【第一章:ノブレス・オブリージュ㉒】

「なるほど」



 大学の講義を休んでまですることといったら、睡眠か彼女の論文の精査である。



 なぜ僕が彼女の論文を精査しているのか、甚だ疑問である。僕は物理学専攻ではないし、彼女と双肩をなす天才というわけでもない。彼女の書いた文章を読んだところで、全体の数パーセントも頭に入ってこない。近似すれば零みたいなものだ。



 しかし、彼女はそれでも僕に託した。おかしいと思ったら教えてほしい、と。



 コンクールは今年の冬。それまでに、彼女の論文は完成する予定だ。



 タイトルは「星系意思研究の見直しと理論の再構築について」。このタイトルはあの日、あの帰り道で渡されたものからずっと変わっていない。彼女の目的は、一貫して変化していない。



 彼女はこの主題に、一生を賭けるつもりでいるらしい。



「星系意思の研究は、当事者間で議論の混乱を招いている」



 そう彼女は言う。



「というと?」



「例えば、検閲官的仮説。つまりこれは、神様が宇宙の法則を適当に操作しているというような主張だ。これをオカルトだと評価する研究者もいる。だがそれは違う。むしろこれは、科学が神を取り込む機会なのだ。私たちは星系意思という科学を通して、それを認識したことになる。これは大きな進展だ」



「でも、神様なんているの?」



「かつて聖書や神話で謳われた、都合のいい形の神がいるかは分からない。それでも、この宇宙の外に超越的存在がいることは、今まで誰も示せなかった。そこに一歩近づける、重要なチャンスでもある」


「じゃあ、こっちの総体説は?」



「これは宇宙を大きな個体として見て、星や銀河を細胞や器官としてみなす考え方だ。ここでは物理法則を化学反応のようにみなす。器官によって起こっている反応が異なるのは自然だ」



「でも、どっちか分かってないんだ」



「私の目的は、これを実証する方法を提示することだ。それがまだ、私には分からない」



 彼女が分からない、というのは珍しい。そんなことを口にするのは、唯一英語の時間くらいだ。



「どうしてか、外国語だけはよく分からない。使う言葉が違うというのは、あんなにも難しいものなのだな」



 でも、分からないことに立ち向かう彼女は楽しそうだ。



「星に名前をつけるのはよくない。これは、まるで分子が個体を命名するようなものだ。これはやはり、法則に反している」



「でもさ、量子力学みたいな小さい世界では法則に一貫性がなくなることがあるんでしょ? それと同じことが、宇宙と人間っていうスケールでも起きてるのかもしれない」



「その可能性もある。ただし、量子力学と古典力学……いや、量子力学と相対性理論、といった方がいい。この二つは現時点では相容れないが、今でも一貫して説明する総合理論があるのではないかと仮説が立てられている。やはり、法則とは変化があっても一貫している。少なくとも私はそう信じている」



 彼女は空になったコーヒー缶を手で回しながら、僕の読んだぶんを後から追っている。



 こういう生活も悪くはない。僕は、彼女の支えになれていると思えるからだ。



「さて、そろそろ」



 彼女はコーヒー缶を置いて、続いて資料も手放した。僕がこの作業の律速段階であることが露わになった。



「大変?」



「もちろん大変だよ。何度も言ってるけど、僕は専門家でもなんでもないんだから、全体の一部さえ理解できてない」



「それが大事。素人でも気づける欠陥を見つけるのが目的だから」



 言い方、と返すと彼女は笑った。



 それから彼女は、突然ベランダに出た。目の前は道路で、そしてそれを挟んで大学だ。



 夏の季節、日陰のベランダでもそれなりに暑いはずだ。



 そこに立つ彼女の姿は窓枠に型を取られて、まるで一枚の絵画のように見えた。だけどもしも僕が画家だったとしたら、それを絵に描くことはないと思う。それはなんだか罰当たりな気がする。彼女を一つの静止に押し込むことは罪深いと思うから……僕は写真家ではないけど、スマホを手に取って彼女の写真を撮ることもない。



 感動は刹那的でいいのである。



「ほら、作業」



 と、ベランダの向こうの彼女が言った気がした。頭痛は再開。



 やっぱり集中できない。僕は視線だけ落としながら、全く違うことを考えていた。僕の家族のことだ。



 そうか、僕の家族の話は、まだ彼女以外にはしていなかった。



 そこまで、話は広がらない。

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