第2話 テレビ時代

 つかさは、中学生の頃、趣味で少し小説を書いていた。本を読むのが好きだったわけでも、作文が得意だったわけでもないのだが、学校である作家のミステリーが人気だったことで、

「その話題に入ってこれないと、仲間外れにされる」

 という意識があったのだ。

 それは、最近のミステリーというのではなく、時代背景とすれば、戦前戦後にかけての、いわゆる、

「探偵小説」

 というものであった。

 大体、20年に一度くらい、ブームになるというもので、爆発的なブームからという意味であれば、3回目くらいであろうか。

 作者もすでに亡くなっているのだが、最初のブームの時、いくつかの作品が映画化されたのだが、作家さんも、

「カメオ出演」

 ということで、ちょい役で、出ているようだった。

 当時の作家の人は、自分の作品が映画化されたりすれば、自分も、カメオ出演するというのが、実際に流行っていたという。

 今の時代にもカメオ出演はあるようだが、

「実写版」

 というよりも、アニメ作品が多くなった今となっては、なかなか、希少価値になったようだ。

 特に、数年前まで流行った、

「世界的なパンデミック」

 という状態によって、実写撮影が、なかなかうまくいかない時代だったことで、

「アニメ作品」

 であったり、

「3?作品」

 最近では、

「AI画像」

 というのが流行っているので、

「実際の俳優が演技をする」

 ということも、どんどん少なくなってきたといってもいいだろう。

 実際に、俳優が演技をするシーンが減ってきたというのも、

「原作にマンガというものが多くなってきた」

 というのが流行してきたからだった。

 特に、最近の民放で製作されるドラマや、映画というと、

「〇〇万部売り上げを更新した、人気漫画」

 などという触れ込みが多かったりする。

 実際に、

「活字離れ」

 というのが、深刻化してきたからなのか、それとも、

「ネットカフェなどでの、マンガを読む人が増えてきた」

 ということなのか、どちらにしても、主流は、小説から、マンガに移りつつあった。

 そもそも、マンガという文化は、日本で大きく発展したともいわれる。どこかの政治家が、

「政治そっちのけで、秋葉原で、マンガと戯れるというような、庶民的な政治家というのを演出していたことがあった」

 しかし、実際には、物価に関しては、まったくの無知だったという、そんな政治家に、アニメファンは、

「あんなやつに宣伝してほしくはない」

 という目を向けていたことがあった。

 それはさておき。

「マンガが日本の文化であるということは、紛れもない事実だが、中には昔からの、小説のファンだ」

 という人も少なからずいる。

 そんな人たちは、

「活字文化が減っていくのを、寂しい思いをしてみているのかも知れない」

 しかも、最近のテレビ界は、

「普通の民放を面白くない」

 といって、見ない人も多い。

 かといって、受信料というものを、

「何としてでも取ろう」

 としている連中にとっては、決して追い風ではない。

 逆に、

「テレビなんかない方がいい」

 といって、

「そうすれば、受信料をどうこう言われることもない」

 ということで、逃れることもできるというものだ。

 何も、

「受信料を払うのがもったいない」

 という人ばかりではないはずだ。

 実際に払っている人も数多くいて、だからといって、払わない人に文句をいうという感じではない。

 払わない人が正しいとまでは思わないが、

「払いたくないのには、それなりの理由がある」

 ということで、一定の評価をしているのであった。

 払わない連中も、

「金がないから」

 という理由ではなく、理不尽な取り立てに怒っているのだ。

「受信料を取るなら取るだけの、責任と義務を果たしているのか?」

 ということになれば、

「そんなことはない」

 といえるのではないだろうか?

 しかも、最近では、テレビの形態が変わってきている。

 その顕著な例が、

「ゴールデンタイムにおける、野球番組ではないだろうか?」

 元々、ゴールデンタイムというと、昔であれば、子供向けのアニメ番組か、後半の1時間というと、時代劇というパターンが多かった。

 ただ、それも、野球のオフシーズンということであった。

 というのは、野球シーズンであれば、ゴールデンタイムと言われる、

「午後7時から、9時までの2時間は、どこかの局で野球放送」

 というのが、当然と言われていた。

 それも、地元の球団を放映するというのであればまだ分かるが、放送されるのは、人気リーグの人気チームばかりであり、そのせいもあってか、野球ファンというと、

「子供かサラリーマン」

 くらいのものだった。

 子供の場合は、学校での話題も野球の話題。見ていないと、それこそ、話題に乗り遅れるという子供独自の世界が、

「プロ野球放映」

 によって、行われていたという時代であった。

 しかも、親も、

「子供が人気チームを好きだろう」

 ということで、野球道具を買ってもらうとしても、人気球団の選手と、

「おすろい」

 ということだったのだ。

 ほとんどの少年は、親が買ってくれた人気球団の選手を自然と好きになるという、

「悪しき構造」

 が生まれてくることで、

「子供は、大人の洗礼に遭う形で、人気チームのファンにさせられる」

 ということであった。

「じゃあ、父親は?」

 というと、実際には、別の味方で野球を見ていたりする。

 というのは、大人たちは、

「野球を野球として見ていない」

 といってもいいだろう。

 特に当時から、地元に球団があれば、球団が、取引先の会社に、

「年間予約席」

 ということで、取引の材料として、

「1企業、いくつ」

 という形で割り当てたりするだろう。

 球団を所有しているくらいの企業なのだから、地元では、

「そう簡単に逆らうということはできない」

 ということで、年間予約世紀の券を買わされるので、一部は、営業として使うこともあるだろうが、何しろ年間なので、すべてに営業を入れるということも難しい。

 そうなると、ほとんどを企業の社員で行けるということになり、中には、

「家族で行こう」

 という仲のいい家族もいるだろうが、奥さんや子供にも、

「野球が好きだ」

 と思っている人は、むしろ少ないかも知れない。

 というのも、

「いつもテレビで、ゴールデンタイム。見たいテレビがあっても、チャンネル権は、明らかに父親にあり、見たくもない野球を見せられている」

 という家庭も少なくないだろう。

 しかも、父親は、

「自分の傲慢さ」

 というものを分かっていないので、

「どうして、野球を好きになってくれないのだろう?」

 と思ったとしても、それは、当たり前のことであった。

 昔のように、まだまだテレビというと、

「一家に一台」

 という時代であれば、チャンネル争いの主役は、父親にあるのは当たり前だ。

 共稼ぎも珍しい時代で、まだ、父親がそれほど残業もしていなかった頃は、

「家族そろっての夕食」

 というのが当たり前で、

「一家団欒」

 というのが、ほのぼの家族の代表とも言われた。

 しかし、時代は進み、

「家族団欒」

 などという言葉が死後になっていった。

 父親は、残業残業で家に帰ってこなくなり、母親も仕事に出るようになる。子供は、学校でにいじめ問題などから、

「引きこもり」

 になってしまう。

 完全に、家庭崩壊というのが、現実味を帯びてきて、

「家庭内暴力」

「家庭内別居」

 などという言葉がどんどん出てくるようになったのだ。

 父親の威厳など、まったくなくなり、最近では、

「家事のできない男は、失格だ」

 とまで言われるようになり、

「奥さんが外で働いて、夫が、主夫として、家事をする」

 という家庭がどんどん増えている。

 時代の転換期といってもいいのだろうが、一気にそんな状態が進んでくると、誰も追い付けなくなり。

「逆に時代から取り残されないようにしないといけない」

 というようになってきたのだった。

 今度は、父親が、会社で、上司からのパワハラを受けたりして、引きこもるという人も増えてきた。

 昔と違うのは、

「結婚しない男女が増えてきた」

 ということであろう。

 結婚しても、どうせすぐに離婚するというのであれば、最初からしないという方がましだ。

 ということである。

 昔、急激に離婚する夫婦が増えてきた時、

「成田離婚」

 という言葉であったり、

「熟年離婚」

 という言葉も流行ったものだ。

「成田離婚」

 というのは、

「新婚旅行から帰ってきて、成田空港に到着した時点で、すでに離婚を決めていた」

 という、いわゆる、

「スピード離婚」

 というものを表した言葉であった。

 さらに、この頃から増えた言葉に、

「できちゃった婚」

 というものがあった。

 つまり、結婚したいかどうか別にして、

「子供ができた」

 ということで、結婚を余儀なくされたという夫婦のことである。

 ただ、

「俺の子供じゃないから、おろせ」

 と言われ、半ば強引に堕胎させられる人もいた。

 さらにひどくなると、誰にも言わずに黙っているうちに、堕胎できる時期を通り越してしまい。人知れず産み落とした子供を、

「コインロッカーなどに捨てる」

 という暴挙に出て、それを、

「コインロッカーベイビー」

 ということで、社会問題となったこともあった。

 ひどい人間は、どこまで行ってもひどいといってもいいだろうが、だからといって、

「子供が、自分たちの意志ではないということで生まれたとして、勝手に何かをしようと自分たちだけでたくらんだりした場合は、同情の余地もないくらいであるが、だからといって、責任を取れるかどうかも分からないのに、責任を取って結婚する」

 といって結婚しても、そのほとんどは、うまくいくはずがないといってもいいだろう。

 何といっても、

 男も女も、どちらにも、後ろめたさがあり、下手に相手に遠慮していると、今度は、子供に対して、愛情どころか、憎しみを感じる人もいるだろう。

「この子さえいなければ」

 と思う人も少なくはない。

 男の方としても、

「もっと遊びたかったのに、子供などができたことで、人生が台無しだ」

 などと思っている人もいることだろう。

 だが、それは自分が、

「避妊をしなかったことが、一番悪い」

 ということを最初は分かっていたのかも知れないが、責任という言葉を、一生背負っていくということに、次第に億劫に感じていると、

「家族全員を、憎たらしい」

 と考えるようになるだろう。

 母親の方としてもそうだ、

 明らかに、旦那の気持ちが、

「愛情もないのに、責任を取るというだけで一緒にいるだけだ」

 と感じると、

 そんな旦那に気を遣わなければいけないと思っている自分が次第に情けなくなってくる。

 母親は、子供に対しての母性本能というものがあることから、

「子供と向き合う」

 ということは、自分にしかできないことは分かっている。

 だか、そのうちに、

「この子にもあの男の血が流れている」

 と思うようになると、母性本能というものも、どんどん薄くなってくるということも分かるようになるのだった。

 だから、いつも一緒にいる子供に当たってしまう。父親に対しての恨みや怒りまでも、子供にぶつけるようになると、母親も我に返った時、

「私はどれほど汚い人間なのか?」

 ということが分かってくるというものであった。

 それを思うと、

「本当に、私は子供の母親なんだろうか?」

 と、母性本能というものが、怪しく感じられるようになるのだった。

 母性本能というものを、いかに自分に納得させるのか?

 そんなことを考えると、

「家族を背負っているのは、自分なのではないか?」

 という錯覚にとらわれ、そんなことができるわけはないという思いとのジレンマに悩まされながら、結局は、旦那を憎むということに落ち着くしかないのであった。

 そんな母親だったが、以前であれば、

「専業主婦」

 ということもあって、ほとんど家にいるということで、テレビを見たりして、気分転換をするような場合が多かったのだろうが、バブルがはじけてからこっちは、特に、

「共稼ぎ」

 が多くなり、最近では、

「それが当たり前」

 という風になってきたのだった。

 だから、というわけではないのかも知れないが、

「昼間の民放というと、奥様向けのワイドショーが正午くらいからあり、午後一時からは、奥様劇場と言われる。主婦向けの恋愛小説を原作としたドラマがあったりした」

 恋愛小説といっても、内容は、不倫であったりという、ドロドロとした、愛憎絵図というものが、描かれていて、それを主婦は、好んで見ていたという時代があった。

 やはり、

「専業主婦として、表には買い物に出るくらいしかない状況で、実際に、不倫などできないと思っている主婦とすれば、そういう番組を見て。自分の中の、欲求不満というものを晴らしていたのかも知れない」

 と、そんなことを思えば、今度は共稼ぎが増えたことで、テレビ番組も改変を余儀なくされたことであろう。

 奥様向けの番組から、昼休みの大衆向けのワイドショーに変わり、今までは、1時間だった昼のワイドショーが、3時間というような、番組に変わっていった。

 そこで使われるキャスターやMCは、局アナだったり、

「お笑いタレント」

 だったりが主流になってきた。

「そんな番組を、奥さんが見るとも思えず、そもそも、誰が昼の番組を一番見ているのか?」

 ということが分からなくなってしまったことで、ある意味、迷走を重ねたうえでの今の番組編成なのかも知れない。

 そもそも、ゴールデンの野球中継というのも、ほとんどなくなってきた。

 一番の人気チームは、放映権の値段が、他の球団よりも高かったりする。それは、今のほとんど野球中継をやらなくなった時代でも変わっていない。

 たまに、たとえば、休日のデーゲームなどを放映する時も、放映するとすれば、地元球団が主流になってきた。

 それは、昔と比べて、ファン層が変わってきたということもあるのだ。

 昔であれば、

「サラリーマンが、ストレス解消に、野球場でやじる」

 という目的で、それも、企業が買わされた年間予約席の余りで、行く人はいつも同じだったりするので、そういうことになるのだろう。

 あとは、子供であろうか。

 というのも、

「子供会」

 のような球団主催の会に入っていれば、ほどんどただで、見られるということで、年会費を払っても、数回見に来ることで、すでに、元が取れる。

 ということになると、親も、子供会に入れれば、その分、子供の面倒が掛からずにいいと思っている人もいることだろう。

 だから、昔の野球は、

「サラリーマンと子供が見るものだ」

 と言われていた。

 しかし、最近では、そういうこともなくなってきて。

 サラリーマンと子供以外でも、

「女性ファンが増えてきた」

 という時期があったりした。

 それは、球団努力もあるだろう。

「レディスデー」

 などというのを設けて、

「その日は、女性は半額で入場できる」

 というものであったり、

「子供と女性には、ユニフォームのプレゼント」

 ということもあったりしたではないか。

 それを思うと、球団側の女性客をターゲットにした時期と、女性ファンが野球ファンになる時期とがうまくマッチしたという意味で、

「女性ファン獲得」

 ということに関しては。

「見事に成功した」

 といってもいいだろう。

 特に、野球選手のファンサービスというのも、大きいかも知れない。

「ヒーローインタビューや、ホームランを打った後の、選手のパフォーマンスなどは、女性や子供のファン獲得に、もってこいだっただろう」

 昔も、ちょっとした選手のパフォーマンスはあるにはあった。

 特に、

「雨天での降雨によって、試合が中断している時。あるいは、試合の中止が決定した時など、ファンサービスとして、選手が、ダイアモンドを全力疾走で回り、最後にはホームベースに滑り込むというパフォーマンスは、当時とすれば、結構な人気だったりしたものである」

 といえる。

 今の時代であれば、

「そんなことしなくとも」

 と思うだろうが、昔の野球では、マスコット人形がいるわけでもないし、トランペットなどの応援歌というものもなかった。

 それこそ、鐘と太鼓を鳴らすことで、応援パフォーマンスにしていたのだ。

 今でこそ、球場によっては、

「ラッキーセブンの時に行う、応援歌を皆で歌って。最後に風船飛ばし」

 などとしているが、

「昔は応援歌を歌うということも、ましてや、風船飛ばしという儀式もなかった」

 せめてあったといえば、応援団が、持ってきた紙テープを近くの席の少年たちに与えて、ラッキーセブンのイベントとして、それを、グランドに投げるという程度であろうか。

 実際には、一部だけなので、風船飛ばしのように派手さもない。そういう意味では、

「風船飛ばしを考えた人は、なかなかの策士だ」

 といえるだろう。

 しかし、今はそれもしないところも出てきているのではないか?

 というのも、実質的なことを考えると、風船飛ばしは、

「効率的ではない」

 といってもいいだろう。

 というのは、風船を飛ばすと、そのほとんどはグラウンドに落下する。それを、球場係員が、たくさんいて、拾うことになるのだが、それは、最近の傾向として、

「試合時間を早める」

 という目的から逆行することになる。

「イニングのインターバルの時間も決まっていて。球場の電光掲示板に、カウントダウンで表示するように義務付けられているくらいではないか?」

 だから、いくらラッキーセブンだけとはいえ、試合時間を悪戯に、伸ばすということは、あまり許されることではないということであった。

 さらに、もう一つは、ここでも、

「世界的なパンデミック」

 ということが影響してきている。

 というのは、世界的に、

「ロックダウン」

 と呼ばれる、

「都市封鎖」

 というものがあったりすることで、野球場において、

「人が口にして息を吹きかけて膨らますものを、満員の席で行うというのは、伝染病蔓延の観点からしていないところも多い」

 だろう。

 しかも、それを拾って片付ける球団職員がいるのだ。

 誰のものとも分からない口をつけて膨らませたものを、手で拾って、捨てるという役である。

「手袋をしていればいいではないか?」

 と言われるかも知れないが、あの膨大な数である。

 それを手で一つ一つ拾うというのは、どれだけの手間がかかるということなのか、

 それを考えると、今までの、数倍も時間が掛かってしまい。さらに、職員や、膨らます観客も危ないと考えると、

「百害あって一利なし」

 といえるのではないだろうか?

 いまだにそれを行っているとすれば、それは、

「時代に逆行している」

 といえるのか、それとも、政府の、

「安全だ」

 という根拠のない言葉に騙されて、下手をすれば、大規模な、パンデミックが起きる可能性を、予見できなかったということで、球団側が、

「糾弾される」

 ということも当然のごとくにあることだろう。

 そんなことを、どこまでできるのかということを考えると、ファンサービスと、球団経営、そこには、

「安全性」

 と、

「野球協会の方針」

 とも絡み合って、球団側も、世間の他の企業と同じように、

「いろいろなファンサービスに対して、考え直さないといけない時期に来ている」

 といってもいいだろう。

 民放で、野球中継がなくなったのは、

「延長しても、9時半までしかしない」

 ということで、野球ファンからすれば、

「なんでそんな中途半端なところでやめるんだ」

 ということになり、今度は、9時からのレギュラー番組で、ドラマなどを楽しみにしていた人が、ビデオなどの録画をしていると、

「30分時間がずれてしまった」

 ということで、ビデオの中には、30分延長機能」

 というものを取り扱っているところがあるが、どうしても、最初の30分、見たくもない野球が入っていることで、本来なら、

「2時間番組」

 なのに、延長したせいで、

「2時間半」

 を拘束されることになる。

 今のように、ディスクには数千時間の録画機能がついていれば、

「30分くらい、どうってことはない」

 のだろうが、一般的な

「120分テープ」

 であれば、

「3倍速で録画しても、一本のビデオで、最高6時間ということになる」

 これは、

「テープによる録画なので、CDやディスクへの録画と違って、一本の中に入ることになる」

 つまりは、

「CDや、ディスクであれば、録画したい時間が残っていれば、その間に録画されるので、意識することはなく、しかも、録画のサイズが、結構ある」

 というものから見れば、

「ビデオというのは、実に原始的な録画装置」

 ということになるのであった。

 それを考えると、

「30分の延長」

 というのが、どれほど圧迫するかということを、実際に使ってみれば、分かるというものであった。

 そんな時代だから、野球ファンからも、ドラマのファンからも、恨まれることになり、どうせならどちらかに決めておけばよかったという風に感じさせることになるのではないだろうか?

 そんな時代を進んでくると、

「テレビを見ない」

 という人以外でも、

「スマホで見る」

 ということで、テレビを置いていない人も多くなった。

 実際にスマホで見るのは、今は、ユーチューブなどの動画サイトが、多いだろうが、少し前であれば、

「有料チャンネル」

 という

「ケーブルテレビ」

 が多かった。

 ケーブルテレビは、

「月額いくら」

 とチャンネルごとであったり、パックになった契約で、見たい番組の数チャンネルを、数千円くらいで見放題というこのであったりする。

 元々は、野球などで、

「試合開始から、ヒーローインタビューまで」

 ということで、ファンであれば、

「有料でもいい」

 という人が増えてきた。

「逆に、有料の方が、こちらが金を払っているのだから」

 という気分にさせてくれる。

「民放は、スポンサーには逆らえない」

 ということで、あんなに中途半端なことになっているのだ。

 だから、放送に決まったルールはない。あくまでも、

「スポンサーの意向以外の何物でもない」

 ということである。

 だから、金を払うのが、視聴者だということになると、今度は、番組制作を視聴者には逆らえないということになる。視聴する会員が減ってしまえば、そのまま売り上げ減となるのだ。番組製作の方も必死である。

 ここから始まって、

「ドラマ専用」

「時代劇専用」

「ニュース専用」

 という、視聴者が好きなジャンルを選べるようにして、放送するのだから、見たい番組をいつでも見れるという形の放送も出てきた。

 それが、

「過去番組の配信」

 というわけだ。

 まるでユーチューブのように、好きな番組を検索して、ダウンロードすることで、いくらでも、何度でも見ることができる。

「月額いくらの見放題」

 というのが、そのシステムである、

 そうなると、スマホでの視聴が主になり、今では、

「パソコンも持たずに、スマホだけで楽しんでいる人もたくさんいる」

 といえる。

「パソコン一台分で、スマホ数台という人もいて、最近では、民放が、ドラマを無料配信という形にしているところも多い。もちろん、月額見放題の契約ということになるのであろうが」

 そんなことを考えていると、

「テレビの時代から、配信の時代へ」

 ということでいろいろ変わってきているが、それが、

「時代の流れ」

 ということで、小説から、マンガに変わってきたというのも、無理もないことであろう。

 活字離れどころか、最近では、本屋すら、姿を消しつつある。それだけ、スマホなどの配信に掛かってきているのだろう。

「配信」

 というものが、今の時代のほとんどすべてに近いように思えてくるから、実に不思議だといえるだろう。

 最近になって、配信テレビで、昔見た探偵小説の番組を思い出し、見てみることにした、その時の小説を見て、つかさは、自分で、また小説を書いてみようと思ったのだった。


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