光と舞い散る雪が、胸部を鮮血で染めた少女の亡骸を儚く飾る。

 マルシュは彼女の胸部を貫いている魔剣をそっと引き抜いて、地面に置いた。

 血まみれの自身の胸を押さえて、マルシュはうずくまる。


「あはは、殺したわね。守ると誓ったはずの少女を」


 耳にまとわりつく嘲笑混じりの声。

 背を丸めていたマルシュは、身体に力を込めて顔を上げた。


「その子はね、相当の覚悟を持って人間を辞めたのよ。『魔族化』の魔法は苦しいのに、必死に耐えて力を得た。全ては憎きお前に復讐するために」


 黒衣に身を包んだ、紫色の髪の女性が立っていた。

 耳の上に生えている羊のような二本の角が、彼女が魔人である事を示していた。


「アメテュスタ……」

「うふふ。一年振りね、少年。元気そうで何よりよ」


 神経を逆撫でしてくる耳障りな声。

 マルシュは沸き立つ怒りを無理やり抑えつけた。


「……お前の方こそ、このところ勇者候補を熱心に殺しているようじゃないか」

「勇者候補を十匹殺すごとに、魔王様が一つ願いを叶えて下さるのよ」


 アメテュスタは愉しげに嗤う。


「お前で二十匹目。そうね、今度はどんな願いにしようかしら」


 魔族特有の真紅の目が、嘲るように細められる。


「馬鹿な女に裏切られて致命傷を負った、間抜けな勇者候補のお話を劇場公演する——なんてのも、面白そうじゃない?」

「っ……」

「あはは。その胸の傷では、もってあと数分ってところかしら。せっかくあのときよりも強くなったのに、全て無駄だったわねぇ」


 血の匂いが立ち込める中、マルシュはアメテュスタを睨みつける。


「アメテュスタ……のんびりしていても良いのか? 俺が死ねば、せっかく怒りで増大させた魔力が消えていくぞ?」

「私はもう人間の心臓は食べないわ。美味しくないし、今さら魔力の強化なんて必要ない。お前たち勇者候補って、雑魚すぎるんだもの」


 あっけらかんと答えるアメテュスタ。

 マルシュは呆気に取られた。


「……だったら、何故こんな事をした?」


 感情と共にたかぶらせた魔力の吸収が目的でないのだとしたら。

 何故、この魔人はわざわざ手を回して、人の感情をかき乱すような真似を繰り返したのか。


「強くなりすぎると退屈なのよ。だから私は、面白いものが見たいの。お前たちの間抜けなドタバタ劇場はなかなかに愉快だったわ」


 アメテュスタはそう言って嗤った。

 頭に血が上り、マルシュは奥歯を噛み締めた。


「うふふ。良い表情だわ、少年。今の顔も『記録水晶』にしっかり残したわ。コレクションとして私の部屋に飾ってあげる」

「……それは不可能だよ」


 マルシュは声を絞り出す。


「お前はもう、自分の部屋には戻れないのだから」

「あらあら?」


 アメテュスタが嗤ったまま、わざとらしく首を傾げた。


「半魔獣相手にすらその有様なのに、今からこの私も倒そうって言うの?」

「倒すよ」


 マルシュは真っ直ぐに告げる。




「お前を倒し、魔王も倒す——俺は勇者にならないといけないんだ」




 アメテュスタが愉快げに顔を歪めた。


「あはは。大切な少女を守れなかったばかりの雑魚が、よく言うわ」

「……だからこそ」


 涙が溢れる。マルシュは拳を握り締めて呟いた。


「——守れなかったからこそ、なんだよ」


 そして転がっていた魔剣を掴み——地面を蹴り飛ばした。


「なっ……!?」


 背後から激しく動揺した声。

 そしてドチャリという、湿り気を含んだ墜落音が聞こえた。


「何故っ……お前は死にかけのはずっ! 何故、そんな動きができる……!?」


 マルシュは身体ごと振り返る。

 バラバラに切断されたアメテュスタの肉片が、足元の血の海に沈んでいた。


「死にかけじゃないよ。既に一度死んだから」

「な、何を言っているっ……!?」

「所有者が死んだ場合、その死を一週間だけ先延ばしにする魔道具があるんだ。俺は一週間後に必ず死ぬけれど、それまではもう何があっても不死身だ」


 アメテュスタの表情が驚愕に染まった。


「まさか、人間如きがそのような魔道具を生み出したというの……?」

「技術の発展こそが人間の強みだからね」


 マルシュは魔剣を振り上げた。赤い血が剣身を伝う。

 戦慄しているアメテュスタの頭を、黙ったまま叩き潰した。

 辺りに静寂が訪れる。

 マルシュは魔剣を振って血を払い、鞘に収めた。

 足元に水晶玉が転がっている。記録水晶と呼ばれる、映した映像を記録する事ができる魔道具。マルシュは怒りを込めて踏み砕いた。

 それから、自分が殺した少女の亡骸に近付く。

『魔族化』の元凶である魔人が死んだからか、少女の姿は元の人間に戻っていた。

 泥にまみれた赤い長髪。光の失せた蒼い瞳。そっと目蓋を閉じさせて、自分も涙を拭う。

 マルシュは彼女を横抱きに抱え上げた。


「……ごめんね、ルシール」


 ここで埋葬はしたくない。

 魔人の血で汚れた、こんな場所でなんか。

 少女の遺体を抱えたまま、マルシュは歩き出した。


「……残り、あと一週間か」


 それまでに魔王を必ず倒す。

 自分は絶対に勇者にならなくてはいけない。

 ルシールを始め、自分が殺してきた人たちの死を、無駄にしないために。




 ——勇者とは、守れなかった者がなる。

 大切な人を失い、世界に安寧をもたらす事こそが復讐だと考え。

 そのために、他に守りたかった全てを切り捨てて。

 死別を越えて、涙を越えて——前に進み続けた少年は、魔王を討ち倒し勇者となった。






☆—☆—☆






 液体が滴るぬるい感触で、マルシュは目を覚ました。

 涙が零れていた。


「そうか……俺は百年前、勇者だったのか」


 夢と呼ぶには、あまりにも鮮烈で。

 妄想と片付けるには、あまりにも悲痛な思いが胸を軋ませる。


「ルシール・パエラ……まさか、あの子と再び出会っていたとは……」


 百年前に僅かな期間一緒に旅をして、最後に自分が殺した少女。

 そんな彼女は今、『リベレーション』のメンバーだった。


(きっとあの子も、前世の事は忘れているのだろう……)


 マルシュを『リベレーション』に誘ったのはルシールである。

 しかし、かつての因縁を覚えていたのであれば、再会したときから憎悪を向けられていたはずだ。

 それだけの事を、自分はルシールにしたのだから。

 胸がじりじりと焼けるように痛くて、熱を吐き出す勢いでマルシュは深呼吸をした。

 これ以上ルシールの事を考えていたら、罪の意識に潰されそうだった。

 目元を拭って、マルシュは上体を起こした。周りを見渡す。

 全体的にピンクでハートや花柄の模様が目立つ部屋。

 ともすれば身体がはみ出そうな、小さなベッドの上にマルシュはいた。


(女性の部屋……だよな?)


 マルシュは腕を組んで考える。

 自分はテッドに殴られて、気を失ったはずだ。

 それなのに今は、見知らぬ場所で寝かされていた。


(カフェの外に捨てられていたところを、通りかかった親切な人に助けてもらった……?)


 と、タイミングよく足音が聞こえてきた。

 マルシュはハッと居住まいを正す。

 扉の前で人が立ち止まった気配。そのままカチャリとドアが開いて——。




「——あら、起きたのね?」




 マルシュは目を見開いて凍りついた。


「道端で倒れてたから心配したのよ。大丈夫? どこも痛くない?」


 そう、で優しく問いかけてくれたその人は。




 ——身長二メートルはあろうかという、筋肉ムキムキの大男だった。

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