2(魔女の誘惑)
家に帰ると、いつもみたいにお母さんが待っていた。
「今日は遅かったのね」
「――うん」
「塾じゃないから、お友達とどこか行ってたの?」
「――うん」
「きよちゃんの好きにしていいけど、あんまり遅くなるようだったら電話してね。心配だから」
「――うん」
「ケーキあるわよ。駅前で買った、あなたの好きなチョコレートケーキ、あとで食べるわよね?」
「――うん」
それでようやく、わたしは自分の部屋に向かうことができる。
わたしのお母さんは、口うるさいわけでも、頑固なわけでも、強権的なわけでもない。たぶん、世間的にはごく普通の、まずまず立派な母親だと思う。
でも、ちょっと――
時々わたしは自分が、自分にぴったりした形の箱に閉じ込められてるみたいな、変な窮屈さを覚えることがあった。呼吸をするのにフィルターが一枚余計についているみたいな、そんな感じが。
お母さんはわたしが何か言ったり、やったりする前に、全部自分でやってしまう。天気予報で雨マークが出ていれば傘を持っていくよう注意するし、朝は目覚ましをかけていても必ず起こしに来るし、わたしの体調や機嫌が悪ければ、すぐにそれを察してしまう。当然だけど、毎日のお弁当の準備だって。
何でもかんでも、お母さんはやってくれる。わたしがそのことについて、考えたり、行動したりする前に。
それが楽なのは確かだし、助かることだし、感謝だってすべきなんだろうとは思う。お母さんは全部、わたしのためにやっているわけだし、わたしのことを思ってくれてる。
でも、時々――
わたしは、そのことにとても疲れてしまう。まるで自分からは何も考えたり、行動したりしてはいけないみたいな気がして。
「――――」
自分の部屋で制服から着替えをすますと、少しだけ体が軽くなったような気がした。別の部屋から、もう少しだけ広い別の部屋に移ったときみたいに。
そのままベッドの上で横になって、秤がほんの少しだけ揺れそうなくらいのため息をつく。
ぼんやりしたまま視線の先をたどると、そこには鏡があって、あまり冴えてるとはいえない自分の顔が映っていた。
セミロングの、いたって平凡な髪型。どこが自慢だとも、魅力的だというわけでもない形の顔。目は少し細めで、唇は定規で引いたみたいにまっすぐだった。それが自分の顔なのだということが、わたしは時々不思議になってしまう。
それから目をつむって、もっとぼんやりしたまま、今日のことを思い出してみた。
「……あなたは、魔女ですか?」
その質問に、その人は笑ってみせるだけだった。否定も肯定も、拒否も承諾も、非難も称賛もない、それは不思議な笑顔だったと思う。
少しだけ――時計の秒針が音を立てるかたてないかくらいのあと、その人は言った。
「そう、見えるかしら?」
からかっているようでもあるし、まじめなようでもあるし、それでいてその両方でもあるような、正体のよくわからない口調だった。
それから、わたしはあらためて冷静になってみて、軽いパニックに襲われてしまった。わたしは侵入者で、その人はこの家の住人で、今すぐ司法関係者を呼ばれたってしかたないのだった。この状況を、何とかして説明しなくちゃいけない。
「あの、わたし――この家の前に人がいるのを見て」
「ふむ……」
その人は特に表情を変えることもなく、うなずいてみせる。わたしはしどろもどろになりながら、何とかして言葉を続けた。
「それで、その人が財布を落としたのを見たんです。どうしようか迷ったんですけど、えと、すぐ渡したほうがいいと思って――それで、家のドアをノックしたんですけど、誰も出てこなくて」
「――うん」
「失礼だとは思ったんですけど、その、勝手に入らせてもらったんです。それでここまで来たんですけど――わたしが見たのは、もっと年配の、お婆さんみたいな人で」
「ああ……」
「でも、あなたは全然そうじゃなくて――ずっと若くて、きれいで。だからもしかしたら、魔女みたいに変身したんじゃないかって……」
言いながら、わたしはすっかり冷静になって、さすがに赤面するしかなかった。魔女なんて、本当は噂話を真に受けただけの
その人はわたしの話を聞くと、ちょっと考えるみたいに横を向いた。机のところに軽く手を置いて、まるで何かを待っているみたいな顔をする。
それから、光が少しだけ揺れたと思ったら、その人は笑っていた。楽しそうに、愉快そうに。
「なるほど、なるほどね」
手の上でころころと毬を転がすみたいに、言葉をつぶやく。
でも、わたしには何のことかわからなくて、戸惑うことしかできなかった。靴についた泥からその人がどこにいたかなんて、名探偵でなきゃ当てられっこない。
「あの――」
と、わたしは弱々しく助け舟を要求する。
「ああ、ごめんなさい」
するとその人は、水面で揺れる木の葉みたいに、まだ少し笑いながら言った。
「ちなみに、財布の中身は確認したかしら?」
「いえ――」
誰が落としたかは明白だった(……に思えた)し、そこまでしようとは思わなかった。でも考えてみれば、免許証とか何か、本人だとわかるものを確認しておくべきだったかもしれない。
その人はちょっとうなずくみたいな、というより花が風に揺れるみたいな動きをしてから、こう言った。
「もちろん、それはあたしじゃないわね」
「……じゃない?」
まあ、それは当然なのだけど。
「あなたが見たのはね――」
と、その人はたっぷりスプーンいっぱいぶんくらいもったいつけて言う。
「うちで雇ってる、お手伝いさんね」
わたしはきょとんとした。なるほどと腑に落ちたようでもあるし、話のあっけなさに拍子抜けしたようでもある。
「ハウスキーパー、家政婦、メイド……まあ何でもいいけど、そういうようなものね。この家にはあたしと彼女しかいないから、実質的に家を取り仕切ってるのはあの人なんだけど」
そんな話をしていると、ちょうどその本人が現れていた。ちょっと不機嫌そうで、無愛想な顔つき。まだらに灰色になった髪。口元の黒子。絵本に出てくる魔女みたいな風貌――まったくのところ、いちいち確認するまでもなく、それはあの人だった。話し声が気になったのかもしれない。
「
と、その人はお手伝いさんのようなものであるその人に声をかけた。
「この子、あなたの落とした財布を届けてくれたそうよ――その手に持ってるのが、そうよね?」
「あ、はい」
わたしは慌てて、財布を椎屋さんに渡す。椎屋さんはたぶん、眉をひそめてそれを見た。エベレストから小石が一つ落っこちたくらいの、それはわかりにくい表情ではあったけど。
「中は見てないそうよ」
と横からその人が補足する。
「そんなはしたないことのできるお嬢さんじゃなかったみたいね」
財布を受けとった椎屋さんは、その人と短く視線を交わした――みたいだった。月と地球のあいだで交信するくらいの、そんなかすかさで。
それから椎屋さんは、風のない日の風車の動き程度に軽くうなずいてみせると、無言のままその場から去っていった。影だけがやって来て、影だけがいなくなったみたいに、あとには何も残っていない。
「――そういえば、自己紹介がまだだったわね」
と、その人は気をとりなおすみたいにして言った。
「あたしの名前は、
「あの、えと――
投げられたボールをとっさに受けとってしまうみたいに、わたしは答えていた。でも、魔女に自分の名前を教えたりして大丈夫かな、なんてことを考えていたのも事実だ。
「うん、清美ちゃんか……」
その人――志仄さんは、軽く唇に指をあててつぶやく。それは何だか、占い師が相手の運命を読みとろうしているみたいな仕草で、わたしは意味もなくどきどきしてしまう。
「どう、ちょっとここで待っててくれるかしら。それとも、これから何か予定でもあったりする?」
「あ、いえ、特には――」
「そう、よかったわ。せっかくだから、少しお礼もしておきたいし」
志仄さんはそう言うと、にっこりと一笑してそのままどこかへ歩いていった。その笑顔を見たら、仙人を目指す若者だって心を動かされてしまいそうだった。
一人取り残されたわたしは、けどあまり不安感とか、落ち着かない感じはしなかった。少なくとも、子供の頃に迷子になったときみたいには。
たぶんそれは、部屋を囲むたくさんの緑のせいだった。ちょっとしたジャングルみたいなその光景が、心を和ませてくれているような気がした。バイオフィリア、というのはこういうのをいうのかもしれない。遺伝子に染みついた記憶は、なかなか解けるものじゃないみたいだった。
まわりの植物と同じくらいたっぷり光を浴びた頃、志仄さんは部屋に戻ってきた。右手には、小さなイスを抱えている。どうやら、そのイスを取りにいっていたみたいだ。
「待たせちゃったわね。さあ、どうぞそのイスに座って」
志仄さんはそう言って、机のそばにイスを置いた。ちょっと古めかしい感じのする、木のイスだった。百年くらいたっていて、昔気質の職人が作ったみたいな。でも頑丈そうだし、座って壊れてしまうなんてことはないだろう。
「えと……失礼します」
わたしはバカみたいに(実際、バカみたいだった)、そのイスに腰かけた。無骨な見ためとは違って、意外と座り心地はよい。
「ごめんね、こっちはあたしがいつも使ってるイスだから」
そう断わってから、志仄さんは最初からあったほうのイスに座った。籐椅子、というのだろう。柔らかい骨組みで出来たそれは、軽くて丈夫そうで、風を編んで作ったみたいだった。それにいらなくなったら、簡単に燃やしてしまえそうでもある。
「さて、と――」
志仄さんは一呼吸置いて、その場所の空気が落ち着くのを待った。
「あらためて、お礼を言っておかないといけないわね。財布のこと、とても助かったわ。一割あげるってわけにはいかないけど」
「いえ、その、別にたいしたことじゃないです。それにやっぱり、勝手にお邪魔したりして――」
わたしが慌てて言うと、志仄さんはかすかに笑った。
「あなたはずいぶん礼儀正しい子みたいに、清美ちゃん」
そんな志仄さんを見て、わたしはつい赤面してしまう。自分が恐ろしくつまらなくて、気の利かない人間に思えたから。
でも志仄さんは、そんなわたしに向かって言うのだった。
「いいえ、それは美徳よ、貴重なね。どこかの聖人も言ってるでしょ。〝汝はその羊を愛しむも、我はその礼を愛しむ〟――って」
「論語、ですか?」
わたしがそう言うと、志仄さんはちょっと目を細めてみせた。どちらかというと、猫がネズミを見つけたときみたいな感じで。
「清美ちゃんは、高校生かしら?」
と、志仄さんは訊いてきた。
「あ、はい」
「
この家のすぐ近くにあるし、制服を見れば当てるのは難しくないだろう。
それからわたしたちは、しばらく話をした。といっても、たいした話というわけじゃない。わたしが何年生なのかとか(二年生)、部活には入っているのかとか(名ばかりの文芸部に所属している)、学校の様子、趣味、好きな食べ物、基本的な性格の傾向――
魔女についての噂話を伝えたのは、その時だった。
「なかなか悪くない噂ね」
というのが、志仄さんのコメントだった。
でも、その口調からは、怒っているのか、楽しんでいるのか、迷惑がっているのか、どんな感情を抱いているのかが、不思議と読みとれなかった。保護色をまとった動物が、草むらを行き来するみたいに。
話をしている途中、椎屋さんが飲み物を持ってやって来た。相変わらず、古くて薄暗いお城の中を、ロウソクを持って歩いているのが似あいそうな様子ではある。
ちなみに、机の上に置かれたのは紅茶じゃなくて、コーヒーだった。それはなんとなく魔女らしくなくて、わたしは密かにがっかりしてしまう。もっとも、本当は魔女でも何でもないんだから、落胆するようなことじゃないのだけど。
コーヒーを飲んでみると(ミルクと砂糖を入れて)、何だかそれはとても美味しかった。香りがよくて、味が深い。特別な豆か、特殊な淹れかたをしているのかもしれない。
そう思って訊くと、志仄さんはくすくす笑って答えた。
「でもそれ、ただのインスタントなのよ」
わたしは両手に持ったカップの、黄土色になった液体を見つめる。何となく、贋物の宝くじでもつかまされた気分で。
「そんなものよね」
と、志仄さんは優雅な仕草でカップに口をつける。その挙措動作は王侯貴族っぽくて、飲んでいるのがただのコーヒーには見えなかった。
「魔女の噂だって、そう。人は真実より、虚飾をずっと重視する。地味で堅実で確かなものより、派手で華美で不確かなものを、ずっと愛してる。確かに、人は見たいものしか見ないのよ。黄金なんて、ほとんど何の役にも立たない金属をもてはやすのも、そのせいね。どこかの国じゃ、そんなものは囚人をつないでおく重りくらいにしかならない、なんていう話だけど」
わたしは志仄さんの話を、それでも美味しい味のするコーヒーを飲みながら聞いていた。
しばらくすると、家のどこかから時計の鳴る音が響いてきた。灰かぶり姫が聞いたことのありそうな、古風で間のびした、ちょっと不気味な音だった。
お姫さまなんて柄じゃなかったけど、わたしはそれを機会に暇乞いをすることにした。考えてみると、何だか不思議な気持ちだった。ほんの数時間前には魔女の噂に戦々兢々していた家で、こうやってゆっくり寛いでいるのだから。
「名残惜しいけど、いつまでも引きとめてはおけないわね」
と、志仄さんは残念そうに言った。その口調は相変わらず真意の読めないものだったけど、わりと本心でもあるみたいだった――と思いたい。
玄関まで向かうわたしを、志仄さんはわざわざ送ってくれた。そうして扉を開けるわたしに向かって、志仄さんは言う。
「もしよかったら、また遊びに来てちょうだい」
「――――」
「どうせ暇な身分の人間だから、いつでも訪ねてくれていいわよ」
そう言われたとき、どう答えていいのか、答えるべきなのか、答えたいのか、わたしにはわからなかった。喜びと怯え、不安と期待、渇望と困惑、そんなものがめちゃくちゃに混ざりあって、まるで煮崩れして原形をなくしたシチューみたいになっていた。
わたしは迷って、怖れて、逡巡して、混乱して――どうしようもなかった。
そしてそれは、大げさに言えばわたしの人生を変える出来事なのだった。ささやかではあっても、それは確かにわたしの運命にとっての岐路だった。転轍機が、たった数センチだけ音を立てて線路をずらすみたいに。
そうやって内心では嵐の真っただなかにいながら、でも実際にわたしが返事をしたのは、つまみを使って時計の狂いをちょっと直すくらいの時間でしかない。
「――はい」
わたしはそう、答えていた。
それを聞いて、志仄さんは小さく微笑んでみせる。それは例の、世界一有名な絵の微笑とよく似ているものだった。
わたしはそうして、魔女の家をあとにしたのだけど――今思えば、それはもしかしたら本当に魔女の誘いだったのかもしれない。危険で、甘美で、厄介で、魅力的で。
少なくとも、それに似た何かではあったのかも。
わたしがベッドで横になってそんなあれこれを思い出していると、階下から名前を呼ぶ声が聞こえた。
「――きよちゃん、ケーキの用意ができたわよ」
それはもちろんお母さんの声で、わたしは物憂くて重たい体を、何とかして床の上に立たせてみる。ちょうど、畑に生えた大きな蕪を、みんなでよってたかって引っこ抜いてしまうみたいに。
そうやって自分の部屋のドアを開けて、ゆっくり階段をおりていった。
時々わたしは、自分が箱の中にいるような気がした。柔らかくて、優しくて、窮屈で、どこにも出口のない箱の中に。その中で、わたしは無力で、無価値で、無意味で、ただ何かを待っているだけの存在でしかない。
「…………」
また遊びに来て、とあの人は言っていた。魔女の家に棲む、あの人は。
わたしは何故か、そのことを強く思い出していた。
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