第5話 全否定の罠

 対になるというものは、世の中にはたくさんあることだろう、

 漠然とした、性格の一致不一致などによりいわれる、

「人間関係」

 というものの対であったり、

「人間関係」

 というようなものではなく、

「実質的な血のつながりなどという意味で、

「親子や兄弟」

 と呼ばれるものも、

「対」

 ということになるだろう。

 もちろん、前述の、

「恋人であったり、夫婦というような」

 つがいという関係も、対といってもいいであろう。

 実際の人間関係として、友達と呼ばれるものにも、たくさんある。

 ただの因果関係だけでつながっているクラスメイトのようなものであったり、趣味趣向でつながっている、

「精神的な友達」

 というものであったり、

「その繋がりが、実は親友よりも、深い関係といってもいいかも知れない」

 要するに、

「一生懸命に生きているという証拠としての、趣味趣向」

 ということであれば、そのつながりが一番強いといっても、過言ではないだろう。

 そういう意味では、

「親友」

 といっても、

「絶対的に深い仲」

 というわけではないということで、基本的には、親友が一番縁が強いといってもいいのだろうが、

「趣味趣向」

 という結びつきで、時と場合によって、そのつながりが深くなるというのも、当然のことではないだろうか。

 だから、考え方ではあるが、

「親友」

 というのと、

「趣味友」

 というのとでは、それぞれに、深いつながりという時があるということであろう、

 だから、親友ではない相手と、親友よりも深い仲になってしまったりした場合は、実は危険だということもあるだろう。

 世間でよくある、

「マインドコントロール」

 すなわち、

「洗脳」

 と呼ばれるものが、実際にあるということで、世間で問題になっている、社会問題だったり、事件だったりが、蔓延ることになるのだ。

 一度、

「ママ友」

 という名目で、

「自分の言いなりになるように仕向けた母親が、その女の言いなりになった挙句、自分の子供を餓死させた」

 などという、

「あってはならない事件」

 というものがあったではないか。

 洗脳であったり、

「マインドコントロール」

 というのは、犯罪の中でも、なかなか立証がしずらかったりする問題なので、結構裁判も難しかったり、それによって長引いたりする。

 それらの洗脳などというのが、

「新興宗教」

 によるものだったりすると、その被害者というのは、少なくないだろう、

 複数の人が、宗教に嵌ってしまい、家族が貯めた金を奥さんが、つぎ込んでしまったりして、金銭だけの問題ではなく、

「家庭崩壊」

 という重大事件を引き起こすことになる。

 それだけ大きな社会問題であり、しかも、数多くの被害者を抱え込むことになるので、

「被害者団体」

 というものが設立され、

「集団訴訟」

 というものに発展するのが、常であろう。

 宗教団体であれば、一人だけではなく、教祖のまわりに、たくさんの幹部がいて、幹部が、裏で動いたりすることで、

「知らず知らずのうちに騙されていた」

 ということも多かったりする。

 もちろん、すべての宗教団体がそうだとは言わない。中には、ちゃんとした。

「勉強会」

 のようなものを開いて、真面目な活動をしているところもあるのだ。

 しかし、日本には、

「宗教の自由」

 というものが認められているので、いくら、悪徳宗教団体を摘発し、それらを潰すことができたとしても、芋ずる式にできないのは、どうしても、この、

「宗教の自由」

 という考え方があるからに相違ないだろう。

 ただ、洗脳ということに対しては、宗教以外の場合でいえば、

「これほど卑屈な犯罪もない」

 といえるのではないだろうか?

 まず、相手を自分の言いなりになるように相手を信じさせ、そして、自分の目的を果たすためだけに、相手にいいようにいうのだ。

 それ以外は、適当にいうことで、お茶を濁しているのかも知れないが、その話の方が、相手にとっては、切羽詰まったような大切な話なのかも知れない。

 それなのに、適当なことを言ってしまえば、相手はそれをうのみにする。

 洗脳する側は、自分の目的に関係のあることであれば、失敗しないようにと、細かく指示を出すだろうが、

「どうでもいい」

 と思うようなことは、何も言わないし、指示など出すわけもない。

 もっとも、指示を出したとしても、それはいい加減なことになるので、余計なことは普通ならしないだろう。

 それでも、相手が信じ込んでいるので、

「相手にまだ利用価値がある」

 と思うと、指示を出すというようなポーズをするだろう。

 しかし、その指示が、本末転倒であったり、まったくのお門違いだったりして、それが社会問題を引き起こすということも、往々にしてあるというものだ。

 前述の、

「ママ友の洗脳による、子供の餓死事件」

 という悲惨なことになったのは、

「洗脳する方おいい加減」

 さらには、信じている方も、おかしいと思ったのか思わなかったのか、正直、あとからであれば、何とでもいえる。

 ママ友の方は、弁解の余地がないほどの犯罪者であるが、この場合の母親に、罪はないわけではないのだが、

「その罪状がどれほどのものであるか?」

 ということである。

 ママ友の方は、

「100人が100人まで、死刑になってもいい」

 と思っているだろう。

 だが、実行犯の方は、

「洗脳されていたので仕方がない」

 といえるだろうか?

 この問題は、実に根が深いといえるであろう。

 ただ、この問題は、ある意味、極端な例なので、分かりにくいかも知れないが、ママ友にしても、実行犯にしても、結局、どちらが悪いという問題ではなく、確かに、洗脳して、相手を苦しめて、精神的に追い込むということを、悪意を持ってしているのが分かっている。

 そうなると、

「じゃあ、実行犯は、

「操られていたということで、片付けられるのか?」

 ということである。

 そうなると、

「いや、そんな精神疾患になったり、苦しむようになった人を作った世の中が悪い」

 という人も出てくるであろう。

 確かに、世の中が悪いから、そんな悲劇が起こるともいえるのかも知れないが、じゃあ、

「世の中が悪い」

 ということで、

「すべてが許される」

 のだろうか?

 ということになるのだ。

 要するに、どこまで行っても、いったん世の中が悪いということになってしまうと、その後に落ち着く結論は、一周回ってくるだけではないだろうか?

 それを考えると、

「まるで、わらしべ長者のような話」

 ということで、こちらは、

「マイナスの例」

 なのではないだろうか?

 といえるのである。

 ただ、一つ言えることは、

「この時に、奥さんをいかに洗脳したか?」

 ということであるが、そのやり方として、

「相手のことを全否定する」

 ということではないだろうか?

 人から全否定されてしまうと、結果として、

「何を言っても、全部ブーメランになって自分に帰ってくる」

 ということを感じてしまい、相手に対して、逆らうことができなくなり、しかも、一度全否定した相手の言葉を受け入れてしまうと、

「全否定した自分に、拒否権のようなものはなくなってしまった」

 という風に思い込んでしまうに違いない。

 それを思うと、テレビのニュースで、

「ママ友の過去」

 であったり、

「実行犯の過去などが言われていたが、どうしても、見ている方は、ママ友が悪いと思わされてしまう」

 というのである。

 若干の番組側からのひいき目的な番組製作もあり、すべてが、

「ママ友が悪い」

 というシナリオになっているのだが、果たしてそうなのだろうか?

 確かに、そう思ってしまうのは仕方がないが、それをどう立証するというのか、誰も検証しているわけではないので、断定しているようなニュアンスの番組に、視聴者が、洗脳されるということは若干あるだろう。

「見ていて。100人が、90人まで、その通りだと思うと、ほぼ皆がそうだと思ってしまう。それこそが洗脳であり、番組製作というのが、どういう意志に基づいているのか?」

 ということも分かってくるというものだ。

「確かに、全否定はいけないが。だからといって、全否定した人がすべて悪いとも限らない」

「一番怖いのは、すべての責任を一人に押し付けて、その真相を見ようとしないということは、一番恐ろしいのだ」

 ということであった。

「全否定をする」

 ということであれば、父親もそうだったかも知れない。

「タバコをばったり辞めた」

 ということに関しては、リスペクトをしている父親であるが、実際には、

「尊敬どころか、今でも憎んでいる」

 といってもいい。

「今までに、何度殺してやろうと思ったか」

 というと大げさかも知れないが、正直、

「この世からいなくなってくれれば、どれほどいいか?」

 と思っていたというのも、無理もないことであった。

 その一番の理由は、

「すべてに関して、全否定をする」

 というのだ。

 自分の意見をハッキリ言おうと思っても、ほとんど何もしゃべらせてくれない。そのうえで、

「すべてお前が悪いんだ」

 といって、理由らしいことをしゃべっているだけだ。それこそ、

「口から出まかせにしか聞こえない」

 なぜなら、

「全否定されているので、何を言っても無駄であり、全否定というものがどういうことなのか?」

 それを考えると、思い浮かんだことが、一周まわって、また同じところに戻ってくるのだ。

 大人になって、

「どうして、父親に逆らえなかったのか?」

 ということを考えると、その理由は、

「全否定されるということが、一周まわるということであると気づくと、父親が、子供の頃に感じた思いが、忘れてしまったかのようになるのは、一周まわってくるからだ」

 ということに気が付いたのだ。

「一周まわって、もう一度同じ位置に戻ってきたとしても、それが、同じ着地点であるかどうかは、決まっていないのだ」

 それは、

「慣性の法則」

 を思わせるものであって、

「例えば動いている電車の中で飛び上がったとすれば、電車の中だけに影響する空気によって、飛び上がったその場に着地する」

 というのが、その理屈であった。

 確かに、同じ場所に戻ってくるのだが、あくまでも、それは、表の法則に逆らっているということで、不可思議なことの中に含まれるのではないだろうか?

 それを思うと、

「一周まわって、同じところに戻ってくるというのは、同じ場所というその場所のことであって、時間も経っているのだし、最初の場所とは違うところである」

 ということだ。

 慣性の法則も、そういう意味で、

「まったく同じ場所ではない」

 という理屈から、

「同じに見える場所に降りてくるということで、おかしいなりに、それなりの理屈があるのかも知れない」

 それを考えると、

「全否定されると、理屈で分かろうとしても、無理な場所を一度見てきた」

 と思えた。

 それが、

「一周回って降り立った場所」

 ということであり、結局、同じ場所に降り立つように、誘導したとしても、そこは、一周まわった、裏の世界であるということから、

「全否定という言葉は、いかに、自分を正当化しようとして、すべてを一つに押し込めて、相手をいかに悪者にするか?」

 ということに掛かっているのではないだろうか?

 全否定という、

「負のスパイラル」

 に嵌ってしまうと、

「絶えず何かを考えている」

 ということになる。

 だから、

「一周まわって」

 ということになるのだろうが、何かを考えていると、今度はそこから、自分が、責められているような、被害妄想に陥るのだ。

 それが、精神疾患となり、いろいろな障害が起こってくるのだろうが、

「父親は、そんな、負のスパイラルから、精神疾患に陥ったのではないだろうか?」

 母親に暴力をふるうようになった。それは、つかさが、高校時代の頃から、感じるようになったのであって、

「高校時代というと、小説を書き始めた頃だったような気がする」

 と感じた。

「そうだ、小説を書けるようになったきっかけが、父親の暴力を見たからだったような気がする」

 ということを思い出した。

 小説を書くということは、結構大変なことで、最初から書けていたわけではなかったのだ。

 というのは、最初の頃は、書きたいと思っても、なかなか文章が進まなかったり、考えながら書いていると、考えが頭をぐるぐるまわって、結局、結論が分からなくなってしまって、書こうと思っていたことすら忘れてしまう。

「そういう時は、プロットを書くものさ」

 と教えられたので、

「そのプロットって何なんですか?」

 と聞くと、

「プロットというのは、小説における設計図のようなもので、基本的には、それを作ってから本文を書き始めるものです」

 と教えられた。

「設計図というと?」

 と聞いてみると、

「それは、大まかな内容のあらすじで、起承転結の形になっているもので、それを書くために、ジャンルを何にするか。あるいは、登場人物をどうするか? さらには、書く視点を、主人公目線でいくか、第三者目線で行くか? などという話をまとめたものを、プロットというんだけど、でも、作り方に規則なんかないし、プロットが表に出ることもない。まるで、数学の問題を解く時に、別紙として白紙をもらって、それを計算用紙にしたりするでしょう? あれと同じような感じだと思ってもらえばいいんですよ」

 ということであった。

「なるほど、そういわれると、なんとなくイメージが湧いてきたかも知れない」

 と思って、実際に作ってみると、それはそれで難しかった。

 それを友達に話すと、

「確かに最初に書くのは難しいでしょうね。でも、それをガッチガチに書いてしまうと、今度は、本文に、遊びの部分がない感じで、先に進まなくなってしまうんですよ。あなたも、考えながら書いていて、先に進まないといっていたでしょう? それと同じ感覚だといってもいいかも知れないですね。だから、プロットは、フラットに書いて、書きながら、少し内容が変わっていくくらいの方が、遊びの部分があっていいんですよ。そうでもしないと、プロットを書き上げたことで安心して、本文が進まないということが結構あったりするということを聞いたことがありますからね」

 というのであった。

「小説を書くうえで、まずは、ジャンルを決めて。それから大まかな展開を書いて。そこに、登場人物を当てはめていって。目線をどのようにするのか? というのが、プロットだと思っていいのかな?」

 と聞くと、

「ええ、そうね。でも何度もいうけど、プロットというのが完成系ではないので、プロットの通りに書き上げる必要もないし、プロットで満足する必要もない。あくまでも、本文が、その人の作品であり、まわりが見るものなんですよね。それを忘れずに書いていると、そのうちに、本文とプロットのバランスがうまくいくようになり、小説の骨子ができてくるということになりますよ」

 と話してくれたのだった。

 つかさは、小説を書く時のプロットを考えていた時、全否定をしてくる父親が、以前いちかが、拾ったという、

「殺人予告メモ」

 と持っていたという発想を結び付けた。

 そもそも、それは本当の殺人計画メモであったが、それこそ、ただの妄想で、妄想を抱いていた時に自分が、訳の分からないという精神状態だったことで、錯乱していたことからのことであったのだろう。

 だから、我に返って、

「えっ、俺はなんて恐ろしいものを書いたんだ?」

 と感じ、それを破り捨てるくらいのことをすればいいのだろうが、我に返っておいて、そこから先がただの小心者ということで、破り捨てるということすら、できていない。

 それだけ、人間としての、本能も、か細いということにしておいた。

 あくまでも、この主人公は、

「父親であって、父親ではない」

 父親を想像して書いているのだが、あくまでも、作者の妄想も一緒になっているからだ。

「作者の妄想が、主人公の妄想を動かす」

 妄想が妄想を生む。

 あるいは、かけ合わせるということで、

「いちかは、自分が、いかに父親というものを恨んでいるか?」

 と考えていた。

 これは、母親が一度だけ、つぶやくように言っていたことであったが、その時だけのことで、それ以前にも、それ以降にも聞いたことはなかったし、それも、つぶやいただけというくらいのことだったので、信憑性もないが、それだけに、つかさには、気になってしまうのだった。

 というのは、

「お父さんは、あなたが生まれる時、不倫をしていて、ほぼ同じくらいの頃に、他の女にも子供を産ませたのよ」

 ということであった。

 それを聞いたのが、小学生の頃で、驚愕を通り越して、本当に他人事であった。

 さすがに、母親も話した後、

「まずかった」

 と思ったのだろう。気まずい思いとなっていたようだ。

 要するに、この小心者の主人公の正体は父親であるが、途中、ところどころに母親も交じっている。

 それは、急に意識がなくなって、言わなくてもいいことをつぶやいてしまったりして、我に返ると言い訳もできない母親というイメージキャラクターまで入り込んだ。

「人間としては最低の主人公」

 だったのだ。

 だから、性格としては、

「多重人格」

 であり、途中で無意識に何かをやっていて、それも、本人にとっては、

「都合がいいのか?」

 それとも

「都合が悪いのか?」

 それは、その時のまわりの反応によるのだろうが、

「致命的である」

 ということに変わりはないということであろう。

 そんなことを考えていると、

「主人公の性格は、自分が誰かに全否定をされたところからのたまものではないか?」

 と考えると、そこに、作者自身というキャラクターまで含まれているということを感じた。

 そうなると、

「じゃあ、せっかくだから、自分が知っている人間すべてを、この人に織り込むか?」

 という妄想まで働いてきた。

 しかし、すべての人間というのは、土台無理なことであり、

「限界があるものに対して、無限を織り込むなど、最初から無理というもの」

 ということであり、

「しょうがない。ごく身近な人間だけにしよう」

 ということで思いついたのが、

「いちか」

 だったのだ。

 いちかの性格は、どこか、父親に似ていた。

 あれだけの多重人格なのだから、

「たいていは誰かに似ていることだろう」

 と思えるのだが、実際にはそんなこともなかった。

 そういう意味で、盛り込むことにそれほどの難しさはなかったのだが、そうなると、登場人物がいなくなってしまう。

 そこで、今度は、父親の中に織り込んだ誰かを、分離させて、そこで、脇役としての、配役を作ることにした。

 つまり、

「主人公だけではなく、主人公以外の人物にも、主人公の性格が分かるということにした」

 ということであった。

 そこで、いちかの性格を考えてみると、考えれば考えるほど、父親の中の何かと共鳴しているかのようだった。

 それは、正直、あまり気持ちのいいものではなく、ただ、

「以前にも同じような気持ち悪さを感じたような気がする」

 と感じたものだった。

 それがどういうことであったのかというと、

「それが、私のことだったからだ」

 というものであった。

 というのは、

「自分が、あの父親の娘なんだ」

 ということを、

「今までに何度思い知らされたのか?」

 ということであった。

「父親なのだから、思い知るのは当たり前のことであり、他の人だったら、ここまで神経質になることはないはずなんだろうな」

 と漠然と考えたのだが、それだけ、自分が、

「あの父親と血がつながっている」

 というだけで嫌だ。

 と感じたのだろう、

 そんな発想は、しかし、それほど極端にひどいというものではなかった。

 それなのに、何度も思い出すのは、

「その元が夢によるものだったからなのかも知れない」

 と感じるのだった。

 例の

「殺人予告メモ」

 というものが、小説の骨子にあることは間違いない。


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