【第一章:ノブレス・オブリージュ⑥】
結局帰宅後も作業は手に着かず、なんとなくで夜になってしまった。僕はレトルトのカレーを適当に温めて食べたあと、風呂と歯磨きを終わらせて布団に入った。
最近はあまり、夢を見たいと思わなくなった。夢を見ているときでさえ、なんだか疲れてしまうような気がする。
目の奥が痛む。眠いのに寝れない。布団が中途半端に暑い。
それでも、明日は午後に授業が詰まっている。早めに寝ておかないと、明日の体が持たない。
なんとか寝なければいけない。これは体裁じゃなくて、僕が生きていくための基盤だ。
全身の筋肉が緊張する。僕がこれから穏やかに眠るのを阻止してくる。全身の血流を感じる。心臓の拍動が、いつもよりも早く感じられる。閉じた瞼の裏で、瞳孔が大きく開いていくように感じられる。脳が考えるのをやめない、明日が来ることを何度も命じてくる。何度も、何度も、何度も、何度も。
いつもと変わらない枕の位置が、なんとなく不自然に感じる。足元をかすめるエアコンの風が、なぜか気味悪く冷たい。これじゃ今晩は眠れそうにない。
僕はついに耐え切れなくなって、枕もとのスマホに手を伸ばした。暗い部屋で寝る前にスマホを見るのはよくない、それはよく知っていた。だけどこれは体裁じゃなくて、本当に目と脳に良くないのを知っていたからだ。意味が分かっていた。でも、どうしても今は気を紛らわせたかった。
すっかり以前に名前が変わったSNSを開く。今日もとりとめのない話題が飛び交っていて、各々の持論が、どうしてこんなものを正しいのかと思えるような論法が、世界中を飛翔する。
この宇宙に、結論などない。誰かの発言が真実であるわけなんてないだろう。
僕は窓を開けた。灯りの少ない家の周りからは、夜空の星が綺麗に見えた。生憎、星空の知識はないので、指を差してあれが何座なんてことはいえない。だけど、そんなものなくても夜空は楽しめる。
そうだ、今日から見えた星に、自分の星座をつけていけばいいのだ。古代の我々だって、同じように星に名前をつけたのだろう。
だけど…彼女は、こんなことを言っていたような気がする。
「既に名前があるものに、新しく名前をつけてはいけない」
「民俗?」
「そういう類かもしれない。ただ、既に名前があるものに名前をつけてはいけないんだ。例えば」
彼女は、僕と彼女の前に置かれた机を指差した。
「これは、我々が生み出したものだ。だから我々はそれに『机』という名前をつけた」
「なるほど。僕たちは親から生まれたから、親に名前をつけてもらうんだね」
「それもその通りだ。しかし、我々が生み出していないものに名前をつけるのは不適切だ。なぜなら彼らは、我々が存在するよりもずっと昔から、そこに在り続けたのだから」
「でも、名前がないのは不便じゃない?」
「人間の便、不便では図れるほど、彼らは小さな存在ではない。例えばこの地球も、あの月も、輝く太陽も。もっと大きな存在で、むしろ我々は彼らから生まれたといっても過言ではない。だから、我々という種族の、もっといえば生命の名を預けるべきは彼らなんだ」
「でも、彼らは何も預けてくれないじゃないか。待っていれば突然、話しかけてくれるのか?」
「その事実が結論だろう。彼らは我々に名前を預けなかった。それ以上に明確な返答がある?」
今思うと、不思議だ。彼女の言い分だと、星々は僕たちが生まれるよりもずっと前に、名前をつけられていたことになる。
でも、それは誰に?
それにこれは、ただの言説だ。彼女がひとりでに言い出したいたずらかもしれない。星に名前をつけてみるくらい、誰にでも許されるだろう。
そうだな、今は夜の二時三十八分。こひときわ高い白樫の木の上に見えるあの明るい星を、「ウインク」と呼ぶことにしよう。
瞼の中に見えるきらめきのような星。今日からあの星は、ウインクだ。
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