結婚が嫌な男

 公園のベンチに深く座り、項垂れている男がいた。その肩を抱いて、辛抱強く励ましているのは彼の小学生時代からの親友。かれこれ十分ほど、男は泣き続けている。


 太陽は中天を過ぎ、男の涙を輝かせた。彼の頬に一筋の模様が描き出され、親友はそれを見て、調子に乗るなと思った。その姿が、案外さまになっていたからである。


 男はやっと泣き止み、口を開いた。


「明日俺、結婚式なんだよ」

「ああ、知ってる」

「その後に、婚姻届を出す。この意味が分かるか?」

「ん、結婚するってことだろう?」


 親友が尋ねると、男は象が歩むように言った。


「……明日から俺の自由はなくなるってことだよ」

「うーん、考えすぎだろう」


 今度は一転、兎が狼から逃げ惑うように男は捲し立てた。顔は真っ赤だった。


「そんなことない! 嫁の尻に敷かれ、俺は心はペラペラに。ガキに振り回され、俺の心もボロボロに。仕事から帰り、家のことをやり、寝て、やっと休日が来たと思ってもどうせ家族サービス。そんな生活、耐えられるわけがないだろう!」


 いっそう激しく泣き出した男に、彼の親友は疑問をぶつける。


「そんなに嫌なら結婚しなきゃいいじゃないか」

「いや、それはダメだ……ダメなんだよ」


 ハンカチに鼻水をこすりつけ、男は続けた。


「俺の相手、ミカっていう名前なんだけどな、ちゃんと付き合ったわけじゃなくて、適当にワンナイトした女なんだよ。くそ、避妊すべきだった!」

「つまりお前は、しっかり責任を取ろうとしたわけなんだな」

「そうだ。そういうことだ」

「うん。避妊しなかったのは最低だけれども、責任を取ったのは偉いな」

「そうだろ?」


 二人の視線の先では、近所の子供たちが鬼ごっこをして遊んでいた。遊具の滑り台では、二歳くらいの男の子が今まさに滑りだそうとしている。そのすぐ隣で、彼の母親がニコニコしてその様子をスマホで撮影していた。


「ほら、見てみろよ」


 男がその母親の奥の方を指さした。


「あそこにしんどそうな顔をしている男がいるだろう? きっとあの人は今滑り台にいる子の父親だ。間違いなく、家族サービス中で疲れ切っている。きっと俺もあんな風になるんだ。ああ、憂鬱だ」

「そう悲観的になるなよ」


 と、そんな会話をしていたとき、突然町中にけたたましいサイレンが響き渡り始めた。緊急地震速報ではない。Jアラートでもない。強いて言えば、戦闘機か何かが飛び立とうとするときのような、赤く回る警告灯と一緒に記憶されるような音だ。


 公園にいる全員が辺りを見渡し、身を低くした。


「いったいなんだ?」

「なんだろうな」


 二人が不安そうに身を寄せ合っていると、先ほどまで滑り台で遊んでいた二歳児が、空を指さして言った。


「ねえ、おそらが、はがれてくるよ」


 二歳児の言動に、二人は思わず上を見上げた。そして、叫んだ。


 それまで青く澄み渡っていた空が、ものすごい音を立てながら黒に侵食されているのだ。太陽が昇る方から、沈んでいく方向へ。それはまるで、夜が氾濫してくるようであった。


 二人は半ばパニックに陥りながらも、じっとその様子を見つめた。そして一つ、気付いた。


「これ、黒くなってるんじゃなくて、空が開いてるんだ」


 男はハンカチを取り落としながら言った。彼の親友も続ける。


「ってことは、今まで見ていた空は偽物だったってことか……」


 いよいよ本格的に公園中がパニックに陥ったとき──ゲートボールに興じていた老人たちが、驚嘆のあまり心臓発作を起こし始めたとき──町中にアナウンスが響き渡った。


『人類の皆様、実に四十六億年にも亘る長旅、お疲れ様でした。当宇宙船は先ほど、目的地にかねてより指定されておりました、『惑星スゴイトコロ』に到着致しました。つきましては、順次下船の方をよろしくお願い致します。大変な混雑が見込まれますので、お荷物は持って行かないように重ねてお願い申し上げます』


 その後も、アナウンスは続いた。今の事態を飲み込めないであろう人々に向けるもので、内容をまとめるとこのような感じであった。



 今からずっとずっと昔、とある星に住んでいた我々の先祖は、激しい人口増加と、それに伴う食料危機に陥った。加えて、そのとある星が爆発する運命にあることも知った。そこで先祖は他にも住める星がないか宇宙の果てまで探し、遂にこの惑星スゴイトコロを発見したのだ。しかし、そこまで行くには実に五十億年ほどはかかると見込まれ、到底自分たちの寿命では辿り着くはずもないことが分かった。

 そこで、我々の先祖は地球なる超巨大宇宙船をこしらえ、何世代も超えた子孫がスゴイトコロに辿り着くことに懸けたのだという。



 それを聞いて男の親友は思った。地球を作り出せるなら、別に移住する必要はないのではないかと。しかし、そんなことを言ってもこの地球はとりあえず目的地に着いたのだ。何を思ったって、どうなるというものでもない。


 アナウンスが一段落ついた時、さっきまで結婚に喚いていた男が肩を震わせ始めた。彼の親友は思考を中断し、男を覗き込んだ。彼はなんと、笑顔を浮かべている。


「よし、よし! これで結婚が延期されるぞ! やった! 俺はまだ独身だ!」


 ベンチから男は立ち上がり、心臓発作で倒れている老人たちの間を駆け回った。無邪気に走り回る男の姿は、花畑を舞う蝶にも似ている。


「そんなに結婚が嫌かなあ」


 彼の親友は、宇宙を見上げた。星々は誇大に自分を主張することなく、静かに、ただ静かに光を放っていた。それを見て、これはこれでいいかもな、と彼は思った。

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