【第一章:ノブレス・オブリージュ⑦】
僕たちの青春は、あの日の落とし物から始まった。
高校二年生の春、始業式の日。一大イベントでもあるクラス替えを経て、新たな環境が形成されていた。
クラス替えは体裁ではない…自分の生活と密接に関わる、いわば一年間の人生を決定づけるものだ。このクラスの雰囲気、そして個々人の性格。クラス活動、グループ活動での作業がどんなものになるのか、不安だった。
ただし、僕は率先してその雰囲気を形成していけるほど立派で能動的な人材ではなかった。誰かに話しかけるには勇気がいるし、特段理由も無ければ人に話しかけたくはない。人から声をかけられる分には対応するけど、それ以上のことは出来ない。なんとなくの会話で仲のいい友人は自然と構成されるけど、その活動源として動くことはしない。利でもなければ害でもない、当たり障りのない人間であることは自覚していた。
ただ、それでいいと思うこともあった。なにも、僕が特別である必要はない。僕は僕が出来ることを、出来る範囲でやっていければいい。
ずっとそう思っていたんだ。
高校生ともなればそれなりに大人である。これは一般論じゃなくて、この学校がそういう校風だからだ。
だから、学級委員決めもほとんど体裁みたいなものだった。形上のリーダーを決定する、そういう意味を持っていた。男女で一人ずつ、このクラスのまとめ役を決める。
先に決まったのは女子だった。立候補があった。それが彼女との、瑛摩 から との出会いだった。
凛とした立ち姿に繊細な顔立ち、美しく流れる髪。だけど話してみると極端に冷徹ということもなくて、会話の要点をはっきりと掴んで進めてくれる。
一方で、男子の学級委員は決まらなかった。この段階で流れはなんとなく察せるかもしれないけど、もう少しだけ話を続けよう。
大体一学期の初日というのは、こういった委員会と係を決めたあとは、適当なガイダンスを受けて終わりになる。というわけで、春休みの余韻を楽しもうと帰宅に勤しむ生徒が多い。
僕ももちろんその一人だった。高校から家までは歩いて帰る。歩いて帰れる距離にあるのは、とても助かる。
学校前の通りを曲がると、住宅街に入る。春先の平日の昼間、通る人はほとんど学生しかいない。そんな住宅街を足早に抜けて見えるのは、川と並木。桜が綺麗で、記念に写真を撮る高校生もたくさんいる。
橋を渡って川を越える。夕方に帰ると、川の付け根に夕陽が落ちて綺麗に見える。今は昼だから、水面が煌々と照らされているだけだ。
それからしばらく歩いて僕の家だ。今日の冒険もお疲れ様、実質的な今日はここでおしまい。
そのときだった。
「どうも」
ちゃりん、という自転車のベルの音と同時に、そこまで大きくもないけど凛とした声がはっきり聞こえた。
今日のホームルームで何度か耳にした声だった。
「忘れ物をしていたみたいだから。かなり大切な」
「忘れ物…」
特に思い当たる節はないな、と考えていると、彼女は一枚の紙きれを手渡した。
「学生証。さすがにないと困ると思って」
「たしかに、ないと困る」
そうか、学生証か。今日配られたのを財布に入れ忘れてたかな…。
「あと、もしかしたらと思ってこれも」
「あ」
僕にとってみれば、そっちのほうが重要だった。
「机の上に一緒に置かれていたから、君の忘れ物かと思って持ってきた」
「合ってます。ありがとうございます」
僕が普段彫刻に使っているカッターナイフだった。というか、どうして学校にあるんだろう。持ってった記憶もなければ、学校に忘れていった記憶もない。
「刃が出たままだった。ちゃんとしまっておくように」
そんな学級委員らしいことを言うと、彼女はきりっと自転車のハンドルを返した。
「それじゃあ、私は帰る」
「わざわざありがとうございます。えっと、瑛摩さん」
「良いんだ。あと、一つお願いがある」
「え?」
「学級委員、どうかな。今回のこれを借りだと思って」
それだけ言うと、特に返答を待たずに走り出してしまった。
これが借りなのは事実だ。それに彼女の発言はなんというか、とても事務的だった。今回たまたま声をかけたのが僕だった、それ以上の理由が見つからなかった。
彼女の一挙手一投足には、華があっても色がない。誰かと話している優しい彼女にも、一人教壇に立っていた凛々しい彼女にも、こうやって一人の男子に声をかけるだけの彼女にも、どこにも色がない。感情はあっても、その感情がどこから来ているものなのか、自然すぎるのが不自然だった。
だから気に入った。
その出会いは衝撃的だった。僕がこれから一年、学級委員というわけのわからない立場に挑戦するのにも十分な理由。それが彼女、瑛摩 から の存在だった。
その日はよく眠れた。次の日の朝、目覚ましが鳴るよりも先に起きることができた。カーテンを開けて日光を浴びたあと、定められた通りの動作で朝食を食べる。これは今思えば、体裁のようなものだった。
朝食は毎朝同じものを食べた。昨日と違うところといえば、この食パンについた焦げ目のひとつくらいだろう。慣れた景色、慣れた咀嚼、慣れた味覚。これは、幼稚園の頃から一貫して続いていた。僕にとって、朝食とはどうでもいいもののひとつであって、わざわざルーティンを変えるようなものではないと思っていた。
だけど、なんだかこの日は違った。今までは思いもよらなかったのに、食パンにジャムをのせてみようと思ったのだ。赤色のイチゴジャムを、焼いた食パンの上に広げる。スプーンで半固体を掬う感覚すら新鮮で、それがどろっと平面に広がっていくのが脳を刺激した。
こんなことはないはずだった。十年以上も変わっていない形式だったのに、突然日常が点火したのだ。それは僕が、この日常は形式的であることを自覚できたからかもしれない。そうか、僕の人生は思ったよりも自由度が高かったんだ。そこに目を向ける意味がなかっただけで。
意味がないこと。僕が食パンにジャムを塗ることに意味はなかった。だけど僕はそれに直接意味を与えた。意味は漠然とそこにあるというよりも、自分の認識の内側にある。だから、食パンにジャムを塗ることの価値は、昨日と今日で全く違った。
些細なことにも意味がある。それは、意味を見つけたことそれ自体だ。
そんなことを考えながら、僕は簡単に支度を済ませて家を出た。
僕は比較的、早く学校に到着したみたいだった。教室は四階で、長い階段を踏み越えた先にようやく辿り着く。人の少ない校舎を登頂し、ようやく教室の扉に手をかける。
人影はひとつ。
「おはよう」
「おはよう……ございます」
昨日会ったばかりの人にタメ口を使えるほど、僕は度胸がなかった。
そこにいたのは昨日の女子生徒だった。たまたま僕と彼女は隣の席だった。着席するのが気恥ずかしかった。
彼女は誰よりも早く教室に着いて、本を読んでいた。さすが学級委員なだけあって勉強熱心だな、など適当なことを考えていた。
「昨日と表情が違うね」
「え?」
突然そんなことを言われても、返答に困る。
「清々しい」
「そうかな」
「…そうだね」
ページをぺら、とめくった。
朝のホームルームが始まった。短い時間ながら、担任から学級委員の件が話された。
「今日中に男子の中から一人、学級委員を決めてもらいたい。帰りのホームルームでまた」
「先生、彼がやってくれるそうです」
凛とした声の正体は、僕を指さしていた。
元より、学級委員は引き受けようと思っていた。渋々。でも、まだ彼女に「学級委員をやる」と返事をした記憶はない。朝から清々しい顔の人間であれば、学級委員くらい片手間に引き受けられると思っていたのだろうか。
「そうか。では、これで異論がないなら」
異論はあるけど、結論に文句はない。
これもまた、僕にとっての運命なのではないだろうか。
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