5(魔女の小説)

「キヨちゃんは、〝藤谷志仄〟って知ってる?」

 と、訊かれたのはお昼休みの時だった。

 わたしたちは女子五人で机をつきあわせて、昼食をとっているところだった。教室の中は空気の抜けた風船みたいに密度が薄くなっていて、残っている人数も半分くらい。

 窓から射す光は冬に比べると角度が急になっていて、教室の天井は変に薄暗かった。遠くから、いろんなざわめきが形を失って聞こえてくる。

 その時、わたしはお弁当に入ったレンコンの煮つけを食べているところだった。お弁当はもちろんお母さんの手作りで、隅々まできちんと愛情が込められている。

 時々、それはわたしをどうにもならないような気分にさせたけれど。

 もちろん、お弁当がおいしくないというわけじゃない。基本的にはわたしの好きなものが入れられているし、味つけだって必要十分なくらい上手にできている。お昼になればお腹だってすいているし、問題なんてどこにもない。

 でもわたしは自分が一体何のために、誰のために食事をしているのか、時々わからなくなることがあった。

 そしてそのお弁当は、食べないわけにはいかないものだった。そんなことをしたら、お母さんは心配して、わたしから何もかも奪い去ってしまうくらい質問してくるだろうから。

 だから、結局のところわたしは毎日、お母さんのお弁当を食べることになる。そのことを素直に感謝もできず、はっきりと抵抗もできずに。

「――藤谷志仄?」

 そんな自分のややこしい感情を、ごちゃごちゃしたままのクローゼットの奥にしまい込みながら、わたしは訊き返した。

「うん」

 とその子はうなずく。その様子は、ごく普通の世間話をしているときのものでしかなかった。

「えっと――それって、どの〝藤谷志仄〟のこと?」

 わたしは念のために確認する。当然だけど、それがあの志仄さんのことだとはかぎらなかった。たんに、同じ名前の別人だという可能性だってある。

 もっとも、その子が志仄さんを知っている確率と、わりと珍しいその名前が別人だという確率を天秤にかけると、どっちのほうに針が傾くのかはわからなかったけど。

「なんか、有名な作家さんなんだって」

 と、その子は同じようにお弁当をつつきながら言う。

「十年くらい前に、何とかって賞をとったとかで」

「ふうん――」

「でも、それからずっと音信フツーなんだって。書いた本も、賞をとったその一冊だけとかで」

 フツーを不通に脳内変換しながら、わたしはその情報を急いで整理しなおしていた。志仄さんが作家? 賞をとった? それから十年間行方知れず?

 それとも、これは誰かほかの〝志仄さん〟のことなんだろうか。

「――どこで、その人のことを聞いたの?」

 と、わたしは訊いてみた。まだ、うまく話が見えてきていない。

「最近、お姉ちゃんがその人の本を読んで、面白かったんだって」

 あくまで世間話的に、無邪気に、その子は言ってくる。あたりまえだけど、わたしと〝志仄さん〟が知りあいだなんて、夢にも思っていないみたいだった。

「それで、私にも薦めてきたんだけど……正直、私にはよくわかんなくって」

「どんな本?」

 ごく自然な流れとして、訊いてみる。

「うーん、なんか自伝みたいな作品なんだって。私小説? っていうのかな。まだ読んでないし、私、普段はあんまり本とか読まないから、どうもピンと来なくて」

 聞きながら、わたしはまだ考え続けていた。この情報は、どこまで正しいんだろう。志仄さんは本当に、この話の中に出てくるのと同一人物なんだろうか。

「キヨちゃんは、読んだことないかな、その人の本?」

 その子はちょっと首を傾げるみたいにして訊いてきた。名ばかりとはいえ、わたしは文芸部員ということになっているのだ。

「――ううん、ない」

 わたしは首を振って答える。本当に、聞いたこともなかった。

「じゃあ、キヨちゃんは普段、どんな本を読んでるの?」

 訊かれて、わたしは本の題名を何冊か答えた。比較的マイナーなその本や作家のことを、その子は知らないみたいだった。ベストセラーでも、古典的名作というわけでもないから、当然ではあるのだけど。

 わたしたちの会話を聞いていたもう一人が、そのことについて話題をふってくる。最近テレビや雑誌で取りあげられてる、有名人の書いた本についてだった。

 適当に感想や憶測や一方的意見を口にしつつ、わたしたちは笑ったり冗談を言いあったりして、賑やかに時間を過ごしていく。

 それはあくまで平和で、平穏で、退屈で、独裁者の声高な演説も、罪もない人々の苦しみも、爆弾を隠し持ったテロリストも、どこにも存在しないものだった。


 ――その日の放課後、わたしはさっそく志仄さんの家を訪ねた。

 いつものようにドアをノックすると、椎屋さんが姿を現す。相変わらず、古くて暗いお城の中を、ロウソクを持って歩いているのが似あいそうだった。すっかり色褪せてしまった絵みたいに無愛想なその表情からは、わたしの訪問をどう思っているのかはわからなかった。

 椎屋さんは無言で、わたしを中に案内する。少なくとも、追い返されたり、怪しげなリンゴを渡されたりしないだけ、ましなのかもしれない。

 お屋敷は静かで、時間ごとしまいこまれてしまったみたいに物音一つしない。いつもの部屋の前まで来ると、椎屋さんはそのまま下がっていった。もう二度と見つけれられなくなるんじゃないかというくらい、ひっそりした足どりで。

 わたしはちょっと呼吸を整えてから、開いたままになっている扉をくぐった。

 窓を開いたみたいに、トンネルを抜けたみたいに、途端に光と緑がいっぱいに広がる。大きな鳥籠みたいなその場所には、今日も透明な太陽と観賞用の植物があふれていた。

 そしてその真ん中には、志仄さんが座っている。

「……よく来たわね、清美ちゃん」

 と志仄さんはいつもと同じ、深海に棲む魚みたいなとらえどころのない微笑を浮かべた。わたしは挨拶をして、机の向かいにあるイスに腰かける。

「あの、実は聞きたいことがあるんです」

 と、わたしは単刀直入に言った。

「何かしら?」

 志仄さんは特に警戒するでも、緊張するでもない顔をしている。

「十年くらい前に、志仄さんが小説で賞をとったって本当ですか?」

「…………」

 その問いに、志仄さんはしばらく黙っていた。珍しく、ためらうみたいに、迷うみたいに。時間にして十秒か、それより少し長いくらい。手から落としたボールが転がって、動かなくなるのには、十分な時間だった。

「ええ、それは本当ね」

 というのが、その時の志仄さんの答えだった。わたしはもう少しだけ、訊ねてみる。

「それからずっと、行方不明だっていうのもですか……?」

「まあそうね。行方不明というのは、ちょっと大げさすぎる気もするけど」

 今度は、わたしが黙る番だった。満員電車みたいに聞きたいことがいっぱいあって、どれか一つを口から出すことさえできないでいる。十秒くらいじゃ、それを整理するのは不可能だった。

 その代わりでもないけれど、志仄さんのほうが質問を口にする。

「清美ちゃんは、その話をどこで聞いたのかしら?」

 わたしははっと我に返ったけど、正直に答えた。特に隠すようなこととは思えなかったから。

「学校の友達が、志仄さんの小説を読んだんだそうです。それで、わたしに知らないか――って」

 正確には、読んだのは友達のお姉さんだけど、もちろんそんなことはどうだっていい。

「ふむ――」

 と志仄さんはまた何かを考えているみたいだった。その様子は、何だかちょっと面白がっているようでもある。

「ところで、さっき賞をとったって言ってたけど、それは正確じゃないわね」

「え?」

 言われて、わたしは思わずまばたきしてしまう。

「何故なら、正確には〝賞を辞退した〟から」

「辞退した?」

 わたしの中で、満員電車にまた一人乗り込んできたみたいだった。まだ一人も降ろしてないというのに。

「ええ、そうね」

「……どうしてですか?」

 当然といえば当然の質問を、わたしは口にする。みんなが誉められたがって、認められたがってるっていうのに。でも志仄さんはケーキを一切れ口にするくらいの気軽さで言った。

「うんざりしたから――でしょうね。大勢の人間に注目されるってことは、理解と同じくらい誤解も増えていくってことだから。それが善意であれ、悪意であれ。そして誉められるのも、貶されるのも、結局は同じことなのよ。それは自分を縛るものであり、自分を狭くするものでしかないのだから」

「…………」

「つまりそれは、不自由になるってことなの」

 わたしは志仄さんの言うことが何となくわかったけど、何となくわからなかった。半熟の、固まりすぎずにとろっとした卵みたいに。

「だから、そのあと十年間も……隠遁したんですか?」

 適当な言葉が見つからなくて、わたしはそう言った。

「まあそういうことでしょうね。もっとも、その時の本そのものは、今も出版されているけれど」

 わたしはいろいろ聞いてみたいようでもあるし、何を質問していいのかわからないようでもあった。穴のあいたで水を汲もうとする幽霊がいたら、こんな気持ちなのかもしれない。

 その時、ちょうど椎屋さんがやって来て、お盆の上には(いつもみたいに)コーヒーとお菓子が乗せられていた。お菓子は一口サイズのフルーツタルトで、明らかに美味しそうな見ためをしている。

 椎屋さんは機械人形みたいに感情のない動作で配膳すると、無言のまま出ていった。すぐあとを掃きそうじでもしているみたいに、何の気配も残していかない。何だかそれは、見事ですらあった。

 それから、志仄さんが話題を変えて、別の話になった。「旅行にいくとしたら、どこに行きたい?」「今までに行った、一番遠い場所は?」それはいつも通りの志仄さんで、いつも通りの時間だった。

 別れ際に、わたしは念のために訊いてみた。

「あの、わたしが志仄さんの小説を読んでもかまいませんか?」

 そう訊くと、志仄さんは空の上で太陽が一秒間に動くくらいの、ほんのかすかな驚きを示してみせた。それからいつもみたいな、中身の見えない箱と同じ微笑を浮かべる。

「もちろん、かまわないわよ。どうしてそんなことをわざわざ聞くのかしら?」

「えと、許可がいるような気がして」

 わたしは言い訳するみたいに、今さらのように赤くなりながら言った。

「許可?」

「誰かの小説を読むのって、そういうことのような気がして――」

 その答えに対して、志仄さんは軽くうなずいてみせるだけだった。全然理解されてないようでもあるし、案外納得されてるみたいでもある。

 旅の恥はかきすて、というわけではないけれど、わたしは立ちあがってから、もう一つだけ訊いてみた。

「志仄さんは、今でも小説を書いてるんですか?」

 それに対する志仄さんの答えは、次のようだった。

「――さあ、どうかしらね」

 藤谷志仄という人は、あくまでミステリアスで、透明に不透明で、どこまでも魔女っぽかった。


 わたしは宣言したとおりに、志仄さんの本を読んでみた。

 その本を手に入れるのは、とても簡単だった。インドの奥地に行って、転がってくる岩に追われたり、トロッコに乗って逃げだしたりなんてする必要はない。

 何しろそれは、すぐ近所の本屋さんに置いてあるものだったから。

 とはいえ、ずらっと並んだ背表紙のあいだから、たった一冊しかないその本に気づくのは難しかった。絵本の中から、赤と白の縞々の服を着た人間を見つけるくらいには。

 宿題をかたづけて、食事を終えて、お風呂もすませてしまってから、わたしは机に座ってその文庫本を開いてみる。

 何となく、知らない街で夜を迎えるみたいな、変な緊張感があった。

 本の冒頭は、こんなふうだった――「夜の空には、いつも朝の光が含まれていた。」

 読んでいくと、それが一つの物語というより、断片的な情報の集まりなんだということがわかる。個々のエピソードや会話、意見、感想は、必ずしもつながりあうことなく、そのまま放置されたり、いつのまにか消滅したり、はじめからなかったことみたいに扱われたりする。地殻の運動でたくさんの島が誕生したり、消えたり、くっついたり、離れたりするみたいに。

 何だかそれは、ごくごく個人的な日記みたいな本でもあった。そのせいなのか、話は時々どうしようもなく混乱して、その場でぐるぐると足踏みをして、結局行き場のない袋小路にはまったりもする。

 でも――

 そのことには不思議な重々しさと、迫力があった。まるでこの本が、散りぢりになった魂そのものみたいに。

 読みすすめていくと、志仄さんが言っていたのと同じ、左手に自分で火をつけるエピソードが語られていた。

 それは、いろんなことがどうにもならなくなった結果の出来事だった。家族や、学校や、友人や――世界そのものに対して。星が自重で潰れていくみたいに、それに抵抗することは不可能だった。

 自分の魂が殺されそうに、壊されそうに、消しさられそうになったとき、できることは多くない。その絶望を受けいれるか、逃げだすか、戦うか――

 本の最後には解説が載せられていて、この本に関する経緯が語られていた。

 それによると、賞を辞退したというのは本当のことみたいだった。権威あるその賞の歴史の中でもそんなことは初めてで、かえって話題になったくらいだそうだ(そう言われると、わたしにもうろ覚えな記憶があるような気がした)。おまけに、作者はそのことについて沈黙したままで、本の出版社も公式には何の発言もしていない。

 結局、謎は謎のまま残されて、今でも流言飛語が絶えないそうである。

「…………」

 本を読み終えてしまったとき、わたしは長いため息をついて、首をそらした。世界の重さがちょっとだけ変わっていて、そのバランスを取りなおさないといけない。

 本に書かれているのが全部事実かどうかは、わからなかった。日記みたいな作品だといっても、結局のところ、それは紙に書かれたものでしかない。誰かが本人に取材したり、事実の裏づけをとったりしたわけじゃなかった。

 でも、志仄さんには――

 志仄さんの左手には、今も火傷の痕がある。世界と戦った結果である、その火傷が。

 それからわたしは目をつむって、あらためて自分のことを考えてみた。

 本を読んだあとだと、自分のことがひどく情けない人間に思えた。わたしは世界を受けいれることも、そこから逃げだすことも、それと戦うこともしていない。ただ、何となく生きている――それだけだった。不満も反感もあったけど、ただそれを抑えて、隠しているだけ。

 もちろん、わたしの抱えこんでいるものなんて、たいしたものじゃない。吹けば飛んでいってしまうような、軽いものだ。砂で作ったお城みたいに、折り紙で作った飛行機みたいに、簡単で手軽なものでしか。

 それでも――

 お母さんのやっていることは、わたしにとって正しいとは言えなかった。それはわたしからわたしを奪って、そこに別のわたしをはめ込もうとしていることでしかない。

 わたしは自分の形さえよくわからず、自分がどこにいるのかさえはっきりしなかった。

 ――そしてそれを、自分ではどうにもできずにいる。

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