青の章 2話目「来訪者」

 新緑の大地。

 木々が風に揺らされて擦れ合う枝葉の音。鳥達が高らかに歌い合い、木霊して響く合唱。蟻の行進に甲虫同士の縄張り争い、毒々しい色をした羽虫の立てる飛翔音ホバリング

 みな違うものではあるが、一様に同じ場所で生きていることを主張していた。


「・・・」


 その森の一角、開けた場所に湖がある。淡く透明で、底が見えない程に深い湖。

 そのほとりの岩の天辺に腰掛けている影ひとつ。

 それはどこかぼんやりとした顔色で湖を見ていた。


「・・・」


 見た目の年頃は十後半から二十前半程度。

 控えめに膨らんでいる胸部以外に尖った部分がないことから女性ではあるだろう。

 髪は青く晴れ渡る空を彷彿ほうふつとさせる色で短く揃えられていて。

 瞳は視線だけで相手を引き裂いてしまえそうなほどに切れ長で鋭く、そして虹彩こうさいは髪色よりも深く暗い輝きを覗かせている。

 きっとこの場に他の異性がいれば多くの者が彼女を美しい人だと評しただろう。

 いや、もしかすると同性であってもそう感じたかもしれない。

 

「・・・」


 そんな人物が一糸まとわぬ姿で適当な岩に腰掛け、湖のほとりにて黄昏たそがれているらしかった。

 何を考え、何を思っているのか。

 当然、そんな疑問を投げかけるものも、返すものもこの場にはいない。

 風がふわりと木々の間を通り過ぎ、枝葉の揺れる音と鳥や虫たちの歌がそこにはあるだけ。

 少なくとも彼女にとってはもそうなるはずであった。


「・・・?」


 何かに気付いたように頭を少し持ち上げる。

 そうして仰ぎ見た青空にはひとつ、おかしなものがあった。

 

 人間が空宙に存在している。

 

「・・・・・・?」


 そうしたありえないような光景を目にしてなお、彼女の顔色が大きく変わることはなかった。

 ただ、代わりに宙を漂っている人間が徐々に近くにまで迫ってきている。

 正確にはしてきているというだけの話なのだが。

 あと数回、瞬きでもしている間に迫り来る人間は湖面へと激突し、叩きつけられることとなる運命だろう。

 落下してきている者にできることはもうない。

 あるとすればこの光景を見ている人物。

 いまだぼんやりと落ちゆくものを見ている彼女だけだが・・・


「・・・」


 森の中に一際大きな水音が響く。

 同時に湖面の真ん中では水の柱が天高く立ち上がっていた。

 森の中での見慣れぬ光景に一瞬、鳥や虫たちもざわついていたが、水柱が崩れて消える頃にはその喧噪けんそうも元に戻っていた。

 いつもと変わらぬ日常の一時に起きた小さな事件。

 彼らにとってはその程度のことでしかなかった。


「・・・」


 何が起きたか、その一部始終を見ていた彼女もまた変わらない。

 一瞬だけ上へ向けられていた視線も気付けば湖へと戻されていた。


 「・・・」


(どうしてあの人間は空から落ちてきたのだろうか?)


 さきに落ちてきた人物が湖面へ上がってくる気配はいまだにない。

 自ら命を絶とうとした可能性もあるが、であればわざわざこのような手段はきっと取らないだろう。

 

「・・・」


 そうしてまたひとつ、森に水音が響く。

 だが、さきのものより響く音は小さく、湖面に水の柱が高く立ち上がることもなかった。

 気付けば誰かがずっと腰掛けていた岩にもう人影はない。

 代わりに一羽の鳥がやってきて、湖面を見つめて怪訝けげんそうに首を横へ傾げていた。

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