【むかしばなし?】
ちょっとここらで一息。
そう、それはとてもとても昔のこと。
私の兄の存在を、ついこの前まで忘れてしまいそうだった。それくらい、昔の話。
私の背丈は、あの日に庭に植わっていただけの柊よりもずっと小さかった。
そして兄は、その柊とちょうど同じくらいだった。
私の感銘は、彼にこそあった。
そこにあったのは兄という存在であった。外殻、と言ったほうがいいのかもしれない。私の安心は常に兄の在りかだった。
彼は必要以上を口にしなかった。必要以上というのは蛇足ということであり、非効率的であることだった。しかし彼は排他的であるわけではなくむしろ能動的で、人間的であるよりもずっと人間的であった。
無駄を愛するが故に無駄のない、非凡な長男だった。
そうだ。だから彼が私を愛していたことがどちらに属していたかは分からない。兄である故に妹を愛した彼。または、妹を愛した故に兄である彼。
妹とは彼にとって、愛するに値する無駄だったのであろうか。
でも、どちらにしても彼は素敵だ。むしろ、それが無駄であったほうがロマンチックだろう。
彼は体裁を愛したのだ。自分自身が兄であるということを。
「危ないよ、から」
きっとそうであるに違いない。
彼の言葉はいつも優しかった。
私が柊の葉に触ろうとするとき、いつも止めた。
「少しだけだよ、少し」
「でも危ないからだめだよ。ほら、もう少しで家だ。早く帰ろう」
そうか。あの頃は、兄が私を迎えに来てくれていたのか。
高校から早めに下校すれば、学童の迎えは間に合っていた。だから部活にも入らず、毎日私を迎えに来た。
「今日は天気も良かったね」
兄でいようとしてくれていた彼に比べて、私はいつだって妹だった。
私が妹でいようとする必要性はない。彼が兄である時点で、私はどんなときも妹だ。
「ほら、またちゃんと前を見てない。車が来ていると危ないから」
危ない、危ない、と。彼は常に車道の側を歩いた。
一日につき、たった十分の帰り道。
その時間、交わした会話は少なかったかもしれない。だけど、私にとってこの二人で繋がれた空間は愛おしくて、もしこの二人の距離を縮める媒介変数がそこにあったのなら、その値をもっともっと小さくしていきたい。
そうすれば兄と妹は分かり合える。彼が本当に兄になれるまで。
でも、もう一つ方法がある。それは、私が妹でいようとすることだ。
彼の兄としての責任感から解き放つためには、私がいつだって彼の妹でいればいいのだ。
そうすれば彼は、私が妹である時点で兄になる。
彼が兄でいる限り、私が妹であったように。
「わたし、もっとがんばるから」
「そんな必要はない。僕は から より先に生まれた。だから僕が先にがんばるんだ」
その理屈は綺麗だった。そうだ、私よりも先に生まれた性質を、私が変えてしまうのはよくない。そのことは当時でも理解できた。
でも、こうも思うのだ。
先に生まれていたのはあくまで彼自身の性質であって、兄としての性質が生まれたのは、私が妹ととして生まれたときと同時だ。
だから、私が妹であることと、彼が兄であること。これは全く平等といってもいいのではないか。
危ないところだった。今日もまた、彼の優しい詭弁に騙されるところだった。
明日はもっと頑張ろう。今度は私が、妹としての体裁を守る番だ。
だから
そう、あるカルテ曰く。
一度起こってしまった物事に対しては、なんとなく再現を望む。
それはアリストテレスが、感動の根源に再現を見出したように。
ああ、悲しき王子様。彼が妹を見出すより先に、彼は死んでしまったのです。
彼は妹を見出すどころか、もしかしたら、自分自身を見つけることすら出来なかったかもしれないのです。
そのことの、なんと儚いことか。
彼が父親の死を覚えていたことが不運だった。親が子を真似るのは当然だけれど、死の再現は生命として欠陥であるはずだ。
それが、どこへ行ってしまったのだ。いつから人間は、生命を欠如してしまったのだろう。
ということは。
私が彼の真似をすることもまた、当然の結論でしょう?
その欲望の限界のとき、私は一体何をしているんでしょう。
ね。
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