【第一章:ノブレス・オブリージュ⑭】

 彼女はゆっくりと、テニスコートからベンチに戻ってきた。



「いいサーブ」



「ありがとう。昔の記憶かな」



 彼女は幼少期からテニスを続けていた。特に大会に出ていた、というような話はしていなかったけど、彼女の腕前は素人では遠く及ばないものだ。話してないだけで、実はすごい実力の持ち主なのかもしれない。



 どこまでの才媛なんだ、彼女は。



「素晴らしい才能だ、と思う?」



 彼女は無表情で問うた。



 ちょっとまずかったかな、と思いながら答える。



「それも努力の賜物なら、そうだと思う」



「……どっちもどっち、だな」



 結局、彼女は残念そうな顔をした。やっぱり、彼女は難しい。



 それから、僕にサーブの番は二回、回ってきた。一回はサーブに成功したのだけれど、ラリーが続かなかった。



 彼女には三回、回ってきた。三回とも当然の勝利である。



 その結果に文句はない。なんら文句のつけようもない。ただ、僅かに悔しいと思う。僅かに、しか思えていないのも悔しい。



 だけどそんなことは、些細なことだ。コートに散らばったボールを片付けている頃には、僕の中でほんの僅かに燃えていた種火は、すっかり熱を失ってしまっていた。これでもいいのではないか。



 さらに授業終わりの挨拶の頃には、この一時間と三十分、僕がテニスをしていたなんていう事実は無いに等しい過去になっていく。それから僕は、彼女との帰路を創る。










 テニス場の側の駐輪場。僕は自転車の鍵を差し込み、回した。



「歩き?」



「そう」



 大きく息を吐く。



「僕も押して帰ろう」



「気を使わなくてもかまわないよ。一人で帰路につく楽しみもあるものだ」



「僕は一人でいると、頭が疲れる」



「僕は嫌い」



「私も嫌いだ」



 だけど、と彼女は添加する。



「嫌いなことをしない道理はない」



「え?」



 彼女はそこで、僕の調子も見ずに一歩踏み出した。僕は自転車の前輪を置き場から引き出して、彼女の後ろを足早に追った。



「嫌いなことをしない道理は、我々の中にはない」



「たしかに、何かメリットがあるなら嫌なことでもやるけど」



「そういう意味じゃない。道理はない。でも、直感はある」



 直感はある。



 嫌なことはしない、それは僕たちの中に自然とあった直感だ。これはあくまで感覚に過ぎない。



 なぜ僕たちが、嫌なことをしないのか。そこに理由……つまり、道理はない。



 でも、道理がなくても直感があれば人は動く。それは、殆どの人が「嫌なことをしない」という一般論を忠実に固持していることから明確だ。



 つまり、彼女はそういうことなのだ。



「直感は、嫌い?」



「そんなことはない。むしろ直感は、人間が根本的に持つ前提だ。だから、私たちの中で優位なものは、道理なんかではなく直感なんだよ。しかし、私たちは常に優位なものを表現しているわけではない」



「表現っていうのは、表に現れる、っていうこと?」



「そう。全ての人間が全ての物事を直感に委ねているわけではない。それは様々であって、故に多様性だ。ああ、素晴らしい言葉だな。多様性は」



 夕陽の影は伸びる。もう少し伸びてしまえば、もう引き千切れてしまうのではないかというくらい。



「逆に、君はどう思う?」



「僕?」



「そう。私は、君の意見を聞きたい」



 彼女の顔の輪郭が、沈む夕焼けの灯りに溶けていく。きっとそれは、陽が落ち切った頃には、見えなくなってしまうだろう。



「僕は、時と場合による、かな」



「それもまた一般論だね」



 これは皮肉ではなかった。陽が落ち切る一瞬、彼女が笑ったのが見えた。



「私はね、道理と直感に大別される世界で、直感の道理を見出したいんだ。きっとそのほうが、私は楽しい生き方を出来る」



「楽しい生き方、か。今は楽しくない?」



「人並みに楽しいが故に、少し物足りない。私はきっと、人生としては人並み以上の幸せを享受しているだろうけど」



 彼女の顔は、僕のほうを向いている。









「でも私は、楽しくても幸せではないんだ」

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