【第一章:ノブレス・オブリージュ⑧】
「ラプラスの悪魔」
図書館での出来事。高校の図書館は静かだ。わざわざこの場所に勉強しにくる勤勉な学生は少ない。だからといって、この空間を僕と彼女の二人だけのものにすることは出来ない。むしろ、点々と見える勤勉な学生たちがやけに目立って、集中できない。
いや、作業ははかどる。だから僕はこうして、忽然と名を現す悪魔について知っていた。
「物理学の、決定論的主張だよね」
「中世、科学は万能だと信じられていた。だけど、実際にはどうだろう。もし科学というルールが完璧だったとしたら、私たちは永遠にルールに則ることになる。私たちの行動は、過去から未来までルールで決められている」
「正しいように見えるけど」
「そんなことはない。君が自分で言った通り、ラプラスの悪魔は決定論的だ。だけど、より小さい世界を扱うための科学は確率論的に扱う。私たちの存在は微焦点に於いては確率に従い、確定はしない」
「じゃあ僕たちは、科学から解放された?」
彼女の美しい形の瞳が、空間を流れるように移動する。中に嵌め込まれた瞳が、僕の内側を解析するかのように絞られていく。
「君は科学から解放されたい?」
「自分の行動が既に決められていた、とは思いたくない。自分の行動は自分で決めたい」
「なら、そう解釈してもいい。私たちの自由意思は、科学から解放されている。人間の意思は、科学では扱えないものだと」
彼女の視線は手元に戻った。どこか、残念そうでもあった。
彼女が残念そうにしていることが、僕も残念だった。何か、気の利いた返事があったのだろうか。でも、彼女との会話は簡単じゃない。そう簡単に間違いを追えないのが、彼女との会話だ。だから、内省も改修もできない。
彼女を前にすると、僕の成長は止まっているみたいだった。
「ところで、どうして人間はそれに、ラプラスの悪魔という名前をつけたんだろうね」
「名前? それはたぶんラプラスさんが主張したから…」
「大事なのは悪魔のほう」
「悪魔、か。たしかにわざわざネガティブな印象を持つ言葉をつけたのは不思議かも」
「科学にはたくさんの悪魔が登場する。ラプラスの悪魔をはじめとして、マックスウェルの悪魔、パインズの悪魔。我々の想定外のところで影響を持つ存在を排他的に扱うのであれば、人類は根本的に、科学とは想定内に成り立つことを仮定していることになる」
「えーっと、話が難しくなってきた。うん、たしかに科学は人智の範疇であってほしい」
「しかし科学とは、我々が存在するよりもずっと昔、宇宙が生まれたとき、もしかしたらそれよりもずっと昔から存在している。我々が科学を扱っているのではなく、そこにある科学を観測しているに過ぎない。これは我々がいつの間にか忘れてしまった前提なのではないかな」
「うーん…」
ここで、言葉に詰まった。話が大きくて、僕には呑み込めなかった。そもそも、彼女は僕の返答を期待しているのだろうか。あの輝かしい瞳は、今や僕のほうには向いていない。だからこれをただの独り言として受け流すこともできるし、責任を持って言葉を捧げることも出来るわけだ。
だから僕はまず、この会話に返すべきかどうかについて考えなければいけなかった。そしてそれが、彼女の期待に沿う必要があるのかどうかも。ただ、僕の中にある言葉を必死に紡ぐとしたら、それはどんなものだろうか。
そしてそれは、やっぱり発言に値するものなのかどうか。
僕から彼女への意見に価値はあるのかどうか。
彼女という大きな存在に、その御前に立ち、自分を見失わずにいられるかどうか。
結論は出た。
「でも」
唇が自然と動いた。僕も僕とて、手元の本から視線を外さない。彼女の顔を見るのはなぜか怖かった。この発言が咎められるわけではないだろう。この態度が憎まれるわけでもないだろう。でもこれは、僕自身の心の安全を守るための自衛だ。
それでも、視界の端で、彼女の視線がこちらを向くのが分かった。
「その哲学は、きっと僕たちが永遠に向き合わなきゃいけないんだ。だから、答えはきっと永遠に出ない。そして、どちらが正しいか…も言えない。それが僕の考え」
しばし、静寂が続いた。
発言の間、本を読むかのように手を動かしていた。でも実際には目が滑って、一つの文字も読解できていなかった。ただ、そこには黒色の印刷が羅列されただけの薄い板。その板を、破れんばかりの脆い破片をひとつ、めくった。
「人は科学を扱うのか、それとも扱われているのか。たしかにこれはどちらも正しい。だからこそ、私は寛容になれない。どちらも正しいからどちらでもいい、ということはないんだ」
「そうかな」
「これは、ただの矜持だ」
強張っていた雰囲気が、そこで溶けた。その言葉のあと、彼女はふっと表情を崩した。今までの自分を払拭するかのような一撃が、その微笑には含まれていた。その微笑も、普段の彼女の相貌からすれば、微細とは言えない笑顔だった。
口角は確かに上がり、細い眉が緩やかに降りる。両眼を閉じて、目の前の情報を一切閉ざす。心を落ち着けるようにして、彼女は笑った。
きっとそれは、はじめての笑顔だった。
「私も、思っていたほど賢明ではない」
「そうかな、僕に比べれば十分」
「そうではない。思っていたほど、というのが大事だ。自己評価を誤っていた、これは何よりも重い罪だ」
窓の外を見つめる。高校の校庭は、昼休みとはいえ人が少ない。ここ、図書館と同じ。だけどやっぱり、点々と人はいて、サッカーやらバスケットボールやらを楽しんでいる。
そういえば、不思議だ。小学校の校庭なんて、人だらけだ。誰もかれもが外で遊んでいる。なのにそれが、いつの間にかこんなにも寂しい風景になってしまうなんて。
「ねえ、どうして外で遊ぶ人が少ないんだと思う?」
「さあ」
思ったほどの回答は無しに、彼女は立ち上がった、
「考えることは難しい。そうだ、今度どこかへ出かけてみようか」
考え事の達人からそんな言葉が出てきたとき、僕のほうは言葉を失った。
彼女が優秀なのは、考えがあるからだ。前提と推論、そして結論。彼女の目に映った一つ一つは、全てが過程を経て結論に辿り着いている。だから、同じように生きている僕たちが彼女に質問を投げかけても、必ず答えが返ってくる。僕たちに思いつく程度の疑問を、彼女が結論付けていないわけがない。
そんな人間が、一度考えを放棄した。
それは、あの日僕の人生が大きく動いたように。
僕の当たり前が、当たり前じゃなくなった一瞬みたいに。
彼女にとって、大きな変化だったに違いない。
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