青の章 3話目「出会い」

 死。


 激しく衝突したという感触を感じる直前、己の頭はその言葉で埋め尽くされていた。

 自分は何をしていたのだろうか。

 どうして空から落ちてくることになったのか。

 そんなことはどうでもいい。

 迫る激突の瞬間、落ちることしかできない自分に何ができただろう。

 嗚呼、これで終わりなんだな。

 今までこれほど真剣に己の死に関して考えたことはなかった。

 病床に臥せった者が健康であった過去をうらやみ、終わりゆく時を後悔で過ごすというのはよくある話だ。

 五体満足でただ、生きている。その事実だけで幸せだったのだと。

 今、眼前に地面が迫った自分もそういう気持ちを抱かずにはいられない。

 もう己にできることは全力で瞼を閉じ、迫り来る死を直視せずに済むよう祈るだけだ。


 ・・・


 そうしてその瞬間は訪れた。

 高い高い塔の天辺、真下から見上げても頂点が見えない程に高い塔の上から落下し、そのまま直に石畳の上へ投げ出されたような感覚。

 きっと多くの者は生涯、その感覚を味わうことなく静かに生を終えるのだろう。

 体が地面へと叩きつけられた瞬間、まず感じたのは衝撃。

 肉体の中心から全身の端まで電撃が伝播でんぱし、砕け散ってしまったのかと錯覚する程の痛み。

 そしてさらに感じたのは小さな

 地面へと激突した時の衝撃で跳ね返り、再び体が宙を舞う。

 ただ、頭の中は痛みに支配されて何も考えられることはない。

 口から嗚咽おえつ以外のものを吐き出してしまいそうなくらいに胸が苦しい。

 そうしてとうとう堪えきれずに閉じていた瞼を開き、逃避していた暗闇の空間から無理矢理に解放される。

 再び広がった視界の先には緑色と青色の光景があった。

 冷静に頭が働いていればそれが森や木の自然、湖の水面の色であると理解できたかもしれない。


 嗚呼、でももうどうでもいい。


 全身がびりびりと痺れたように痛み続けて何も考えられない。

 直後、青色の何かに触れて冷たく沈んでゆく感覚に包まれる。

 水中へと没してゆく自分。

 砕け散ってしまいそうな程、ただただ痛みを感じていた五体へ訪れたひんやりとしたベールに包まれたかのような感触。

 それは自分にとって救いだったのかもしれない。

 あの落下した瞬間、その一瞬で終わり切れずにこと。

 結果としてみれば大差ないこと。

 死へ至るのが早いか遅いか。

 きっと結果そのものの運命は変わらない。

 しかし、この激しい痛みに耐えながらその運命を享受すること。

 多くの者が望む平穏な最期にはあまりに程遠い絶望的な時間。

 自分はその時間に包まれながら終わるしかないと思っていた。

 しかし、今は違う。

 己の視界は青一色で染まり、肉体の内より発せられる痛みは相変わらずだが、それよりも肉体の外から感じられる冷たい感触。

 その感触に縋った。

 気を失ってしまえれば一番でだったろうが、痛みがそれを許してくれない。

 ゆえにただただ、その冷たい感触へと意識を割いた。

 底が見えない程に深く、冷たい青色の空間を沈み続けながら。

 時折、ごぽごぽと赤い色彩が気泡を含みながら口から零れてゆく。

 体の内も外も手足の先から熱を失いつつある。

 だが、もうどうでもいい。

 そうしていつの間にか痛みで支配されていた頭が急激に眠気を覚える。

 

 ・・・


 薄れゆく意識の中でふと、向かう先の水底とは逆の方に視線が泳ぐ。

 その先にはが己の下へ迫ってきていた。

 それが何であるかはわからなかった。

 もっともすでに思考をするだけの余裕もない。

 もうただ、この眠気に身を委ねてしまいたい。


 ・・・もし次に目覚める時が来るならば、どうか普通に生きてゆく人生を歩みたいなぁ。


 そうして自分は瞼を静かに閉じ、の暗闇の空間へと意識を投げ出した。

 

 薄れゆく意識の中、最後に感じられたのは聴覚。


 水を掻き分けるような音が迫る気配だった。

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