虐待され、そして死にかけた公爵令嬢ヒラコワ・サミンドル
嵐の夜。
谷底へ転落していく馬車。
最初の激突。
頑健な作りではあるが自由落下によって加速された勢いにはひとたまりもない。
「お嬢様っ」
叫ぶ侍女の手は届かず、公爵令嬢は底知れぬ谷底へ投げ出された。
一時間前。
サミンドル公爵家へ王家からの使者が訪れる。
「ヒラコワ・サミンドル、至急王城まで来られたし」
直ちに支度が整えられ、ヒラコワは馬車へと乗り込んだ。
ヒラコワ・サミンドル公爵令嬢は、可憐な花が人間へと姿を変えたような少女だった。
淡い金色の艶やかな髪、神自らが造詣を施したような目鼻に透き通る翠の瞳。
社交界では彼女の美貌に心奪われる男性が続出し、その評判は国内外へ瞬く間に伝わった。
サミンドル家の美姫として様々な誘いが来たものの、それはある日を境に途絶えることになる。
王国の王太子との婚約が発表されたからだ。ほっと胸を撫で下ろす貴族令嬢の数は知れず。
完全な政略の為の婚約であったが、辛い日々を過ごすヒラコワにとって、唯一の希望となった。彼女の心の中に灯った小さな明かり、それが王太子なのだった。
馬車には侍女が一人だけ同行する。公爵令嬢としては些か不自然な待遇だ。公爵令嬢、ましてや王太子の婚約者ともなれば護衛も含め数人が側に控えるものだが。
それを見送るサミンドル公爵家の跡取りとなる長兄デマナベ・サミンドル。暗い瞳で馬車を見つめる。
彼は凶状持ちであり、幼い頃より癇癪を起こしては、物に当たり侍女に暴行を加えていた。
諌める者はいない。子育てに無関心なサミンドル公爵はさして気にもせず、執事や侍女頭の訴えにも耳を貸さない有様だった。
デマナベの暴行は妹であるヒラコワにも向く。廊下ですれ違う度に蹴りを入れるなんてのは日常茶飯事と化していた。特に動機もない時もあれば、幼い時の恨み(ヒラコワが生まれて母親があまり構ってくれなかったから)だったり。
ヒラコワは物心ついた時より、理不尽な家庭環境を当たり前のように受け入れてしまった。これが悲劇の始まり。
父であるサミンドル公爵はこの国有数の錬金術師でもあり、昼夜問わず研究に没頭している変わり者。彼の研究には貴重な鉱石など高価なものが欠かせないため、豊かな領地を所有する割に財政は芳しくない。その為金策に奔走することも珍しくなく、ヒラコワは父親の顔を見るのが月に一度程度の生活であった。
母親はかなり前に病死。その日を境に兄の暴行がエスカレートしたような気がする。
兄デマナベは常にヒラコワに暴行を加えた。彼女の中で兄とは暴力を振るってくる者という認識になる。
そして二年前。
サミンドル公爵は再婚する。
どこかの侯爵家から適齢期をずっと過ぎた令嬢が後妻となった。
なぜなのか?
この令嬢、おおよそ婚姻に向かない人間性の持ち主だったのである。人の醜悪な要素を集めて煮詰めたような邪悪。
サミンドル公爵は気にしない。彼女の実家である侯爵家からの支援が見込めれば、他はどうでも良いのだ。
やがて後妻となった夫人はデマナベとヒラコワに母親として振る舞うどころか、冷遇をしていく。
まだ長兄であるデマナベには遠慮している向きもあったが、ヒラコワには虐待に近い行為を繰り返した。
やがて女児を出産した夫人はますますヒラコワを虐げる。侍女だけがヒラコワの味方だった。
「お可哀想なお嬢様。私がお守りしますから」
と泣きながら骨折や火傷を負ったヒラコワに治癒魔法をかけ続けた。
また夫人は市井に潜む魔女に呪いを依頼する。呪いはヒラコワの身体を緩やかに蝕み、彼女は病床に伏せる日が増えた。
バイオフィードバック。
肉体のコンディションは精神へ影響を及ぼす。
逆も然り。
ヒラコワの心はこうして枯れていった。
そのずっと底で小さな熾火のように光を放つ慕情だけを残して。
王家は情報部からの報告に大層驚き、ヒラコワの現状に危機感を覚え、王城で保護すべく出頭させようとした。政略のための婚約とは言え、王太子もまたヒラコワに惹かれ、彼女の身を案じていたのである。
「城へも来ないのは義母により軟禁されていたか」
その時、王太子は物音と何人かの悲鳴を聞いた。
嵐の夜、ヒラコワを乗せた馬車が王城へと急ぐ道中、落石により馬車は谷へ転落することになる。
荒れ狂う濁流に飲まれたヒラコワはなすすべもなく流されていく。意識を失った彼女の周囲に小さな光が現れた。
『瀕死の対象を発見。指示を請う』
『至急治療せよ。その個体はヒラコワ・サミンドル。次期王妃候補である。特例により介入する』
密かにこの星へ潜入し、観察を続けていた存在。彼らは現地知的生物があっさり滅びたりしないように、施政者の周囲を常に監視していた。現在の文明で大量破壊兵器は作れないものの、例えば疫病に対する施策ひとつで滅びることは過去に検証済み。つまり優秀な遺伝子を持つ個体を王族に集めるのは重要なのだ。
落下事故により、頭蓋から飛び出した脳髄から彼女の記憶と人格を新たな人工脳髄へバックアップ。血管へナノデバイスを注入。まずは心拍数を上げ、血流を確保。
負傷箇所の止血、造血作用を増やし組織再生と同時に、発育不良な骨を金属骨格に換装。あわせて準成人個体の平均と比較して著しく少ない筋肉組織を有機人工筋肉に置き換える。
ナノデバイスはさらにヒラコワの体内を駆け巡る。失われた眼球の代替品を作成、望遠・拡大、各種電磁波を感知、また一部電磁波を照射出来るようにした。
各種臓器にはダメージが見られたため、近似の別生物細胞を移植、問題なく同化させた。また発電能力を持つ生物の器官を移植し、発電を開始させる。指先、口腔、眼球に荷電粒子射出口、併せて重力干渉システムを組み込む。
皮膚も人工に置き換え、強度を上げる。また再生能力を増幅する為に代謝機能を調整。
『衣服はどうする?』
『もちろん補修』
元々の素材から合成繊維へ変更。耐刃機能を持たせる。
ヒラコワは意識を取り戻した。
あたりは真っ暗だ。
顔を容赦なく雨が打つも、不思議と寒くはない。
手足を確認するが、どこも怪我をしていないのを不思議に思いながらも確認する。
なぜか頭の中が明瞭。
見渡すが侍女の姿はない。
「王城へ行かないと」
彼女の心の中にある微かな光『王太子に会いたい』という一心で動き始める。
まず立ち上がる。
そして跳躍。
「えっ?」
彼女は軽々と数十メートルもの崖を飛び越えた。そのまま走り出す。早馬も抜き去る速度で。
「えっ?」
川を飛び越え、森の木々を飛び越え、数分で王都に着いた。王都は嵐の夜なのに騎士隊や兵士が多く見られた。ヒラコワは建物の屋根へ跳躍し、王城を目指す。
見えた。王城だ。
王城の門へ走る。そこには展開している騎士隊。
「止まれ!何者だ!」
「サミンドル公爵家のヒラコワ・サミンドルでございます!王太子殿下の招聘により参じました」
「王太子の!?拘束しろ!」
ヒラコワを拘束しようと近寄る騎士達は、ある者は投げ飛ばされ、ある者は剣を折られ、ある者は光とともに昏倒した。
「城門を開けてください。殿下のところに行かなきゃならないのです」
ヒラコワに誰も近づけない。
堅牢な作りの門。彼女が城門を殴りつけると、轟音とともに大きく穴が開く。誰もが無言。そこを潜り抜け場内へ走っていくヒラコワ。
途中武装した騎士や兵士が次々にヒラコワへ襲いかかる。彼女の指先から放たれた光で撃ち抜かれたり、張り手一つで壁に打ちつけられたりして無力化されていく。奇跡的に彼女の二の腕を斬りつけた兵士が見たのは肉から覗く銀色の骨。それが剣を止めていた。
「ば、化け物!」
そう叫んだ直後、斬られた腕で殴られ意識を飛ばされる。彼女が通った後には倒れた兵士たちで埋め尽くされた。
ヒラコワ自身は違和感を感じていない。騎士隊が城門を封鎖するという異常事態を見た瞬間から、王太子を案ずる気持ちが膨れ上がり、他のことは何も感じなくなっていた。
「何者かが謀反を起こしたのでしょう。あぁ殿下、ご無事で!」
広間には王、第一王妃、王太子が拘束されている。
「陛下!殿下!王妃様!」
「ヒラコワ!来てくれたか!」
第二王子、第二王妃、見覚えのある侯爵達と兵士が驚いた顔でヒラコワを見る。
「ほう!サミンドル家の娘か!拘束しろ」
囲もうとする兵士達。しかしヒラコワが一瞥すると膝から崩れ落ちる。頭部には焼け焦げた小さな穴。荷電粒子砲だ。
「な、何をしているっ!魔導士よ!やれ」
影に控えていた魔導士がデーモンを召喚した。ヒラコワの皮膚組織は瞬時に硬化し、金属鎧のような姿になる。
まずヒラコワがデーモンの剣を左腕で受け止め、右腕で殴打。尾で反撃するデーモン、彼女はそれを蹴り上げると尾は千切れ飛ぶ。
何か呪文を唱えようとしたデーモンの口は、すぐに焼け焦げ使い物にならなくなる。
一瞬で距離を詰めたヒラコワがデーモンの頭を殴りつけると、頭蓋は陥没しその場に倒れ伏した。手足が痙攣しているが動く気配はない。
魔導士がヒラコワに向け炎を放つ。彼女にダメージはない。そして頸椎を折られ膝をつくことになった。
続いて第二王子達も床を舐める。身体に力が入らなくなった、他の者も同じように。王太子達の方へすぐに駆け寄るヒラコワ。
「遅くなり申し訳ありません」
「ヒラコワ、君は……さっきのは魔法か?」
「私にも何が何だか……」
拘束を解きながら涙するヒラコワ。彼女の心が死んでいく中、生きる希望を与えてくれた王太子。拘束を解かれた王は無事な配下を探しに、王太子は王妃を手当てする。
「第二王子派が武力蜂起したのだ。早まったことを……。ヒラコワ、そなたの父親であるサミンドル公爵も謀反を企てた者達に名を連ねているが……」
「この度の謀に加担した者達を全て教えてくださいませ」
ヒラコワは城を出る。向かうは貴族の邸宅が並ぶ王都の中心街。
「なっなんだ!?この娘は」
彼女を止めようとする者達はこの台詞を最後に崩れ落ちた。数分で貴族の邸宅から邸宅へ渡り歩き、首謀者に名を連ねた貴族達を無力化していった。
サミンドル公爵邸へ入ると、侍女や執事には目もくれず父の執務室へ。
護衛が斬りつけてくるも、ヒラコワは剣を指で止め、そのまま投げ飛ばす。次に斬りかかる護衛を見つめると、彼は意識を失う。
扉を開けるとサミンドル公爵が驚く。
「ヒラコワかっ!お前は王城にいるはずでは?」
「謀反を起こした貴族を粛正しております。お父様、あなたも」
「なっ。なぜお前が!」
サミンドル公爵は混乱した。
『第二王子が彼女を王太子ともども粛正する手筈だったのに、どういうことか。それ以前にヒラコワのあれは何だ』
公爵がこの世で最期に抱いた疑問はそのままになった。
夫人とデマナベは蒼い顔をして、狼狽えて後退りするばかり。どうせこの後の処遇は決まっている。二人を放置したまま公爵邸を後にした。
後世に伝えられる嵐の事変。
ヒラコワ・サミンドル公爵令嬢が王位簒奪を阻止、それを企てた第二王子やその派閥の貴族を単独で粛正していく物語。
また彼女は魔王とその配下デーモン軍とも単独で渡り合い、降伏した魔王と相互不可侵条約を締結。人類にとって大きな脅威を取り除いた。
二人の結婚の儀は大いに祝福され、参列した国家の数も過去最大となり、また周辺国家と友好的な条約が締結された。一説によると王妃を狙った暗殺者が相当な数に上ったとされるが、全て王妃が撃退、王妃は怪我一つ負ったことはないとの記録もある。
王太子と結ばれ王妃となった後は三人の息子に恵まれ、永く続く治世を王とともに築いた。
しばらくして国内の治安が向上していく。王国内を荒らしまわった盗賊団は次々と壊滅。同時に水害などが極端に少なくなり、盗賊は身を堕とす者がいなくなっていったのも原因である。人々は『王妃様のおかげ』と信じた。
王妃となって最後にひと暴れしたのは、海を渡って侵略戦争を仕掛けてきた帝国軍をこれまた単独で殲滅したことであろう。関係者も何が起こったかの詳細は把握していない。ヒラコワ王妃の武勇伝は謎に包まれたままである。
また彼女は老齢となってもその美しさは衰えず、王を看取った後に消息は不明となった。ただ王の墓には常に花が供えられていて、王妃はまだ生きて国を見守っているという伝説になった。
百年後、とある公国が王国へ侵攻した際も、突然軍が崩壊し敗走した。公国軍の兵士は口々に『化け物みたいな女が人々は『ヒラコワ王妃様が守ってくださった』と噂した。
二百年後。今も誰が供えたか不明な花が王の墓にある。
転生者である一人の文官がこの記録に目を通した時、ひとり呟いた。
「これってロボ公爵令嬢?」
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