LOT 01 幕開けのパールイヤリング-⑧
所用があるというジョシュアと別れ、アイレはバルトルートとエントランスホールへ降りる。
バルトルートは無言で隣を歩いていたが、表に出ると忌々しそうにつぶやいた。
「ジョシュアもフェリクスも、よけいなことを」
「殿下にわたしの話をされたのは、レドネ様でしょうか?」
「ほかに誰がいる。あの単純さがこれまでも自分の首を絞めてきたというのに、ジョシュアはいつまでたっても懲りない。フェリクスもフェリクスで、なんだあの茶番は……」
「茶番?」
「こっちの話だ。とにかくふたりとも少し考えれば、おまえと一緒にやるのは無理だとわかるはずだが」
ジョシュアの性格はともかく、〈ハウス〉とアイレの相性については同感だ。珍しく意見が一致している。けれど言い返す元気もない。
ウォード家の紋章が入った馬車がふたりの前に
「ひとりで歩きたい気分ですから」
「あれだけ腹に詰めこんだあとなら、徒歩でちょうどよさそうだな」
バルトルートを乗せた馬車はあっけなく遠ざかり、アイレは悪態をつくタイミングを逃してため息をついた。
しかし、リンド中心地とジャック・エアを繫ぐ古びた橋に差しかかったときだった。前方からドスの利いた暴力的な声がした。
「おいなんだその目は。新聞は受け取ってやっただろうが、ああ?」
酔っ払いらしき赤ら顔の男が足をふらつかせ、新聞売りの少年の薄い肩をドンとつく。枯れ枝めいた手足の少年が、橋の中央で尻餅をついた。
「だけど、お代がまだで……っ」
「どうせ三文記事ばかりじゃねぇか。大した記事も出せねぇくせに大きな口を叩くんじゃねぇ。読んでやるだけありがたがれよ」
酔っ払いは薄笑いを浮かべ、売り物である新聞の束を水たまりへばら
油で汚れたズボンからして、男も
「これが彼の商売なんですから、お代はきちんと払ってあげてください」
「嬢ちゃんは関係ないだろ。引っこんでな」
とたん、安物のインクの匂いが鼻をついた。顔面に新聞を投げつけられたと気づいたときには、新聞から滴った水が頰を伝い落ちたあと。
酔っ払いはさらに少年が抱えていた商売道具だろう
仕立てのよさがわかる袖から伸びるすらりとした手が、鞄を受け止めた。
「物には敬意を払え。水に浸けたら、中身まで台無しだろうが」
聞き知った声に顔を上げたアイレは、目を見開いた。
馬車で帰ったはずのバルトルートが男の肩をつかんでいる。男は顔を引きつらせた。
「や、兄さん。これはちぃと足元が滑っただけで、この辺りは道が悪いだろ? ……んじゃそういうわけで」
バルトルートの身なりとその威圧感に分の悪さを察したのか、真っ青な顔で逃げていく。バルトルートは少年を立たせると鞄を渡した。
さらには驚いたことに、銀貨を少年に握らせ水浸しになった新聞を買い取る。すべて買い取ってもおつりがくる額だ。
少年が帰るとバルトルートは放心しているアイレを見て顔をしかめ、上着の裾を払った。
「布製でも水に浸ければ傷む。中身も台無しだろう。おまえもぼんやり見物する暇があったなら対処しろ」
「そんな無茶な」
意外にいい人だと見直しかけたのに、大事なのは人より物? こっちも被害者なのに。
アイレはあっけにとられたが、思い直して頭を下げた。
「でも、あの……ありがとうございました。わたしも助かりました」
「なんだ。セールの日は今にも俺たちに
バルトルートはけげんそうな顔で、新聞についた水をふり落とす。
「それとこれとは別です。助けていただいたんですから、お礼を言うのは当然でしょう」
「そのわりに無表情だが」
「しかたないでしょう。こういう顔なんです」
アイレが目を
「あの、どうしてこちらへ? ご自宅とは方向がまるで違いますよ」
「おまえがこっちに帰ったからだろう」
馬車を停めていた場所まで来ると、バルトルートは有無を言わせない声で指示した。
「おまえに言い忘れたことがあった。後日でもいいかと思ったが、言わないでいるのも気分が悪い。とりあえず乗れ」
助けてもらったあとで拒絶するのははばかられる。アイレは素直に馬車に乗りこんだ。
◇◇◇
馬車がジャック・エアの薄汚れた通りを進む。
しかも向かいのバルトルートは、先ほどから水たまりの被害を免れた新聞を広げてこちらを見ない。用があると言ったのは、そっちなのに。
「あの、お話というのはなんでしょうか」
「それは、だな。それは……」
バルトルートは口を濁すと、また新聞に目を落とす。歯切れが悪い。なんなの。
「……やっぱりあのイヤリング、
バルトルートに驚いた様子はなかった。当事者だから知っていてもふしぎじゃないけれど。それなら、食事の際に教えてくれてもよかったのに。
それにしても前に説明を受けたとおり、贋物に関する取り締まりが厳しいというのは事実らしい。
「贋物の製作も含め事件には複数人の関与が疑われる、ですって。捕まった男と仲間とされる男の人相書までありますよ。こっちは指名手配中みたいですが、〈ハウス〉には影響ないんですか?」
「ない」
バルトルートは硬い声で即答したあとで、驚きを浮かべて新聞から顔を上げた。
「ジャック・エアの人間が、読み書きができるのか?」
意外に思うのも無理はない。工業化により都市部の人口が増大しても、労働者階級における識字率は一世紀前とほぼ変わらず、いまだ二割に満たないのだ。
「簡単な文章なら、亡くなった母が教えてくれましたから。郵便配達ができるのも、そのおかげです」
各地を転々とした経験から、外国語もある程度使える。住所も問題なく読めるため、アイレはなにかと重宝されていた。
特に地方では国の郵便制度が行き届いているとは言いがたく、まだまだアイレら個人の活動の場も多い。
バルトルートは物言いたげにしたが、話が脱線すると思ったのか姿勢を正した。
「〈ハウス〉には、毎日のように出品を希望する作品が持ちこまれる。いくら目利きで読み書きもできるといっても、貴族でもないおまえが作品を適切に扱えるとは思えない。〈ハウス〉の品位を落とす事態になれば、即座に追い出す」
断れない状況に陥ったからしかたなくであって、望んで〈ハウス〉に加わるわけじゃない、と
毎日のように作品が持ちこまれるということは。
これまで目ぼしい情報もなかったけれど、〈ハウス〉にいれば思い出の指輪に巡り合えるかもしれない。
唐突に頭をかすめた考えに、アイレはそわそわし始めた。そう、どうしてその可能性に気づかなかったの。
胸が高鳴りだしたアイレと反対に、バルトルートは硬い顔で新聞を脇に置く。かと思うと、だしぬけに頭を膝につくほど深く下げた。
「だが、偽真珠の売買を阻止したことは感謝する。おかげで〈ハウス〉が贋物をさばくマーケットとして利用されずにすんだ。助かった。それから、おまえを試したことも謝る。……それが言いたかった」
「え、ちょっと、頭を上げてください!」
アイレは慌ててバルトルートの顔を上げさせた。
この人がわたしに頭を下げるなんて、信じられない。
じゃあ、言い出しにくそうだったのは、頭を下げる決心がつかなかったから?
「労働者階級に頭を下げるのは初めてでした?」
「二度も三度もあってみろ。当主失格だ。だがひとつ言っておくと、礼を伝えるのは最初から決めていた。おまえに言われたからじゃない」
助けられれば礼を言うのが当然という、さっきの発言を指すらしい。そんなの、話があると馬車に乗せられたのだから、説明されなくてもわかるのに。
唐突に、おかしさがこみあげてきた。
宝石の弁償や母の指輪を探すためでなければ、〈ハウス〉になんて関わらなかった。彼らとうまくやれそうにないのは少し接しただけでも明らかで、気が重いだけ。ただの厄介事。そう思っていたけれど。
ひょっとすると、厄介事以外の側面も見つけられるかもしれない。今はまだ判然としないけれど、歓迎できるような新しいなにか。
だったら、とアイレは息を深く吸う。
「わたしはわたしにできることをするだけですし、鑑定の件はもういいです。それより、これからよろしくお願いします。ウォード卿」
真正面からバルトルートの目を見返す。
きっと。
彼らの元に飛びこんでみる価値はある。
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