【第一章:ノブレス・オブリージュ⑯】

「ここがもし海の岬だったら」



 そう彼女は言った。



「もっと綺麗な景色が見えるだろうね」



 橋の上から聞こえる走行音が、彼女の声を朧なものにしてしまう。だけど、その綺麗に鳴る声は確かに聞こえる。



「仕方ない。そんなにロマンチックな場所は、もっと遠くまでいかないとないだろうさ」



 東京の港では、雑音にまみれた風景が精いっぱいだ。



 海風で髪がなびく。そんな彼女の姿は、ある日突然脚を手に入れた人魚の伝説のようで、どこか海を懐かしく眺めているようにも見えた。だけど、そんなはずはない。彼女は人魚じゃなくて、れっきとした人間なのだから。



「私は遠くを見るのが好きなんだ。自分の足では到底届かない場所でも、確かにそこにあるんだと分かるから」



「水平線とか?」



「そう。あの海の果ては見えないけれど、きっとそこには何かがあるんだ。そこにあってくれること、それが希望だ」



 彼女はにこりと笑った。



「君はどう思う? あの水平線の彼方へ向かいたいとは思わないか?」



「そうだなあ。丸太を繋げてボートを組めば、もう少し近づけるんじゃない?」



 強い風の音、コンクリートと車輪の摩擦音に掻き消されないくらい大きな声で答えた。



「君がそんなに度胸のある男だとは思っていなかった。だけど、真に受けてしまうよ?」



「いくらでも付き合うよ。だって」



 そこで、時が止まった。僕はこの次に、何を言おうとしていたんだっけ。



 少しずつ日は沈み、とうとう空は黒色が強くなってきた。そこには水平線があるくらい当たり前に、星が輝いていた。



 そこまできてようやく僕は、そろそろ遅い時間だ、と気づいた。



「今日はロマンスをありがとう。日も暮れたし、そろそろ電車に乗ろう。そこに帰る場所がある限りは」



「途中まで一緒だね」



「そうだね。私たちの哲学は、もう少しだけ続行するみたいだ」














 彼女はスマホを持っていなかった。



 だから、彼女も家に帰れたかどうかを確認する術は無かった。



 南流山で別々に別れてから、彼女は別の場所へと向かった。



「さて」



 風呂から出て、明日の準備を始める。



 そうか、季節はもうすぐ体育祭か。

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