第12話 なんとかは風邪をひかない

 ぼんやりとした意識の中で、目を開ける。

 ここはどこ、私はだれ?

 そんなことを思う暇もなく、見慣れた天井が視界に広がり、柔らかい布団の感触が体に伝わる。頭が重く、体がだるくうまく体を動かせない。


「……ここは……俺の部屋か?」


 首だけを回してゆっくりと周囲を見回すと、自分の部屋にいることを改めて確認する。だが、どうしてこんな状況になっているのかがはっきりしない。

 覚えているのは、テストが終わってから、ミアと一緒にショッピングモールへ行ったことだ。それ以降の記憶が、どうにも曖昧で思い出すことができない。

 一旦起きあがるか。

 体を起こそうとするが思うように力が入らない。何度か試みるがなかなか起き上がれない。

 この際諦めて床に転がり落ちるしかないか。


「痛ったあぁ……」


 想像以上の衝撃に後悔した。

 これだけの痛みを味わいながらも結局起き上がれずそのまま床に突っ伏していると、床からドタドタと音が聞こえてきた。


「悠紀、大丈夫!?」


 部屋の扉が豪快に開かれ、ミアと目が合う。

 最初こそは不安そうにしていたが、だんだんとその表情が奇怪なものを見るような目に変わっていく。


「もしかしなくても、ゆーきって寝相悪い?」


「どういうこと?」


 訳がわからず、固まっているとミアがおもむろにスマホを取り出して写真を撮り、戸惑っている俺にスマホの画面を向けた。

 そこには、俺に似た顔をしたイモムシの姿があった。


「グレゴール=ザムザもこんな風に変身してしまったのかしら……」


「俺は毒虫じゃないぞ」


「冗談に決まってるでしょ。伝わらないかと思ったけど、ゆーきは物知りね」


「あ、あはは」


 不意に、なんかドイツ語ってかっこよくねと、ドイツ文学に手を出してすぐに読まなくなった記憶が蘇り、寒気が走る。

 体を縮こませてプルプル震えていると、ミアが俺の側に膝をつき、心配そうに顔を覗き込んできた。


「まだ体調良くないでしょ。無理せず休んで」


「ごめん、大丈夫とは言えないや……」


 俺は苦笑いを浮かべながら、ミアの手を借りて巻きついた布団からごろごろと抜け出してベッドに戻る。


「……私が無理に誘ったせいで」


 ミアの声は小さく俺には聞こえなかった。

 ミアは毛布を掛け直すと優しく微笑み、俺の頭を軽く撫でた。

 思いもよらない仕草に照れつつも、不思議と安心感が広がっていく。


「少し眠った方がいいよ。夕飯の時間になったらまた起こしに来るから、ゆっくり休んでね」


「うん……」


 その言葉を最後に、ミアは静かに部屋を後にした。再び一人になった部屋の中、俺は目を閉じると、すぐに意識が沈んでいった。


 ***


「悠紀くん、起きてる?」


 扉の向こうから聞こえてきた、軽いノックの音と声で目が醒める。

 瞼を擦り部屋を見渡すと、桜の木の影は部屋の壁まで伸びていた。


「は、入るよ……」


 ドアがそっと開かれ、心が顔を覗かせる。柔らかな夕方の光が彼女の輪郭をほんのりと照らし出す。

 手には湯気が立ち上る器を載せたトレイを持っている。


「ミアが夕飯を持ってくって言ってたけど、部屋で寝ちゃってたから、代わりに持ってきたよ」


 彼女の声には、どこか心配そうな響きがあった。俺はゆっくりと体を起こし、まだぼんやりとした頭を振りながら、なんとか返事をした。


「……ありがとう、助かるよ」


 心は微笑むと、トレイをテーブルに置いた。

 そのまま椅子を引き寄せて、目の前に座る。


「もう熱は下がった?」


「どうだろう、測ってみるからちょっと待って」


 体温計を脇に挟む。

 音が鳴るまでの時間はそう長くないはずなのに、気まずい時間が続く。


「あのさ、」ピピピッピピピッピピピッ


 俺が口を開くのと同時に、体温計は測り終わったことをこれでもかと伝えてきた。

 ちょっとは空気読んでくれませんかね、体温計さん。


「えっと……三十六度八分だ、熱は下がったみたい」


「そ、そう。よかった……」


 胸を撫で下ろす心を見て、心配かけてしまったことを否応なく自覚してしまう。


「みんなに迷惑かけたよね。ミアと心、そして先輩にも。本当にごめん」


「そうかもね。……でも私は、元気にみんなと会話して、一緒にご飯を食べて、おやすみって言えたらそれでいいと思う。だから謝るのはこれでおしまい、ね?」


「……ごめん」


 いつものように自然と口をついて出る。しかし、その言葉を聞いて心はむっとした顔になる。

 今の自分に必要なのは、謝罪じゃない。心はずっと俺のことを気遣ってくれていたのに、俺は感謝の言葉をしっかり伝えられていないじゃないか。

 俺は姿勢を正し、少し真面目な声色で心に向き直った。


「えっと……ごめん、じゃなくて、その……ありがとう」


「どういたしまして」


 彼女の笑顔は、優しく暖かかった。


「ほら、早く食べなきゃ。侑香先輩がせっかく作ってくれた、たまごおじやが冷めちゃうよ」


 彼女に促され、おじやを口に運ぶ。


「……おいしい」


 おじやを食べ進めるうちに、体が徐々に温まり、重かった頭が少しずつ軽くなっていく気がする。おじやの柔らかな味わいが、体の内側からじんわりと沁み込んでくるようだ。


「やっぱり、温かいものを食べると元気が出るね」


 俺は小さく笑って、少しだけ顔を上げた。


「よかった。侑香先輩、すごく心配してたから、ちゃんと食べられてるの見たら安心すると思うよ」


 心の言葉に、ふと胸の中にじんわりと温かい感情が広がった。侑香先輩がわざわざ作ってくれた食事。それに加えて、心やミアも自分のことを気にかけてくれていた。こんなに周りに支えられているのに、自分はまだ何も返せていない気がしてならない。


「本当に、みんなには感謝しかないな……」


 自分に言い聞かせるように呟いた。


「うん。でも、あんまり気負わないでね。悠紀くんが元気になることが、一番の恩返しだから」


 心の優しい声に、俺は黙って頷くしかなかった。おじやを食べ終え、トレイを片付けようとしたが、心がすぐにそれを止めた。


「いいよ、私が持っていくから。悠紀くんはまだ休んでて」


「いや、もうだいぶ良くなってきたし、それくらいなら……」


「無理しないで。今はまだ安静にして、しっかり休むことが大事なんだから」


 彼女の言葉に逆らうことはできず、俺はベッドに体を戻した。


「また何かあったら言ってね。それじゃ、ゆっくり休んでね」


 心が部屋を出て行くと、再び静けさが戻ってきた。窓の外の夕日が沈み、夜の帳が少しずつ降りてくる。俺は深く息をつき、頭を枕に沈めた。

 体調は良くなりつつあるとはいえ、まだ完全ではない。だが、心やミア、そして侑香先輩の優しさが確かに伝わり、心の奥底に暖かなものが残っていた。


「もう少し休んで、元気にならないとな……明日の学校には行かなきゃ」


 なんとかは風邪ひかないっていうけど、勉強した甲斐があったかもな。そう思いながら、再び瞼を閉じる。

 周りに支えられていることに感謝しながら、俺はゆっくりと眠りに落ちていった。

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