【第三章:この宇宙で、最も重要な結論③】

 よく考えてみれば、おかしな話だ。



 人を殺したのに身を追われないなど、おかしいだろう。



 瑛摩から は高校生のとき、人を殺した。



 日本の警察がその犯人を追わないはずがない。だから、これは来るべくして来た時間だ。必然だ。



 瑛摩から の身に何が起こるのだろう。彼女の名前は既に、ニュースで報道されていた。大学にだって連絡が行くだろう。いるかは分からない親族にだって、それが知らされるだろう。



 いや、分からない。もしかして全員知っていたのか? 知っていたうえで彼女は守られていたのか?



 だっておかしいじゃないか。人を殺したのに、何の波風も立たずに生きていたなんて。



 罪と罰は一つの対ではなかったのか?



 彼女は許されているのか?



 それは何によって?



 から の家の扉の前に立つ。インターホンを鳴らす。



 どうして僕がここに来たのか分からない。だけど、彼女を一人には出来ない。



 ドアが不用心に開く。



「昨日ぶり」



 から の挨拶に返答する余裕もなく、僕は潜り込むようにして玄関に上がった。から は身を避けつつ、僕の入室を促した。



 から は、いつも通りだった。



「今何が起こっているか分かってる?」



「君の言う通り、警察が来るんだろうね。犯罪者である私を、捕まえるために」



 ひどく落ち着いた彼女の表情に、僕は頭に血が上ってきた。今一度、から の表情を見つめる。



 笑ってはいなかった。だけど、悲しそうでもなく、寂しそうでもなく、僕と違って怒ってもない。



「手の届かないものに、名前をつけたんだね」



「……そうだ」



 僕は今さら隠しておく必要もないと思って、打ち明けた。



 だけど、何が何だか分からない。僕が星のひとつに名前をつけたからってなんだ。それが から と何の関わりがあるんだ。



「今君が思っていることは口にしない方が良い。言葉は災いのもとだからね」



 書斎の中、彼女はすたすたと自分の椅子に戻って、読書を再開した。



「私たちは、自分が思っているよりもずっと大きなものに支配されている。支配したと思っているものにこそ、されていることだってある」



「そうだね」



「君がそれを意識してしまえばしてしまうほど、君はそれに意識させられているんだ。無情だね」



 今回の から の説法は、いつにもまして曖昧だった。



 いつ警察がやってくるか分からない。今かもしれない、一秒後かもしれない。



 それでも から は椅子の上から動かない。僕に視線もくれない。



「ほら、君も読みなよ。本を読みに来たんだろう?」



 机の上には、たくさんの缶が置かれていた。どれもカフェイン飲料の缶だった。



「それ、いつ飲んだの?」



「一日一本ずつ、ね」



「体壊さないんだ」



「そうだなぁ……まあ、そうだね」



 思ってみれば、不思議なことだった。



 あの から が頼っているもの。



 どんな人間にも頼らず、身を寄せなかった彼女が、唯一寄りかかるものだったかもしれない。



「から は、もしカフェインが無かったらどうする?」



 彼女の返答はなかった。



「飲んでいないと、嫌だ?」



「……どちらかな」



 そう。それは、瑛摩から という人間に見られる唯一の人間らしさ。



 不完全さだった。



「から、一緒に逃げよう」



「どうして?」



「から が人間らしく生きるためだ」



 読書を進める手が止まった。



「出来るだけたくさん、生きていくべきだ」



「私が人間らしく生きていないと、君は言いたいんだね?」



「……そうだ」



 視線はページに添えられたまま。



「から が今の から らしく生きていくためには、それが必要なんでしょ」



「カフェインのこと?」



「そう」



「……今さらだね。私はずっとそうしてきただろう」



「だから、僕はそうでなくあってほしい」



「どうして?」



 から は、僕を見ている。



 僕には、これより先に遡れる論理がない。そこには何の公準もない。



 この想いの先にあるのは、果てのない洞、実体のないもの、「空」だ。



 だからこそ言える。今の僕が何を思っているかを。



「僕は、君でいる君じゃなくて、君である君が好きだからだ」



 瑛摩から の瞳孔が開いていく。



 その瞬間、時間が巻き戻ったみたいだった。から の表情は、ありありと彩られた驚きに満ち溢れていた。どんな不可思議を発見したときより、どんな未知に遭遇したときよりも鮮やかな表情。



 幾億の時が流れても、彼女の表情の豊かさは際限なく彩られていく。



「私は」



 から のその一言で、時間の発散は止まった。僕と彼女の間に、あるべきものが戻ってきたのだ。



 彼女は勢いよく椅子から飛び上がり、適当な荷物をかき集めて、僕の手を取った。



「どうしたの?」



 答えない。彼女は無言で、真剣な表情で僕の手を握り、窓際に走り出す。



 そして、ベランダのフェンスを飛び越えた。



 僕の体はふわりと浮いて、彼女の尾のようになって宙を舞った。



 着地してまた、から は走り出す。



「明日へ行こう!」



 彼女は叫んだ。



 やっぱり彼女といると、不思議な気持ちになる。



 僕が正しいのか間違っているのかなんて分からない。理性なんてどこにもないのだ。



 ただ、彼女がいると不思議なのだ。それだけで構わない。



 僕と彼女を繋ぐ呪いは、今永遠になった。



 この時間がいつまで続くかは分からない。でも、瑛摩から が人間でいられる間を出来るだけ長く、僕は一緒にいたいと思うのだ。



 それに気づかせてくれたのは、紛れもない彼女自身なのだから。



 こんな一瞬のために、僕たちは呪われてしまう。



 人間がずっと昔に生み出した、立派な呪いである。

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