無痛症
最初に違和感を感じたのは、娘が生まれて七ヶ月ほどが経った頃だった。つまり、はいはいが出来るようになった頃だ。
自分で自由に移動が出来るようになった子供はよく動くようになる。そしてそれと比例するようにして、事故が起こる確率もぐんと上がる。私と夫は、万に一つも事故が起こらないように見守っていたのだが、そんな努力も虚しく、娘はよくこけた。
そのときに気付いた。娘は泣かないのだ。それも、決して。
もちろん、あまり痛くなかったのかもしれない。こけても痛くないように、カーペットを敷いているから。でも一度、ソファーから転げ落ちたことがあった。命に関わる可能性もある事故だが、これも娘は泣かずに、けろっとした表情でもう一度ソファに登ろうとし始めた。普通、びっくりして泣くのが普通ではないだろうか?
その時は、強い子だなと思うに留まった。しかし、違和感が危険信号に変わったのは、その一年後だった。
娘は二歳になって、家の中を歩き回るようになった。元気溌剌で、一瞬とも気が抜けない日々を、私は送っていた。
そんなある日、中学生時代の親友から、久しぶりに電話が掛かってきた。どうやら結婚するらしい。結婚式に招待したいという旨の電話だった。久々に声を聞けたことも嬉しかったし、なにより昔話で盛り上がった。だからだろう、私の頭から、娘のことがストンと抜け落ちてしまったのだ。
それじゃあ、またね。やっと電話を切ったそのとき、キッチンから大きな音が聞こえた。やかんでお茶を沸かしていたこと。娘が背を伸ばしてやかんを触ろうとしているところ。二つの情景が結びつき、サッと血の気が引いた。
キッチンへ走ると、肌を真っ赤にして倒れている娘と、側で転がっているやかんが見えた。
「みゆう!」
私は娘を覗き込んだ。お湯は左腕全体に掛かり、一部焼けただれているところもあった。必死で水を掛け、「ごめん、ごめんね」と謝った。一瞬でも目を離してしまった罪悪感に、押しつぶされそうになりながら。
目に涙を浮かべながら、娘の顔をもう一度よく見た。
彼女は笑っていたのだ。
やはりこの子はなにかおかしい。娘のやけどが完治した後、そう思って病院に連れて行った。火傷をしても泣かなかったことを医師に伝えると、「検査してみましょう」と返答があった。
結果から言うと、娘は『先天性無汗無痛症』という病気だった。
日本での患者数は、およそ百~二百人ほど。全身の温度覚と痛覚が先天的に失われているという疾患であった。高いところから落ちても、熱湯が腕にかかってもケロリとしていたのは、そもそも痛みや熱さを感じていないからだったのだ。
それから、気の抜けない日々が始まった。これまでとは比べられないほど。
何をするにもずっと娘に張り付いた。そして、外で遊ぶのは基本的に禁止にした。特に公園なんかは危険に溢れている。娘にとっては厳しいルールかもしれなかったが、私は火傷の一件以来、半ば恐怖症じみていた。娘に何かが起こるのが、怖くて堪らなかったのだ。
それから二年が経ち、幼稚園に入れるか否かを検討し始めたころ、かかりつけ医から電話が掛かってきた。その内容は、「無痛症を完治できるかもしれない」というものだった。
私は病院に飛んでいき、話を聞いた。詳しい専門用語はよく分からなかったが、結局のところ、手術で治るかも知れないということだった。しかし先例はなく、私の娘が一人目の被験者だということ、成功するかははっきりとしないということが告げられた。
夫と夜まで相談して、手術を受けさせることにした。
結果は成功。私と夫は泣いて喜んだ。
それから一週間ほどで娘は退院し、元気な生活を送るようになった。肩の荷が少し下りたからだろう。それまでは気付かなかったが、娘の髪の毛がかなり伸びていた。家の近くに友人がやっている美容院があったので、娘をそこに連れて行くことにする。
「じゃ、よろしくね」
娘を友人に預け、私は待合室で雑誌を読んでいた。ふと、電話が鳴った。かかりつけ医だった。
「先日行った手術について、大事なお話があります。すぐに、病院にお越し下さい」
「え……何かおかしなことがあったんですか? 手術は成功だったんじゃなかったんですか!」
わたしがそう叫ぶと、医師は言った。
「簡単に申し上げますと、手術は一部成功だったということになります」
「一部って?」
「確かに娘さんは痛みを感じるようになりました。しかし、我々の手術の方法がまずかったらしく、人間が普通痛みを感じないところにまで痛みを感じるようになってしまった可能性が……例えば、髪の毛なんかに」
医師がそこまで言い終えたとき、娘の絶叫が美容室に響き渡った。
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