「季節の中にいるということ」の解説②

*以下の解説は同作品内の第一エピソード「季節の中にいること」にて投稿した俳句の解説になります。作品オンリーで味わいたい人はご注意ください。


三句目。「苗代に遠くを見つめ立つ人の」です。この句では、田んぼで田植えをしている人が、ふと遠くを眺めはじめた、その瞬間を切り取って俳句にしました。中でも工夫したのは、一番最後の「の」です。「の」は通常このように俳句の末尾には使わないのですが、あえて使ってみました。するとどうでしょう、この苗代に立っている人が何を見てどんなことを考えているのかということに思いを馳せたくなるという効果が生まれたように感じます。皆さんはこの「の」についてどう思いますでしょうか。


四句目。「山覚める生命流の滾るごと」です。正直、この句は駄作なので解説したくありません。できれば忘れて水に流したいと思います。今後も駄作は解説しない方向でいこうと思います。


五句目。「鉄梁の裏くぼみにも春在らし」です。まず皆さんに説明しないといけないのは、初めの「鉄梁」という言葉についてなのですが、これは実は私の造語です。その意味は、例えば鉄橋などを下から見ると、鉄製の大きな梁とでも言いましょうか、なんかそれっぽいものがあるんです。それです。その「鉄梁」はカタカナのエの字が柱になったようなそんな形を想像しているのですが、その裏やくぼみの部分にも春があったという発見の句です。ここで「春」というのは、何を想像されてもいいです。例えば、鉄梁も春の空気感に包まれる様子でも良いし、鳥がそこで巣を作るとか、植物が何故か知らないけどそこに生えてるみたいな様子でも構いません。そういう春の包容力に鉄梁の無機質さを浄化させた句というわけです。

さて、話は変わりますが、「在らし」が文法的に間違っているのではないかと気掛かりになる人もいると思います。しかしご安心ください、これは文法的に正しいです。実はこれは、「在るらし」という言葉がつづまった表現でして、特に問題はないんですね〜。

以上、「鉄梁の裏くぼみにも春在らし」でした。


六句目。「草の芽の中押されをり乳母車」です。ごめんなさい、推敲不足の駄作でして、これは水に流したいと思います。


(このペースで終わるのか不安ですが、ぼちぼち進めていこうと思います。)

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