4(魔女の傷痕)

 府代くんにはああ言われたけれど、わたしは志仄さんの正体を探ってみたりはしなかった。本人に確かめもしなかったし、こっそり調べてみようともしない。

 気にならなかったといえば――たぶん、嘘になる。

 わたしにも、健全な好奇心くらいはあった。何しろ、相手は正体不明のうえ、謎だらけの人物なのだ。毎晩豪華なパーティーを開いてるわけじゃなくても、疑問くらいは抱いて当然だった。

 ――このお屋敷は、何なのか。どうして、一人で暮らしているのか。普段、どんな生活を送っているのか。家族や友人、知人はいないのか。いつから、あの場所で暮らしているのか。

 でもそんな何もかもが、わたしにとってはどうしてだか興味の対象外なのだった。猫にとっては、小判なんてただの遊び道具にもならないのと同じで。

 結局のところ――

 わたしにとって、志仄さんは魔女でしかなかったのかもしれない。本当は世界に存在なんてしないはずの、魔女でしかなかったのかも。


 いつでも訪ねてくれていい――と、志仄さんは言っていた。

 それはどうやら本当だったみたいで、わたしがお屋敷に行ってみると、志仄さんはいつでも歓迎してくれた。邪険にされたことも、丁重なお断りを受けたこともない。

 というより、そもそもほかの誰かが訪ねてきたり、お客さんがいたりする気配がないみたいなのだった。

 そんなわけで、わたしはことあるごとに志仄さんのもとを訪ねることになった。最初は恐るおそる忍び足だったネズミが、やがて大胆になってチーズにかぶりつくみたいに。

 訪ねていくのは主に学校の放課後で、用事のない時には特にそうだった。例えば、高校である講演会が催されたときなんかも、そのパターンだった。

 それは高校のOBにあたる大きな不動産会社の社長を招いたもので、「人生を切り拓く」というようなテーマでの話だった。

 全校生徒が体育館に集められて、演壇には講師であるその人が立っていた。遠目にはよくわからなかったけど、若い男の人で、新鮮な野菜みたいにぱりっとした格好をして、髪にはきれいに櫛がとおしてあった。何となく、いかにもな感じの人ではある。

 その人は得々として、これまでの自分の苦労と成功、業績について語った。それは結局のところ、その人の自慢話でしかなかったのだけど、その人自身はいかにも自信にあふれていて、満足そうで、そういう自分を正しいと信じているみたいだった。

 まわりのみんなが、その話をどう聞いていたのかはわからない。退屈していたかもしれないし、熱心に耳を傾けていたかもしれないし、感銘を受けたりしていたかもしれない。あまり、信じられないけど。

 でも案外、そういうわたしのほうがひねくれていて、ひがみっぽくて、本当は必要なものが欠けているのかもしれない。必ずしも明るくなく、楽しくなく、安全でもなく、きれいごとじゃすまない人生を生きていくための、力みたいなものが――

 例の植物でいっぱいの部屋で、わたしはそんなことを志仄さんに向かって話してみた。

 部屋はいつもながらに光と緑でいっぱいで、真ん中には机とイスが二つ置かれている。そのうちの一つは志仄さんので、もう一つはわたしのだった。あの日、用意してもらったイスがそのままの形で安置されているのだ。

 机の上にはコーヒーと、品のよさそうなお皿にもられたクッキーが置かれていた。クッキーはちょっと凝っていて、中央をくぼませてジャムといっしょに焼かれている。

 そのクッキーを焼いたのは椎屋さんという話で、意外といえば意外だし、当然といえば当然な気もした。どんな材料を使っているのかは、少しだけ気になったとはいえ。

「――志仄さんは、どう思いますか?」

 と、わたしはクッキーを一つつまんでから言った。さくっとして、甘くて、ジャムにはほどよい酸味がある。お店で買ってきたといわれても、お店に並んで売られていたとしても、特別な疑問はもたなそうだった。

「どうって?」

 ゆったりと籐椅子に座りながら、志仄さんはコーヒーを口にする。その動きはやっぱり優雅で、何だか現実らしくは見えないくらいだった。

「人生で何かを得ようと思ったら、戦うことが必要なんでしょうか?」

 志仄さんはわたしの問いかけに、しばらく黙っていた。電線にとまった、見かけない種類の鳥を判別するみたいに。

「もちろんそれは、何を得ようとして、どう戦おうとしているかによるわね」

 と、まず志仄さんは言った。

「あたしとしては、必ずしも戦う必要性があるとは思えないけど」

「でも、世界は優しい場所じゃないです。時には、戦うことも必要じゃないですか?」

「戦いたい人は、戦えばいいのよ」

 志仄さんは聞き覚えのない鳥の鳴き声みたいに言った。

「でも、そうじゃない人まで戦う必要があるとは思えないわね。そうするには、それなりの理由と動機が必要だから。舞台に銃を用意するには、それにふさわしいだけの物語がなくちゃいけないのよ」

「…………」

「それに正直なところ、あたしには必要もないのに戦おうとしてる人が多すぎるように思えるのだけど。そのほうが、よほど優しくないことには思えるわね」

 志仄さんの言うことは、わたしにはよくわかる気がした。結局のところ、本気できちんと戦える人なんて、そう多くはない。でも――

「でも、わたしは戦うべきなような気がしてるんです」

 どちらかというと威勢の弱い、あとに何も残らない雨みたいな調子で、わたしは言った。

「このままだと、自分がただ何となく生きてるみたいで――」

 あくまで真剣に、深刻に、わたしがそう言うと、志仄さんは一笑した。

「いいんじゃない?」

 と、志仄さんは言うのだ。

「何となくでも、生きていれば。人生に目的があるとすれば、それは生きることと死ぬことよ。それに、何かのために生きてるわけじゃないってことは、何のためにでも生きられるってことでもあるんだから」

「……よく、わからないです」

 わたしの頭はほんの少し、混線模様だった。

「つまりね」

 とまた少し笑いながら、志仄さんは言った。

「もし、あなたがまだ何も手に持っていないなら、それは何でも手に持てる、ということなの。それは何かを抱えて生きたり、何かに縛られて生きたりするより、よっぽど自由かもしれない。そして人生で一番大切なのは、自由でいられること――他人からも、自分自身からも、ね。要するに、あなたは戦うまでもなく、その〝自由〟を手にしているということなのよ」

 わたしはわかったような、わからないような気持ちで、コーヒーに口をつけた。ただのインスタントだというそのコーヒーは、そうだとわかっていてもやっぱりとても美味しい気がした。

「…………」

 そうしてわたしは、志仄さんの左手を見た。

 志仄さんは片方にだけ、いつも黒い絹の手袋をつけていた。それが何故なのかを、わたしは知っていた。何故なら、志仄さんがたまたま手袋をはずしたところを、目撃してしまっていたからだ。

 そこには、火傷の痕のひどいがあるのだった。無理やりに大地を削りとったみたいな赤茶色をして、表面は蜥蜴とか鰐みたいな爬虫類的にごわごわした感じをしている。

 何だかそれは、おもちゃの部品を取り替えたみたいに、別人の手がくっついているように見えてしまうものだった。

「――聞いてもいいですか、志仄さんの手のこと?」

 実のところわたしは、それが火傷の痕だということしか知らなかった。いつ、どうやって、どういう理由でそうなったのかは知らない。

 そして、そのことについてはずっと、質問してこなかった。

「…………」

 志仄さんは軽く時間をなじませるみたいに、コーヒーを口にした。人間は、苦味を好む数少ない生物の一つだ、と先生が授業で言ってなかったっけ。

「――この傷はね、あたしが自分でつけたものよ」

 というのが、志仄さんの第一声だった。

「そう、ちょうど高校生の頃ね、あなたと同じ。服の上からアルコールを振りかけて、火をつけたの。まあアルコールだから、まだましだったわね。蒸発しやすいし、気化熱も奪ってくれる。もしガソリンとかオイルとかだったら、原型も残らなかったかも」

 志仄さんの口調はごく冷静で、平静で――まるで、何でもないことを話してるみたいに聞こえた。料理の隠し味に、ちょっとしたスパイスを加えるだけのことくらいに。

「……どうして、自分で火をつけたりなんてしたんですか?」

 わたしはどんな顔をすればいいのか、よくわからなかった。あたりまえだけど、普通の人は自分で自分の体に火をつけたりなんてしない。魔女だって、焼き殺されはするけど、自分で自分を焼いたりなんてしない。

「そうね、うまく説明するのは難しいわね」

 志仄さんは、黒板に書かれた厄介な数学の問題でも前にするみたいな顔をした。

「ただ、要するにあたしにはそれが必要だったの。疑問の余地なく、厳密に、地球の三十八万キロ彼方に、確かに月が存在してるみたいに。例えその結果が、どうなったとしても」

「必要だった……んですか?」

 わたしはやっぱり、よくわからずに訊いた。

「ええ、必要だったの――あたしが自由になるためには。それは、あたしが自由を得るための代償だったのよ」

 そう言いながら、志仄さんはほんの小さく笑っていた。そこにあるのは後悔でも諦念でも満足でも克己でもなくて――何だったのだろう。

「もちろん、あたしたちは独裁国家で暮らしてるわけでも、隣に住んでる人間がテロリストかもしれないなんて怯えながら生きてるわけでもない」

 と、志仄さんはごくごく静かに、月の裏側でつぶやくみたいに言った。

「あたしたちの世界はそこまで苛酷でも、暴力的でも、血塗れでも、悲劇的というわけでもない。平和で、豊かで、恵まれていて、退屈でさえあるかもしれない。――でも、それでも、それに等しいものはあるのよ。虐殺や、飢餓や、略奪や、疫病や、戦争と等しいものが。それに等しいだけの――絶望が」

 志仄さんはそっと、自分の左手に触れた。自分で焼いたという、その左手に。自由を得るための代償だったという、その左手に。

「もしもそうなったら、絶望が目の前までやって来たら、あたしたちにできることは多くない。そのまま絶望を受けいれるか、逃げだすか、戦うか」

「志仄さんは、戦ったんですか?」

 わたしがちょっとためらいながら訊くと、志仄さんは軽く肩をすくめたみたいだった。

「ある意味ではね」と、志仄さんは言う。「少なくとも、それで自由になれたのは確かよ。あたしはそうすることで、あたしの望むものを手に入れた」

「…………」

 話を聞いて、わたしは長いため息をつくような気分だった。世界にはいくつもの絶望があって、それと同じくらいいくつもの戦いがあるみたいだった。でも、少なくともわたしには、志仄さんみたいに戦うことはできそうもない。

 すっかり冷めてしまったコーヒーを飲みほしてから、わたしは最後に訊いてみた。

「……左手は、今でも痛みますか?」

 すると志仄さんは、ちょっとおかしそうに笑ってみせる。

「さすがにもう、痛みはないわね。もっとも、多少の不自由と違和感くらいならあるけど」

 それから、志仄さんはこうつけ加えた。

「――でもそれは、魂が不自由なのと比べたら何でもないことでしょ?」

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