自殺薬
男は死にたかった。会社ではミスばかりで上司に怒られ、憂さ晴らしに行った競馬では五十万負け、おまけに彼女に振られた。休日は自分なんかと遊んでくれるような友達もおらず、薄暗いアパートでちびちびと酒を呷るばかりの日々。もう、生きている意味が分からなくなった。
というわけで、ダークウェブにて自殺薬を買った。睡眠薬を大量に服薬することも考えたが、失敗することも多いらしく、やめることにした。
三日後。届いた包みを開くと、透明な袋に入った二錠の錠剤と説明書が同封されていた。説明書を開いて読んでみる。
──使用方法:食後に一回二錠。
自殺薬なのに、食後とか関係ないだろう。
──注意点:服用してから効果が出るまで、二時間はかかります。必ず死ぬので、よく考えて使いましょう。
余計なお世話だ、と毒づき、男は薬を口に放り込んだ。水も使わずに気合いで飲み込んだ。
「ま、三十分前に飯食ったし、ギリ食後だろう」
これで死ねる。男は清々しい気分になった。効果が出るまでは二時間あるらしい。さて、それまで何をしようか。
男はまず会社に電話をした。彼はその日無断欠勤をしていたから、電話に出た上司は激高していた。
「お前、今どこにいるんだ! 早く会社に来い! この役立たず!」
「うるせえ! いつもいつも偉そうに威張りやがって! 口臭えんだよクソが! 死ね! 俺はもう会社辞めるからな!」
男はそう叫んで電話を切った。手は恐ろしいほど震えていたが、不思議な高揚感が身体を支配していく。清々しい気分に、男は外出することにした。
空は一層鮮やか。燦々と光る太陽が心地良い。
ふらふらあてどなく歩いていると、電柱の側に紙切れが落ちていた。なんだろうと近づくと、それは宝くじだった。拾い上げてみる。どうやら、今やっているものらしい。
男はそれをポケットに入れた。ふいに、晴れ渡っていた気持ちに、暗雲が立ち込める。
ああ、自分はなんて卑しいんだろう。今日死ぬと分かっているのに、まだお金を得ようとしているなんて。こんなだから彼女に振られてしまったのだ。
そんなことを考えながらさらにぶらついていると、今度は携帯電話が鳴った。
どうせ会社からだろう、と画面を見ると、先日別れた彼女だった。正直未練たらたらだった男は、電光石火で電話に出た。
「どうしたんだよ?」
「あのね、この前は私も強く言いすぎたと思ってね。良かったらさ──」
「いいよ」
言い終わらないうちに、男は返答した。
「え、何が言いたかったか分かってるの?」
「ん、寄りを戻そうだろう?」
「そう。ありがと。また連絡するから」
それじゃあ、とお互いに言い合って電話を切った。なんてことだ。彼女と寄りを戻せた。こんなに嬉しいことはない。
腹が減ってきたので、人生の最後に大好きなハンバーガーを食べることにした。大きなMの文字は、親の顔より見た看板だ。
店内に入ると、大きなファンファーレが鳴った。驚いて周囲を見回していると、店員がはち切れそうな笑顔でこちらへやってきた。
「おめでとうございます! お客様は、ちょうど一億人目のお客様です! なので、食べ放題チケット一生分を差し上げます!」
これはなんという幸運だろう。僕が一億人目? 一生ハンバーガー食べ放題だって?
周りの客の拍手が聞こえる。男はチケットを受け取って、照れ笑いを浮かべた。
「ではでは、早速こちらでお食事をどうぞ。もちろん無料です」
店員に連れられて、席に座った。注文すると、すぐさま料理を持ってきてくれた。そんな様子を見ていた隣の男が、羨ましそうに話しかけてきた。
「なああんた、いいよなあ。なんだか幸運に幸運が重なってるって顔をしてるよ」
「そうだろう? 実はさっき、彼女と寄りを戻せたんだよ」
「本当に? あんた、今宝くじ買ったらきっと当たるぜ」
男はそう言われて、ポッケから先ほど拾った宝くじを取り出した。
「あんた、それ買ったのか?」
「いや、拾ったんだよ」
「ちょっと待ってろ。その宝くじは今日発表だ。多分この新聞に……」
用意のいいことに、その男は新聞を取り出した。
「番号は?」
「……」
「おい、どうしたんだ?」
「だめだ……もしこれが当たっていたら、死にたくなくなってしまう」
「何言ってるんだ。見せろよ」
隣の男は宝くじをふんだくった。新聞と宝くじを交互に見て、彼の目は大きく見開かれた。
「おい、これ、あんた……」
「やめろ!」
ああ、なんてことだ。なんてことだ。
「嫌だ、嫌だ! 死にたくない! 死にたくない!」
半狂乱している幸運な男に、周りの客は不審な視線を向けた。
そのとき、店に入ってきた女性がいた。寄りを戻した彼女だった。
「あ、ダーリン!」
そう言って、彼女は男の方へと駆け出した。
「や、やめろ、来るな! 誰も近寄るな! 俺が、俺がこんなに幸運なはずはないんだ! 不幸なまま死ぬつもりだったのに!」
「ちょっと何言ってるのよ。落ち着いて」
そう言って男を優しく宥めた彼女の腕には、立派な腕時計がついていた。そしてその時計は、十二時二十分を示していた。男が死ぬまで、あと十秒だった。
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