【第一章:ノブレス・オブリージュ㉔】

「日が暮れたよ」



 彼女は僕が一向に作業進行を実現しないことに対して、怒りも悲しみもしない。ただそこで、僕を待ち続けているだけ。



 彼女の言う「日が暮れたよ」とは、催促ではない。彼女がベランダから感じる夕陽の沈みを、ただ説明しただけである。それ以上の意味を彼女は発しない。



「作業が進まないなら、気分転換に散歩でもいかが?」



「こんな時間に?」



「夜の散歩も悪くない。少しそこまで、どうかな」



 ただまあ、やっぱり作業を進められる気はしない。散歩に行って、多少精神が回復するのを待つしかないかもしれない。



 僕は彼女の提案に乗った。部屋の二人は淡々と家を出た。









 夜とはいえ、夏の夜は暑い。



 この辺りは住宅街になっているものの、車通りが少なくて暗い。



 ただ、空の星が見えるほど暗くはない。



「静かだね」



 散歩が始まった数分、はじめての会話。



「脳は休まってる気がする」



「無理してる?」



「から の頼みだからね。無理をしてでもがんばりたいと思えるんだ」



「それにどのように返せばいいのか、私には分からない。とにかく私が言えることは、君が努力している姿を見ているのが好きだということ」



 なんだか遠回しに褒められて、回復してきた脳が少し活発になった。



「それに、から の努力に比べれば」



「その評価は正しい?」



 横から彼女が顔を覗き込む。



「安易に謙遜するのは、お互いの名誉に傷がつく」



「でも、あの文章を書いているのは から でしょ? 読む側と書く側、どっちが大変かと言えば書く側だ」


「しかし君は前提知識がないままであの文章を読んでいる。それはとても大変なことだよ」



「じゃあ、どっちも大変だということで」



 前から、珍しく光が当てられる。車のヘッドライトだ。住宅街なのだから、車のひとつくらい通るのは当たり前だ。



 その光は道路を順に照らしていって、僕たちの隣を照らしてくれた。そのとき、僕の姿と、少し離れた彼女の姿を照らすはずなのだ。



 彼女は僕の隣にいなかった。



 さっきまで肩を並べていたはずの彼女の影は、ヘッドライトに照らされてようやく移動を確認できた。まるで石が転がるように、影は加速度を持って走り出した。



「駄目だ!」



 僕は咄嗟に手を伸ばす。幸運にも、彼女はまだ手の届く限界のうちにいた。関節の凹凸が手触りでもわかるくらい華奢な肩を右手で掴み、半ば放り投げるようにして歩道に引き寄せた。



 車は凄まじい摩擦音とともに僕たちの真横を通過し、少しして止まった。暗くて分からないけど、車窓から首が出て、注意を旨とする怒号が聞こえてきた。



「すいません」



 座り込む彼女に代わって、それなりに誠実な謝罪をする。車はまた走り出し、静かで、暗黒の世界が戻ってきた。



「ごめんなさい」



 彼女の言葉はとても小さくて、だけどそれは夏の夜を引き裂くほどに冷たかった。



 座り込んだままの彼女を見下ろすのが申し訳なくて、僕も一緒にしゃがんだ。狭い歩道は、ちょうど二人分の幅だった。



 彼女の言葉に返事はしなかった。けど、これ以上の弁明を求めているというわけでもない。



 ただ、この時間が過ぎ去っていくのを待っているだけだ。



 このまま夜が明けてしまってっも構わない。僕はただ、それまでに彼女の涙が乾くこと、それだけを願った。



 あそこで、星が輝いている。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る