LOT 02 青い鳥の心-①

 曇りの日が一年の大半を占めるリンドには珍しく、ぼんやりとでも空が青い。特にジャック・エアでは、青空は貴重だ。

 家を出たアイレは深呼吸をしようとして思い直し、仕事服の襟を整えた。

 ほこりっぽい空気には安物の機械油の臭いと腐臭が入りまじっている。どこかで汚水が垂れ流されているのに違いない。朝は特にその臭いがきつく感じる。


 アイレの住む長屋の隣家からも、母親に見送られて子どもたちが出てきた。働きに出る時間なのだ。ジャックの子――ジャック・エア出身の子どもはそう呼ばれる――たちは、学校には通わず近くの工場や港湾施設で働いている。

 アイレはおはようと声をかけたが、彼らはこちらを見もせず早足で出かけていく。

 にこりともできないアイレは、ジャック・エアにおいてさえ周囲の人間から距離を置かれていた。挨拶にも返事がないのはこたえるが、半分諦めてもいる。

 アイレは肩をすくめ、かばんを肩にかけ直して歩きだした。定期的に配達を頼んでくれる客のところへ、荷を受け取りにいくのだ。


 ところが、アイレは数歩もいかないうちに立ち止まった。

 通りを歩く人々が蜘蛛くもの子を散らすように脇に退くなかを、二頭立ての御者台つき馬車が近づいてくる。ジャック・エアにはそぐわない光景だ。

 あっけにとられていると、馬車は砂埃を巻きあげてアイレの前にまった。しかも後方から品のいい老齢の紳士が降りてくる。

 オークションでアイレを案内した、ウォード家の執事だった。


「おはようございます、アイレ様。お迎えに上がりました」

「えっ、なんで」


 アイレが目をぱちくりさせると、執事はなにを勘違いしたのか的外れな返事をした。


「当家は使用人の数を絞っておりまして、さらにアイレ様のお顔を覚えているとなるとわたくしかメイドのニナだけなのです。ニナには部屋を整えさせておりますので、わたくしがうかがった次第です」


 執事はコンラッドだと名乗ると、馬車の扉を開ける。


「そうじゃなくて、なにかお間違えでは? わたしは今日の配達が」

「それは困りました。旦那様からは、なんとしてでもアイレ様をお連れするよう申しつかったのですが」


 申し訳なさそうに目を伏せられると、強気に出るのも気が引ける。……なんて、一瞬でも思ったのが間違いだった。アイレはいつのまにか馬車に押しこまれていた。


 ◇◇◇


 ウォード邸に着くと、アイレは先日と同様に二階へ案内された。

 用件は気になるが逃げ帰るわけにもいかない。二度めの訪問で、少しは心の余裕もある。こうなったら、と開き直りに持ち前の好奇心もプラスして、アイレは執事について歩きながらあちこちを眺める。

 白を基調としたエントランスホールは、天井にぐるりと帯状の金装飾が施されていた。大理石の彫刻が目を引くマントルピースも、ため息が出るほど美しい。

 エントランスホールを出て優美な手すり付きの階段を上がれば、踊り場の三連窓から差しこんだ朝の光でシャンデリアがきらめき、贅沢ぜいたくな気分に満たされる。

 建物自体が芸術品だ。ここ、ほんとうにジャック・エアとおなじリンド市内なの?

 ひとつだけ違和感を覚える点があったが、執事が扉を開けたのに続き、アイレは居間に入った。


「遅い。俺に迎えを出させるとは、神経が鉄製なのかと疑ったぞ」


 バルトルートが豪奢ごうしゃ刺繡ししゅう張りのソファにふんぞり返っていた。

 今朝は一段と不機嫌が煮詰まって焦げついている。向かいには、バルトルートとは対照的にご機嫌そうなジョシュアの姿。


「お約束はしてませんよね? わたしは今日も仕事があるのですが」

「〈ハウス〉の一員として働くと決まれば、こっちへ来るのが筋だろう。承諾してから一週間もたないというのに、もう忘れたのか?」

「そのような筋はあいにく聞かされてません。だいたい、そう簡単に庶民がお貴族様の家を訪問できるものじゃありません」

「まあまあ、バルト。それくらいにしてよー」


 ジョシュアが例のごとく仲裁に入って手招きをすると、自身はバルトルートの隣に移りアイレを向かいに座らせた。


「あらためて、これからよろしくね。アイレ。さっそくだけど〈ハウス〉の活動について説明しておこうと思ってさ。おやつも持ってきたよー」

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