魔女の棲む家

安路 海途

1(魔女の洋館)

 その家には、魔女が棲んでいるという噂だった。

 学校の帰り道、いつものルートをちょっと外れたところに、その家はあった。ちょっとといっても、住宅地の小さな通りを一つ横にずれただけだから、寄り道をするのにたいした手間なんてかからない。そんなのは、コンビニで余計な買い物をするのと同じくらいのものだ。

 魔女の(と言われる)家は、高い塀に囲まれていて、おまけに木がたくさん茂っている。だから、あんまり中の様子をうかがうことはできない。建物の外観がちょっとと、いくつかの窓――見えるのは、それくらいだった。

 山の緑の前にいくつか家が並んでいて、魔女の家はそのうちの一軒だった。ほかの家はごく普通というか、どこで見かけたっておかしくない外観をしている。だけど、魔女の家だけは違っていた。

 何しろそれは、レンガで作られているのだ。濃い夕焼けみたいな、少しだけ明るい色をした茜色がぎっしり積みあげられている。建てられてからどれくらい経っているのかわからなかったけど、雨風に長く曝されたのだろうその外観は、時間を切ったり縫ったりして身にまとっているみたいでもあった。

 レンガ造り以外に、建物自体もちょっと変わっていた。イギリスの田舎なんかで見かけそうな二階建ての母屋に、八角形をした三階建ての塔みたいな部分がくっついている。洋館、ということなのだろうけど、それよりはもう少し軽めな感じがした。油彩画というよりは水彩画、みたいな。

 塀と木立に囲まれてあまりはっきりとは見えないにしろ、その家は魔女が棲んでいてもおかしくなさそうには感じられた。少なくとも、お姫様が住んでいるのよりはリアリティがある。

 わたしは時々、そんな魔女の家の前をてくてくと歩いていくのだった。

 もちろん、魔女のことなんてただの噂話だろう。人面犬とか、口裂け女といっしょで、聞いたことはあるけど誰も見たことはない。本当は誰も見たことがないから、噂話なのだ。

 そもそも、その話は近所に住んでいる女子生徒からはじまったみたいだった。うちの近くに怪しい家があるんだけど――と。それを見にいった何人かが、話に尾ひれをつけて、その話がさらに風船みたいにふくらんで、魔女が登場するようになった。

 第一、魔女なんて時代錯誤もいいところだ。箒にのって空を飛んだり、大鍋で怪しげな薬を煮込んだり、子供をさらって食べてしまったり――あとは、嵐の中を三人で輪になって踊ったり。

 とはいえ、わたしが魔女の話に興味がなかった、といえば嘘になる。怖いもの見たさみたいなものもあるし、人なみの好奇心だってあった。何しろそこは、本当に魔女が棲んでいたっておかしくなさそうな家だったから。

 でもだからって、ことさらに真相を究明しようとか、何とかしてその家を調べてみよう、なんて思ってたわけじゃない。泥棒みたいにこそこそかぎまわるつもりはなかった。わたしにだって、そのくらいの常識はある。

 そう――

 あの時、ひょんな偶然さえなければ、それはそのままだったんだと思う。わたしは魔女のことなんて何も知らずに、ただその家の前をもの珍しげに通りすぎるだけで、その後にあったいろんなことも、全部なかったことになってしまう。

 でも結局のところ、そんなのはどうにもならないことだった。過去は変わらないままで、未来は不確かなままで、わたしたちは現在を生きていくしかない。もう起こってしまったことと、まだ起こらないことのあいだを。

 ――だからある日、その偶然はやっぱり起こるのだった。



 それは、桜もすっかり散り終わって、みんなが冬のことを忘れはじめ、春が順調に積み重なっている一日のことだった。

 わたしはふと思いたって、放課後に魔女の家の前を通って帰ることにした。特にきっかけはないし、理由なんてない。雲の形がちょっと気になったから、立ちどまって眺めてみる――くらいのところだったと思う。

 陽ざしは麗らかで、風は穏やかで、まさしく「ひさかたの光のどけき春の日に」だった。もっとも、桜はもうとっくに散ってしまっていたけど。

 何もない住宅地の道路は静かで、誰もいなくて、光が地面に降る音が聞こえてきそうだった。じっとしていると、地球が自転しているのだってわかりそうなくらいに。

 そうやって何のも、特別な予感もないまま、わたしは魔女の家の前までやって来ていた。

 通りすがりに眺めただけだと、いつもと何の違いもなさそうだった。古びた感じのレンガ、それなりに頑丈そうな塀、鬱蒼とした木立。そこだけ、普通の時間からも場所からも分離しているみたいな――

 そのまま素通りしようとしたところで、わたしは前から来る人影に気づいた。

 思わず、立ちどまりそうになってしまう。

 何しろそれは、絵に描いたような〝魔女〟だったから。いくつか皺のよった、厳めしい顔つき。雑草みたいにろくに手入れもされてなさそうな、白髪まじりのひっつめ髪。口元には、ちょっと目立つ黒子がついている。腰こそ曲がっていないものの、背は低くて、それは相応の年齢と時間経過をうかがわせるものだった。何だか、ジブリ映画にそのまま出られそうな感じでもある。

 その人はのっしのっしと、足跡がくっきり残りそうな足どりで歩いてきた。わたしのことは台所のハエくらいにも気にならないみたいで、全然視線を動かそうともしない。手にはいっぱいに膨らんだ買い物袋を抱えている。

 気になりながらも、わたしは努めて何でもないふうにその人とすれ違った。まさか、相手を彫刻作品みたいにじろじろ見つめるなんてできっこない。そういうのは社会通念に反する行為だし、カエルとかカタツムリに変身させられても困ってしまう。

 それですれ違ってしばらくしてから、わたしはちょっとだけ振り返ってみた。さりげなく、そのくらいなら許される程度に。

 すると、その人はちょうど魔女の家に入るところで、わたしはぎくりとして思わず視線を元に戻してしまう。何だか、自分が見てはいけないものを目撃してしまった気がした。知らないうちに危険な呪いをかけられていそうな、そんな気が。

 好奇心は猫を殺す、ということわざがどこかの国になかったっけ、とわたしはふと思ったりした。そうして急いで、その場を立ち去ってしまおうとする。

 何かの落ちる音が聞こえたのは――聞こえたような気がしたのは、その時だった。

 それは「とさっ」という、小さくて中身のつまった袋みたいなものが落ちる音だった。重くもなくて、固くもなくて、何だかちょっと分量のある手紙の束みたいな。

 とりあえず、わたしは振り返ってみた。音の正体がなんであれ、まず確かめてみないことには話にならない。それにここは、あの世とこの世の境界というわけでもないし。

 後ろを見るとさっきの人はもういなくて、誰もいない道路だけが続いていた。特に変わったところはないな――と思ったところで、ふとあることに気づく。

 魔女の家の前に、何か小さくて黒いものが落ちていた。

 たぶん、それはさっきまではなくて、ちょうどあの人がいなくなったあたりに転がっているものだった。となると、ベイカー街の名探偵を呼ぶまでもなく、結論は一つしかない。空から風にのってやって来たとか、時空に裂け目が生じたとかいうのでないかぎり。

 わたしは意味もなくきょろきょろしてから、慌てずゆっくりその落し物のところに向かった。別に、怪しいことをしているわけじゃない。

 近くまで行ってみると、落ちていたのは何か財布みたいなものだとわかる。黒い皮製で、半折になっていて、それ以外に特徴はない。

 わたしはちょっと考えてみた。もちろん、魔女だって買い物くらいするだろうし、財布くらい持っているだろう。うっかりしていれば、その財布を落とすことだってあるだろうし、そうしたら困ったことになってしまうだろう。

 ――魔がさした、というのはこういうことを言うのかもしれない。

 冷静に考えれば、ポストに入れておくとか、玄関先に置いておくとか、ほかにも方法はあったのだ(実は、ポストはなかったけれど)。

 でも、わたしはその財布を拾いあげると、魔女の家のほうに向かった。高くて頑丈そうな塀に門はついていなかったから、中に入るのは簡単だった。

 むやみに胸をどきどきさせながら、わたしは塀を越えて敷地の中に足を入れた。建物とのあいだには庭みたいなスペースがあって、そこには外からも見えた木が植えられている。地面まで緑でいっぱいのその庭は、でも薄暗い感じやおどろおどろしいところはなくて、光の貯水池みたいでもあった。ちゃんと手入れされてるせいかもしれない。

 そんな緑を横目に、玄関まで一本だけ道が続いていて、わたしはそこを歩いていった。とりあえず骸骨が転がってるわけでも、カラスが不吉な眼でこっちを睨んでるわけでもない。防犯用の警報装置が鳴ったり、なんてこともない。

 魔女の家の玄関はどっちかというと控えめで、壁にただドアがくっついているだけ、という感じだった。木のドアにモザイクのガラス窓がはめられているのが、唯一の特徴といっていいくらいである。近くで見るとレンガの壁にはいっそう年季が感じられて、千年とはいわないけれど、百年くらいはたっていそうな気がした。

「――――」

 呼び鈴らしいものはなかったので、わたしは一呼吸置いてこぶしを前に出した。そうして、ドアをノックする。ごく普通の、あたりさわりのない、まずまず立派なノックの音が響いた。

 でも、返事はないし、何の反応も返ってこない。底なしの井戸に、小石を放りこんだみたいに。

 わたしはもう一度、今度はちょっと固めのジャム瓶を開けるくらいの強さでドアをノックした。でもやっぱり返事はないし、無人島のSOSみたいに、それが誰かに届いた気配もない。

 毒食わば皿まで、と昔の偉い人は言ったそうである。わたしは変な覚悟が決まって、妙な度胸がすわってしまった。こうなったら、この機会に行けるところまで行ってみよう。

 レバー式のドアノブに手をかけると、鍵はかかっていなくて、簡単に開くことができた。ややこしい呪文や、難しい儀式を要求されることもなく、ドアはたいした不平もなさそうに開いていく。

 そっとうかがうようにしてから、わたしは建物の中に足を入れた。とりあえず、誰かに咎められることも、床が開いて穴に落っことされる、なんてこともない。鎧の兵士に襲撃されることも。

 玄関を入ってすぐは意外なくらい大きなホールになっていて、石の床には簡単な幾何学模様が施してあった。二階に続く階段があって、別の部屋に通じるドアが二つ。明かりは点けられていなくて、あたりは風のない嵐の日みたいに薄暗かった。針の落ちる音が聞こえそうなくらい静かで、どこにも人の気配はない。人がいそうな気配も。

 靴脱ぎも下駄箱らしいものもなかったので、わたしは土足のまま足を進めた。靴音が小さく響いて、ドアの閉まる音が遠慮がちに聞こえる。

 気が動転していたのか、変な打算があったのか、わたしは声をかけたりしなかった。単純に忘れていただけのような気もするし、建物の静寂に言葉が飲み込まれてしまったような気もするし、あえて黙ったままでいようとした気もする――自分でも、よくわからない。

 とにかくわたしは、ホールを先に進んで、右手のドアに向かった。正面じゃなくてそっちにしたのは、外から見えた八角形の塔がそっち側にあったから、のような気がする。何しろ、冷静に考えを巡らせていられるほど余裕のある状況じゃなかったのだ。

 わたしは歩きながら、手の中の財布をぎゅっと握りしめた。今はもうそれだけが、この場所での自分の存在を保証してくれる唯一のもののような気がした。ちょうど、悪い魔法から身を守ってくれる護符みたいに。

 靴音は思ったより小さくて、ほとんど足元だけでしか響かなかった。これだったら、ほかの部屋に誰かいたとしても気づかれることはないだろう。それが、いいことか悪いことかは、別にして。

 無事にドアの前までたどり着くと、わたしは丸いドアノブに手をかけて、緊張しながらそれを回した。今にも雷に打たれたり、体に火がつくんじゃないかと想像しながら。

 でもそんなことはなくて(あたりまえだけど)、ドアは小さく音を立てて開いた。慎重に向こう側をうかがうと、そこはホールと同じくらいの広さで、大きなテーブルが置いてある部屋だった。よくわからないけれど、食堂とか、そんな感じの部屋なのかもしれない。

 入ってみても、人影は相変わらずどこにも見あたらなかった。空気はしんとして、光はしんとして、時間までしんとしている。本当にこの建物に人が住んでいるのかどうか、怪しくなるくらいだった。少なくとも一人は、この家のどこかにいるはずなのだけど――

 わたしは変に期待はずれのような、ほっと安心したような、はっきりしない気持ちで先に進んだ。もしかしたら、このまま何も起きないのかもしれない。そもそも、魔女の話なんてただの噂にすぎないのだし。

 そして、わたしは外から見えた塔のところに向かった。その場所は食堂(らしきところ)から両開きの扉でつながっていて、そのドアは今は開いたままになっている。

 何気ないくらいの気持ちで扉を抜けると――

 そこは、植物と光でいっぱいの部屋だった。

 観葉植物、ということなのだと思う。花みたいな明るい色彩はなくて、いろんな濃さと形の葉っぱが、壁一面に生い茂っていた。細長いのや、大きいの、蔓みたいに垂れさがったのや、鋭くとがったの。八角形の部屋は二階までの吹き抜けになっていて、いくつもある大きな窓からは、たっぷり水を注ぐみたいにして光が差し込んでいた。

 何だかそれは、植物でいっぱいの大きな鳥籠の中みたいにも思えるものだった。

 わたしがそんな景色に見とれていると、ふとその部屋の中に、誰かが立っていることに気づく。

 部屋の中央に机とイスが置いてあって、その人はその近くに立っていた。

 目に飛び込んできた一番の印象は、黒だった。でも暗闇とか、影みたいな黒じゃない。それは漆みたいな、光を含んだ黒だった――と、思う。

 黒いレースのブラウスに、同じ色のフレアスカート。それから、品のよいエナメルの靴を履いていた。何故か、左手だけに絹製らしい黒い手袋をしている。

 小さな形のよい鼻に、うっすらと朱を帯びた唇。花の柔らかさを持った、きれいな顎のライン。華奢というのがためらわれそうな、細いけれど芯の通った体つき。長い黒髪は、夜そのものを染料にしたみたいな不思議な色あいをしていて、毛先は少しだけ癖がかっていた。それは何となく、水面で揺れる炎に似ている。

 そして――

 その人の瞳は、太陽の強さというより、月の強さで出来ているような気がした。

 わたしはしばらくのあいだ――そう、どれくらいか全然わからないのだけど――その人のことを見つめていた。音も、光も、時間も、全部消えてなくなるくらい。

 その人はたぶん二十か三十歳くらいで、さっき家の前で見かけた姿とはまるっきり似ていなかった。どう見たってそれは、怪しげな煙の出る箱を開けたあとと、前くらいに違っている。

 でもそれは、当然のことみたいに思えた。

 魔女だったら、それくらいできてあたりまえなのだ。若返ったり、年とったり、動物に変身したり、箒にのって空を飛んだり、大地を腐らせたり、幻を見せたり、水晶玉の中に未来を映したり――

 そしてその人は、魔女以外の何者にも見えなかった。

 だから、というと変なのだけど、わたしはとっさにこんな質問をしてしまっていた。

「……あなたは、魔女ですか?」

 どう考えても馬鹿げたその質問に、その人は新月に一番近い月みたいな、かすかな笑顔を浮かべてみせるだけだった。


 ――これが、わたしと〝魔女〟の、初めての出会いだったのである。

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