8(魔女の消滅)

 本当に狐につままれたらびっくりするだけだろうけど、それはやっぱりそんな感じだった。わたしは思考できないくらい混乱して、混乱できないくらい呆然とした。

 志仄さんは、知らないあいだにどこかへ消えてしまっていたのだ。

 最初におかしかったのは、訪ねたとき家に鍵がことだった。ノックをして、返事がないからドアを開けようとしたら、かちゃんと手応えがあって、それだけだった。

 今まではずっと、そんなことはなかったのだ。わたしがいつやって来ても、ドアの鍵は開いたままになっていた。どこかにある門みたいに誰かが鍵を持って、入る人を選りわけたりなんてしない。

 そんなことに疑問と違和感はあったけど、わたしはそのままでたいして気にはしなかった。志仄さんだって、塔の上で金色の髪をのばしているわけじゃない。用事があれば出かけるだろうし、いつも暇にしてるわけじゃないはずだ。

 でも、本当は違っていた。

 わたしが「魔女が引っ越した」という噂を聞いたのは、中間試験も終わった頃のことだった。それは前と同じくらい不確かで曖昧な噂だったけど、わたしは胸の鼓動が変なふうになるのを感じた。

 結局、その噂はほぼ間違いなく本当なんだということがわかった。何故なら、わたしが実際に魔女の家をのぞいてみたから――

 ある日、いつもみたいに志仄さんの家を訪ねたわたしは、扉の鍵が開いていることに気づいた。ノックに返事はなかったけれど、わたしはほんの少しだけ、水たまりを飛びこえるくらいに覚悟を決めてドアを開ける。

 家の中は、いつもと同じくらい静かで、しんとしていた。暗闇があちこち蜘蛛の巣みたいにかかっていたけど、玄関ホールの様子にたいした違いは感じられない――そういえば、ここには最初からほとんど何も置かれていなかったっけ。

 それからわたしは、志仄さんのいるいつもの部屋に向かった。植物と柔らかな明かりでいっぱいの、光と緑の部屋に。

 でも――

 そこには、何もなくなっていた。壁一面を覆っていた観葉植物も、中央にあった机とイスも、何もかも。残っているのはただの空白と、高慢な王様みたいに世界のことには無関心な、太陽の光だけ。

 ――ううん、違う。

 本当はそこに、一つだけ残っているものがあった。

 それはわたしがいつも使っていたイスで、それだけがぽつんと、なんにも気づいていない様子でそのままだった。何だか、一人だけ電車で置き去りにされた、小さな子供みたいに。

 わたしは黙ったまま、そのイスに座ってみた。

 やっぱりそれは同じイスで、わたしの身体はそのことを覚えていた。もしかしたら、イスのほうだって。わたしはそのイスを慰めるように座面に両手を置いて、もうからっぽになってしまった部屋を眺めた。

 魔女はどこかへ、消えてしまったのだ。


「――どう思うかな?」

 と、わたしは訊いてみた。

 場所は学校の屋上、時間はお昼休み。

 梅雨の前にひとがんばりするつもりなのか、陽ざしはなかなかのものだった。そろそろ風の冷たさもなくなって、太陽と北風の勝負も逆転してしまっている。

 わたしと府代くんは、そんな屋上に二人で座っていた。

 出入口の段差のところで、でも今日は勉強はしていない。わたしたちがしているのは、ただの雑談だった。人生の出来事の、たぶん九割くらいを占めている行為。

「どうって?」

 府代くんはわざとなのかどうか、いつかと同じ返事をした。

「だから、つまり、その……どうなのかな?」

 わたしは小学生レベルで質問を繰り返した。

 今までのことは全部、府代くんには説明してあった。志仄さんの過去、謎の現在、お手伝いさんの変身、ホテルでの頼まれ事――それから、失踪。

 いみじくも、府代くんの言ったとおりになったわけである。魔女が存在しない以上、志仄さんも存在しない。

「摩訶不思議だよな」

 わたしの質問に、府代くんはまじめな顔で考え込んだ。右手の人さし指と親指をくるくるすりあわせる。真剣に頭を使っているときの、府代くんの癖だった。

「――うん、そうだよね」

 とりあえず、わたしは同意する。

「何だか、夜逃げでもしたみたいな感じだな」

「……噂話によると、引っ越し用らしいトレーラーが来たのは昼のことみたいなんだけどね」

 とわたしは話をかいつまんで説明した。

「あの大きさの屋敷にしては、引っ越しはびっくりするくらいすぐに終わっちゃったんだって。最初から、何もなかったんじゃないかっていうくらい。近所の人は二人の姿さえ見てないし、話なんて聞きたくても聞けなかったらしくて」

「はじめから、そういう算段だった可能性は高いな」

「……何のために?」

「んー、わかんね。誰かに追われてたんじゃないか」

「異端審問官とか――?」

「それか、借金取りとかな」

 実地に経験があるだけに、府代くんの発言にはちょっとした重みがあった。

「…………」

 なんにしろ、今となっては真相を確かめる手段は何一つ残っていないのだった。当の本人が、何の言伝も、手紙も、簡単なヒントすらくれずに、いなくなってしまったのだから。

 わたしがそんなことを悩んでいると、府代くんは言った。

「――まあ、変な話なのは確かだけど、別にいんじゃねー」

「いんじゃねー?」

 聞きなれない英単語みたいに、わたしは思わず訊き返してしまう。

「だって、それで茅村が迷惑したり、困ったことになったわけじゃないだろ?」

 府代くんは設問を別の角度から眺めようとするみたいに言う。

「まあ、そうだけど……」

「じゃあ、やっぱりいんじゃねー。その〝藤谷志仄〟ってのが何者だったか不明、何をしてたのかも不明、何でいなくなったのかも不明。で、それでなんか問題があるか? 何もねーだろ」

「――うん」

 それは、事実だった。志仄さんがいなくなっても、わたしには具体的な影響は一つもない。トランプが空中で炎に包まれて、ぱっと跡形もなく消えてしまうみたいに。

 考えてみると、それは驚くくらいだった。志仄さんが本当にいたのかも、いなくなったのかも、今からだとひどく曖昧ではっきりとしない。まるで、蝶が見ていた夢みたいに。

「ま、本物の魔女だったのかもな」

 と府代くんはわりと冗談でもなさそうに言った。

 けど――

 志仄さんについての真相がどうであれ(本物の魔女かどうかも含めて)、それでもはっきりしていることが一つだけあった。

 それは、わたしは志仄さんのことを覚えている、ということだ。わたしが志仄さんといっしょだった時間、交わした会話、その全部を。

 そして現実的にはともかく、非現実的には、わたしは志仄さんからたくさんの影響を受けたのだった。たくさんの、たぶん善い影響を。

「…………」

 屋上の景色はからっぽで、空だけが退屈な絵みたいに延々と続いている。でも何もないぶん、風はいつもより自由に吹いている感じがした。

「……府代くんは、将来どうするつもりなの?」

 わたしは不意に、風がしゃべったのを伝えるみたいにして言った。

 府代くんの家庭環境は、恵まれているとは言いにくかった。お父さんは呑んだくれで、お母さんはそのことに愛想を尽かして出ていってしまった。府代くん自身はその立派とはいえないお父さんと暮らしていて、当然だけど経済的にも立派とはいえない暮らしをしている。

 わたしに勉強を教えてくれるよう頼んできたのは、主にそれが原因だった。

「何だ? 三者面談ならまだだいぶ先だろ」

 府代くんは皮肉っぽく笑ってみせる。

「ん――でも、わりとまじめな質問」

「……そうだな」

 わたしが言うと、府代くんはそれに見あった程度のまじめな顔をした。ヤンキーらしくはないけど、実に府代くんらしくはある。

「俺はさっさと家を出て働くよ」

 と、府代くんは言った。あっさりと、ファミリーレストランでメニューを注文するみたいに。

「働いて、稼いで――それで、もっとまともに生きていく。もっと、自分を生きていく」

 それはいかにも府代くんらしい答えで、わたしはくすりと笑ってしまう。あくまで元気がよくて、あくまで現実的。

「府代くんは――お母さんのことをどう思ってる?」

 わたしはふと、何故だかそんなことを訊いていた。府代くんを置いて、どこかへ行ってしまったお母さん。

 ひどい言いかたをすると、その人は府代くんを見捨てたわけだった。自分の子供より、自分自身を優先した。それはある意味でわたしのお母さんと正反対で……もしかしたら、同じだったかもしれない。

「まあ、同情はしてる」

 意外なほど明るくて、あと腐れのない声で府代くんは言った。わたしは首を傾げる。

「同情?」

「たぶん、理解してるからだろうな。無理もねーやって。あの親父じゃ、逃げたくもなるぜ、実際」

「――お母さんのこと、恨まないの?」

「そうだな」

 言って、府代くんは少し黙った。何だかそれは、フリーダイビングで世界記録なみに深くまで潜って、ゆっくり浮上してくるみたいでもある。

「まったく恨んでないかって言われりゃ難しいけど、特にそーゆうことはないな。だって、そうだろ」

「……?」

「母親は母親であって、俺じゃないんだからな。そんなこと気にするくらいなら、俺は俺を生きていくよ」

 わたしはその言葉を、心のどこかにメモしておくことにした。神社でもらうお守りくらいには、何かの役に立つような気がして。

「府代くんはそうやって、自分に火をつけたわけだ」

「火をつける?」

「もちろん、比喩的な意味で」

 怪訝そうな顔の府代くんに、わたしはそう言った。

 ――もっとも、中には本当に火をつけちゃった人もいるわけだけど。

 そのつぶやきを、わたしは心の中にしまっておいた。どこかの奥地で見つけた貴重な植物の種を、大切な箱に保存しておくみたいに。

「ま、何でもいーけどな」

 府代くんは勢いをつけて、ぴょこんと立ちあがった。昼休みも、そろそろ終わる時間が近づいている。

 それから、府代くんはあらためてわたしのほうに向きなおった。その鋭い目つきで、風の行方を探すみたいにしながら。

「で、茅村のほうはどうするんだ?」

 府代くんは、そう言う。

「わたしは――」

 ――わたしは、どうするんだろう?

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