7(魔女の口笛)
雨が降っていた。
太陽の光がそのまま細い線になったみたいな、妙に明るい雨だった。傘を差していても、音がしない。空気は温かくて、少しぬめりがある。
わたしはいつもみたいに、学校帰りに志仄さんの家を訪ねた。二年になるまではその存在も知らなかったのに、今ではずっと昔からの知りあいみたいな気持ちでいる。不思議なものだった。
家のドアをノックすると、なかなか返事がなかった。念のためにもう一度ノックするけど、やっぱり何の反応もない。
わたしは少し考えてから、ドアのレバーを回してみた。
かちゃん、と小さな金属音がして、扉が開く。いつかと同じみたいに。
中に入ってみても、相変わらず反応はなかった。いつもと同じ大きさのホールが、いつもと同じ顔で広がっている。誰もいないし、電気もつけられていない。
わたしは少し無作法かと思ったけど、やっぱりそのままいつもの部屋に向かった。雨のせいか、足音がくぐもって聞こえる。家全体が――というより、世界全体が、いつもより何ミリ分か縮んでいるみたいな感じがした。
光と緑の部屋に入ると、そこはいつもより少しだけ薄暗かった。暗闇はクッションみたいな柔らかさで、部屋のあちこちにうずくまっている。窓の外には雨が降っていて、何だか世界中の扉を閉めたあとみたいに静かだった。
そして、部屋の真ん中には志仄さんがイスに座っている。
わたしがふと気づいて耳を澄ませてみると、小さな音が聞こえた。小さな音――それは、口笛だった。
何というか、それはただの〝口笛〟だった。メロディもリズムもなくて、意味のないモールス信号みたいに、ただ同じ高さの音を短く続けるだけの。
でも、それは――
世界を切り裂くみたいな音だった。
わたしが近づくと、それに気づいたみたいに口笛がとまる。志仄さんはゆっくりと、まるでずっと前からそのことを知っていたみたいにゆっくりと、わたしのほうを向いた。
「――ああ、いらっしゃい、清美ちゃん」
志仄さんはいつもみたいな、形のはっきりしない微笑を浮かべる。でもそれは雨のせいなのか、いつもより〝はっきりしない〟が少しだけはっきりしない感じがした。
「すみません、勝手にお邪魔して」
わたしはまず頭を下げて、そのことを謝っておく。
「別にいいのよ。あたしは全然かまわないから」
「……椎屋さんは、どうしたんですか?」
「ちょっと用事で出かけてるわ。だから、お菓子もコーヒーも用意はできないわね――もっとも、今日は財布を落としたりしないと思うから、安心して」
そう言って、志仄さんはくすくすと笑った。
わたしはいつもみたいに、自分のイスに座った。そうして壁一面の植物を見てみると、何となく元気がないようにも見える。それは光が少ないせいかもしれないし、外で雨が降っているせいかもしれない。たぶんその植物たちは、雨を恋しがっているのだ。籠の中の鳥たちが、自由と青空を欲しがるみたいに。
――もっともこんな想像はただ、わたしの心を反射しているだけなのかもしれない。
「植物を育てるのは大変ですか?」
と、わたしは訊いてみた。
「そこまで難しいってわけじゃないわね」
志仄さんは収穫した果物をよりわけるみたいに、言葉を選びながら言った。
「基本的にはあたしが育ててるわけじゃなくて、植物が自分で育ってる、というのが本当だから。光をきちんとあてて、風通しをよくしてやれば、あとは自分で成長していく。水やりにしても、そう頻繁てわけじゃない。もっとも、これに関してはやりすぎてもやらなすぎてもダメにしてしまうけど。――そういうのは、人間といっしょね。うまく気持ちが通じあってないと、何を言っても、言われなくても、結局はダメになってしまう」
「…………」
耳を澄ませても、雨の音は聞こえなかった。それはただ、窓の向こうに形だけを残している。
「――志仄さんは、自分で自分に火をつけたんですよね」
「ええ、そうよ」
「いろんなことから、自由になるために」
「そうね」
言葉一つぶんだけの呼吸をしてから、わたしは言った。
「わたしにも、同じことができますか?」
「…………」
志仄さんは、すぐには返事をしなかった。でもそれは、言葉に迷っているわけでも、言葉を選んでいるわけでもない。
それはただ、わたしが自分の言葉を落ち着かせるのを待っているだけのことだった。
「あたしには世界と戦うだけの理由と必要があった――だから、戦えたのよ」
「…………」
「あなたには、それがあるかしら?」
訊かれて、わたしにはわからなかった。わたしには不平や不満があった。窮屈で、心が壊れてしまいそうなときがあった。でもそれは、自分を焼くほどのものかどうかはわからなかった。世界に対して、宣戦布告するほどのものかどうかはわからなかった。
だから、わたしは正直に言った。
「――わかりません」
それから、お母さんのことを話していく。愛情でいっぱいのお母さん。わたしに優しくて、何でもしてくれるお母さん。わたしのことを心配して、いつも不安そうなお母さん。わたしのことでうまくいくと、幸せそうなお母さん――
でもそんなお母さんの愛情で、わたしは窒息してしまいそうだった。
「わたしが、おかしいんでしょうか?」
と、わたしは訊いていた。
「それだけしてもらってるのに、感謝も恩返しもしなくて。わたしはただ、わがままで、傲慢で、卑怯なだけなんでしょうか――どうして、わたしは全然そんな気になれないんだろうって――」
言葉がぼろぼろ崩れていって、自分でも形にできなかった。
志仄さんはしばらく黙っていたけど、やがて口を開いた。手の中のガラス玉を光にかざして、のぞき込むみたいに。
「たぶん、あなたは正しいんでしょうね」
感情的でも、論理的でもない口調で、志仄さんは言う。
「確か、どこかの哲学者が言うには〝母親というのは自分の子供ではなく、子供の中の自分を見ている〟らしいから。あなたのお母さんも、たぶんそんな感じみたいね。本当は相手のことじゃなくて、自分のことを考えてる――もっとも、その哲学者は頭がおかしくなって死んじゃったけど」
「自分のこと――」
「心の境界は、いつだって曖昧で不確かなものよ。それが愛情なのか、憎悪なのかさえ、人は時々わからなくなってしまう。正直な自分の気持ちなんて、本当はどこにも存在しない。あるとすれば、それはただそんな気がするだけのものでしかない」
そう言ってから、志仄さんは一度目をつむった。ちょっとだけ、笑うみたいに。
「偉そうなことを言ったけど、本当のところはあたしにもわからないわね。どうするのが正解で、どうするのが最適で、どうするのがもっとも望ましいのか。ただ一つ、アドバイスしておこうかしら」
「何ですか?」
「あなたは家を出たほうがいいわね。お母さんから離れたほうが。それが、お互いにとってもっともいい方法だと思うわ」
「…………」
「あたしにできる助言は、それくらいね。役に立つかどうかはわからないけど」
わたしは小さく首を振った。それは感謝だったと思うけど、自分でもよくわからない。自分がどうすべきなのかわからないのと、同じで。
それからしばらくのあいだ、わたしたちは黙っていた。水面の波が消えて、水中の塵がきれいになるのを待つみたいに。
「――そういえば、清美ちゃんは小説を書いてるんだったわね」
と、志仄さんは言った。
それはわたしが最初に志仄さんに会った頃にした話で、全然特別な意味のない会話だった。これでも一応は文芸部で、本を読むのが好きだった。だからちょっとした手なぐさみというか、気まぐれで、そんなものを書いたりもしていた。
もちろん、その頃は志仄さんが有名な賞をとった(辞退した)作家さんだなんてことは知らないし、想像もしていない。
「その、えと――うん、書いてます」
かなりためらってから、わたしは答えた。今さら、あれは嘘でしたなんてごまかせるものじゃない。真実でも嘘でも、人に話すときは細心の注意が必要なのだ。
志仄さんは少しだけ、からかうみたいにして言う。
「できれば、その小説を読ませてもらえないかしら? もちろん、あなたが許可してくれるなら、ということだけど」
そう言われて、わたしは困ってしまった。確かに、小説は書いていた。でもそれは、人に見せるようなものじゃないし、見せられるようなものでもない。そうであるにはあまりに未熟だし、幼稚だし、拙劣だった。
当然だけど、志仄さんはそんな理由で譲歩したりはしなかった。
「それでも、あたしが読みたいから」
わたしの小説がたいしたことないなんて、百も承知のうえなのだ。何も、ものすごい傑作や、びっくりするような怪作や、途方もない労作を求めているわけなんかじゃない。
志仄さんはただ、わたしの小説を読みたいと言っているだけだった。
「……えと、わかりました」
根負けしたみたいに、わたしはうなずいた。そもそも、自分で自分の手に火をつけるような人に、勝てるわけがないのだ。
「ありがとう、楽しみにしてるわ」
志仄さんはあくまで冗談ぽく、本気っぽく、笑ってみせる。わたしは内心では冷や汗をかいていたし、後悔していたし――少しくらいは、嬉しかったかもしれない。
いつのまにか、雨のやんだ気配があった。鏡で集めたみたいに光が強く、まっすぐになる。植物はそれに気づいて、頭をもたげて、のびをした。
「実は、清美ちゃんにもう一つ頼みたいことがあるのだけど」
志仄さんはまるで、雨がやむのを待っていたみたいにして言った。
「何をですか?」
と、わたしは気軽に返事をする。
「今度、ある場所に行って欲しいの――」
そう言って、志仄さんはわたしの目をのぞき込んだ。魔女が不吉な呪文を唱えようとするときみたいに、怪しげな呪いをかけようとするときみたいに。
数日後、わたしはホテルのロビーに一人でいた。本を読みながら、コーヒーを飲んでいる。
ちょっと――というか、かなり高級なホテルの一階にあるそのロビーは、品のよい内装と調度品で飾られていた。題名はわからないけど、クラシックみたいな曲が控えめな音量でかけられている。照明は明るすぎず、暗すぎず、ちょうど肌になじみそうな感じに調節されていた。居心地はよくて、わたしが使っているイスも、何だかよくわからないけど高級そうである。
わたし自身も普段の格好と違って、カジュアルだけどそれなりにきちんとした服装をしていた。靴はバンプスで、ベージュのアンサンブルニットに黒のスカートとストッキング。髪はアップにまとめて、伊達眼鏡までかけていた。あまり自信はないけど、実年齢よりもう少し上に見られるはずだ。
ロビーの人影はまばらで、全部を見通すのにそんなに苦労はいらなかった。人数をきちんと数えたとしても、両手の指があれば足りるくらいだと思う。そのうちのどれくらいが宿泊客で、どれくらいがわたしみたいな通りすがりなのかはわからなかったけど。
「…………」
わたしはきちんと整えられたコーヒーカップを持って、それに口をつける。
どう考えても(値段的に)インスタントじゃないそのコーヒーは、普段志仄さんの家で飲むそれとは、全然違っているようでもあるし、そんなに違わないようでもあった。美味しいのは確かだけど、その差をはかるものさしをどこから用意していいのかはわからない。結局のところ、わたしの味覚なんてその程度のものなのだ。
わたしはできるだけ(値段に見あったくらい)上品にコーヒーを嗜みつつ、ロビーの様子をさりげなくうかがってみた。
――ここに来たのは、もちろん志仄さんに頼まれたからだった。某日、某時間、あるホテルのロビーで待っていて欲しい。「あなたにしか頼めないことだから」と、志仄さんは言った。
わたしが任されたのは、ある男の人を待つことだった。といっても、その人に何かをするわけじゃない。ただ見ているだけでいい、と志仄さんは言った。それで、どんな様子だったかを教えて欲しい、と。
そのことにどんな理由や目的があるのか、詳しいことは聞いていなかった。志仄さんが言うには、ちょっとした確認のため、ということだった。それでわたしに迷惑がかかったり、面倒が起きたりするようなことはない。
何だか釈然としない説明ではあったけど、わたし自身は乗り気だった。探偵小説っぽい感じがしたし、志仄さんの役に立てるのはそれなりに嬉しいことでもある。わたしはそのために、ちょっとした変装までしているのだ。
その準備を全部してくれたのも、志仄さんだった。わたしは志仄さんが用意してくれた服に着替えて、志仄さんに髪をまとめてもらい、赤色のフレームの眼鏡(度は入ってない)を装着した。鏡を見ると、凄腕の怪盗には及ばないだろうけど、あまり自分には見えない自分がそこに映っている。
ついでだけど志仄さんは、コーヒー代だといってそれなりのお金も渡してくれていた。確かに、コーヒーは思ってたよりずっと高かったけど、それでもそんなにはしない。「あまったぶんは好きにしていいから」と、志仄さんは言った。変装用の服だって、わたしにくれると言っている。やっぱり、お金持ちなのかもしれない。
ともかくそんなわけで、わたしは自分じゃない格好で、場違いな高級ホテルにいて、値段はさておき味のよしあしはよくわからないコーヒーを飲んだりしている。
志仄さんの話によれば、目的の人物はある時刻に姿を見せるはずで、わたしがロビーに着いたのはその三十分前だった。
そのあいだ、わたしは一度コーヒーをおかわり(無料)して、あんまり集中できずに本を読み、ウサギがニンジンをかじるみたいに何度も何度も時計を確認した。
その男の人が現れたのは、ほぼ時間通りだったと思う。
サラリーマン風のスーツを着て、わりとしっかりした感じのカバンを持っている。まだちょっと頼りないけれど、仕事のできそうな若手社員、という感じだった。きちんと整えられた髪に、いたってまじめな顔つきをしている。上司の質問にははきはき返事をするタイプかもしれない。
たいして特徴的とはいえない顔立ちだったけれど、写真も見せられていたし、間違いはない。その人はまず何かを探すみたいにロビーを見渡すと、カウンターの人に伝言を頼むみたいな様子を見せた。それから、比較的入口に近いところに座る。
たぶん、誰かを待っているからだろう。
わたしは本を読むふりをしつつ、ちらちらその人のことをうかがっていた。その人もコーヒーを頼んで、あまり落ち着かない様子でそれを飲んでいる。もしかしたらこういう場所では、コーヒーというのは味わって飲むものじゃないのかもしれない。
そのまま、少し時間が経過する。たぶんそれは、数分くらいだったと思う。とりあえず、たいした時間じゃないのは確かだった。
不意に携帯の音が聞こえて、その人がはっとして体を震わせる。マナー違反だったけど、その場で電話に耳をあてた。
それなりに距離があったし、小声だったので、それがどんな会話だったかはわからない。雰囲気的には、相手に対して遠慮がちに質疑応答している、という感じだった。激昂するわけでも、愁訴するわけでもない。
電話でのやりとり自体は、たいした時間はかからずに終わってしまう。よくわからないけれど、それなりに満足する結果だったみたいである。何かの契約が成立したみたいで――
その人はまずほっとしたように息をはくと、深々とイスに背をもたれた。座り心地を試してるのじゃなければ、やっぱり緊張が解けたからだろう。それから、珍しいものでも見るみたいに自分の両手を眺めて、それを小さく握った。たぶんそれは、ささやかなガッツポーズ――だったと思う。
あらためて姿勢を戻すと、その人はコーヒーに口をつけた。さっきよりずっと美味しそうで、コーヒーも満足そうだった。
それからコーヒーを飲み終えてしまうと、その人は立ちあがって、会計をすませて行ってしまう。尾行をまくための芝居には見えなかったし、もう戻ってくる気配もない。
わたしはコーヒーの残りを飲んでしまって、全然読み進まなかった本を閉じた。同じように会計をすませて、ホテルの外へ向かう。
あたりまえだけど、その人の姿はもうどこにもなかった。サーカスに売られたり、無人島に流れ着いたり、クジラに飲み込まれたりしてなければ、会社かどこかに帰ったはずだ。
わたしはそれだけのことを確認すると、そのまま志仄さんの家まで戻る。志仄さんはいつもの部屋にいて、わたしを待っていた。
ホテルでの一部始終を、わたしは報告する。男の人、電話、その時の様子――。志仄さんは経験豊富な占い師みたいに、静かに黙ってその話を聞いていた。
「――そう」
やがて志仄さんが口にしたのは、その一言だけだった。それ以上でも以下でもないし、それで足りないわけでも、それで多すぎるわけでもない。
「何だったんですか、あの人?」
当然の疑問として、わたしは訊いてみた。このままだと、何がなんだか全然はっきりしない。でも志仄さんは、
「気にしなくていいわ」
と言うだけだった。いつもと同じ、善いものか悪いものがいっぱいに入っているけど、永遠に閉じたままの箱みたいな微笑を浮かべて。
バカみたいといえばバカみたいだけど、わたしは言われたとおり気にしなかった。魔女にはそれくらいの秘密は必要だった。壁に描かれた葉っぱが本物かどうかなんて、知らないほうがいいことだってある。
――志仄さんがいなくなったのは、それからしばらくしてのことだった。
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