【第一章:ノブレス・オブリージュ⑰】
「あ、ジョロウグモ」
エレベーターから降りた彼女は、照明の麓で巣作りを始めた一匹を指差した。
「探さなくても見つかるよ、クモくらい」
「不思議な場所だね」
それから短い廊下を渡る。前までは隙間風が吹いていたのを、ようやく新調した新しい扉が目印。ここだけ浮き立つように鮮明な赤色だ。
鍵を挿して、ドアノブに手をかける。
「お邪魔します」
丁寧な挨拶と共に、彼女は僕の後ろに続く。それほど広い部屋ではないけれど、居心地は良い。
「ペットボトル」
「それは昨日のゴミ」
部屋の節々を見回したあと、彼女はちょこんと床に座った。僕は作業机に向かい、パソコンの電源をつけた。
「テレビのリモコン、そこにあるから」
「見ていい?」
「もちろん」
彼女はテレビをつけて、適当な番組を選びはじめた。
一方で僕にそんな余裕はない。困ったことに、ここ数日課題を放置していた。遊びに行くなら平日、と思っていたのだが、課題が溜まっていくという当たり前の事実を失念していた。
じゃあどうして同じ境遇の彼女は課題を終えているのか。それは彼女が優秀であるという他に理由はない。悔しいが。
「課題なんて、手を動かせば終わるものだよ」
「極論すぎ」
「だけど妥当だよ。君が課題を終わらせられていないのは、手を動かしていないから」
「嘘だね、手を動かしたけど分からなくて放置しているものもある」
「それは君が相応に無能なだけ。手を動かしながら成長していくのをオススメするよ」
「な……」
返す言葉を失った。ぐうの音も出ない。
彼女はその薄氷のような瞳を液晶に向け、感情もなさげに番組を鑑賞している。何か退屈を凌げるものがないだろうかと考えてみても、この部屋には特に何もない。
「あ、本」
「そこにある本? 読んでもいい?」
「趣味に合うものがあるかは分からないけど」
好きな作家の伝奇小説、少年漫画、あとは図鑑と学術書。
彼女は中から、昆虫の図鑑を取り出した。
「すごく古い」
「それは小学一年生の頃、昆虫ショップで買ったやつ。小学生の頃はずっと使ってたよ。情報がそんなに新しくないから、今では実用的じゃないかもだけど」
「でも面白い。年季が入っているものというのは、それだけで」
彼女はまた同じ位置に戻って、ちょこんと座った。
僕は改めて、課題と向き合う。
「宇宙理論か」
「宇宙理論ね」
彼女はオウム返しのようにして反応した。
「どんなことをやるの?」
「まだ見てないから分からないけど。宇宙物理学、とか」
「シミュレーションでしょ? なんだ」
「なんだ、じゃないよ。シミュレーションだって立派な科学だ。手元にないものを再現するっていうのは、それだけでもすごいことだよ。それに から だって数学科でしょ? 形のないものを扱うものは原義的にはシミュレーション、だよ」
「私はシミュレーションが嫌いなわけじゃない。君の意見はほぼ正論だと思う」
彼女はページをぺら、とめくる。
「ただ君が言っていた、手元にないもの、というところだ。手元にないだけで実際にはあるんだ。再現はどう再現しても模造の域を抜け出せない。本物が持つ質感は本物にしかない。そこには美学がある。数学の本質は数学だ。だから、形のないものを扱うのは理に適ってる。でもね、形のあるものを形のない姿に変えてしまうことは、人間の都合だよ」
「都合でもいいよ」
「そう、これは良し悪しの問題だ。だから答えはない。私は何があったとしても、晴天に浮かぶ太陽をこの脳に仕舞っておこうとは思わないよ」
独特のメタファーで僕の意見を一蹴するのは片手間。彼女は図鑑の内容に夢中だった。
「それに比べれば標本はいいものだ。実物を手にしているわけだから」
「見る?」
僕はワゴンに仕舞っておいた標本たちを、机の上に並べた。
「おお」
彼女はここ最近で一番目を輝かせながら、一匹一匹を水平に覗き込むようにして観察している。
「自分で採ったものだけじゃないけどね。いくつかは自力で」
「素晴らしい趣味だね」
褒められたり貶されたり、彼女の言葉を受け止めると精神が忙しない。
だけど、それがいい。
「あ、水」
僕は飲み物がないことに気が付いた。少なくとも僕のぶんと彼女のぶんは必要になるだろう。
「ごめん、ちょっと買い物に行ってくる」
「私も行こう」
「いいよ、家で待ってて」
「レディーを一人残していくつもりかな?」
「鍵はかけていくから大丈夫だよ」
「監禁」
「違う違う!」
内側から開けれるでしょ、と言うと、
「じゃあ私が家を開け放って君についていく選択肢があるということ?」
「まあ、から がどうしても来るというならそれを拒む手段はない」
「その通り」
「本当に、買い出しに行くだけだよ」
支度は手早く済ませ、いくらかの食糧調達へと出向く。
時刻は昼の一時。昼食としても、程よい頃合いだろう。
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