ep.5-1・街に行こう

「さあ、ディート! 街へ市場調査に参りますわよ!」


 ドンドンドンッ、とディートヴェルデの私室の扉を叩き、セレスティナはそう声を張り上げた。 


 だが彼の部屋から一切返事がない。まだ寝ているのだろうか?それにしては部屋の中に人の気配が無い気がする。


「ディート、わたくしの声が聞こえませんの?」

 半ば苛立ったように眉をひそめるセレスティナを見て、「お嬢様」とクロエが窘めるように声をかける。

「もしかしたら既に起床されているのかも……」

「いいえ、まだこの時間は寝ているはず……朝食の席につくのだっていつも遅いでしょう?」

 そう言ってセレスティナは扉を叩くが、返事は一向に帰ってこない。


「ディート……?」

 あまりに返事が無いので、セレスティナの声も萎れてくる。じわりと涙が滲んでくるのを感じて、セレスティナははしたないと思いつつ、袖で軽く拭った。


 どうやら彼に泣くところを見られてからというもの、気が抜けているらしい。


「……」

 きゅっと唇を引き結び、未練がましくディートヴェルデの部屋の扉に手をかける。

 いっそのこと、このまま開けて踏み入ってしまおうか。そんなことを考えていると……。


「ん……そこで何してるんだ、ティナ?」

 待ち望んでいた声に、セレスティナはハッと顔を上げる。


 見れば、廊下の向こうからディートヴェルデが歩いてくるところだった。寝間着とは違うだろうが、シャツとズボンだけというシンプルな出で立ちで、髪がしっとりと濡れている。湯浴ゆあみをしていたのかもしれない。


「いったい何処に行かれてましたの?」

 つい言葉がきつく聞こえてしまうのはセレスティナの欠点だ。まるで詰問しているかのような剣幕に、周囲はいつも怯えたり嫌煙したり……そんな態度を取っていた。


 だがディートヴェルデは鷹揚おうようとした態度を崩さず、のほほんと笑う。

「温室だ。今日は出かけるぶん世話ができなくなるから、先に植物の世話の方を片付けてたんだ」

「それならそうと、わたくしにも一言仰ってくだされば良いのに」

「あー……それは悪かった。今度からはディルに伝言を頼んでおくよ」

 ディートヴェルデはバツが悪そうに頭を掻く。


 それからセレスティナの格好にさっと視線を走らせ、少し瞠目した。

「準備が早いな」

「当たり前でしょう。朝市から拝見するつもりでしたもの」


 腰に手を当て自慢げに胸を張るセレスティナは、既に外出の準備を終えている。


 今日の格好はさながら町娘風といったところか。

 貴族ではありえない足首が見える丈のスカートにエプロンを重ね、シンプルな無地のシャツ、スタイルの良さを引き立たせるコルセット、上着としてフード付きのケープを羽織るつもりのようだ。


 別に無くは無い格好だが……、とディートヴェルデは首を傾げる。



 どうもコスプレ感が否めない。


 そもそもこんなに真っ新なエプロンをしている町娘なんてそうそう居ない。何かしら汚れて、洗濯をして、それでも落としきれないシミなんかが付いているものだ。


 それに真っ白なシャツにも違和感がある。平民にとっての“白”は生成りの——綿や麻の色がそのまま残る色合いだ。漂白した布地は高価ゆえ農民クラスの家庭ではもっぱら一張羅として扱われる。普段着にそれを着るのはよほど金銭的に余裕のある家庭か貴族くらいのものだ。


 ケープの布地だって綿花でつくられたベッチンかと思いきや羊毛から織られたベルベット生地なのである。


 どう見ても『やんごとなき令嬢が町娘を真似た格好をしている』ようにしか見えない。



「うん、やりなおし」

「えっ……!?」


 ひとまずセレスティナの出で立ちを上から下まで観察して、ディートヴェルデはきっぱりとそう言い放った。

 まさか不合格が出るとは思っていなかったセレスティナは驚きに目を丸くする。


「なっ……わたくしの完璧な変装が不合格ですって!?」


「完璧どころかめちゃくちゃ不自然だぞ。皇都ならまだしも、辺境伯領の何処にそんな小綺麗な格好をした町娘が居るんだ……。それに今日は領地視察も兼ねてるんだろ? だから普通の格好した方が良いと思うんだが……」

「む……貴方がそうおっしゃるのでしたら……」


「俺も準備するから、着替えてきてくれ」

「……分かりました。行きますわよ、クロエ」

「はい、お嬢様」

 とぼとぼという効果音がぴったりな様子で廊下を歩き去るセレスティナ。


 そのしょげかえった背中を見送るうちに少しだけ罪悪感が湧いて、ついディートヴェルデは言葉を投げかけていた。


「でもそういう格好も可愛いと思う。今度、街の服屋も見に行こう」


 弾かれたようにセレスティナが振り向くよりも前に、ディートヴェルデは私室の扉を閉めていた。


 扉を背にずるずると座り込み、両手で顔を覆う。

 さすがに今のは少しキザったらしかっただろうか。

 自分で言ったことなのに今さら恥ずかしくなってきた。


 しかしいつまでも悶絶しているわけにもいかない。


 セレスティナはすぐにでも支度を終えて、ここに突撃してくるだろう。

 そこでディートヴェルデの用意が終わってないなんてことになれば、今度こそ大爆発しかねない。


 よろよろと立ち上がり、なんとかクローゼットまで辿り着く。

 適当に——とはいえ、セレスティナに釣り合うよう普段着の中でも余所行きの衣服を身につけ、最後に髪を軽く整えて私室を出た。



 セレスティナは既に玄関前で待ちかまえていた。もちろん後ろには使用人のクロエが控えている。セレスティナのドレスや髪は、いつもの令嬢らしい姿に整えられていて、いつでも出発できる状態だ。

「お待たせ」

「……遅くってよ」

 セレスティナは不満に唇を尖らせる。


「申し訳ない。……それで、今日はどこに行きたいんだ?」

「そうですわね……朝市に向かうには遅くなってしまいましたし、まずはラ・メール商会の支店に向かうのはいかがかしら。仕事は早めに終わらせてしまいましょう」

「そうだな。ついでに俺の用事も済ませていいか?」

「良くってよ。事務的なことが終わったら街を散策したいですわ」

「そうだな。昼食もそこで摂ろう」

「良いですわね。早速参りましょう」

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