記憶効果
@kinutatanuki
第1話
【0・プロローグ】
すぐ前に背中があった。そいつは俺が後ろにいるのに気が付いていないようだ。いや、気が付いていても問題があるとは思ってなかっただろう。それまで俺のことは適当におもちゃにする相手だったのだから。広場で会えば突き飛ばして転ぶのを笑ったり、プロレスの技をかけて痛がるのを笑ったりしてきた。みんなでそいつの家に行った時、真っ白に光る熱い裸電球を俺の柔らかい頬に押し当てて軽いけれどやけどを負わせたこともある。そんな強い立場にある人間に向かって、この俺が何かしてくるとは思わなかっただろう。
これから急に傾きのきつくなる斜面だった。年上の子が、
「気をつけろ。あわてたら転げ落ちるぞ」
と怒鳴った。ここまでは谷に向かったまま両手両足で尻を浮かせながら下りて来たが、この先は姿勢を変えて岩に向かって両手両足を懸けて下りなければならない。みんな怖くて嫌だったのだが、年上の子に絶壁のへりまで連れていかれた上、ここを下りるぞと言われたから仕方なく恐る恐る下っていたのだ。この先はちょっとでも足の置き場を間違えたら、崖を転げ落ちるのは間違いない。息をするのも恐ろしい場所になる。
どんな季節だったか、どんな天気だったか忘れた。
僅かに突き出した岩の先をつかみ、へばりつくように生えている灌木や雑草を懸命につかみながら下降しなければならない。首を伸ばして覗くと遥か下には川の流れが銀色に光っていた。あそこまで下りるぞと言われて信じられなかったが、みんなが下りるので俺も続いていたのだ。
近くの子が小石を蹴とばしてしまい、それが下まで止まらずに落ちていった。
「あわてるな。あの石みたいに落ちるぞ」
また怒鳴り声が聞こえた。みんなが姿勢を変えようとしているところだった。
ふっと俺は前にいるそいつの背中を突いていた。なぜそうしたのか分からないが、したのだ。
どんな背中だったか忘れた。俺自身がどんな気持ちでいたかも忘れた。
そいつは少し体を捻ったようだったが、どんな角度になったか覚えていない。そのままそいつは崖を転がり落ちていった。落ちていく時、ちぎられた草木の小さな音がポキポキ、ビシビシと鳴った。
「馬鹿野郎、何してんだ」
年上の子たちの怒鳴り声が聞こえたが、みんなどうすることも出来ずにいた。
「何だ、落ちたのかよ」
「こんなところでドジな奴」
子供たちが当人の不注意を口々になじった。当然みんな神経を張り詰めて下りているものと思っていたのだ。姿勢を変えて岩に向かって取り付き、俺がようやく崖を下りきった時は大きな子たちが呼びに走ったからだろう、河原の石がごろごろ堆積している場所で数人の大人たちが寝ているそいつを囲んでいた。そいつが動いていたかどうかなどの様子は知らない。集まっていた大人たちが小さな子供たちを近付かせなかったからだ。
後で、一緒に降りていた者は全員、急な崖を無理に下りたことを大人たちからなじられたが、俺自身が責任を問われることはなかった。そして現在に至るまでそのままだ。
そいつは救急車でどこかの病院に運ばれたようだが、意識不明のまま数日後に死亡したと聞かされた。
【1・貧血】
「期志丘さん、これお願いします」
近隣自治会はバザーの準備で忙しい。春は近いと言ってもまだ寒いはずなのに今日は日当たりの良い集会所の会議室では汗ばみそうになるほど暑かった。期志丘容正は大きなテーブルで会場案内の貼り紙を書いている。
「七枚でよろしいですか」
「あっ、八枚無かった? 御免。これも」
頭が丸くピカピカ光っている副会長が、模造紙を一枚滑らせてきた。指先が乾燥して重ねた紙を数えにくいとこぼしている。
「期志丘さんって、お仕事何ですの」
組んで作業していた女性に尋ねられた。四十歳ぐらいの人だ。
「今は無職です。高校の教師になったんですけど、貧血がひどくて治療に専念するので辞めました」
「もう良くなったんですか」
「ええ、御陰様で」
「うちの主人も貧血がひどくて検査入院を勧められてるんですけど、どんな治療になりますか」
その女性の祖父のお隣さんだという女性が尋ねる。白髪がかなりまざっているせいで老けて見えるが五十歳ぐらいだろう。銀縁の眼鏡を掛けて低めの声ではきはき物を言うので、学校の教師だと思われているらしいが、本当のところは知らない。
近くで紙袋の数を数えていた完全な白髪の奥さんが、
「まず検便ですよね。内出血してないか、って」
と言った。この人も五十歳ぐらいに見える。ここの住宅街の住民は三十、五十、七十の年齢層が多いのだろうかなどと思いながら、貼り紙を書いていく。
「それ、いやがるんですよね」
「好きな人、いてませんよ」
期志丘がその発言に応じると、周りで聞いていた人たちが笑った。
「僕も卒倒したから仕方なく入院したんですから。誰でも病院はいやでしょう」
「好きになったらお終いですな」
「そうですよね」
期志丘は一昨年の暮れに学校で倒れて、救急病院の医師に、命が惜しいならすぐに入院するべきだと言われた。検便で出血してないのを確かめると、次に詳しい血液検査。内臓や脊髄のCT検査。内科や外科以外の、そんな科があるのかと思うような馴染みの薄い部門でも検査された。総合病院であるのを誇示するためかと疑ったほどだ。主治医の内科医に三ヶ月かかると予告されていた通り、翌年の春にようやく肝臓が悪いと診断が下りた。自分でも想像していたので納得できたが、時間のかかるものだと思った。
鉄剤の服用や食餌療法で八ヶ月かかって、ようやく血液の比重が安定した。これは短くて半年、長くて二年という予告の通りというべきなのか。退院してからは毎日近所を散歩している。足腰が弱ってしまって雲の上をふわふわ歩いているような気分だ。かかりつけのクリニックで杖を使いますかと尋ねられたほどだが、さすがにそれは断った。
「体調、良くなりました?」
「勿論」
それだけ時間をかけて良くならなかったら空しすぎるだろう。
「何が一番変わりました?」
いつの間にかみんなに取り巻かれていた。
「目まいがしなくなりましたね」
耳の聞こえが良くなった。時計がリズムを刻むカチコチとか、電子レンジの調理終了のチーンという音とかが前は聞こえなかったのだ。自宅に帰ってこれらの音を聞いて、回復を自覚した。爪がたびたび妙なところで割れることがなくなった。鏡に映る自分の顔の色つやが良くなった。毛髪が太くなったのか、風呂の排水溝に溜まるゴミが増えた。霜焼けにかかりにくくなった。
「緑内障の進行も遅くなると聞きましたで」
会長が言う。
「そうですか。僕はまだそれは発症してなかったから、何も言われませんでした。検査の時は確かに眼科も受診しましたけど」
「おしっこが出やすくなったという人がいましたなぁ」
副会長と親しいらしい男性が言った。
「あぁ、同じ病室にいた年配の方が同じこと言ってましたね」
「睡眠のことも聞いたことある」
バザーの準備がほぼ完了したらしく、帰ってもいいのにこの話題に参加する人が多い。四十人ほどいたのだが、そのほとんどが輪になって聞いている。
「あぁ、寝付きが良くなるんですよ。眠るのにも健康な血が必要だなんて知りませんでした」
「卒倒する前は寝付きが悪かったんですか」
「そうですね、確かに。それで起きた後、まだ眠りたいと思うんです」
「かなわんなぁ、そういうの」
「お宅は大丈夫なんですか」
隣の人に尋ねている。
「えぇ、僕は健康ですから」
「よろしいな、それは」
「期志丘さんは貧血で卒倒したのか、睡眠不足で卒倒したのか分かりませんね」
「いや、やっぱり貧血でしょう。そっちが原因ですから」
睡眠と貧血とどっちが先か、しばらく議論が続いた。
とにかく倒れた時のことを何も覚えていないのだ。それがはっきりしていれば、これから同様のことが起きかけた時に対策を立てられるのだが。
「ほとんど一年がかりですか」
「そうですね。考えてみると長かった。でも、検査に追いまくられてるとそういうことを考える間がなかったなぁ」
「入院すると、毎日検査ですもんね」
「そうそう、検査の無い病院というのはありませんよね。熱測って、血圧や脈拍数えて」
「そうそう。それで朝になったと気がつくんですわ」
「前に入院した時、朝と晩と二回やられたよ」
「そうですな。どこでもそうでしょ」
「元気になったら、仕事探さないとね」
「そう、それが大問題で。良い口があったらお願いしますよ」
実は昨年の夏に、また教員の採用試験を受けておいた。主治医は大事な時期だからと外出許可を渋ったが、これは遠慮していられない。ボンヤリしながら受検したら不合格で、今は常勤講師の依頼が来ないかを待っているところだ。
「緑牧高校なら近いですなぁ」
「名門だもんね」
「校内暴力は聞かないし、いいんじゃないの」
二十年近く前に期志丘の親が離婚して、母親が慰謝料で家を建てた時は、すぐ近くにだだっ広い空き地があって、そこは何かの研究所を誘致する場所と聞かされていた。しかし景気の低迷でやってくる機関はなく、部分的にニュータウン開発に関わっていた県の財政悪化で広い敷地をそのまま置いておくことが出来なくなった。そこに降ってわいたのが県立高校の移転計画だった。バス停の名前が「○○研究所前」になるはずが「○○高校前」になるのは約束違反だと住民たちは騒いだ。いくら名門でも高校はあくまでも高校に過ぎない。しかし僅かな人数の住民の反対は当然のように無視されて、一年で校舎が建ってしまった。
元々都心部にあって周辺は建て込んでおり、校舎の改築をしようにも工事用資材の置き場すら満足に用意できない狭さだった。通学路沿いには風俗店が立ち並んでいるという現状もあり、移転を希望し続けていたそうだ。普通科高校の面積は一般に五万平方メートルぐらいだが、ここは十四万平方という。
「でも、近過ぎるのもねぇ」
期志丘は渋る。
「いや、近いのは何ものにも代え難いですよ」
「不景気だしね。そんなこと言う余裕無いでしょ」
確かにその通りだ。
「無いよねぇ。校内暴力で充満してても断ってられないんじゃないの」
それも事実だが、やはり避けたい。
雑談しているうちに、僅かに残っていた用事の人も完了して帰れるようになったようだ。集会所の前で車、バイク、自転車、徒歩と、みんなバラバラに帰り始めた。
【2・緑牧高校】
その翌日、話題になっていた緑牧高校の教頭から「うちに来てもらうことになりましたのでよろしく」という電話がかかってきたので驚いた。まさか本当に呼ばれるとは。
近過ぎるので着任することはないだろうと思っていたのだ。だから進学実績の内容とか一つの学年に何クラスあるかとかいったことすら全く知らなかった。旧制の県立中学校以来の名門校で、SSH(スーパー・サイエンス・ハイスクール=理科教育特別推進)指定校だということだけは聞こえている。
とても広い場所なので空き地の時は散歩するのにちょうど良かったが、工事が始まりフェンスで仕切られて校地が裏山に接し外周を巡ることが出来なくなったので見に来ることもなくなっていた。
そこに勤務するのはどんな気分がするのだろう。便利と言えば便利だが、運動不足がちの自分としてはせめて通勤で歩くぐらいのことはしたかったなと思ったし、ちょっと買い物に出ても生徒に会いそうでプライバシーが保てない不安も覚えた。断ることは出来るが、仕事がないと生活が成り立たない。決まってしまったので仕方ない。
初めて出勤する日、校門を通り抜けていく時には何だか妙な気分がした。いつも外から眺めるだけだった場所に入り込むというのはこんな気分がするものなのか。
着任すると、学校の色々な慣行についての説明があった。出勤時刻と退勤時刻。台風時や通学経路の寸断などで休校になる条件。担当科目の時間割と担当クラス。学校内の地図。生徒の出席・欠席の記録の仕方。授業に集中させるためのルール。授業以外に担当する仕事は、進路指導部四年制大学進学係と遠足・修学旅行の充実を図るための研究をする校外学習委員会委員。それに物理部・舞踏研究部・柔道部の顧問。特別教室の掃除当番監督。各分掌・教科の予算請求額の調整をする会計委員会の進路指導部選出委員。
職員室の指定された座席から普通教室の並ぶ校舎に歩き出してみると、廊下沿いにクラブの連絡黒板があり、部員募集・公式戦の日時や結果、ミーティングの日時などが書かれている。運動部が二十一、文化部が二十二。
理科の教師団は、SSHとして生徒に幾つかのプロジェクトを作らせるということをしていた。一見途方も無いテーマを立てて、生徒たちにその解決に知恵を絞らせるというものだ。着任してまず聞いたのは『恐竜の体色解明プロジェクト』というものだ。恐竜の絵を見るとたいてい灰緑色で塗られている。しかし実際は全然分かってないそうだ。なぜならピューマもシマウマも死骸が朽ち果てると同じような物が残るだけで、あの美しい色や模様を窺わせる材料が残らない。それと同じことらしい。だから恐竜がトラやアゲハチョウのような華麗な色彩と模様に包まれていた可能性が無いわけではないのだ。もちろん現在の図鑑に描かれるような灰緑色である可能性も無いわけではない。ならば、トラやキリン、パンダがあのような色や模様をまとうようになった原因を探りたい。大ざっぱな推測を言えば、その土地にある材料で間に合うように動物も植物も出来るのであって、その結果保護色という物も出来ているのではないか。つまり動物の外観とその周囲に生えた植物や土壌の特色との関連性がつかめたら、恐竜の外観も生育地の状況からかなり正確に推定できるはずだ。だからその仮説に基づいて体色を決定しようというのだった。
「理科の先生が、その仮説を立てたんですか」
着任者として受けた説明会でそんなことを聞かされたので早速質問した。サイエンス科の科長という人は、
「とんでもない。生徒から出て来たんですよ。面白い意見でしょ。そういう風には世界的にもあまり研究されてるものでもなさそうだし、実を結べば大変なことになりますね」
と言った。
期志丘は自分の高校生時代に文科系進学希望の仲間と社会問題や政治について議論したことを思い出した。「なぜ景気は変動するのか」「拾った財布を交番に届ける人と届けない人が同時に存在するのは何故か」といったことだった。それに似ている。他のテーマは忘れたが未知を解明しようとする意欲や社会構造に関わる得体の知れない問題への恐怖のようなものを感じていたことを思い出した。
他に『殺気・胸騒ぎは何によって伝わるのか』『ファーブル昆虫記の提起した課題を全面解決する』ということを考えているプロジェクトもあるということはしばらくしてから聞いた。物理・化学・地学の領域でも、これに匹敵する意表をつくテーマが掲げられているのだろう。教員は教員で、石油化学製品の構造を簡単に見破る方法を開発してゴミの分別に役立てようとしている人や、記憶を高める薬の開発ということをしている人がいるらしい。
国語科会で驚くことがあった。メンバーとの顔合わせと予算委員・人権委員といった教科選抜の役員互選のために開かれた会だったが、もの凄い美貌の女性がいたからだ。皮膚がきめ細やかだとか、髪型が顔の形を生かしているとかいった類の細かいことは期志丘の観察では分からない。色も白いというよりは小麦色というか少し日焼けしているので、肌については他の人と違うわけではなさそうだが、目鼻や口といった顔を構成する材料の形と配置が整っているということなのだろう。天は二物を与えないというなら彼女からは何が削られているのか、などということを考えたほどだ。他の女性たちの容貌は失礼ながら平凡以下といったところだから、余計に彼女の美しさが際立ったのかも知れない。名前は栗木さやかといった。
出勤してしばらくするうちに、栗木さんがいつも肘まで覆う長い手袋をはめているということが気になってきた。黒か濃紺の地に赤や黄、緑などの鮮やかな色で細かい模様が入っている美しい手袋だった。初めて会った時には気にしなかったし、初めの頃はたまたま何かの都合でそうしているのだろうと思ったのだが、それからも彼女はずっとはめたままだ。授業から戻ってチョークの粉を落とすために手を洗う人は多いのだが、彼女は手袋の上から水を流して洗う。手袋はそうして美しさを取り戻す。食事の時もそのままで箸を使っている。最初は理由を知りたいと思ったが、誰も話題にしないのでひょっとすると尋ねるとまずい理由があるのだろうと思うようになり、知りたい気持ちを抑え込んでいる。
彼女とは同じ学年の同じ科目を担当することになっていたので、日に何度も口を利くようになったし、以前からの習わし(本日あるいは数日内の会議の連絡はどこどこの黒板に書いてある・視聴覚室や会議室などの使用予約はこのノートに書いておくといった仕事に関わる雑知識や、職員室でお金を出し合って買うコーヒー類の会費をどう支払うかといったことなど)や学校内の噂話を笑いながら教えてくれることが多い。初日の主任たちによる説明会だけでは網羅しきれない情報が提供される訳だが、しかし彼女自身の手袋について説明することは一切ない。
期志丘が授業準備に一段落ついて一息ついた時、職員室の端で、一人の男子生徒が教師と話していた。
「ヒンドゥー教では牛は神の使いだから食べてはいけないと言いますけど、昔は食べてたんですよ。『リグ・ヴェーダ』の中に、牛肉はご馳走だとか結婚式で食べたとかいうことが書かれているんですよ。ついでに言えば、御釈迦さんも豚肉を食べてそのせいで亡くなったらしいですね。昔から肉食妻帯を禁じられているなんて大嘘ですよ」
そうなのかと思いながら聞いていた。
「何か食べて死んだという話は徳川家康の天ぷらみたいね」
相手していたのは社会科の野辺真弓という人だった。笑っている。
「そうなんですよ。でも開祖が食べてるのに、浄土真宗以外でどうして禁じられてしまったのか不思議ですね」
その話をしていた生徒が、直後に数学の教師のところへ行って、
「波動関数にはフーリエ級数が適用できるんですね。正規直交系ですから……」
という言葉を発したのを聞いた。期志丘は少し離れた席の別の数学科教師、河東洋平さんに、
「フーリエ級数って何ですか」
と尋ねた。期志丘もそういう単語を耳にしたことはあったが内容は全く知らない。そんなことを知ったところで仕方ないのだが、好奇心が働いた。
「周期的に変化する状態を表した関数を同じく周期的に変化する三角関数のサイン波で表そうという級数ですよ。三角関数と微積分と複素数の合体物だから難しい。大学で理系の学生がまず直面する大きな壁ですよ」
「そんなレベルなの」
内容はやはり分からなかったが、難しさのレベルだけは分かった。期志丘たち文科系進学希望だった高校生には絶対に不可能な議論だ。
「そうですよ」
「あいつ」
とあごでさっきの生徒を示しながら、
「その話をしてますよ」
と言った。
「生徒の記憶が良くなって、あいつみたいなのがちょくちょく出てきてますよ」
と返事した。生物科が開発中の記憶増強剤が、希望する生徒に提供され始めているらしい。ほとんどの生徒が服用しているのだそうだ。
「すごい記憶力ですねぇ。びっくりする」
文科系の話題だけ、理科系の話題だけ、特にその中の一分野に絞っての議論ならあり得ることかも知れないのだが、その両方をやってしまう生徒がいる! 期志丘がひどく感心しているので、栗木さんが、
「期志丘さんだって、相当なものよ」
と言った。栗木さんは中古文学(平安時代の文学)が専門だったので、先日は藤原道長について話が弾んだ。
「花山院が出家したのは寛和二年で道長二十一歳の時だったよね。この頃に蔵人として殿上人になってて」
と言ったのは、『大鏡』と『栄華物語』の話題に関してのことだった。
「翌年、結婚したのよね」
昔は結婚年齢が若かったと思われているが、儀式としては現代人と大して違わないこともあるのだ。
「そう、さらに翌年、永延二年、娘の彰子が生まれた。息子たちはみんなその後から生まれてるから、男女平等の相続制度なら彼女が直系ということになってたんだな」
「出来事の元号まで覚えてるわけ?」
「うん? おかしい?」
「おかしくはないけど、よく覚えてるものね」
「そうかな」
「順番は覚えても、元号まではなかなか。史学科の人はみんなそんなの?」
期志丘は国語の教員免許を持っているから国語科に着任したわけだが、本当は歴史学が専門なのだ。もちろん日本史の教員免許もある。
「さぁ。話題にしたことはないね。みんな覚えてるんじゃないかな」
彰子は満十一歳で十九歳の一条天皇の后の一人になった。従えた女房は四十三歳の赤染衛門、二十一歳の紫式部と和泉式部、一歳下の伊勢たちだ。
ついでながら彰子より十二歳年上だった定子の女房は清少納言以外、著名な人はいない。もちろん当時は有能さが際立った人ばかりだったはずだが。この頃の清少納言は赤染衛門と同じ程度かもっと上のかなり高齢だったと思われる。
「長保元年十一月のことで、翌年の十二月に定子が亡くなってしまうから、二人が張り合ったのは丸一年ほどのことに過ぎなかったのに、文学をやってる人の中には何だか紫式部と清少納言の二人による代理戦争が何年もずっと続いたみたいに思ってるのがおかしいんだね」
「そうなの。初めて知った時はびっくりした」
そんなやり取りをしていたため、栗木さんには期志丘のことがとてつもない記憶力の持ち主と思われたようだ。
「でも、あいつは高校生だよ」
「確かにね」
あぁいう話ができる生徒がこの学校では珍しくないようだ。それから何人も見かけた。というのは、この学校が優秀だからということなのかも知れないが、それにしてもレベルが高過ぎる。
その一方で校舎の二階で押し合いをしていて転げ落ちた生徒がいる。下に剪定くずや芝刈のくずをうずたかく積み上げてあったので命に別条はなかったが、大けがをしたようだ。
その報告を職員会議で聞いた時、期志丘はいやなことを思い出した。
子供の頃に近所の子が崖から転落して死んだ。
全く関係ないことなら良かったのだが、実は期志丘が落としたのだ。その時の様子ははっきりしない。良い思い出ではないから、忘れたいという気持ちでいたからかも知れない。罪悪感も無かった。死体は見なかったし、そのことについて誰かから何か尋ねられた記憶もないのだ。
期志丘が国語科で次に親しくなったのは門菊稲能という五十歳ぐらいの女性だった。栗木さんしか美人のいない国語科だけではなく、学校全体を見渡してもこの人ほど不細工な顔は無いと思う。まずい顔の表現にしばしば「鬼瓦」が引用されるものだが、この人の顔はちょうどそれに当たる。目つきが悪いし唇の端が跳ね上がっているようで、何かおかしくて笑っているはずの時も恐ろしい顔に見えることが多い。顔の造作は何によって決まるものなのかと考えたほどだ。歯並びも良くない。期志丘の友人は中学生の時に歯の健康優良児に選ばれかけたのに八重歯があるという理由で失格になった。パッと見て気付かないようなものだった。それと比べると門菊さんの歯並びはひどい。お気の毒だなと思う。女性の容貌をいちいち気にしたことのなかった期志丘でもそう思ったのだから、女の顔に見えるのが不思議なぐらいだ。そのせいかまだ独身のようだ。栗木さんの顔と比べるとこの世の不公平を痛感する。足して二で割れば、平均を少し上回る顔になりそうなのだが。
その人が、期志丘が『近世文人』というタイトルの本を机上に置いてヒマがあれば少しずつ読んでいたのを見て、話し掛けてきた。門菊さんは江戸時代の文学を研究しているそうで、近世文人については、例えば広瀬淡窓や服部南郭に詳しいようだった。期志丘は国文学の近世期(江戸時代を中心に、安土桃山時代や明治時代初期も含む)のものを専攻していたわけではなく、日本史学で近世期の哲学的な思潮の研究をしていたのだが、対象がかなり重なっている。それ以来、よく話し掛けられるようになった。そのうち見慣れてしまって容貌のまずさは気にならなくなった。
期志丘が家から自分専用のコーヒーメーカーを運んできて淹れていると、
「いやぁ、いいわね」
と羨ましそうな顔をしたので半分分けてあげようとしたら、別に飲まなくてもよいそうだ。彼女はコーヒーなどの香りが大好きということだった。
「お早う御座います」
期志丘が出勤前に、黒いゴミ袋に入った生ゴミをぶら下げて市が指定している収集場所に来たら、隣家の奥さんも来ていた。少し年上だがまだ若い。なのに老けて見えるのが気の毒だ。話題が人の噂中心だからそう思ってしまうのかも知れない。
「お宅、この頃、よく緑牧高校の方から出てきてますね」
「えぇ、あぁ、そうです。この春から」
「ひょっとして、先生?」
「そうです。国語の」
「まぁ、そうなの。ずっとぶらぶらしてらしたから、結構な御身分と思ってたのよ」
「そんな」
一体どんな身分と思っていたのか。近所の奥さんたち皆で勝手な憶測を述べ合っていたのだろう。
ゴミを出して、学校に向かった。
【4・裏返し猫】
父親が入っている老人ホームから期志丘に電話がかかった。母親と離婚してからほとんど交流が無かったのだが、入居に必要なので保証人になっていた。記憶喪失状態になってしまったという。転んで頭でも打ったのかと思ったがそうではないらしい。ゆるゆると体を動かしていてそれで記憶がなくなるということもあるのだとか。入院させるので、その費用を覚悟してほしいというのが電話の趣旨だった。
さっそく久しぶりの見舞いに行くと、黒ずみとシミが目立ちツヤが無くなって粉を吹いたような顔ですっかり老人らしくなってしまっていた。歩き方にも力強さがない。前から衰えて来ているとは聞いていたが、いよいよ終末期らしい。
ホームの人が言った通り、ものが分からなくなって会話が成り立たなくなっていた。アーとかウーとかいう意味の無い発声はするのだが、息子とかお金とか誰でも知っているはずの単語の意味が理解できないようだった。これでは確かにホームでは世話しきれないだろう。病院はこういう患者をも相手するのだと思うと、頭が下がる。介護保険の申請などで二日間休暇を取った。
父の様子を見ていて、記憶は何のためにあるのかと思った。記憶が無くなるということはもう記憶しなくてもよいからということなのかも知れない。新たに知る必要が無いとか、思い出す必要が無いとか、そういうことではないのか。そうとすると自分が様々なことを記憶しているのは、どういう点を覚えていなくてはならないということなのだろう。覚えていて便利なこともあれば、忘れてしまっておきたいこともある。
出勤すると、国語科のメンバーにどうしたのかと盛んに尋ねられた。期志丘が休暇を取ると、同じ教科の誰かがその日の期志丘の授業クラスに自習の監督に行かなければならないことになっているので、休暇の内容に関心があるのだ。長くかかりそうだと覚悟を決めねばならないし、場合によっては代理授業の担当者を決めなければならない。父親がちょっと具合が悪くなったと言うと、しきりに同情された。その後まもなく父は他界した。
今日は中間考査の問題を完成した。後は印刷して袋詰めするだけなのでちょっとのんびりした気分になっていた。学期の後半に取り上げるつもりの『平家物語』を全文読み通しておこうかと思い付いて、図書室に行くつもりで腰を浮かせたところで、職員室の電話が鳴った。期志丘自身にかかって来ることもあるので、立ったままちょっと動きを止める。国語科の呉味真智子さんが取った。
「……はい、あ、そうですか。さぁ、どうでしょう。それを専攻した人間がいるかどうか、いちいち把握しておりませんのでね。もし、他に適当な方を御存知なら、そちらを手配される方が手っとり早くて確実だと思いますよ。えぇ、あ、そうですか。まぁ、聞いてみますけどね。はい、では」
電話を切った呉味さんがパーマを当てたばかりのように丸っこくなった髪を撫でながら、隣席の須賀知美さんに声をかけた。
「ねぇ、大学で上田秋成を専攻した人って、いるかしら」
「期志丘さん、江戸時代よねぇ」
須賀さんが振り向いて、声をかけてきた。物覚えがいいので質問すると色々教えてくれるが、怖いことも多い人らしい。銀縁の眼鏡で眼光鋭く見えるのかなと思う。この人と物覚えのことについて話した時、門菊さんには負けると言っていた。長く人権教育の担当をしてきて関係の本を読みまくっており、それをきちんと覚えていて、この本にはこう書いてあったと教えてくれるそうだ。上には上があるらしい。自慢する気は無いが、記憶の良さで話題にされそうになったら恥ずかしい。
「僕は江戸時代が専門と言っても、歴史学からアプローチしただけで、文学と違うからなぁ。どうして上田秋成の専門家を探すんですか」
「うん、市の教育委員会がね、市民講座で『雨月物語』の読書会をやりますと宣伝してから担当の先生が倒れてしまったんだって」
「高校の教師に言わなくたって、国立大学が二校、私立大学が三校、すぐそばにあるのに」
期志丘の疑問に、呉味さんが市の教育委員会の代わりに返事する。
「大学に全部断られたから、高校になったんだって」
「高校の教師が行ったら、講座を受けに来た人はがっかりするだろうな」
呉味さんが言った。
「ウチがこの辺りの高校では、一番評価が高いのよ」
「進学実績と、大学の専攻とは関係ないと思うけど」
須賀さんも笑う。
「上田秋成をしっかり授業に取り上げてる学校は、きっと進学実績が上がらないと思うよ」
チャイムが鳴って、授業から戻って来た国語科の教師たちに呉味さんが尋ねて回っている。
「えぇ、栗木さん、源氏なの? うわぁ、当てにしよう」
『源氏物語』が専門だったとは、みんな知らなかったらしい。その栗木さんが、
「門菊さん、読本が専門とか言ってなかったかしら。馬琴かも知れないけど」
と言って、やはり戻ってきて手を洗っている門菊さんの所へ行った。手を拭きながら、
「私は、ずばり上田秋成ですよ」
と言っている。門菊さんは土曜の午後、少し離れた私立の短期大学へ非常勤講師として教えに行っているのだ。高校の教師でも大学で教える人がいる。みんな知らなかったらしい。
「教科主任、胸を張って推薦できる人を見つけたね」
栗木さんが、呉味さんに大きな声で言った。
「それはいつなの」
自分の席に戻って来て、教科書とチョーク箱を置きながら、門菊さんが静かに尋ねている。
「日が合うなら、行ってもよろしいけど」
呉味さんが、メモを持って話してから、
「ワァー」
と声を上げて、両腕でバツ印を作った。
「うちもダメですと、断らないとね」
須賀さんが言う。門菊さんが、
「期志丘さん、江戸時代の社会思想史でしょう。行ってやったらいいわよ。皆さん、変に専攻を意識するけど学者ばかりを相手に研究発表するんじゃあるまいし、大丈夫ですよ。上田秋成を本当に専攻してる学者なんて全国で三十人もいないのよ。大学の先生を探すのはほとんど無理ね」
と、期志丘の方を向いて言った。
「先生は、何でダメなんです?」
「その日はね、研究会仲間の法事があるのよ」
期志丘がはっきり断らないので、呉味さんが、
「じゃあ、期志丘さん、OKですって市教委に言うよ」
と、電話に指をかけながら言った。
「先生、どシロウト丸出しでは講師は務まりませんよ。ちょっとポイントを教えて下さい」
門菊さんは少し探し物をしていたが、
「あぁそうね。ちょっと待ってね。五時間目に小テストを予告してるから」
と、プリントの原版を持って印刷室に行った。少し印刷してB6判に切るだけなのですぐに戻って来る。
「大抵、講座を受けに来る人は、古典文学全集の一冊を持って来ますね。岩波の大系や新潮の集成、講談社の全集ぐらいかな。岩波以外は、口語訳がついてるから訳す必要は無いけど、こっちも皆が持ってない物を一冊持ってると心強いよね」
江戸時代の文章なら、あえて口語訳する必要もないなと思いながら、
「先生、何かいいのを貸して下さい」
と頼んだ。
「そうねぇ。図書室にあるから、あれを借りよう」
一人でつぶやいて職員室を出て行き、しばらくするとやたら分厚くて、赤い表紙の本を一冊持って戻って来た。
「この本が便利だと思うな」
そう言って渡してくれた。『雨月物語評釈』という題名だった。少しめくってみると本文以外の付録ページが多い本だ。
もう知ってる人が講座を受けに来るかも知れないけれど、『雨月物語』は日本の文学史の上で忘れることの出来ない名作の割に、晴れやかさに欠ける所がある、とも教えてくれた。
「まず、江戸時代の文学作品は大抵、自筆の稿本も見つかってて、版本になる時にどう変化したかが分かることが多いんですよね。でもね、その稿本がまだ見つかってないんです」
作者の直筆の原稿が稿本。原稿の本というつもりだろう。それに対してサワラの木を彫って印刷の原版を作って印刷した本が版本。出版されて出来た本ということだ。
自筆の原稿から、出版社が仕上げるまでの間に、まだいろいろな作為が加えられるという。そういう説明を聞いて、期志丘はやっぱり自分は古典文学については素人に近いのかなと思った。考証学も書誌学も中途半端にしかやってないもんな。考証学というのは由来はともかく大雑把に言って微細な表現の違いから執筆者の意図を正確に掴もうとする学問である。書き写されたたくさんの本を比較することで作者自身の書いた本文の形が分かったりする。昔は書き写す時に変わってしまったりしたので必要になった学問だ。書誌学は物体としての書籍が元々どんな状態だったかを究明する学問だ。なぜその紙を使ってあるのか、なぜその綴じ方をしてあるのかということから正確な出版年を確定したりする。話が長くなりそうなので、打ち切り、自分も急いで小テストの準備をしに印刷室に走った。
『雨月物語』は、出版社の予告や作者が序文で記した年号から、実際に出版されるまで八年もかかっている。門菊さんによれば、八年もかかるのはいくら悠長な江戸時代でもやはり異様な出来事だという。
「しかもね、最晩年、秋成は知り合いに『雨月物語』の作者であることを詮索されると随分怒ったみたいでしてね。どうして作者だということを隠そうとしたのかも謎なんですよ。作品を何度読み返してもそのヒントになることが書かれていないの。他に残っている文章でも参考になりそうなことが書かれていないし」
「何か恥ずべき作品なわけですね」
少し笑って言った。大学の国文学の講義のテーマは、色好み・好色・性といった物が多く、受講しているという話が出るたびにサークルの仲間に冷やかされたものだ。
「いえいえ、立派なものですよ。エロもグロも無い。人間の心理を確かにつかんで書いている卓越した純文学であり、同時に大好評を博したエンターティメントという、シェークスピアみたいなおっさんでね」
「シェークスピアと並ぶとはすごいですね」
あまり読んだことはないのだが、様々な観客を想定した脚本を書いているとはよく聞く。文学や哲学に明るい人も、ただ美人や美男を見るために劇場に来るだけの人も、あっと驚かせる仕掛けをしてあるらしい。
「私は惚れ込んでますよ」
門菊さんはそう言ってにこにこした。この頃、期志丘には彼女が笑っているのが分かるようになってきた。
「まぁ、こういうことかなという推測も一応はあるんです。森山重雄という学者さんがまとめてあるんですけど、宝暦十三年(1764)高松藩の松平頼恭が崇徳院の没後六百年祭を挙行していましてね、それより前の延宝年間には祠を寄進し田圃も付けるし、元禄時代には遺骨を祀ってある寺に領地を寄進するということをしてあって、要するに崇徳院の御霊、天皇や上皇で恨みを残して亡くなった方の霊魂のことを言うでしょ、それが何をしでかすか分からないのが怖かったんですよ。その崇徳院の御霊が源平ひいては政治の行方を決定するという話が『雨月物語』には埋め込まれてしまっている。序文の年号は六百年祭から僅か五年後。幕府が懸命に鎮魂しようとしているのに、これはまずいからさらに三年かけてほとぼりの冷めるのを待ったと考えられる。それでもまだ危ないから正式の公許出版としては出せなかった。無届け出版だったらしい。こういう状況でしてね。秋成の死後なんですよ、正式の出版は。
他に残っている文章からも参考になりそうなことが無い。だからやはりそれが原因だろうと私も思います。ただこの推測が正しいとしても、秋成がどうしてそこまでしてそんなものを書いて、そして出版したのかというのが疑問でね」
「そんな危ない本だったんですか」
子供の頃にはただ怖い話が詰まった本と聞いていたように思うのだが。
「政治的に危ないのは第一話だけなんです」
崇徳上皇が主人公の話だ。
「じゃあ、それさえ外せばOKじゃないですか」
「まぁ、政治的にはそうなんですけど」
「書くと儲かったんでしょう」
「勿論そうなんですけど。第一話の問題は本気で幕府が怒り出したら、山東京伝みたいに手鎖五十日といったぐらいの罰では済まないでしょうからね」
それ以上なら死刑か島流し、軽くて所払い(元の居住地に住めなくなる)だろうか。
「崇徳院の話以外にもたくさん書いてましたよね。それも極めて結晶度の高い作品ばかり。だからその一話だけ原稿を差し替えるか、思い切って削除してしまっても売れたと思いますけどね」
「私もそう思います。でもね、そうすると今度は短編の話と話との間に仕組まれた鎖のような構造が生きてこなくなるんですよ」
第一話と第二話との間には特有の共通性があり、また対称性がある。第二話と第三話との間にもそういう共通性と対称性がある。でも第一話と第三話との間にはそれが無い。そうして最後の話と第一話との間にもそういう構造が存在しているという。
第一話 《白峯》死者・生者の意思疎通の不能と未来の姿を示す話
第二話 《菊花の契》死者・生者の意思疎通の可能と信義のために約束を守って霊魂が帰る話
第三話 《浅茅が宿》愛情のために約束を守って霊魂が帰り、古代の少女が水に投身する話
第四話 《夢応の鯉魚》水に入った芸術家の夢、すなわち異界(冥府)から帰った人の話
第五話 《仏法僧》異界(冥府)からかろうじて帰った人の話であり、修羅道(地獄の一つ)に落ちた人たちと対面した話
第六話 《吉備津の釜》愛を裏切られた女の生き霊との不思議な対話と男の頼りない性格を問題にした話
第七話 《邪性の淫》女の淫らな性格という問題と愛欲のために鬼の本性を現して自滅した女についての話
第八話 《青頭巾》鬼の本性を現して自滅した僧侶と唱導歌(仏の教えを歌にしたもの)によって悔悟した話
巻末の第九話 《貧福論》一種の詩句によって未来を大悟する(迷いを去って悟りの境地に至る)話
連歌の「付け合い」という技法を物語に使ったようだ。五七五に合う七七を詠むと、次の人はその七七に合うように全く雰囲気の違う五七五を詠まねばならない。難しいだけに物語にこの構造を組んだことは誇らしかったに違いない。
「どうしても書きたかったわけですね」
「でしょうねぇ。本物の文学者にはそういう過激さがあるものでしょうからね。まぁ、もちろん今回の講座で触れるべき話題じゃありませんから、質問されても知らないと言っておけばいいと思いますよ。今回はあくまでもピンチヒッターで、次は本来の講師がやるんですから、その人に任せてしまえば良いんですよ」
「なかなか大胆な作家だったんですね」
「でもないと思いますよ。私たちがタイムマシンで急に入り込んだら無防備で危なっかしいでしょうけど、やっぱり江戸時代に生きていた人ですからきちんと気を付けていたと思いますよ。だからこそ作者であることを認めなかったんだと思うんです。まぁ、これが『雨月物語』に関わる謎の代表。他にも分からないことがいっぱいあるけど、この謎があることを知っていれば、秋成についてド素人とは思われないわ」
三週間ほど先のその当日に向けて、『雨月物語』の勉強をしないといけない。
【5・講座】
期志丘は秋成講座の講師をする前に柔道部の合宿付き添いの仕事があった。流綱惟人という理科の教師と二人で。小柄で華奢な人だ。尋ねてみると、やはり自分では柔道を教えられないという。
「高校の授業では習いましたけどね、乱取りでは投げられてばっかりでした。書類にハンコを捺すだけの顧問ですよ」
クラブ合宿の付き添いは、本当に横にいるだけで何もすることが無かった。技術指導は、本校の体育科御用達になっているスポーツ用品店のおやじが監督としてやってくれているし(癒着だな)、合宿中のケガは部員同士で治療してしまうし、どうして二人も付き添わないといけないのか不思議な気がする。万が一救急車を呼ぶ事態になれば、確かに教員は二人必要になるのだが。まだ流綱さんは代表顧問として更衣室の鍵を持ち歩いたり、生徒の財布や家の鍵、定期乗車券、スマートフォンを入れた袋を首から提げているので存在価値はある。期志丘の方は本当にヒマで仕方無い。食事の手配も監督がしてくれているので、早く寝ろと声をかけるぐらいしかない。それも日中の練習で疲労しているので放っていてもすぐに寝てしまう。かろうじて温水シャワーの、火元のチェックを課して仕事をしているような気分を味わうことにした。
二日目の土曜日は二人で朝から晩まで、ぼんやり道場の隅に座って練習を見ていた。
ガツン、バツンと鈍い音が絶え間無い。それ以外は、おー、とか、うー、とかいう何を言っているのか分からない声が聞こえるだけ。時々、学校の近くを走る車の音が聞こえるが、それも極めて稀だ。
「流綱さんは、物理の何が専門なの?」
「僕は本当は生物の教師なんです。転勤してきたら、物理をやれと言われてびっくりしました」
学生時代は補聴器の利便性を高める研究をしていた。今は電池を使わなくても良い方法を探っているそうだ。
「人体から電気を取ろうとしても、無茶苦茶になるだけでしょう」
期志丘が言うと、
「いえ、自然には無駄がありませんよ。無意味に上下するはずはありません」
と反論した。上下するのは人間の技術力不足によるものだというのだ。その補聴器そのものの話から超微細な音を拾う話になっていた。
「流綱さんの器械で、サイエンス科でやらせてる培養中のカビの声を聞かせたら、生徒はもっと懸命に作業するかも知れないね」
「カビの声か」
流綱さんは上を向いてしばらく考えているようだった。
「そぅ」
「カビが声や音を発しているかも、なんて考えたこと無かった」
「いや、流綱さんが面白そうな話をするから」
「仲間には視覚や触覚の拡張を目指してる人がいますよ」
「今度、門菊さんが上田秋成の遺体を掘り出しに行くんだ」
「遺体の掘り出し?」
「身長なんかを測るらしい」
「ぞっとしますね」
「でも、珍しいカビは採れるかもね」
「あぁ、カビか。……なるほど」
雑談をして翌日も退屈をしのいだ。ようやく月曜を迎えた。朝七時に起床して、運び込まれた食料で朝食を摂る。合宿としては他の学校でしていることと全く同じだろう。違うのは、この時に記憶増強剤を摂る生徒が多かったことだ。期志丘は薬には見えないなと思った。中に増強剤を摂らない生徒もいた。どうしてだろうと思ったので、そっと尋ねると、湿疹がひどいことになるという。それがこれの副作用らしい。どんな成分で出来ているのだろう。ともかく物覚えが良くなり、どういう仕掛けか分からないが洞察力が高まるそうだ。推論の糸口を探すのが早くなるというからなかなか素晴らしい。
しかし食べる直前、生徒たちが小さな鉢を抱えて材料を練らなければならない。面倒臭いことだなと思った。
「いちいち練らないとダメなんですか」
「作り置きが出来ないんです。みんなそれ用の鉢を持ち歩いてますよ」
この薬は今年になって出来たばかりで、この学校の関係者にしか知られていないが、管理職は正式の薬として売れば学校の財政に大きなゆとりが生まれるので製薬会社との協力に乗り気だ。しかし、作成した教員がなぜか拒んでいるのだそうだ。世間に溢れるようになれば、この学校の成績の優位性が損なわれるかも知れないし。
そんなことを考えているうちに、ふと嫌なものが浮かんできた。期志丘が小学校に上がる前のことだった。近所の子が崖から落ちたことになっている話がある。自分で降り損ねて転落したということで片付いている。実は期志丘が背中を押したのだ。たった今、押した相手の後頭部が浮かんできた。トンと押す直前に見たあいつの頭。せっかくすっかり忘れていたのに、はっきりと見えてしまった。生々しい姿だ。思い出したものがあいつの頭でなければ良かったのだが。間違いない、俺には分かってしまった。いやだ。思い出したくもないことなのに。この前にも何かいやなことを思い出したような気がする。いやなことは思い出したくない。
最後の練習に生徒が出て行った後、使用場所の片付けをする。第二更衣室を元通り普通の授業の更衣が出来るように完全に荷物を取り払わなければいけない。九時に弁当屋が来て大鍋を持ち帰り、十時ちょっと前に貸し布団屋が寝具一式を受け取りに来た。個人用の食器は生徒が袋に入れて自宅から持ち込んだのをカバンと一緒に道場の脇に持って行っていた。ガランとした更衣室を流綱さんと二人で体育館舞台横の倉庫から持って来た用具で掃除しようとしたら、小火が出ていてびっくりした。流綱さんと二人で慌てて消した。何も無いのに温水シャワーのガス管に沿って炎の跡が付いた。流綱さんが道場へ駆けつけると、ちょうど練習を終了したところで、監督の講話中だったようだ。全員で礼をし、流綱さんが解散宣言をし、監督に挨拶してようやく合宿付き添いを完了したが、その頃消防署や警察署の係官がやってきて事情聴取。教頭も血相変えて飛んできた。期志丘は火元のチェックをしていたつもりなのに情け無い。代休の手続きを取って帰宅する。ずっと生徒と一緒に過ごしていたのと、異例の出来事で疲れていたのだろう、ぐっすり眠っていた。
市民講座では、中年高年の女性たちが来た。男性は僅かだ。
「期志丘先生、甘い物ですけど召し上がりますか」
正月のおせちのきんとんのようなお菓子を持って来た人や、甘納豆を炊いてきた人、珍しいケーキを焼いてきた人などがいて、始まる前に勉強会と言うよりも懇親会の雰囲気になった。しばらくお菓子を食べて楽しむ。珍しいお皿などまで持ってきて、どこのお店で買ったとか話している。
「さぁ、じゃあ始めましょか」
声をかけると、ようやく皆テーブルについて各々本を開き始めた。三十五、六人ほど。結構たくさん来るんだなと感心。
『雨月物語』の中でいちばん最初の巻である「白峯」を読む。まず、朗読。そして現代語に訳す。
「……強い光の中でしげしげと(崇徳院様の)ご様子を(西行法師が)拝見いたしますと、真っ赤なお顔に、髪の毛が膝まで乱れかかって、白目を吊り上げなさって、吐く息も熱く苦しげでございます。お召しになっている衣は柿色のひどく汚れた修験者のものである上に、手足の爪は獣のように長く伸びて、まるで魔王の姿そのままで情けなく、しかも恐ろしい。天空に向かって『相模よ、相模よ』とお呼びになると、『はっ』と答えて鳶のような怪しい鳥が飛んできて、その前にひれ伏して御命令を待っています。上皇はその鳥の方にお向きになって御尋ねになりました。
『どうしてさっさと平重盛の命を奪い、後白河院門菊仁や平清盛を苦しめないのか。』
すると怪しい鳥が御答えして申し上げることには、
『後白河院の恵まれた幸運はまだ終わりません。重盛の忠義の心や誠の行いのそばには、私は近寄ることが出来かねます。しかし今から干支一巡り十二年の過ぎるのを待ちますと、重盛の寿命はもう尽きておりましょう。この者が死ねば平家一族の幸運はこの時に滅びましょう。』
上皇は手を打って大喜びなさって、
『あの朕にあだをなした敵どもは、ことごとくこの前に広がる海(瀬戸内海)に間違いなく滅ぼし尽くしてやる。』
とおっしゃった御声は谷や峰に響いて物凄いことは何とも言いようがありません。……」
ここの部分が、江戸幕府ににらまれそうな内容なのだ。上皇の意思で政治的な情勢を変更させるという話だからだ。誰かが社会構造を転覆したという話は、幕府永続を願う徳川家の最も嫌う内容だ。
現代の言葉に訳すのは、こういう講座に来る人の半分には余計なことだが、もう半分の人たちにはどうしても必要なことなのである。ただ、余計に思う人たちを満足させるには、多少専門的な話を持ち出さないといけない。
「たくさん地名が出て来ましたね。参考プリント①の地図を見ましょう」
皆が配っておいた地図を見始めたのを確かめてから、続けていく。
「……ということで、あちこちに飛んでいたものが、段々と問題の場所に近付いて来る、収束されて来る、こういう立体的な構成は実は秋成の優れた特徴なんです。ちょうど同時代の作品と言って良さそうな浄瑠璃の『崇徳院讃岐伝説』と、他の作者の読本である『英草紙』の第一話「後醍醐帝三たび藤房の諌を折クジく話」を比べてみます」と、重友毅氏の『雨月物語の研究』の内容をそのまま伝える。
参考プリント①と②を見てもらう。
「あまり地名をうまく使ってないわけです」
質問が出た。「先生、江戸時代の文学というのは、盗作が当たり前だったとかいうことを聞いたことがありますけど」
たった今説明したことと何の関係も無い話題にがっかりするが、仕方ない。
「作者には盗作をしたという罪の意識はないんです。日本では昔から和歌の世界で〈本歌取り〉という技法があって、昔使われたのと同じ言葉を別の意味を足したり、或いは別の世界を描き出すようにしたりさせるのが素晴らしいこととして肯定されてきました。それが物語の世界で大々的に行われたのが江戸時代だと思ってもらえばいいんです。秋成は『雨月物語』の中で今判明しているだけで三百以上の物語や謡曲、宗教書などを利用しています。もちろん、秋成以外には仰るような盗作としか思えないものもあるんですよ。題名だけ彫り直して、挿し絵に人物を二人ほど加えて、足すばかりではもったいないと思うのか、猫を削り花瓶を削ってプラスマイナスゼロで新しい作品が出ましたなんてね。だから作者自身というよりも出版社がやらせていた行為なんでしょうね」
これは江戸時代の出版事情を知らない人には喋れない内容だろうなと思う。門菊さん以外の国語科のメンバーで即答できる人が誰かいるだろうか。江戸時代のことを感覚的に理解出来ているから大丈夫と言われたが、こういうことを指すのだろう。ついでに現代のことも話す。
「今でも、改題されて同じ内容の本が売られているケースが見られますよ」
期志丘は、友人に教えられたことを材料に例示した。
「どの作家もやってるんですか」
驚く人が多い。
「小説に関心の無い人も名前は知ってるというような一流の人はやらないと思いますけど、二流三流クラスで、著書が五、六十に達した辺りの人が危ないみたいですよ。読者の記憶容量に限界があることを利用しているんでしょう」
「知らなかったな」
皆が騒ぐ。
「さすがに、完全に騙すのは恥ずかしいらしくって、表題のページの裏や、本文終了直後で奥付の前辺りに、小さい字で何々という本を改題したと書いてはあります」
これからはチェックしないと余分な本を買ってしまうねぇと言っている。良いことを聞いたという声もある。
「こういう怪談話を書く人って、どういう家庭環境で育ってきた人が多いとかいうことは決まってるんですか」
「難しいですね。現代でも、そういうことは調査されたことは無いんじゃないですか」
別の老年で頭のはげ上がって眉の濃い男性が言った。
「秋成の親父というのはまだ誰か分からないんですよ。名門の武士の息子とか言われてますが、母親が遊女の出身か何かでとにかく養子に出されて、紙や油を商っていた上田という商人の息子として育てられてるんですよね。で、この養父が秋成の本当の父親とおそらく対照的に堅物でしてね。当時、四十代になると老眼で帳簿が読めないということで商人はみんな引退しちゃった。そうすると元気なのに暇だから、四国の八十八カ所霊場巡りに行くなんてことになったんですが、この養父はそういうものに行った形跡がない」
詳しい知識を持っている。こんな人を相手に講義をしたのかと思うと冷や汗が出た。でも自分も何か言わないと。
「八十八カ所を知らないということはないでしょうから、行きたくなかったから行かなかったのか、行けないから行かなかったのかのどちらかでしょうね。事実はまだ分かりませんけどね」
「例えば、行けない事情というのは?」
どんどん突っ込まれそうで、もう黙っていた方が良さそうだと思うが、この問題は切り抜けないと。
「養子にした秋成が商売に向いていなくて、安心できないとかね」
聞いていた他の人たちが笑う。
他にも恐ろしいほど詳しい知識を持っているのが分かる質問があった。特に一番鋭い質問をした老年の男性に、
「秋成を研究しておられるんですか」
と尋ねてみると、まだ研究というほどではないが秋成という名が題名に付いている本は片っ端から購入して読んでいるというのだった。さっきの説明で種本にした重友毅博士の本も読んでいたのだろうか。秋成研究の専門書としては最初期の本で非常に入手しにくいらしいのだが冷や汗がにじみ出る。
「私の説明では退屈だったでしょう」
やけくその挨拶をすると、
「いえいえ、バラバラだった知識がまとまって来ました。有り難うございます」
と言われた。こちらは本当にドキドキした。とにかく、もう終わらないといけない。
「どうでしたか。単なる怪談話という、何となく単純な怖い話のイメージのものではないでしょう。同時代の中では抜きんでた存在だったと理解していただけますか」
この件についての質問は無かったが、この段についての執筆の動機は何かと尋ねる人がいた。
「それは、もし学会で定説があったとしても、まず御自分でお考えになるのが肝心でしょう」
そう答えると沈黙が長く続いた。「定説があるか、次回までに調べてきておきましょう。それでは今日の講座を終わりたいと思います」と言うと、大きな拍手が起きた。そして荷物を持って立ち上がった人々が、「さようなら」と挨拶を交わす一方、
「こんな可哀そうな天皇さんがいたとはねぇ」
と言うのが聞こえて来た。期志丘は『大鏡』という古典文学の授業でも藤原氏の謀略で退位させられた花山天皇という可哀そうな天皇さんの話を扱っていたので違和感が無かった。思いがけない感想だった。
社会教育課の人から日当をもらって引き揚げる。緊張はしたが、予想していたよりは楽だったかなと思った。出版年の謎に触れることもなく、どの人の質問も高校の授業で出る程度のものだったのでホッとした。「第二話」もやって下さいと言われたが、後は秋成専攻の大学の先生か門菊さんに任せた方が良さそうだ。
【6・カビ】
門菊は住職に挨拶して本堂に入り、丁寧に掃除をしていた。今日は上田秋成関西懇話会という小さな文学研究会の主催する法事である。会員の研究者が二人、まだまだ死ぬような年でもないのに最近続けて亡くなってしまった。心臓麻痺だという。それで、二人のことをしめやかに思い返そうという趣旨だ。
会員は二十人ほどで、大学勤務という人は三人。ほとんどは高校教諭だ。大学院生が二人。全員が日本近世文学会の会員でもあるという専門家ばかりの集団である。
先日は生物科の野辺名典彦さんから、
「先生、上田秋成の遺体を掘り出すと聞きましたが、遺体からカビを少し取らせてもらえませんか」
と言われて驚いた。期志丘さんに、遺体を掘り出して身長や体重を量るのよと言ったのを真に受けて野辺名さんに言ったらしい。秋成の遺体は亡くなった時に火葬されており、もう存在しないのだ。野辺名さんががっかりしたので申し訳ないような気分になった。冗談は程々にしないといけない。
そういうものは存在しないが、せめてお墓の周囲に生えているカビだけでも取っておいて上げようと思いついて、庭に下りて作業をする。
「門菊さん、何をしてはりますのん?」
やって来た人が尋ねる。
「勤務先の理科の先生にカビを取って来てって頼まれてるから、ちょっとね」
スーパーでもらってきたアイスクリーム用の使い捨てスプーンで剥がしたカビをビニール袋に入れた。
「カビですか」
「そうなの。あちこちのが欲しいらしいんよ」
国文学者はそれで黙った。カビなんかに関心は無い。
「お早う御座います」
「やぁ、御久しぶりですねぇ」
「五島さんは……」
集まった人同士で挨拶を交わし、会合の趣旨に沿って亡くなった会員二人を偲ぶ話題が続く。
「あれは祟りかもと思たんですよ」
そんな言葉が出ている。
「何の」
「都市計画審議会ですわ」
京都市が市内の交通渋滞に手を焼いている。丹波地方など京都府北西部と東の琵琶湖方面とを結ぶ道路は国道九号線と一号線になるのだが、道幅が十分でなく溢れんばかりだ。国道二十七号線と国道百六十二号線とを繋いで国道三百六十七号線方面に流すバイパスを造れば緩和出来そうである。京都市内のどこを通らせるかが問題だが、今出川通りが一番簡単。京都御所と同志社本部との間を通ることになる。御所は畏れ多いので触れないが、同志社は地下にトンネルを掘るなら文句は言わないだろう。そう思って都市計画原案を立てたわけである。それから気が付いたのだが堀川通り近くに白峰神宮があった。ここには崇徳上皇が祀られている。実は、神宮の敷地を少し削らないと道を通せない。市はどうしても道を広げたい。委員に崇徳上皇に詳しい研究者を招いておいて審議会のGOサインをもらえば、神宮の反対を押し切れるのではないか。そうして参加させられたのが上田秋成関西懇話会の二人だったというのだ。
「崇徳上皇と言えば、他に並ぶ者のない祟りの王者でっせ」
ここに集まっている会員はみんな知っている。それを怒らせてしまったのだと言うのだ。
「道も大事やろうけど、崇徳院様を蔑ろにするとは度胸が有りすぎますわなぁ」
この会は文学研究会であり、きちんと証拠を挙げて議論し合う科学的な会だ。祟りが話題になるというのは珍しい。祟りというものは無いと思うが、やはり自分には白峰神宮にケチを付ける度胸は無いなと思いながら、門菊は聞いていた。
メインイベントである住職による読経と法話の後、順々に焼香をして、亡くなった二人の法事が終わった。
会員達は久しぶりに会った知人とのおしゃべりで、なかなか腰を上げないで話し続けていた。そのうち、近所から騒がしい声や物音が聞こえてきた。顔を上げるともくもくと大量の黒い煙が上がっていて、みんな驚いた。火事ではないか。すぐ近くだ。ここも危ないのではないか。
急いで靴を履いて通りに出ると、人々が荷物を運び出している最中だった。住職を先頭に会員達も救援に出向いた。現場は老舗の料亭で、什器や座布団が運ばれた後だったので、会員達は襖や障子を運んだ。縁側の上から下ろすのを受け取る係が一番腕力・体力がいりそうなので若い男性達が担当し、門菊などの女性や高齢の人は下ろされたものを塀の外に運んだ。
消防車が来たので、足手惑いにならないように会員達は寺に戻る。
「歴史のあるお店みたいでしたな」
「あそこはなかなか高級でっせ。なかなか行けるもんやおません」
高齢の会員が手をひらひらさせながら言う。
「いくらぐらいするんですか」
教師の初任給の半額ぐらいの金額が口にされた。
「うわぁ、恐ろしい」
「一見さんお断りとか」
「そうかも知れませんな。私は最初出版社のおごりで行きましたから分からんけど」
「私、荷物運びで息が切れたわ」
「大変やったねぇ。おおごとにならなんだらええけど」
「いやぁ、もうおおごとになってまっせ」
住職が御茶を配ってくれたので、ようやく息をつけた。やっと解散だ。会員達が靴を履いていた時、髪の薄い会員が、
「あの、襖、無事やったんやろか」
と言った。古都大学の村仲幸夫博士だった。この関西懇話会ではもちろん近世文学会でも上田秋成研究の最高峰とされている人だ。みんなで覗きに行くと、道端で消火の水を浴びてぼろぼろになっていた。
「こらぁ、大変やな」
「どないもならんな。これでは」
みんな呆然と眺めていたが、しばらくして門菊が、
「裏張り、欲しいな」
と呟いた。会員達の目の色が変わった。
昔は紙は貴重で簡単に捨てることをしなかった。必ず裏側も利用したし、襖のように紙をたくさん使う家具の内部には使い古しの紙を封じ込んだ。これが裏張りだ。そうすると新しい紙をあまり使わずに襖が仕上がるのである。使い古しの紙は手紙や帳簿、物語の下書きなど当時の生活や作家の思考を窺うのにとても役立つ。もちろん、そういう研究に使わない人にとっては、ゴミでしかない。
門菊たちは、料亭を覗きに行った。既に鎮火したようだったが、女将や従業員達は立ったまま消防署や警察署の人の事情聴取を受けていた。女将がふと顔を上げた時に、会員たちの中に知った顔を見つけたらしく、会釈した。会釈されたのは村仲博士だった。離れた場所から会釈だけ返す。
事情聴取が終わった女将が、村仲博士に近付いて、
「えらいことになりました」
と言った。
「大変でしたなぁ。人間は大丈夫でしたか」
「それは、御陰様で」
「それが何よりですわ。でもなぁ、長いこと生きてるとこういうこともありますやろ。起きたことはもう仕方ない。また踏ん張って下さいや。私も来させてもらいますわ」
「大きに。……いつ立て直せますやら」
「いや、大丈夫大丈夫。必ず立て直せる。あんたなら出来る」
「大きに。何とか頑張りますわ」
「期待してます。……で、これやけど」
と道端に置かれた襖や障子の山を指した。
「もう使えませんわ」
女将は見渡して溜息をついた。
「どうします?」
「ほかすしかありません」
「ほかす」というのは関西の方言で、「捨てる」の意味を表す。村仲博士が頷いた。
「私ら、国文学をやってる者には、古い襖は宝の山や。全部、もろうても宜しいか」
女将が驚いたような顔をしたが、すぐに納得したようだ。
「全部、行けますか」
「お宅は江戸時代からのお店ですやろ」
「そうです」
「ここにいる人はみんな江戸時代の文学を研究してますのや。江戸時代のものには何でも興味を持つ人たちですわ。全部、引き取りますわ。間違いなく片付けますよって」
門菊は隣で頷いた。周囲にいた人たちもそうしていただろう。
早速、会員の一人が運送業者に電話した。大学の先生は研究費で大量の書籍を買うせいか、そんな業者の電話番号を手帳やスマホに記録している。三十枚ほどあった襖を、希望者十八人で分けた。門菊は二枚もらえることになった。
「何だかわくわくする」
「空振りの可能性が高いで。期待し過ぎは毒や。まぁ運送料だけで、ものはただやからな」
門菊の言葉を村仲博士が笑った。
ようやく本当に解散した。
家に帰る電車の中で、門菊は何だか顔がくしゃくしゃした。どうしたのかな。
期志丘は休んで自習させた時の課題プリントの整理をしていた。ABCのランクに分けて教務手帳に成績を記入し、教室で返しやすいようにきちんと重ね直していく。
それから、合宿付き添い中に流綱さんが言った「自然には無駄が無い」という言葉を思い出していた。父は亡くなる前に記憶が滅茶苦茶になっていたが、それはもう必要が無いということでそうなったのだろうか。まだ必要があれば、もっとしっかりしたまま亡くなったのではないだろうか。そんなことを考えたりしていた。
門菊さんがもらった襖から取り出したのは薄いススの塊だった。それにもカビが生えていた。上田秋成の墓にこびり付いていたのを剥がしてきたカビと共にサイエンス科で教材用に培養するようだ。期志丘はこんな物が本当に役立つのだろうかと思ってしまうが、ビーカーやシャーレに入ったら様になるのかも知れない。
国語科に電話が掛かったので期志丘が取った。無音だ。ほんの少し後からジガジガジガジガという雑音だけが聞こえた。そのまましばらく握っていたが誰も出ない。誰かが掛けて止めたらしい。
国語科の席までカビを受け取りに来たのは野辺名さんではなく流綱さんだった。
「野辺名さんは、培養が得意なの?」
「そう。培養したり、微生物に何か生産させたり、薬品を合成したり、そういうのが得意やなぁ」
期志丘はあの記憶増強剤は野辺名さんの発明と聞いている。
「あの人の感覚では記憶のための薬ではないらしいですけどね」
物質が薬として認められるには大変な手続きがいる。そう言えば、父親が入院中にどこかの薬メーカーが治験の協力者を求めていると聞いたことがあった。治験とは治療試験の略だろうか。要するに薬の効果や有毒性を確かめる人体実験だ。死んだり、植物人間にならないという保証がないので、十分な説明を受けた有志だけを対象に行われる。そういうことも通過しないと薬事審議会・厚生労働大臣の認可を得られない。得られない内は薬と認められないので販売出来ないし、不特定多数の人に渡したりすると、場合によっては毒物として、食わせた者が罪に問われる可能性がある。新薬開発には億単位の金がいると聞いたのだが、そういう手順を聞くと納得出来るし、恐らく煩わしい手続きが続くのだろうから認可申請を拒む野辺名さんの気持ちも分かる。自分がその立場ならやはり断る。野辺名さんは作り方も公開していない。自分の頭に入っているだけで十分だというのだそうだ。製造の材料は同僚たちにせがまれるので、生物科の準備室に置いている。受付などの管理はサイエンス科全体の回り持ちらしい。
「何が入ってるんかなぁ」
「新陳代謝を促進するもの、神経の活動を高めるもの、蛋白質の材料になるアミノ酸、それが中心で、あとはまとまったものにするための糊みたいなものと言ってたなぁ」
「何だか木片みたいやった」
合宿の時に生徒が食べていたのを思い返す。練ったものが完成すると表面張力の働きなのか木片のような形にまとまるのだった。
「そうそう、何に似てると言えばいいのかと思てたけど、木片やなぁ。期志丘さん、さすが国語の先生やわ。的確な表現やで」
「みんな、どう表現してたん?」
「板チョコみたいなやつ、って」
「なるほど」
「でも、絶対木片の方に似てる」
色は板チョコの方に近く、形は木片だ。味は小麦粉の団子のようなものらしい。
カビの培養が進んだ。分量が劇的に増えてきたので、間もなく流綱の器械でも音が取りやすくなりそうだと聞かされた。
この日の帰り、玄関を出て正門まで歩くうちにいやなことを思い出した。
小学校低学年の頃のことだ。そのころ住んでいた家の近所にコンビニが一軒あった。近くに住む子たちと時々買い物していた。
その日、期志丘はアルバイトのお姉さんに呼び止められた。すぐに店長のおじさんも出てきた。お姉さんが期志丘の抱えていた手提げかばんに手を突っ込んで、小さな消しゴムを取り出した。買った覚えのないものだ。どうやら万引きしたと思われたらしかった。名前や家の電話番号を言わされた。すぐに母親が駆けつけてきた。
その頃期志丘は母親をママちゃんと呼んでいたのだが、そのママちゃんが涙を流し続けて止まらないので困った。実はいっしょに店に入った子が悪ふざけで鞄に放り込んだのだったが、真相が分かってからもママちゃんは泣き続けた。ふざけた子が何という名前だったか忘れた。
嫌な思い出である。すっかり忘れていた。どうして急に思い出したのか分からない。あまり心地の良い内容ではない。記憶というのは強くなれば便利なこともあろうけれどこういうこともある。痛しかゆしだと思う。この件は自宅の玄関に入る頃にはすっかり意識から消えていた。
二週間ほどカビの話はなく、期志丘も門菊も忘れていた。授業から戻って出席簿を職員室に戻しに来た流綱が、さっと門菊さんの席に歩み寄った。
「カビの音をつかまえましたよ」
門菊はすぐに流綱さんらがカビをサイエンス科で使っているのを思い出した。
「えっ、音なんか出てるの。なんて言うてます?」
「そこまではまだまだですけど」
流綱さんが苦笑した。
「カビが音なんか発してるの?」
隣から、菜屋さんが不思議そうに尋ねた。
「そうなんですよ。なかなか興味深いものがありますよ」
「どういう風に」
「いや、どのカビもほとんどずっと発している音が一日に二回、一時的に周波数が増えましてね」
その高くなる時刻は、調べてみると満潮干潮の時刻と重なっていたというのだ。早くもそこまで突き止めているんだと思った。理科の人って凄い。
「それは今まで誰も知らなかったことなんかな」
「多分」
「へぇ、それは凄いやないの」
門菊や菜屋が感心する。流綱さんはとても嬉しそうな顔をした。
その声らしいものを生物科まで聞きにいって、期志丘はアッと思った。何かを聞き取ったことよりも、その背景の音にハッとした。あの職員室に掛かってきた電話から聞こえたジガジガジガジガという雑音がかすかに聞こえたのだ。
「何、この音」
「秋成の声なら、ええなぁ」
流綱さんがのんびりした様子で応答える。
「いや、その背景のジガジガジガ」
「えっ、どの音?」
流綱さんは気が付いていなかった。当然と言えば当然だ。こんな小さな雑音に耳を傾ける人はいない。どうしてあの電話に響いて来たのだろう。
「このジガジガジガっていう音、前に電話でかかって来たで」
「いつ?」
「少し前。何も言わんとってこの音だけやから、ただの間違い電話やと思てた」
「何かな、不思議な音やな」
音は何か意味が分からなかった。言葉だと言われれば言葉かも知れないと思うが、肝心の言葉らしいものは日本語ではないような気がする。流綱さんは江戸時代の言葉ではないかと言うのだが。繰り返し聞いた。
「声なんですか」
端床さんが尋ねる。
「いや、声なら良いな、と」
「もしそうなら、大発見ですね」
流綱さんが弾んだ声で答えた。
その直後風が柔らかく吹き付けるのを感じた。あの思い出したくない日の風だと思った。あの時の自分たちがいる斜面の灌木や雑草が風に吹かれて揺れていた。
あの時は崖の険しさに緊張して見回す余裕など無かったはずなのに、それが今浮かんできた。そしてそれがあの日の様子だということが期志丘には分かるのだった。確かにあれを見た。どうして浮かんできたのだろう。頭の中に無かったはずなのに。そして忘れてしまっておきたいことなのに。期志丘は重い足を引きずりながら職員室に戻った。
忌々しい奴だった。しかし、死を以て償わせるべきほどの行為だったかと問われたら、今は躊躇する。
これは、どういう記憶なのだろう。
――記憶は大体全部で七種類あると考えられているようだ。まず大きく二種類に分ける。特定の出来事を思い出させる陳述記憶というものと、体で覚える技能や習慣を維持する手続き記憶というものだ。自転車に乗ったりスキーで滑ったり、ナイフで果物をむいたり鉛筆を削ったりすることが出来るようになると、そうすることが何年途絶えていても再開する時に大して苦労しないですむのは後者の記憶を備えているからだという。
この二種の記憶は、元々短期記憶の形で始まる。これは番号案内で教わった電話番号にそのまま電話をかけるような時に使われる記憶でRNA(細胞の中にある物質。リボ核酸)の変化を伴わない。従って決して長続きしない記憶である。それが何度か再生されてRNAの変更を生じさせると、それ以降体内でタンパク質の再生をする時に該当の事柄を覚えるべきものとして再生し続ける長期記憶になる。
長期記憶は辞典のように他者と記憶を共有する一般記憶(意味記憶ともいう)、他者に語れても共有は出来ない個人的な経験についてのエピソード記憶、そして頭や手で技術手順として覚える手続き記憶の三つがある。つまり陳述記憶が最初は簡単かつ些細なものとして記憶されていたはずなのに、いつまでも残って利用されるうちに固定したものが、一般記憶とエピソード記憶になるわけだ。手続き記憶も最初ちょっと印象に残るだけだったものが、一旦固定すると体の奥深くに潜んで強固な支えになるといったものであろう。
この長期記憶に組み込まれるには、大脳の限界があり、7±2以上の数の単位では一般に無理とされる。物覚えの良い人でも、九つまでは出来ても十以上になるとメモを取るなど大脳だけでない補助装置を必要とするというわけだ。膨大なデータを記憶するように見える人は、きっとそれらを7±2以内の数ごとにまとめる意識化の整理によって実現しているということだろう。短期記憶は耳で聞いた音のままで保持されていて、これは十五秒で消滅する。それ以上記憶し続けているとしたら映像や文字のような別の形で保持されているのだろう。そうなった記憶はもはや短期記憶でない可能性が高い。
記憶が長期記憶になる時に、大脳組織の海馬が何らかの作用を及ぼしているらしい。睡眠をとると海馬の働きが良くなるらしく、学習内容の定着はおよそ六倍も向上する。睡眠中に夢を見ると定着効果が低下する。
これらの記憶は、記録・保持・追想の三つの段階で障害がなければ、思い出したい事柄をうまく思い出すことが出来る。ところがそのどこかの段階でつまづくと、記憶喪失症状を起こす。
その結果、最近の出来事を忘れている、古い出来事も忘れる、既視体験(既聴体験)・未視体験(未聴体験、未往体験)、幻視、作話、近親者を偽者と感じるといった症状を起こす。要するに記憶の混乱である。原因として頭への強い衝撃、発熱、ビタミンB1欠乏、アセチルコリン欠乏、麻薬・覚醒剤の使用、強い精神的ストレスなどが考えられる。これらの問題が起きている時に、歯状回(海馬の一部)のニューロン前駆体というものの数が大きく減少している。従って記憶喪失の改善には記録・保持・追想のどの段階で障害を抱えているのかによって対処法が当然異なるが、大きく二つの方法がある。一つは薬物療法で、まず麻薬・覚醒剤の遮断、ビタミンB1補充、アセチルコリン補充(これは多すぎるとパーキンソン病のような症状を起こすが)をする。もう一つは心身の緊張緩和をもたらす療法である。この二つが治療の中心になる。薬物や物理的な衝撃で肉体を損傷してしまっている器質健忘症による記憶喪失はある水準を越えて改善することは望めない。一方ストレスや栄養不足による心因健忘症であれば記憶していそうな事柄についてのヒント提供などで回復する。――
ということは、いやな記憶はこの逆をすれば良いのか。しかし医者でもない期志丘にそういうことは出来ない。どうすればよいのだろう。
何のためにこういう記憶作用というものが存在するのだろうと思った。しっかり記憶できれば便利な点もありそうではあるが、それ以上のものではないと思う。こんなに複雑なものが存在するには何か重要な目的がありそうなものなのだが。
【7・予言】
定例の職員会議があった。審議題が無く、各部からの連絡だけだった。体育祭が近付いているので生徒会指導部からの連絡が多かった。最後に伝えられた生活指導部の報告が皆を少し驚かせた。
「えー、生指部より三件。一件目、体育祭の準備で残る生徒が多いので、担任の先生、定刻に下校するようにくれ、ぐれ、も御指導願います。二件目、タバコ。該当生徒は三年C組の……。ハイ、三件目。これがなんと言えばよいのでしょうか……」
そう言って一旦沈黙した。皆は生指部長の口元を見つめた。
「該当生徒は三年B組、岩鍔成敏。今まで問題行動の無かった生徒です。その岩鍔が連絡せずに三日間連続で休みまして、電話もつながらなかったので、担任の野辺先生が家庭訪問をされました。そうしますと家に岩鍔本人がいまして、面白い物を作るのに熱中してしまっていてと、そう言ったそうです。面白い物というのが甚だ問題で、……えーっ、……」
部長の外倉俊之さんは心を鎮めようとするような様子で、深呼吸を二、三回した。酒焼けだという噂だが赤い顔で、不良生徒たちから赤鬼と呼ばれているそうだ。
「猫をバラバラに解剖して、いや解体して、それで出来た材料を岩鍔のデザインに従ってデタラメに縫い直した、そうですよね、先生」
少し離れた席に座っている社会科の野辺真弓さんに同意を求め、彼女がうなずくのを見届けてから、また続けた。
「野辺先生の観察によれば、ソフトボール大のクラゲに猫の目と耳を付けたものなんです。それが熱帯魚を飼うような四角いガラス水槽の底に置かれてゆっくりゆっくり動いている。最初猫の目と耳に似てはいるが全体的に青黒い上に鈍く光っている、何だか分からない。それでじっと見つめていた。すると岩鍔が口を開いて、先生、ネコを裏返したんですと言う。裏返しネコだという。なんだか急に動物本来の形というものが気になって、ネコもそしてヒトもこういう形があり得るようなインスピレーションが湧いたので、野良猫を捕まえて、これを作った、と言ったそうです。
誰の財産も侵害しておりませんし、本校の処分の内規にも抵触しておりませんので停学などの処分の対象にはならない、ただ、最近話題の少年犯罪は、ほとんどこういう残虐行為からスタートしてエスカレートして幼児を殺傷する行為などに及んでいる。だ、か、ら、ここでお伝えして、先生方に岩鍔に注目していただくようにお願いしたい」
外倉さんが着席すると、すぐに二十人近い質問の挙手があった。
「保護者は何と言ってるんですか」
「知らなかった、でも探求心が並はずれた子だからということを、言った、そうです。電話がつながらなかったのは親の介護で母親が出かけていたからだということです」
”裏返しネコ”。ネコの表というのは普通のネコに見えるところを指すのだろうか。青黒かったというのは、内臓の色か。期志丘にはスーパーの肉売り場か肉屋の奥の棚でヌメヌメと光っているレバーや、ホルモン屋で出てくる色々な内臓の姿が浮かんだ。珍しいものを作ったことになるのだろう。期志丘には格別珍しいこととは思えないが、世間の感覚ではきっとそういう判定になると予想出来た。そのネコは恐らくまもなく死ぬだろう。ネコとして史上初めての経験をしながら。期志丘はなぜかそれらを想像した時に、別の塊が浮かぶのを感じた。赤黒い肉の塊のようだ。そこに名札が付けられていて、「期志丘容正」と書いてあった。なぜそんなものを感じたのか分からない。
「何となく始めたというような単純なものではなさそうに思いますが、そこまで踏み込んだ岩鍔の動機は何ですか」
外倉さんに代わって期志丘の真向かいにいた野辺さんが立ち上がって説明した。
「樽木先生が入院している大慈講中央病院の外科部長岩佐木妙子という人が『体内循環説』という理論を提唱しているそうです」
樽木透さんは一昨年の末に背中が痛いので病院に行ったところ、肝臓を中心に体中に癌の転移したかなり末期の症状と判明したのだった。既に本人への告知も行われていて、その分気楽に話題に載せることは出来るのだが、何とか治療の足しになるような情報を渡して上げることの出来ないのが、同僚として何とも歯がゆいと思っている人が多い。そういうことを既によく聞かされている。
「岩鍔君は樽木先生がとても好きなんです。話を聞いてみると、崇拝という言葉がぴったり当てはまりそうに思います。それで、体内循環説というのがどういう説かと言いますと、岩鍔君の説明によればこんなものなんです」
野辺さんは沈んだ声でしゃべっているが、頬がほころんでいる。色白の丸顔が可愛い。岩鍔の話をするのがうれしいようだ。期志丘はもともと他人の表情には無関心だった。どんな表情であれ、その言動にさえ注意していればよいという考えだった。それがこの学校に勤務してから少し変わってきて、わりに微妙なことにも気付くようになっていた。他の人たちは気付いただろうか。
野辺さんは話しながら、ビニールのファイルからルーズリーフを一枚取り出した。
「体内の全ての細胞は、身体の芯に近い臓器を構成した後、少しずつ体表に近い臓器に移ってきて、最後には体表に出て垢となる、というのだそうです。だから癌に侵された臓器を体表側に移植しておけば、ガン細胞の排出が早くなって、治癒が促進される。臓器移植に伴うリスクにはさらされるが、自分自身の臓器なので拒否反応は無いので……。
この学説を樽木先生が受け入れて、大学の倫理委員会の承認も得ているので、それに基づく手術の準備をしているということです」
期志丘にはとても信じられない思いがした。体内循環のスタート時に当人の大脳はどこにあるのだろうか。大脳は移さないのか。自分の体をどういう感覚で眺めるのだろう。自分自身の認識や判断ができない状態では生きていることにならないのではないのか。もし生きているという扱いでも生きている甲斐がないと思う。自分にはとても受け入れられない手術だ。そこまでしないと生き長らえられないなら死んだ方がましだと思った。
「だから本当にそれが可能な事実なのか自分の目でも確かめたかった。そういうことだそうです。岩鍔君は内側が外側に流れ出すなら外側がその分内側に入るはずだと考えて、それで裏返しにしたようです。ネコが復活した時に、まさしくそのネコがネコ自身を認識出来るかを確認出来るように、幾つかの芸を仕込んでから解剖したということです」
自分自身という意識は狂わない手術らしい。ネズミやウサギ、サルなどで十分確認してあるということか。
「卒業した樫原良平君の研究に協力する意味もあるとかで、実行したようでした」
その人物の名前が出た瞬間、職員会議の雰囲気が一気におかしくなったのに気が付いた。何だか冷ややかな空気に包まれたのだ。岩鍔自身のことが原因だと考えようとしたが、やはりその卒業生の名前が出た瞬間だったと思う。何事だろうか。説明が無いなと思ったが、栗木さんに聞けばすぐに分かることだと思い直した。
デタラメな情欲の暴走でなく冷静な行為だというのだが、教職員たちはその冷静さもまた常軌を逸しているという感じがしたらしい。その上、期志丘は知らなかったのだが、つい最近、クラブの掲示板に占い研究会が、
「新奇なことはしばらく避けた方が良い」
ということを発表し、さらに、
「今年、本校に災いがふりかかる――という判断をしています」
という張り紙をしていたそうで、それも教職員の心理を冷やしたらしい。何だか会議室に幽霊でも出現したようで、輪番で議長をしている教員もしばらく散会宣言するのを忘れていた。
この職員会議は教職員を精神的にどっと疲れさせたようだ。珍しいことにみんな口も利かずに帰り支度をしている。期志丘は栗木さんをつかまえて、
「今の会議、樫原という卒業生の名前が」
と言った瞬間、栗木さんがいやそうな顔をした。それまで見たことのない不快そうな表情だ。
「聞きたくもないし口にしたくもないの。その名前」
事情を尋ねるどころではない。突き放されて、しばらく茫然とした。以前から勤務している人たちに共通する感覚なのだろうか。それなら誰に尋ねても教えてもらえないだろう。
帰宅の準備をしていると、生徒たちが数人職員室に来た。出入り口付近の席の人たちが出ていった。
帰ろうと玄関を出る時に、門菊さんと彼女より十歳ほど若い養護教諭の小台春菜さんと一緒になった。正門付近に猫の死体があったそうだ。皮を剥がれて無惨な姿だったらしい。誰かがしたのか、この頃見かけるようになったカラスがつついたのか。期志丘たちが通った時にはもう片付けられていた。
「お腹空いたわね」
小台さんが何か諦めたような声で言った。
「イライラするとお腹が空くという人がいるらしいけど、あなた、その一例かな」
門菊さんが笑っている。
「かもね。家に着くまで一時間かかるからイヤになるわ」
自宅の近い期志丘は何だか申し訳ないような気がした。きちんとした食事を提供する用意は無いが、父の葬式をした関係でお菓子が山のようにあった。どう片付けようかと少しばかり悩みの種になっていたので、
「うちでおかきでも食べて行きますか」
と言った時、門菊さんよりも小台さんの顔がほころんだ。この二人はいつも一緒に帰るようだった。小台さんは門菊さんよりも少しましだが、やはり美貌からはほど遠い。丸顔で可愛い感じになるのは良いが、鼻が低くて丸っこい。全体的に凹凸が緩く平たいのだ。女性はどういうわけか二人組で行動することが多いようだが、美女とブスという組み合わせのパターンが目立つ。美女同士とかブス同士というのはあまり見かけなかったように思うのだが、この二人は失礼ながらその珍しいパターンのようだ。
正門までの道ではカラスの鳴き声がやかましかった。ほんの十羽ほどしかいないのに。
「こんなに近いの?」
二人が期志丘宅の学校からの近さに驚いて騒いだ。期志丘が思ったことを知らないから無邪気な声だ。部屋の窓から学校が見える、向こうからも見えそうなどと言っているのを尻目に、期志丘はコーヒーを淹れた。おかきにコーヒーはおかしいような気がしたが、御茶が無い。御茶を飲まない期志丘は元々おかきも食べない。持ち帰らされて困っていたのだ。
「記憶増強の板チョコほど役には立ちませんが」
「あれ、凄いね」
小台さんが言う。予備校の模試の得点が、最近発表されたが、本校の受験者の得点が例年よりも十点ほど上がったそうだ。
「野辺名さんって、どうしてそんなもの発明したんですかね」
期志丘が尋ねた。
「何だかね、ケガした体組織を回復させたいということらしいよ」
門菊さんが答えてくれたが、すぐに、
「最近、私、顔がごわごわするの」
と自分の顔を両手で撫でながら別の話題に入った。
「ひょっとして更年期?」
小台さんが言う。
「もう過ぎたと思ってたんだけど。それかなぁ。あなたは大丈夫?」
「私はまだ更年期になってないみたい。でも確かに肌荒れがひどくなりつつはある」
二人の和やかなおしゃべりに付き合っていると、変な卒業生のことを尋ねるのは憚られた。そのうち教わることにしよう。
学校ではみんな記憶が強まる、物忘れしなくなると、進んで記憶増強剤を服用している。期志丘は服用する必要を感じない。自分は入院中に膨大な量の薬をのまされた。自分にとって薬というものはもう一生分取り込んでしまっているのだ。これ以上追加しようとは思わない。
期志丘の家に門菊さんがちょくちょく帰り道に立ち寄るようになった。もちろん小台さんと一緒だ。学校の細かい習わしなどを教わるのにちょうどよい。
流綱さんの器械の話をする。小台さんはカビの話を聞いてなかったそうだ。
「そんな気持ちの悪い物を、どうして」
「カビのことよりも、とにかく微細な音を聞きたいという気持ちが先立って思いついたんですよ」
期志丘が説明した。
「何か変わったカビなんですか」
「さぁ、普通の汚いカビにしか見えなかったけど」
小台さんの疑問に門菊さんが答えて笑った。
元々は野辺名さんがSSHらしさを実現するにはどうするかということを考えていたのだ。理科や数学のよく出来る生徒が入学してくるのだが、その割に実験の器具操作、材料の混合などでエッと驚かされることがあるらしい。薬品Aを薬品Bと混ぜる時に、Aを吸わせるピペットとBを吸わせるピペットは別に用意しなければならない。元の瓶の薬品が純粋でなくなるからだ。ところがAからBへそのまま突っ込む生徒が後を絶たないらしい。それをどうやって直させるかが、理科の教師達の課題だったのだ。カビならうっかり扱いを間違えても爆発したりしないし、培養が進めば失敗したことが目に見える。
「国語科でも、そういう基礎を鍛える必要があるかも知れませんよ」
「あら、そぅ」
「高校生ですけど、妙な平仮名を書く奴がいますよ」
「あぁ、確かに、そうね」
「どんな字が変なの」
小台さんが尋ねた。
「『へ』が右に回転して、『く』の裏返しみたいになってるとか」
門菊さんが付け足す。
「『わ』と『れ』の区別が付きにくいとか」
「漢字もあるしね」
「漢字は難しいからかな」
「描を猫く、と書くのがいて困ります」
「あぁ、そうだそうだ。手扁と獣扁が書き分けられない子ね。確かにいるわ」
門菊さんが賛成した。
「写経させたいと思っていますよ」
「宗教教育になっちゃうからダメよ」
「分かってます。経典ではしません。憲法か何か有名な法律でと思ってます」
その日の晩期志丘がテレビで芸能人が旅行する番組を見ていたら、突然空模様と風を感じた。それはその旅行の場面のことではなく、すっかり忘れていたあの出来事の日の様子だった。あいつが転げ落ちていった日。間違いなくあの日の空だった。よく晴れて白い雲がいくつかぽっかりと浮かんでいた。その浮かんでいる配置と雲の大きさはあの日の空の様子そのままだった。それらは毎日違う形で見ているのに、今見たものがあの時のものとはっきり分かった。
翌日もまた職員会議の終わるのが遅くなった。たいていは連絡だけで終わるものなのに、何か議論しなじければならないことがあると途端に長くなる。そういうことはあまり多くは無いのに、前回に続けて長くなった。期志丘は門菊さんと小台さんをまた自宅に誘った。今日はカップラーメンしか無かったが、随分喜ばれた。
「栗木さんが、樫原の話をするとムカムカすると言ってました」
ようやくその名を出した。
「そう、変わった子だったな」
樫原が在籍していた時のことで二年前になる。彼の行動がおかしいと、職員室で話題になった。校庭の隅で何かを次々と埋めているというのだ。やがて、それは猫の死体だと分かった。
「あいつ、まだやってるのか」
「古賀さん、理由は聞いてる?」
学級担任が質問された。
「古賀さんより、野辺名さんに聞く方が良さそうや」
「どうして」
「野辺名さんと二人で埋めてたぞ」
皆に問い詰められた野辺名氏の説明はこうだった。
実は負傷箇所の回復を目指す物質の実験をしている。ところが、最近出来たばかりの傷はきちんと回復するのに、かなり以前に出来たと思われる傷は治らない。古い傷が出来た時期まで肉体を遡らせることが出来ずにいるのだ。その治療実験に使った野良猫を埋葬している。死体を早く分解させるために、死体の上からムカデやミミズ、ワラジムシやトビムシ、ダニを用意して大量に被せて埋めている。だから長くは残らないはずだ。
本当は、そういう遺体は産業廃棄物として所定の業者による正規の処理をしなければならないのだが、野辺名さんは知ってか知らずか原始的なことをしたようだ。町の道路から離れた一番奥で、山に迫った場所だ。民家から見えないから強行したのか。今は雑草が生い茂っていて期志丘は踏み込んでいくことが出来なかった。
「どうして大量に殺す必要があるんですか」
「いや、現代医学でも解明されてないことに挑戦しているから、少し無駄なこともしていると思うんだが、道筋をつかもうと試行錯誤しているから」
「先生、猫に祟られるよ」
「覚悟してます」
野辺名氏について、期志丘は早くから比較的良い印象を持っている。厚田とは逆だ。いつかトイレに入ってじっと座っていたことがある。教職員用のトイレだったので暇つぶしに眺める落書きもなく、ただ正面になる玄武岩のような模様の壁をじっと眺めていた。足音がして、二人入ってきたようだった。
「あいつ、何、あれで国語科か。妙な表現」
国語科で あいつと言われるのが男だとしたら、期志丘か古賀ということになる。声は厚田だ。職員室では英数国の三教科が机を並べているので、英語の教師の名前は割りに早く覚えていた。いつも下らないことを大きな声でしゃべり散らしているのだ。
「どんな」
野辺名さんが尋ねる声が聞こえた。
「近い内に消えていくのに、とか、すさまじい血流で行動するんだな、とか」
期志丘は自分のことを言われているのに気が付いた。止めとけ止めとけ無駄無駄というのが口癖のあの無気力親父。人の悪口だけは一人前口にするらしい。
「そろそろ下火かな、とか、ずいぶん頑張ってるね、とかになるはずだということかな」
「そうよ。普通はそう言うだろ」
「まぁ、普通の言い方をしないといけない時はするんじゃないですか、国語科の人なんだから」
冷静で、決して悪口に同調しなかったのが気に入っていた。
生徒を相手に話しているのも、必要なことを簡潔に言っているので、ああいう話し方なら分かりやすくていいな、見習わないといけないなと思っていた人だ。
名門校では時々そういう特異なことをしでかす生徒が現れる。期志丘自身が卒業した高校では過去に生徒同士による殺人事件が二回起きている。
期志丘は学生時代に作家になりたいという友人から「0・4%」という数字を聞かされたことがある。
我が国で刑務所と拘置所に収容されている人間の数は全人口の0・4%だというのだ。小説を書こうという人間は奇妙なことを調べているものだと思った。拘置所は刑務所と違って強制労働させる施設ではない。裁判を受けている最中で処分未定だが逃亡のおそれがある者を捕まえておく所だ。或いは死刑が確定して後は執行を待つだけの者も入れておく。その二種の施設に入れられている者の人口比の数値は欧米の先進国と比べてもほとんど変わらないらしい。比率だけ聞いていれば小さい数字のような気がしたが、総数はざっと四十万人になると言われてゾッとした。そんなにたくさんいるのかと思ったが、普通の世間からはみ出してしまう困り者は必ず一定数存在するということらしい。ともかく友人が言うには、だから99・6%の人間は議論して合意できるはずなのだという。これが多数決の多数派を構成するらしい。「話せば分かる」はずの人たちだ。樫原たちは話しても分からない0・4%に属するのかも知れない。
前に勤めた学校では生物部や物理部といったクラブは部員が集まらず、休部状態だった。そこでなら、生物科の教師達は「五百匹殺しても構わん。入部してくれ」と言うかも知れない。こういうクラブに入ろうという生徒数の比率は残念ながら一定ではない。
門菊さんが両手で顔をこすりながら呟いた。
「栗木さんの手袋を外そうとしたんだものね」
それを聞いて、期志丘はヤカンを取り落としそうになった。
なぜ手袋しているのかは知らないが、ずっと外さないということは隠したいことがあるからに決まっている。理数科目の成績は良いのかも知れないが、そういう普通なら誰でも分かる常識が備わってないのだろう。
「そんな子がいるんですか」
ヤカンをそっと置いて、小台さんの方を向いた。
「そうよ。びっくりするわよね」
「先生たちは、事情を御存知なんですか」
ひょっとしたら知っているかもと密かに期待したのだが、教職員の健康状態について詳しい小台さんでも、
「とんでもない。知らないわ」
と言うのだから、期志丘に分からなくても仕方ない。
「痣でもあるのかなぁ」
「まぁ、そんなところでしょうね」
「そういう話題は止めようよ」
門菊さんが注意する。
「それよりさぁ、門菊さん、占い研が変なものを貼り出したから、まだ生徒が大騒ぎしてるよ」
小台さんが話題を変えた。二つ目の張り紙だ。期志丘は真相を完全に掴めなくなったと思った。
「どうしてあんなものを貼らせたのよ。私、剥がしてやろうと近付いたら生徒会のハンコが押してあるじゃない。ということは顧問の門菊さんが掲載許可申込書に判子を押したということじゃない」
門菊さんは占い研究会の代表顧問だ。
「確かに私、判子をついたよ。だって星占いやら何やら五、六種類の占い全てで結果が一致したというから。じゃあ、警告するしかないなと思ったのよ」
「でも」
「そうでしょ。予言するのが占いの目的なんだから、それを黙らせたら、あの子達の活動の意味がなくなるじゃないの」
「もっと明るくなる予言なら良いけどさぁ」
「明るいも暗いも予言は予言よ。仕方ないじゃない」
期志丘が、
「生徒たちが、話を半分ぐらいに受け止めてくれたらいいですけどね」
と言うと、門菊さんが、
「真剣にやってるのよ。馬鹿にしないで」
と怒るのでびっくりした。
「誰かが悲観して自殺したら、私も責任を取って自殺するわ」
あまりの発言に、小台さんも期志丘も言葉が出なかった。しばらくして、占いを否定的に話し出した小台さんが、
「占い研、割りによく当てるのよ」
と言った。気を遣ったらしい。
「まさか」
「いや、本当。厚田さんの息子さんの縁談について、成立時期と相手の職業を当てたというのよ」
厚田秀樹にも息子がいるらしい。
「本当ですか」
「あれ、笑ったけど、当たったというのでびっくりした」
「岩鍔君の猫のことなら当たってしまいましたね」
「あれのことかなぁ。猫は可哀想だけど、学校を揺るがすようなことじゃないわ」
災いは予言されているが、学校を揺るがすようなレベルかどうかまでは明らかにされていない。しかし大袈裟に考える人は多い。
「いやですよ。そんな」
学校を揺るがす出来事ってどんなことか。
「占い研からね、こんな予測が立ってしまったんだけどって言われた時は吃驚したのよ」
門菊さんが言う。
「それで、真剣に占ってそうなったのなら、全校に知らせるべきだって言ったのよ」
期志丘は吃驚したが、小台さんも初めて聞いたらしい。
「それであの貼り紙になったわけ?」
門菊さんが後押ししての発表ということにショックを受けた。そんなものを信じるか、普通。
「何が原因の災いなんですかね」
期志丘が呟いた。
「そう、私も気になって考えたんだけど分からないのよ」
門菊さんもコーヒーカップを抱えたまま小さな声で言った。
「あの予測が立ったのはいつなのよ?」
小台さんが尋ねる。
「月曜日に、言って来たなぁ。その前の週の金曜日には何も言わなかったから、原因は土曜か日曜にあるわけか」
「学校で何か新たな動きがあったかなぁ」
「何も無いよ。ねぇ」
同意を求められて期志丘もうなずいた。
「いつもと違うことと言うなら、『雨月物語』の読書会があっただけです」
「そうよねぇ。私の方も研究会の法事に行っただけ。でもどっちも学校の動きと関係ないわよね」
もう少し前の柔道部合宿が学校に不幸を招く理由になるだろうか。しばらく考えたが何も浮かばない。
「占いって、週に一回ぐらいやってるの?」
「うぅん。学校のある日は毎日やってるみたいよ」
「熱心なんですね」
「それが好きな子たちだから」
「ということは、あの気味悪い予測が立ってからずっとそれが続いてるわけ?」
「そう。消えないみたい」
「いやぁねぇ。他に何か祟りの原因って、思い当たらないの?」
今日は国語科会があるから、昼食がうまくとれるかなぁと思った。いつも国語会用の時間に御飯を食べている。昼休みというものは高校の教員にとってはほとんど存在しない。生徒が質問や進路相談、クラブのことなど様々な用事でやって来るからだ。古賀健朗さんは食べるのが速いのを思い出した。羨ましい。今は期志丘のすぐ後ろの席の人が記憶増強剤を作っている。あれは空腹を埋めるのに役立つのだろうか。
授業開始のチャイムが鳴ると呉味さんが直ぐに立ち上がって、周囲の国語科メンバーを見回し、
「皆さん、宜しく」
と言った。国語科のメンバーがバラバラと立ち上がり図書室に向かう。これから国語科会だ。この曜日のこの時間は教科会議が出来るように国語科教員全員の授業が無い時間割になっている。職員室で教科会を開くと、数学科や英語科の邪魔になる。国語科の長老が図書視聴覚部の部長に選ばれることが続いてきたので、国語科は教科会を図書館司書室で開くようになった。今年の図書視聴覚部長は門菊さんだ。図書館は生徒が出入りする閲覧室と出入りさせない司書室からなる。司書室では購入して書店から届けられたばかりでまだ整理番号・登録番号を打つなどしていない未整理の本が積まれている。破損した本を修理したり、返却期限を越えて返さない生徒に返却の督促状を書いたりもする場所だ。
「あっ、美容院に行った?」
「そうなの。気分を変えてみようと思って」
雑談しながら、部屋の隅の椅子を動かしてきて中央の大きなテーブルを囲む。期志丘は以前は女性の容貌や髪型をしっかり見たことがなかったが、栗木と門菊という美貌に関して両極端の二人と同僚になってから、顔の観察をするようになった。もう少し目尻を上に吊り上げたら門菊さんの顔もましになるのになどと思う。その門菊さんが司書の河合都希さんと一緒に、積まれた本や雑誌を他に移して教科会を開けるようにテーブルを空けた。皆はそれぞれ気に入った教科書を前に置いている。
「それでは始めたいと思います」
来年度の教科書を選択する会議だ。まずは一年生の使う国語総合の教科書。
「沢井毛綱の文章が入ってるのは、全部外しましょう」
開始早々に須賀さんが言った。
「賛成」
古賀さんが同調する。
「えっ、何で? 私は沢井で授業したことないんだけど、何か問題?」
神崎美佐さんが驚いて質問した。期志丘は前任校でも嫌う人がいたのを思い出していた。
「評論がよく載ってるんだけど段落の立て方が滅茶苦茶。父親が著名な作家だから編集者がきちんと注意出来ないのかも知れない」
「評論家で通ってるのが不思議なのに、教科書に載る。現代の不思議。文章の模範にならないのに」
古賀さんが言う。
「それで教科書検定は通ってるんだから、検定の意味が無いよね」
検定合格かどうかは賽子でも振っているのかも知れない。
「へーぇ、そうなの。じゃあ、ダメだな」
来年度は一年担任になりそうなので国語総合の選択主担者になっている菜屋芙美さんが、
「これはどうでしょう」
と一冊掴んで見せた。
「えっ、それを提案するの? 止めてよ。例文が古すぎる」
検討開始だ。
「そうそう。その人たち、この頃は大学入試にも出てきてない」
入試は授業と直接関係ないのだが、間接的な影響がある。この学校は生徒のほとんど全員が四年制大学進学を望んでいるような学校だからなおさらだ。
「じゃあ、この本はどうかな」
「それ、ページをめくりにくい。紙の質がどうもね」
「それは先生の指が乾燥するようになったからじゃないの。生徒は困らないよ。だいたい、授業中に何十ページもめくらないし」
紙質のせいでか運ぶのに重いとか活字の字体が良くない・大きさが不適当、表紙のデザインが気持ち悪いとかいった本質から外れた話題が少々続いた後、例文と解説のページが離れすぎている、脚注が冗長だ・不親切だ、章末の例題におかしいものがある、本校の生徒の学力に見合ってない、論説文・小説・詩歌などの量のバランスが良くないといった問題点が次々指摘されて、二十種類ほどある教科書が一冊に絞り込まれていく。
「えぇと、結局ですね、国語総合は首都書房、現代文は関西図書、古典、国語表現はと……、あれ首都書房ばかりね」
教務部に提出する書類を記入していた呉味さんが、呟いた。
「それ、ちょっとまずいよ。古典、次点の平和書籍のだけど。これは先ほどの議論ではあまり問題にならなかったけど、一番の特徴は……」
別に一社のものばかり採択しても構わないのだが、何となく癒着したような印象があって心地悪いのだ。他の本が提案され回覧されると、また同じような議論がなされる。結局平和書籍のものに決まった。
期志丘は、あくびが出かけて口を隠す。どこの学校も全く同じやり方で選んでいるんだなと思った。時計を見ると、次の授業が始まるまで十五、六分時間の余裕があるので、まだ生徒に閲覧・貸し出し準備の出来てない新着本を開いたりしてのんびりする。
司書室の扉がいきなり開けられて、
「じゃーん」
と声がした。生物科助手の端床紗世さんだった。河合さんと仲良しだ。時々一緒にテニスをしている。国語科の教員がたくさんいるので、慌てて両手で口を塞いだ。
「大丈夫。もう、終わったから」
河合さんが言う。門菊さんが、
「何か面白い話、聞いたの?」
と尋ねた。
「鶴野先生、赤ちゃんが生まれたそうです」
皆が「どっち?」と尋ねる。
「女の子」
へーぇという声を聞きながら、期志丘は噂はこんな風に流れていくのかと思った。
そんな呑気なことを考えていたら、突然嫌なものが浮かんだ。あれだ。あいつの頭がまたすぐ目の前にあるように浮かんだ。
【7・稿本】
自宅の暗くなった門の前に立つと、玄関前が見える。誰かが立っていた。普通、来訪者は門の前でチャイムを鳴らす。誰もいないようなら引き揚げる。そうしないで玄関前まで入り込み、そのまま立ち続けているのが、期志丘には気味悪く思えた。
昨日の晩、期志丘はひどく髪が伸びた。一気に二十センチほども伸びて絡まったのだ。鋏で切ったが面倒なことだった。何ごとが起きたのか分からない。しばらく考えて、貧血が治った勢いかも思ったのだった。そんなことのあった翌日だ。
どうやってこいつを追い払えばいいだろう。困惑を覚えた。深呼吸するうちに、こちらはここの居住者なのだから正々堂々と入れば良いのだと心が決まった。トラブルが有れば大声で叫ぼう、そう思ってゆっくりと玄関に進んだ。
「すみません。期志丘先生ですか」
若い男の声がした。背丈は期志丘と同じぐらいだが、かなり太っているようだ。
ふと、近所の生協で奥さんたちがしゃべっていたのを思い出した。
「あそこ、この頃急に肥満児が増えたねぇ」
「あっ、それ、私も感じてた。どうしたのかなぁ」
「知り合いで、あそこに子どもが通ってる人がいるんだけど、気が付いてなかった。自分とこの子もちょっと太ったのかも、なんて」
「何だかあどけなくなったような気もするし」
「移転してきた時は、何も感じなかったのになぁ」
「どうしたんですかね。勉強ばっかりさして、運動時間を減らさせたのかも知れないね」
「高校時代に運動させないで、いつやれというのかなぁ」
「どなたですか」
勝手に奥まで入って来るなと怒鳴りたい気分を抑えながら、冷たい声で返事した。「先生」と言うからには今の学校か前の学校の関係者なのだろう。
「樫原良平と申します。緑牧高校の卒業生で御座います」
あの樫原か。眼鏡の枠がキラリと光った。期志丘は、なぜ自分の家に来たのだろうと思った。まだ何のつながりも無いはずだ。気味悪い噂のある人間とはあまり関わりたくないのだが。
「先生には叔母が市民講座で御世話になりました」
意外な話だ。市民講座がらみということなので、少し安心した。卒業生だということもはっきりしているので家に入れた。明るいところで見ると、人物像の想像と違って表情に暗さが無かった。
リビングのテーブルで改めて自己紹介した樫原は、多数の猫を殺した凶暴さ、異常さを全く感じさせなかった。樫原というのは二人いたのだろうか。
「叔母が、秋成の講座で期志丘先生から講義を聴いて楽しかったと帰って参りました」
若いのにきちんとした敬語を使うので感心した。聞けば、会場で一番たくさんお菓子を振る舞っていた女性が彼の叔母だったようだ。
「なかなかおいしかったよ。あんな所であんな物を味わえると思ってなかったから驚いたけどね」
「お菓子を作るのと、皆に配るのが好きなんです」
そういう話から、〈白峯〉の中の崇徳院の言動に話題が移った。
「私は、個人の力で世の中を大きく動かすという発想に驚きまして、自分もそういう能力を培えれば良いなと思いました」
「それは無理だよ」
「いえ、崇徳院ほどでなくて良いのです。でもとにかくあの人があれを実現したんだと言われることを一つ仕上げて人生を終わりたいというのが私の願望です」
「私」という単語を、「わたし」ではなく「わたくし」と発音しながら、樫原の話は続いた。彼が期志丘の家に来ようと思ったのは、叔母が教わったことの御礼以外に、在校中に籍を置いていた物理部の顧問団に期志丘が入ったことで、後輩が御世話になっている御礼を申し述べたいということからだったそうだ。
「野辺名さんの薬は記憶が良くなるらしいね」
「そういう目的ではなかったのですけれど」
猫の件で野辺名さんに迷惑を掛けたことを、
「野辺名先生のしようとしておられたことを、私が先走りしてしまったのです」
と説明した。ならば野辺名さんが庇うのは当然のことだ。何をしようとしていたのだろう。
「野辺名先生は今も研究を続けておいでです。私もネズミで細々と続けております」
記憶が良くなるようにするのが目的でなければ、何の研究なのだ?
「それはきちんと完成しましてから御説明」
発言を遮って尋ねる。
「もう記憶増強剤は校内で利用されているぞ」
「承知しております」
「サイエンス科の人たちには明かしてるんだろうね」
「多分、明かしておられないと思います」
「そんなことで良いのか」
「先生が仰らなかったものですから、おそらくきちんと完成してからということだと」
「君は分かってるんだろうな」
「具体的な内容は分かっておりますが、その動機は存じません」
驚いた。そんな状態で関わろうと思うだろうか。
「分からないのに協力したわけか」
「多分誰もしたことが無いことと思いましたので、そういう新しい試みなら面白いと思いまして」
何だかつまらないと思った。しかし一時間ほどあれこれ話をして、期志丘はすっかり樫原が気に入った。最近の若者を馬鹿者と貶めるつもりは無いが、彼の丁寧な言葉遣いには感心するばかりだった。もちろん丁寧でありながらとんでもない冷血漢がいないとは言えないが、真摯な研究者の姿しか見えないような気がした。研究の目的は分からないが、何か非常に役立つことに違いないだろうと思わせた。栗木さんの手袋に手を掛けたのも、研究熱心さのせいかもしれない。
翌朝パトカーのサイレンで目覚めた。近所でひき逃げがあったらしい。この前の正門付近の猫の死体といい、変なことが続いている。学校というよりもこの住宅地全体に災いが降りかかるというのかも知れない。出勤する時、期志丘はお隣の奥さんと顔を合わせた。この人を自宅で見かけるのは珍しい。近所のスーパーか、ゴミ出しの場所ばかりだったのだ。パトカーの音で出ていたのだろう。
「期志丘さん、この頃、お宅の学校、ちょっと変よ」
「変ですか」
「変よ。何だかね、生徒さんがね」
「あぁ、肥満児が多いと言われたことがありますよ」
「あぁ、そうね、肥満児、確かに。そのせいかなぁ、何だか薄気味悪いというか」
「薄気味悪い?」
「そうなの。御免ね。失礼なこと言っちゃって。でも、そうなのよ」
「どこが悪いんでしょう」
「それが、よく分からないの。ただ感じだけで」
生徒の顔をよく見ないといけないと思った。
前日帰る頃、また国語科の電話でジガジガジガジガという雑音を聞いた。あれも何か気味悪さに関わるのだろうか。
栗木さんにせき込んで尋ねられた。
「期志丘さん、あれの日程は決めてくれた?」
「何?」
期志丘は緊張感のない表情だった。栗木さんが顔をしかめた。
「補講よ」
「そんな話、したかな」
成績不振者の補講だ。小テストであぶり出した低学力の生徒に補講をして、中間考査に備えさせようというものだった。その要項作成を頼まれたのは一週間前のようだ。
「したかな? それはないでしょ」
声が尖っている。
「ごめん。まるっきり覚えてない」
「当てにしてたのに、どういうことですか」
ずいぶん怒っている。本当にそう約束していたら当然のことだ。
「こんなことは初めてです」
と言っている。こんなに感情的になっている栗木さんを見るのは初めてだし、仕事の打ち合わせを失念していたというのも初めてだ。
急いで日程を決める。会場として栗木さんの担任クラスの教室を当てたいと言ったのだが、
「残念でした。うちの教室は文芸部の定例の活動場所なの」
と断られた。期志丘は生徒会の掲示板を覗きに行って、空き教室を探してきた。そこの担任に申し入れをし、ようやく場所を確保する。名簿を作成し、呼び出し状を担任から渡してもらえるようにクラス用レターケースに入れる。煩わしい仕事だがクラス担任をしてない人間がするしかない。
「期志丘さんの記憶力を崇拝してたのに」
愚痴をこぼされた。
優れた記憶力のあるはずだった期志丘に異変が起きている。しかし一方で、こんなものを覚えていた。あの日、正面に見ていたものがくっきり浮かんだ。黒っぽい青色の山だ。傘のような形をしていて、てっぺんの右下のところに崩れ落ちて木々が無くなり黄土色の地肌が見えている。谷底の方から何かを燃やしているような臭いまで漂ってきていた。こんなものを覚えている。
ボケた老人はついさっき食事したことを忘れているのに、昔の出来事はしつこく覚えているらしい。それと同じだと思った。つまらない作用だと思う。神様にはもう少し記憶の機能を整理して備えさせてくれればよかったのにと思う。
今日はさらに、崖をそろそろと下りていく子供たちのそれぞれの居場所が浮かんだ。一番下、つまり先頭に一馬、その右手前に翔平、左手前に次郎、……、そしてあいつ、俺。ほとんど俺と並んで与志夫。
与志夫があんな所にいたとは思ってなかった。すぐそばにいたのだ。俺があいつを押したのが見えただろうか。いや見えてないだろう。見ていたら、あの時に言ったはずだ。下りていくことに必死でこちらを見ていなかったのだろう。そう思いたい。あいつは今頃どうしているだろう。こっちは何回か引っ越しをしたので、幸いなことに完全にあの連中と会うことはない。
そんなことが浮かんで、期志丘は記憶が良くなることに不快感を覚えた。思い出してもろくなことが無い。忘れるべきものはさっさと忘れるのが人生に幸福をもたらすんだと思った。
記憶なんて、何のために存在するのだろう。記憶を増強したいという人たちの気持ちが期志丘には理解できないと思った。
間もなく追い打ちをかけるような出来事があった。
給品部に行った時のことだ。生徒に細々した学用品やパンを売っているのだが、書籍の取り寄せも出来ると聞いていた。ここを通すと定価から一割引いてくれるというので助かる。出版社、著者、書名、定価などを申込用紙に記入して渡した。職員室に戻ろうと振り返った時、息が止まりそうになった。
すぐ脇に、与志夫が立っていた。与志夫は店員と話している。
期志丘は彼に気付かれないようにそっと離れた。
もうあの時から二十年以上になる。引っ越ししてからは全く会っていないし、自分は親の離婚で苗字も変わっている。顔も体形も変わっているはずだ。気付かれる可能性は低いと思った。しかし期志丘が与志夫に気付いたように、向こうも期志丘に気付く可能性がある。
まずい。こんなところにあの件に関わる人間がいるなんて。与志夫はどうしてこちらに引っ越ししてきたのだろう。なぜ給品部に現れたのだろう。何か納品しに来たのだろうか。もしそういうことなら今後も度々現れることになる。給品部と食堂を出している店の主人になっていたとしたら最悪だ。そうだとしたら
本店はバスに乗って鉄道の駅前まで行かないといけないのだが、色々な連絡で学校に来るだろう。
思い出した限りでは自分の脇にいたのだ。もし彼が鮮明な記憶を持ったりしたら困る。
〈あいつは殺人者だ〉
そんなことを言い出されたりしたら、自分は終わりだ。あの頃は殺人事件には時効があった。もう切れているはずだ。もうあの件で訴追されることはないはずだ。しかしあの事実が明るみに出たら、法的に訴追されなくても間違いなく今の仕事は続けられなくなるだろう。選りに選って教員になっているのだ。昔なら聖職と言われていた。殺人者が従事していられるはずがない。今は大変な不況で、しばしば自殺者が出ている。こんな時に失職することになれば目も当てられない。知り合いでも自殺者が出てしまっている。
昨日期志丘の元に小学校以来の友人から珍しく電話があったのだ。何の用事かと思ったら仲間の一人が自殺したと伝えられた。
「会社が潰れて、失業したんだ。どうしても次の仕事が見つけられなかったらしい」
結婚して、子どもが一人いた。友人は通夜と告別式の日時を告げると電話を切った。
不況! 惨い。期志丘も来年の保証が無い。失業保険があるにしても、その先は真っ暗なのだ。あまり考えないようにしているのだが、他人事ではない。こういう時、人文系の学部を出ている者は就職先を見つけるのに困る。結婚した時の彼の溢れんばかりの笑顔を思うと、期志丘は叫びたくなった。
その社会状況の中で、自分も転落する。
どうすればよいのか。また与志夫の顔が浮かんだ。給品部の人に記憶増強剤が渡ったら困る。その心配は無いか。しかしそういうことは誰にも尋ねられないだろう。なぜ彼らが食べたらいけないのか、それを考えられたらかえってまずい。
あれを今鮮明に思い出されたら自分の行為がばれてしまう。他にも忘れたから良いような出来事は多いはずだ。それをいちいち思い出されたら非常に困る。
自分の記憶が鮮明になることが恐ろしい。それでもとにかく与志夫が思い出すことだけは何とか阻止したいと思った。
与志夫はこの学校で給品部を運営している商店の社長かも知れない。もしもそういうことなら今後も度々ここに現れるだろう。何ということだろう。与志夫が思い出さなければよいのだが。記憶増強剤は、給品部の人に知られているのだろうか。彼らが自分の子供にも与えたいと言って入手することはあるのだろうか。子供に与える前に親として服用する可能性は? 病院に担ぎ込まれて長い長い退屈な時間を過ごした時にも思い出さなかったことなのに、なぜ今頃思い出したのだろう。
期志丘はともかく与志夫と顔を合わさないように気を付けなければいけないと思った。書籍を安く手に入れられなくなるが、給品部の利用は止めよう。
職員室に戻ると神崎さんが呉味さんに、
「門菊先生が鼻唄を歌ってたよ」
と話しかけている。
「門菊先生が? まぁ、珍しい」
「ふんふんふんって」
期志丘はアレッと思った。ジガジガジガジガという電話の雑音のメロディと同じだ。
「あんまり音楽的ではないね。御本人は何と言ってるの?」
「いや、何も。私も変だなと思っただけで」
職員室の隅で、端床さんが河合さんと話している。門菊さんと小台さんのペアのように仲良しだ。若々しく(二人とも二十代なので実際に若いが)、明るくて周囲を元気にさせる。その二人の表情が少し暗いので、通りかかった人たちが不思議そうだ。
「この頃ひどいのよ」
「あっ、そうそう、私も」
肌荒れがひどく、そういう季節でもないのに重症の霜焼けになった時のように皮膚が割れて血が出るのだそうだ。
「原因は分かってる?」
「甘い物を食べ過ぎたのかな」
「いやぁ、どうしよう。我慢出来ないよ」
「あんたたちがひび割れするんじゃ、私がひび割れするのは当然か」
五十歳近い数学の久野豊子さんが言っている。
「先生も最近の現象なんですか」
「そうなの。旦那がお菓子の食べ過ぎだと疑うのよ。そんなに食べてないのに」
何人もの女性教師が足を止めて、話題に参加している。
「僕は、擦ったケガが治らない」
体育科の船田史郎さんが言った。ラグビーが専門で県の代表チームに入っている。タックルしたりされたりするので、小さな傷が元々絶えないそうだが、最近の一ヶ月ほど治りが悪いという。
「チームの連中が、年だと言いやがるんだ。腹が立つけど、治りが悪いのは新陳代謝が衰えてるということだから、そうかも知れないんだよな」
「先生みたいな人が衰えてることになったら、この学校は全滅だわ」
「占い研の予言もあるしな」
こういう肉体の問題だけでなく、期志丘のように物忘れをする人も多くなった。社会科の島田邦夫さんは年号がすぐに出なくなったとこぼした。
「いちいち年表を見ないといけないというのが、みっともなくてね」
「まぁ、年表を持っていくのを忘れないことだね」
「それが、この前忘れた」
周囲の人たちが絶句する。このままでは退職に追い込まれそうだ。
英語科の正岡加奈子さんは、担当クラブの公式戦に付き添う人を相談しに行った化学教室で、他の人たちが引き揚げた後も座り続けていて、施錠のためにやってきた化学の教師を驚かせた。
「教師がみんな物忘れやボケで授業が出来なくなるのが、本校の災いかな」
「どんな災いが起こるか具体的に言わないから占いは狡いよ」
「占いなんて当たるはずない」
「改めて言う必要もない話だけどね」
「何がその『災い』なのか、お楽しみといったところだな」
「ふふふ」
国語科の電話が鳴り出した。急いで取ると、また無音。そして雑音になった。
「ジガジガジガジガ」
あの音。前よりかなり高い音で鳴っている。周期も短くなって速い。何を意味しているのか。
夕方、生物準備室に行こうと廊下を歩いた。何人もの教員とすれ違った。携えているものは記憶増強剤の材料のようだ。野辺名さんは研究を進めていると樫原が言っていた。記憶増強剤の効果も高まっているのだろうか。いささか不気味な薬だと思う。材料の分量は減らされているのだろうか。そんなことを考えながら、準備室にたどり着いた。
流綱さんはいなかった。帰ろうと思っていると、ガラガラと音がして、流綱さんと小柄でおとなしそうな男子生徒一人が入って来た。木鋤だと言われた。物理部のミーティングの時にいたそうだが、発言しなかったそうで覚えてなかった。学校で一番のパソコン・プログラミングの達人と聞いている。意外に平凡な感じだ。人は見かけによらない。
「いやぁ、分からんなぁ。どこへ行ってしもたのか」
「何が分からんの」
「いや、声らしいものが」
カビの発する音のことらしい。意味のある言葉ではないかというのだ。
「さっき、また電話であの雑音が聞こえて来て」
「あのジガジガジガジガっていうのですか」
「そう、ひどく高い音になってた。間隔も短くなって」
流綱さんと木鋤君が顔を見合わせた。
「そういう方向は考えませんでした」
そう言って木鋤君はパソコンの前に座り、スイッチを入れて立ち上がるのを待ちながら、こちらを向いてまた言った。
「同じ周波数というのは動かないと思ってました」
木鋤君がもの凄い速さでキーボードを打つのを見つめるが、なかなか結果が出て来ないようだ。流綱さんが、
「木鋤、もう止めろ。目を悪くする。今日の分はこれで終わり。あとはちゃんと普通の高校生になって勉強しろ」
と言って両手でディスプレーの正面を遮り、木鋤君の作業を止めた。
「あーっ、気になって勉強が手に付きません」
「アホ、このままやり続けたら、もう全くどうしようもなくなるぞ」
期志丘もそうだそうだと言ったので、木鋤君は失礼しますとつぶやきながら帰って行った。
「僕も目を悪くしそうで」
流綱さんがぼやいた。
「流綱さんや木鋤君のしていることはどういう作業なの」
「木鋤がしたのはね、子音かな母音かなと思われる波形に一つずつそれぞれに絵を対応させて画面を描かせるようにということなんです。そうすると音が出るたびに何度も使われる絵がある。どうも内容に規則性があるように見える」
「規則性?」
「そう。何度も出て来る絵があるんです。それで木鋤が気がついたんですよ」
「まだ、音には対応させてないのかな」
「いや、やりました。『つかりわしつりみ』、と言ってるらしいです」
握っていたメモ用紙を眺めている。がっかりした。
「何だ、それ。意味が分からない」
「多分、割り当てた音の対応が間違ってるんだと思うんですけど、それさえ克服したら我々の勝ちです」
「声そのものを発したりしないかなぁ」
「カビですからねぇ」
木鋤が宛てた絵を見ると、子音らしいものが十三種類、母音かなと思えるものが十一種類あるらしい。自分たちの声で見当をつけて当てはめたらしい。
期志丘は職員室に戻って、呉味さんに誰か音声学に詳しい人はいないか尋ねてみた。国文学よりは音声学に近そうな国語学をやっていた呉味さんや須賀さんでも語彙論や統語論とかいうものが専門で、関係なかった。今やっていることについて本人に直接意見を聞いてみても、期志丘と同じ程度の知識しかないようだ。
仕方がないので木鋤君に音の波形を画面に列挙させて、それを一つずつ接続したスピーカーから発音させることになった。翌日早速始まったが、流綱さんが用事で何度も中断して出て行く。しばらく画面を眺めているが、期志丘には修正のしようがなかった。
「何か浮かびましたか」
流綱さんに尋ねられたが、ため息しか返せない。
「どうして音声学の専門家が欲しいんですか」
「音声の場面というのは破裂音から摩擦音、摩擦音から有声音、と色んなたくさんの場面で母音が出てくるから、その一つ一つの知識が入ってない僕にはきちんと振り分けが出来ないんですよ」
言語で使われる音は口の開き方だけで違う発音にするわけではない。パピプペポのように口の中から空気を破裂させて出すことで発音したり、サシスセソのように粘膜を一旦くっつけてその後こすって出す音もある。五十音には色々な種類の音が混在している。それは英語などの外国語でも同じだ。
「授業で見せるオシロスコープをここに出してるわけですけど、同じ波形を同じ音にストンと宛てて具合悪いんですか」
「違う音を同じ子音・母音の組み合わせに宛ててしまう耳になってるんだよ、どこの民族も普通の人は。ところが機械は馬鹿正直だから、全部違うと判定しよる」
流綱さんには何を言ってるのか分からないらしく、顔をしかめて腕を組んだ。
「頑張るのガと、探すのガは実は少し発音が違うから波形が違うはずだけど、日常生活では同じ文字を宛てるし、耳も素人の場合、そう聞き取ってしまう」
「音声学をやってると、それがきちんと違う音に聞こえるということですか」
「そう、機械並みに。そしてそれを素人の耳にはどう聞こえるはずかということを通訳してくれる」
「やっと分かりました。欲しいですね、そういう人」
そのやりとりの目の前に、並木富代さんが来た。大きめの細い黒縁の眼鏡が印象的な人だ。四十歳近いだろうか。話し声から既に美しいという声の持ち主だ。授業で模範の歌唱をすると、感動する生徒と自分の声とのあまりの格差に歌う気をなくす生徒とがいるらしい。
流綱さんにクラスの長期欠席生徒に課題を作ってほしいとやって来たのだった。期志丘も気になっていた生徒だったので状態を尋ねたりした。彼女が部屋を出て行ってから、
「音楽の教師って」
と流綱さんも期志丘もどちらからともなく気が付いて部屋を飛び出し、廊下の角を曲がろうとしていた並木さんを呼び止めた。
「人間の体から出る音は全て、音声学の対象なんですよ」
立ち話の中で、並木さんは心強いことを言ってくれた。
「おならやゲップもですか」
「そうなの。基本は人間の意志で出したり止めたり出来て、しかも他人の耳に聞こえるものなんだけど。アクビ、歯ぎしり、いびき、くしゃみその他いろいろ、そういうのを含む方が研究しやすいみたいなんです。唇を震わせてブルルルなんていうのももちろんね」
並木さんに波形を見せると、実際の音が聞こえないのを残念がったが、オシロスコープの波形は大体覚えているとも言った。そしてメモ用紙にたくさん記号を書いていたが、流綱さんに指示してかなりの修正をさせた。
「これでOKと思うんですけどね」
流綱さんが、木鋤君の書いてあったコンピューターの作業プログラムの十行分ほどを五十行ほどに書き換えた。
しばらく「コンパイルしています」「リンクしています」と画面の中央に文字が出た。
「操作するソフトをこうやって作ってるんです」
流綱さんが説明してくれたが、待ち時間が長い。やがてスピーカーがブーンと振動しだして、画面が鮮やかな青になった。「上田秋成の声」という表題を付けてある。やがてかすかに、
『きるろうお』
と響いた。最後の「お」は「を」かも知れない。木鋤の声をサンプルにスピーカーから音を出させているそうだ。
「さっきとちょっと変わったけど、やっぱり分からないな」
期志丘はがっかりした。
「何だかいやになってくるなぁ」
しかし、流綱はニコニコしながら、
「パソコンも、粘りが大切」
と言った。
「諦めてはいけない」
そう言いながら立ち上がり、腕を組んで次はどうしようかと考えている。
並木さんは何も言わずにディスプレーを見つめていたが、やがて課題プリントの束を抱え直して出ていった。出ていく時に、
「これって、アイウエオ順で宛てたの? イロハ順?」
と言った。流綱さんが、「アァッ」と叫んだ。
もう一度、パソコンの前に座った。そして文字を打ち込もうとしたが、止めた。
「あぁ、興奮して分からない。期志丘さん。イロハを教えて下さい」
いろはにほへと ちりぬるを わかよたれそ つねならむ うゐのおくやま けふこえて あさきゆめみし ゑひもせす ん
あいうえおかき くけこさし すせそたちつ てとなにぬ ねのはひふへほ まみむめも やゆよらりるれ ろわゐゑを ん
イロハをキーボードで打ち込んでいる最中に、木鋤がやってきた。どうしても気になって足が向くという。
『きるろおわぁ』
「今、多分イロハで並んでるから、アイウエオ順に直すのかな。イロハに直すのだったかな。ああ違う、アイウか」
またプログラムの書き換えをする。しばらくカーソルの点滅していた画面にひらがなが出た。
『よさいしゃ』
と書いてある。何だろうか。
「よさいしゃ」
ゆっくり声を出して読んだ。
声になった音「よさいしゃ」が聞こえた時、期志丘はハッとした。背景の音だ。やはり、あのジガジガジガジガという音が聞こえていたのだ。これは確かに秋成の声かも。でもジガジガジガジガというのは何を意味する音なのだろう。
「何、あの音」
「誰かのメッセージみたいですよ」
「このジガジガジガっていう音、また電話でかかって来たよ」
「いつですか」
「最近のは、昨日の六時頃」
「木鋤が音を絵で表し始めた頃かな。ヨサイシャというのも聞こえましたか」
「いや、この雑音だけ」
「何だろうな、不思議な音」
そのヨサイシャの後に、さらに続けて言った肝心の言葉は何か意味が分からなかった。日本語ではないような気がした。
大体、これが本当にカビの塊が話した言葉なのか。
「電波の混線なら、大笑いだよな」
「違うと思うけど」
流綱さんが小さな声で言った。電波の混線は、流綱さんの説明によれば、どうしても発生するものだが音の取り出しを慎重にすれば克服出来るから間違ってないということだ。電波を発したり受けたりする場所の近くで短絡して漏電があったりすると混線するのだとか。
夕食中にあの日のあの場面がまた浮かんできた。
空の様子から始まって、どんどん鮮明になってきた。周りで話す声が聞こえた。緊張しながら崖を下る息遣いも聞こえる。あいつが落ちた瞬間の皆の声も。
本人の声はまだ聞こえなかった。しかし、恐らく与志夫を含む全員の声が聞こえたのだ。
「馬鹿野郎、何してんだ」
それに重なるようにたくさんの呻き声が聞こえた。具体的な内容は無かった。とにかく不注意で落ちたと思ったらしい全員の非難と絶叫だった。
いやだ。思い出したくなかった。人間はこういうものは忘れてしまうものではないのか。一体どこにこんなつまらないものを保存していたのだろう。情報工学の世界では集めた情報をどう保存するかが難しい大問題らしい。人間はこんないらないものまで保存しているというのに。さっさと忘れてしまいたいものはさっさと消して、もっと良いもの、楽しくなるものだけ保存しておきたいと思う。余計なものは消してしまっておきたい。記憶って、何のためにあるのだろう。下等な生物にもあるものなのだろうか。
門菊さんと小台さんはたびたび期志丘宅に立ち寄る。
期志丘は昨日カビの音がヨサイシャという声に聞こえた話をした。
「エッ、秋成の声?」
門菊さんが上田秋成のことをいきなり口にしたのが意外だった。どんな声だった、他に何を喋った、どんな感じがしたと矢継ぎ早に尋ねてくる。話し始めたのか、ただの雑音なのかが分からないのに。
「よく分かりませんけど」
「それ、秋成よ」
と断定する。
「どうして秋成と分かるんですか」
「秋成は余斎という号を使っているのよ。色々使ってるけど、余歳が一番のお気に入りなの」
カビがヨサイシャと言った頃、門菊さんは保健室で小台さんと御茶を飲んでいたらしい。
「門菊さんがギェーッて呻いたから、私、吃驚したんだよ」
「だって、顔が物凄く痛かったんだから」
翌日、門菊さんが生物科に現れたので、端床さんが珍しいと驚いた。この学校に着任以来、今まで一度も来たことがなかったらしい。とにかく、彼女のために実験室にカビを持ち出し、置いてあった流綱さんの器械をセットした。
門菊さんは懸命に話し掛けたが、残念ながらカビは何も反応しなかった。
諦めて帰ろうとした頃、生物部の幾つかのグループが部屋のあちこちの机で実験をしていた。そのうちの一つで、大きな炎が上がった。高さ一メートルほどの炎で、特に珍しい大きさのものではない。だから生徒たちは静かに実験を続けようとしていた。ところが、懸命にカビを聞いていた門菊さんの耳に、
ギェーッ
といった感じの叫び声が飛び込んだ。驚いたが、この声が間違いなく上田秋成の声だとすれば、秋成が何かに恐怖を覚えたということなのだろう。
門菊さんがカビに話し掛けようとマイクを掴んだ時だったのだ。その返事を聞き取るためのスピーカーが生徒たちの方に向いていて、彼らも、
ギェーッ
という叫び声を聞いた。炎には動揺しなかったが、叫び声には仰天した。振り返ると、国語の先生が一人静かに座っているだけだ。何をしたのだろう。
何もしていなかった。座ってカビを見詰めていただけだ。
「何の叫びなのかなぁ。凄い声だったね」
門菊さんは呟くと、血相を変えて飛び込んできた端床さんに穏やかに声を掛けた。
期志丘は職員室で翌日の授業の準備をしていた。
「そんなことしても意味無いでしょ」
入口近くの机に向かって、社会科の滝谷佳男さんと、男子生徒とが座っていた。
「お前なぁ、大脳の活動領域を広げておかないとこの先困るぞ」
「もし困るとしても僕のことなんですから、放っといて下さい」
その生徒が去った後、滝谷さんがぼやいた。
「何で、あぁ打算的なのかなぁ」
その言葉に数学科の方から返事があった。
「何か具体的な意義が見えないと動きたくないんだね」
「そう。何のため、何のため、とうるさいんだ」
期志丘も厭な言い方だと思う。数学は具体的にどう役立つか生徒に分かりにくいので一層風当たりがきつそうだ。
もう一つ、変な話も流れてきた。
カビから声を聞けたら嬉しいという門菊さんの考えだったが、ことは単純に運ばなかった。
門菊さんのようにとても幸運なことと素直に喜ぼうとする人もいる一方で、何か穏当でないことが起こる予兆ではないかという人がいるのだ。あの占い研究会の今年の学校の運勢が全校的に伝わっていたからでもないだろうが、門菊さんたちのグループ以外の人がうるさかった。生徒が自由に動ける授業の合間の休憩時間・昼休み・放課後は質問などで生徒たちがほとんど途切れなく門菊さんや流綱さんを取り巻いているので、全然気にならないのだが、授業時間中に授業のない人たちがひそひそ噂話をするのが鬱陶しい。
声が聞き取れたのは単なる偶然と期志丘たちは思っていたのに、何か必然性があって聞き取らせたのではないかというのだ。そういう言い方をされると甚だ気味が悪い。国語科に掛かってくる奇妙な電話、あのジガジガジガジガも必然か?
そのうち、門菊さんがまた端床さんのところへやってきて、
「あの秋成さんのカビの絶叫は、もしかしたら火事の経験を受けてのものかも知れません」
と言ったそうだ。
「火事の経験?」
「上田秋成って火事で破産したことがあるんです。それで紙油商人を続けられなくなって医者に転じたんです。結果的にその関係の人脈で名作を書くようになったんですけど」
生徒の実験で発生した火柱に、カビが反応したのではないかというのだ。そうなるとカビに秋成の意識が残されている可能性があるかも知れない。
「そんな経験がありますか。でも、凄い叫びでしたね」
「えぇ、可哀想で」
「そうですよね」
その話は流綱さんに伝わり、そして期志丘の耳にまで届いた。そんなものが聞こえてくるものだろうか。実際にあったことかも知れないが、時代が違う。そういう大昔の経験が現代に伝えられて音声になるということがあるものだろうか。
岩鍔が生物準備室に来た時、木鋤は先生に頼まれた箱を運びだそうとしていたところだった。
「おっす」
「うっす」
意味の無い、しかし仲間内では必須の挨拶をして擦れ違った。本来そのまま歩き続けて離れていくはずのところだったが、肩が触れ合って大きく避けようとした岩鍔が少しバランスを崩して近くの机に手を突いた。その机の上に、もの凄く汚い黒いものが置かれていた。
「わっ、これは何だ」
岩鍔の声に、木鋤が振り向いた。汚い物の上に野辺名先生愛用の直方体で少し端が欠けたガラス製文鎮が置いてある。
「野辺名先生のか」
「ここまで汚いと、ちょっと感心するな」
岩鍔が笑う。
「それ、門菊先生が京都から持って帰ってきたやつらしいな」
木鋤が言った。
「何なんだろう」
そう言って岩鍔が、特に目的も無いままに端を摘んだ。そして呻いた。
「わぁ、すごい」
木鋤が振り返って覗いた。
「おぉ、本当に」
紙束だった。順々に繰った。ひどく汚れていたのは一枚目だけで、内側は美しい艶やかな紙で、そこに丸っこいがしっかりした美しい筆跡の文字が並んでいる。ただ昔風の崩した文字で日本語らしいとは分かるが二人にはとうてい読めるものではなかった。
「綺麗なぁ」
木鋤が感嘆の声を上げ、岩鍔が同意して頷いた。
「読めたらいいのになぁ」
北山一馬先生が部屋に戻ってきた。
「先生、これ」
声を掛けられて北山さんが覗いた。
「おっ、昔の人の手紙か」
「あっ、手紙か。そうかも知れない」
北山さんの発言に納得して頷いた後、岩鍔が笑った声で尋ねた。
「先生、読めますか」
「これ? 僕が? 読めるわけ無いだろ。国語の先生に聞いてくれ」
「職員室まで遠いな」
木鋤がぼやいた。
「よし、僕が呼んでやろう」
北山さんが職員室に電話した。
「国語科? 昔の手紙の文字が読める人いない? あのくねくねしたやつ。期志丘さん? あぁ、いいよ。生物科に面白い物があるんだ」
北山さんはまた出て行った。木鋤と岩鍔が待ち続けていると、期志丘が来た。
「最近読まないから、忘れかけてるんだけどな」
呟きながら入ってきて、二人を見ると、
「君らが珍しい物を見付けたのか」
と言った。二人が黙ったまま、紙束を指した。
「これ? これは門菊先生がもらってきたものだろう。手紙ではなく、ただのススの塊だぞ」
そう言いながらも一枚めくってみて息を呑んだ。
「おぉ、美しい」
「でしょう?」
二人が声を揃えた。期志丘が文字を追う。くっきりと美しく書いてあるが非常に癖のある字だと思った。
去年コゾふみわけし道ぞとも思はれず。寺に入りて見れば、荻・尾花のたけ人よりもたかく生茂り、露は時雨めきて降りこぼれたるに、三ミツの径さへわからざる中に、堂閣の戸右左に頽タフれ、方丈庫裏クリに縁メグりたる廊も、朽目に雨をふくみて苔むしぬ。さてかの僧を座オらしめたる簀子スノコのほとりをもとむるに、影のやうなる人の
(去年通った道とも思われず、寺に入ってみると、荻や尾花といった雑草が人の背丈よりも高く生い茂り、露が時雨が降ったようにこぼれていて、三本の道さえはっきりしない中に、仏像を祀った建物の扉が左右に崩れ倒れて、僧の住む建物についている廊下も、木の朽ちた隙間に雨の湿気で苔むしている。さて、あの僧を座らせておいた簀の子の近くを探してみると影のような人の……)
「手紙ではなさそうだな。うーん、何だろう。随筆、紀行文か。……僕には何やら分からないな」
何の紙か分からなかったが、美しい文字にしばらく三人とも見とれた。期志丘の観察では色はうっすらと墨を忍ばせたグレーで、詔勅や院宣に使われる重要な書類のように紙質がかなり緻密で表面がつややかだ。叩いて光らせたのではなさそうだが、それでも光を反射するのは雁皮紙だからか。
期志丘はとてつもない物を見たと思った。これと同じようなものを燃やしたり紛失したりしたらどこかの博物館長の首が飛びそうだ。
黙ったままじっとしている期志丘を、生徒たちもじっと黙って見詰めていた。そのうち、岩鍔がふーっと息を吐き、
「先生、これを貸して下さい」
と言った。
「僕のじゃない。元々これは門菊先生のだ。野辺名先生か門菊先生の許可が無いと、僕は何とも言えない」
「許可をもらってきます」
岩鍔が紙束を抱えて部屋を飛び出していった。期志丘は木鋤と顔を見合わせた。彼にも岩鍔の行動の意味が分からないようだった。
【8・入院】
期志丘はいつも始業ぎりぎりの時間に出勤する。出勤途中の何かのトラブルで遅くなるといった不安がないからだ。今日ものんびり出勤すると、玄関脇にある保健室の前で既に出勤して来ている人たちが何人も立ち話をしていた。
「お早うございます」
声を掛けると、お早うございますと口々に返事はあるが、なぜ立っているのか分からない。上履きに履き替えて、
「どうしたんですか」
と近付くと、
「野辺名さんが……」
という声が聞こえた。後で聞くと、野辺名さんが生物準備室で気を失っていたそうだ。
職員室に入ると、門菊さんが珍しくスカーフを被っている。期志丘はどうしたのだろうと思ったが、何も言わないことにする。髪型は本人の趣味の問題だから。しかし女性たちは、
「どうしたんですか」
「そのスカーフ、なかなか綺麗。どこのスカーフ?」
などとうるさい。
「何だか急に髪が伸びてしまって」
と声が聞こえた。
その日の放課後、期志丘は図書館の司書室でテーブルを借りて、授業のための調べものをしていた。端床さんが来て河合さんとしゃべりだした。
「野辺名先生、凄かったらしいの」
「何が」
「顔が血まみれで」
期志丘は驚いて顔を上げ、端床さんを見た。
「三年生の吉田君が最初汗かと思ったらしいんだけど、ティッシュで拭いたら赤くなったって」
「何だったの」
「血だろうけど分からない。小台先生も何の症状か分からないって」
「いつよ」
期志丘が尋ねた。
「ついさっき」
顔に血が滲み出る病気なんて聞いたことがない。新しい病気が発生しているのだろうか。そういえば、何だかカラスがたくさん鳴いていた。カラスと人間の不幸とは関係ないはずだが、いやな感じがする。
期志丘が夕食を摂っていると電話が掛かった。例のジガジガジガかもと思いながら受話器を取ると、門菊さんからだった。岩鍔という物理部員の所在を知らないかというのだ。理由を尋ねると、ちょっとねと口を濁した。授業関連の提出物に関わることで生徒宅に電話することは時々あるのだ。そんなところなのだろう。
その日の夜遅く、改めて門菊さんから岩鍔が行方不明だと連絡があった。須賀さんから門菊さんに分からないかという問い合わせがあったそうだ。夜の八時半からクラスの担当教員で状況分析の会議を開いたそうだ。そんな時刻になったのは彼の教科担当者全員が揃うのを待ったからだ。国語科では須賀さんと菜屋さんが出席した。ススだらけだった紙束を樽木先生の手術日に病院に持って行ったのではないか、そしてその行きか帰りかの段階で行方不明になったらしいということだった。母親の調べでは持ち出した金額が乏しいし、当人は歩くのが好きなので、病院への往復に比叡山を歩いた可能性があるという。鉄道などでの事故は何も起きていないので、山中で何かあったのではないか。それで、物理部では部員一同にOBを加えて山狩りをかけようということになっているそうだ。幸い彼が不明になってからまだ雨が降っていないし、しばらく晴れが続きそうなので、山中で遭難していても無事に見つかりそうではある。犯罪に巻き込まれていないことを祈った。
期志丘は岩鍔を探すヒントになるかもと、あの持ち出した紙束の文言を思い起こす。
「こんな文句を書いた紙を持ち出したんですよ」
期志丘の言葉に門菊さんが激しく反応した。
「それ、本当?」
「えぇ、どうかしましたか」
「その話、詳しく聞きたい」
「どうして」
「その部分、雨月物語の一節よ、それ。あのススの塊が『雨月物語』の稿本だったかも知れないのよ」
「えっ」
岩鍔は門菊さんに会いに職員室まで来たが、帰ったと言われたので、許可無く持って行ってしまったらしい。
それは期志丘には大きな問題ではない。ただのカビだと思っていたものが、何か覚えていて、それを話すかも知れないということが恐ろしく思えたのだ。
変わったことがある日には必ずのように掛かってきたジガジガジガという電話がどこにも無かった。ただ教科担当者会を開いた会議室に大きな鳥が飛び立つような羽音が聞こえたそうだ。どういう鳥なのだろう。止まっていたという話は聞いているが、実物はまだ見ていない。
岩鍔の行方不明は金曜のことだったが、翌週、野辺名さんが変調を来して入院した。端床さんによれば、最近少しずつ体調がおかしくなってきていたのだが、金曜の夕方七時頃には一気に痴呆状態になっていたらしい。
準備室の椅子に座り込んで野辺名さんが何かブツブツつぶやいている。いつもの調子で、
「何つぶやいてるんですかぁ」
と声を掛けようと近付くと、組んでいる両手が老人の手のように黒ずんで細かい皺が寄っていた。最初、霊能者として恐山のイタコのように口寄せでもしようとしているのかと思ったという。ところが用事を思い出して、生物科で使う薬品購入のタイミングを相談しようとしたのに、野辺名さんが答えられなくなっていた。
「えーと、それ、何、じゃったかな」
「ほら、二年の授業で使う検定液じゃないですか」
「ケンテ、イ、エキ?」
確か生物の授業で使う薬品で、そういう呼び方をするものがあるのを期志丘も聞いたことがある。生物の教師でない人間でも高校時代の授業で習ってかすかながら知っている単語を野辺名さんが知らないはずはない。忘れたのか?
「えっ」
端床さんは息を呑んだ。
「何、だか、疲、れた」
小さな声でゆっくりとそう言って辺りを見渡し、椅子から立ち上がったのだが、八十歳の老人でももう少ししゃんとしているような動き方だった。
「指、先が、乾いて、紙、が、めくり、にくく、なって、な」
ゾッとした。
ゆっくりゆっくり自分の踏むべき場所を探すような足取りで部屋を出ていこうとするが、このまま一人で帰らせるのは無理だと思った。職員室に掛けても誰も出なかったので、進路指導室に電話すると森富文太さんが出た。
「今、用事が途切れたところだから、私の車で送りますわ」
しかし、森富さんは野辺名さんを自宅に置いてすぐに帰るのを躊躇った。当人に自宅の鍵が分からなくなっていたからだ。
「野辺名さん、着いたよ。早く寝た方がいいよ」
「うむ」
「野辺名さん、部屋の鍵は?」
「カギ?」
「そう、鍵よ。何言ってるんだよ。野辺名さん、早く開けろよ」
しかし野辺名さんのただならぬ様子に驚くしかない。ひょっとして鍵というもののことが分からなくなっているのではないのか。
「野辺名さん、携帯電話持ってるか? 実家の電話番号を教えろ」
「うん?」
「僕の話が分からないのかよ」
「うん?」
「参ったな」
マンションの管理人室に寄って相談すると、提出されている住民票から遡って親元と連絡を取ってくれた。二時間待って母親という人に本人を引き渡した。何だか野辺名さんが急激にミイラになったような感じだった。実家の近所の病院に入院させようと思うということだった。その方がいい、いやそうするしかないと思った。
野辺名さんは、樫原君にとっては、岩鍔君の樽木先生のようなものらしい。崇拝しているので、その人が異常な症状で入院したということは大変なショックを与えそうだ。
野辺名さんのミイラ化しての入院は、当然のことながら教職員たちに大きな衝撃を与えた。日頃から記憶増強剤を一種の精力剤として愛用していた人たちが、もっと頻繁に服用するようになった。頭がすっきりするということは血の巡りが良くなるということで、それはミイラになるのを防ぐのに繋がるという理屈だ。増強剤がなぜ効果を上げられるのかを野辺名さんは説明していないらしい。そういうことは薬理学者が関われば良いらしいのだが、まだ外部には秘密の物質だ。期志丘には気味悪いとしか思えない。みんなが平気で服用するのが不思議でならない。どうも不安だ。占いについては平気な期志丘だが、口に入れる物質については慎重でありたいと思っている。
なにわ総合大学医学部の人が一人、実態調査のために緑牧高校にやって来た。綿崎という病理学者である。保健室の小台さんと面会した。
「野辺名さんをお預かりしましたが、方田さんという方もこちらにお勤めですよね」
英語科の方田さんも入院だということでいなくなっていた。教頭が病名を尋ねたのだが家族は答えなかったという。
方田さんについて小台さんは何の印象もないのだが、ひどく嫌う人がいるのは聞いている。期志丘さんも嫌いだそうだ。文化祭の日に教職員たちは喫煙防止の巡回をする。期志丘さんは当番の直前、廊下で卒倒した人を見かけて他の人たちと保健室まで運んだ。それで当番に遅刻した。直前の担当は方田さんで待たされたことについて怒っているだろうと思いながら急いだ。ところが彼女は不在でそこに捨てられたばかりの吸い殻が転がっていた。時間が来れば次の人が来ようが来まいが立ち去ってしまう人らしい。彼女一人の行為で巡回の意味が無くなったのだ。
「その人もなにわ総大の病院ですか」
「そうです。お二人とも重篤なので面会謝絶です」
「病名は何ですか」
「非常に特殊な御病気で、名前はまだ付いていません」
「新しい病気なんですか」
「そうですね。私も初めて見ました」
野辺名さんは記憶がおかしくなり過ぎ、方田さんの方は不明だがやはり普通でないらしい。あまり日をおかずに同じ職場に勤める人間で起きたことなので、人体を狂わせる何かが緑牧高校に有るのかも知れないという危惧で動き出したことらしい。最初厚生労働省が調査団を派遣するつもりで、学校長にも教育委員会を通じて通知があったという。ところがそれは取り消されて大学一校だけの調査になった。どういうことだろうか。
もらった名刺には、「病理学教室教授」という肩書きが書かれていた。新種の病気だから病理学者が関わっているのだろう。病理学というのは、正体不明の疾病について原因、経過、結果などを含む全体像を究明する学問だ。その成果に基づいて臨床医たちが患者の治療に当たると聞いている。表には出ない縁の下の力持ち、裏方だ。小台が病理学というものを知ったのは、高校の国語の時間に石牟礼道子の『苦海浄土』を読まされた時だった。変な病気になり亡くなる人が現れたので、病理学者が調べて肥料会社の工場廃液に含まれる有機水銀が原因と突き止めたという話だ。野辺名さんたちは大変な状態なのだなと思った。
「他の人にうつったりすることはありませんか」
「それが一番気になりますよね。それは大丈夫なようです。私たちもそのために患者さんを受け入れた時、体から組織を摘出しましてすぐに検査しました」
「どんな検査なんですか」
「電子顕微鏡で覗いたり、こぼれ出した体液に紫外線を当てて含まれている物質の種類を特定したりするんです」
「病原体は見付からなかったということですか」
「そうです。でも現に異変が起きている訳ですから、その原因を探っているところです」
門菊さんと同じぐらいの年齢に見える。きっとかなり経験を積んだベテランなのだろう。その人が大丈夫だというのなら安心だ。
「それでですね、こちらの学校の方ばかりが発症されていますので、何か原因がこの学校にあるんじゃないかと思いまして、それでこうして伺ったんです」
それは校長を通して教育委員会からの連絡で知らされた。それで訪問者を迎える準備をしていた。
野辺名さんが生物講義室で培養しているたくさんのカビと、記憶増強剤だ。この学校にあって、他校で見られないものは他にもあるが、病気に関わりそうなものはこれだけである。すぐに、生物科に連れて行った。
「ほぅ、凄い数ですね」
野辺名さんの集めたカビの種類だ。生物科助手の端床さんに頼んで、そのリストを作ってもらっておいた。
「これがリストです」
端床さんの差し出したリストには、カビを収めたシャーレに書かれた番号と、採取した日付・採取場所・採取した人物名が書かれていた。
「なかなか詳しいですね。お手数おかけしました」
綿崎さんは恭しく受け取った。
「何に使うおつもりだったのかは聞いておられますか?」
「はい」
端床さんはサイエンス科の抱える課題を説明した。
「そうすると、色や葉に特徴のあるカビが選ばれるんでしょうね」
「と思います」
「この配線は?」
一つ一つのシャーレと結ばれたコードを指した。
「霧吹きだそうです」
「なるほど。乾かないようにするんですね。すると助手さんはこれにはノータッチですか」
「はい。御陰様で」
「とても幸運だったかも知れませんね」
少し穏やかでないことを口にした。
「全部、預からせてもらって宜しいですか」
「少し他の場所に株分けしている分もあるんですが」
「それは持ってもらっていて宜しいですよ」
「あと、記憶増強剤ですよね。こういう物しか無いんです」
記憶増強剤の完成品は無い。材料を混ぜて練り上げたらすぐに食べてしまう。半日ぐらいは置いておけるらしいが、傷みやすいから良くないと言われている。その材料の種類と作り方の作業手順を書いたものも渡した。
綿崎さんはスマホで運送業者を呼んだ。二百個のシャーレを大学に運ぶのだ。
「これだけですか」
「と思います」
小台さんと端床さんが頷くのを見て、綿崎さんも頷いた。
校内では占い研究会の予言がまた話題になっていた。
「やっぱり祟りよ」
「占い研も災いに見舞われると言ってたしね」
「予言は的中したんだな」
占い研は祟りについて何一つ言ってないのに、早くも予言と結び付けられてしまった。
期志丘の家に、樫原君が現れた。
「野辺名先生が休職されるようだと伺いまして、御母様に連絡を取りましたら、学校の荷物の整理が出来なくて困っていらっしゃるということでしたので、私が罷り出ました」
「罷り出る」という単語は死語かと思っていたが、まだ使う人間がいたのか。しかしその人間も樫原君のような変わり者に限られるのだなと、期志丘は思った。
「荷物の整理って時間がかかるぞ」
「構いません」
「君の家までどれぐらい時間がかかるんだ」
「はい、徒歩で二十分ほどでございます」
「あっ、そんなの? 近いな」
「そうなのです。ですから度々来ております」
同じ住宅街の中だったのだ。
野辺名さんについては緊急の職員連絡会で休職して入院したと聞かされたばかりだ。面会謝絶だという。厚生労働省からの調査団が来るという話に皆で驚いたが、午後になって、なぜか調査団は来ないことになったと聞いた。
厚生労働省の調査団がくるはずだったものが大学一校の調査になったことについて、期志丘は気にしていなかったのだが、気にする人はいるものらしい。方田と親しかった人たちが三人、職員室の隅でなぜだろうと騒いでいた。授業中で残っている教員の数が少ないので油断したのか、一人がこんなことを言った。
「私、あの人の病名を教えてもらってないよ」
「変な病気なんじゃないの」
「隠す必要があったんじゃないかな」
「知られると名誉に関わるような病気なのかもよ」
密やかな笑い声がした。日頃親しくしているように見えていたが、実際はそうでもなかったようだ。
「最初、国が動くはずだったものが取り消されたなんておかしいでしょ」
「ゴロツキと従姉弟だからかな」
五浪津記夫という参議院議員がいる。方田は彼と親戚なのが誇らしかったようでたびたび話題に乗せていた。五浪はイツナミと読むのだが、名前の頭と続けてゴロツキという綽名がある。
「どうしてよ」
「国が調べたらマスコミが動いて、色々とつつかれるよ」
「大学一校なら、ばれないってこと?」
ゴロツキが正式の調査を退けて、一大学に調査させることにしたのではないかというのだ。非常に押しの強い人物ということでも知られているので、聞いていた期志丘はあり得る話だなと思った。
「違うかな」
「そう言われると、そうかなと思うわね」
カビは微量の場合には何の影響も及ぼさないが、コロニーがおおよそ千立方センチを越えると近付けておいたネズミの代謝への影響が出てきたとか。
小台さんから、調査に来た教授の指示として、教職員全員に次のようなことが伝えられた。
もしも体に異常な乾燥を自覚した場合、スポーツドリンク、要するに生理食塩水を大量に飲むこと、学校にいる時にそういうことが起きれば直ちに学校医のクリニックに運んで点滴を受けさせるように。
期志丘はこれで祟りが原因という考え方は下火になると思ったが、どうなるか。
「野辺名さんの暮らしぶりにちょっと変わったところがあったのを聞いたわ」
小台さんが言った。
「何ですか」
「お茶、日本茶を飲まなかったの」
門菊さんが珍しがった。期志丘は、
「珍しいですか」
と言った。
「珍しくない?」
小台さんが言うので、そちらを向いて、
「僕も飲みません」
と言った。
「あらら」
「どうして」
二人が驚いている。おかきを食べさせるのに、お茶を用意しなかった。コーヒーを出したように思うのだが。
「いや、別に理由は無いんですけど」
ふーんとうなっていた門菊さんが、急に目をむいた。
「それが何か気になるわけ?」
気が付いた小台さんが尋ねた。
「そう。野辺名さんの個人情報に関わるんだけど、あの人は物凄く貧しい育ちだったと思う」
「どうしてそう思ったの?」
「違うの。昔、私、人権教育関係の仕事をしていた時に、定時制の高校生が書いた作文を編集したことがあって」
その中に、小学校時代に友達の家で凄く苦い飲み物を飲んで驚いたという話があった。「これは何だ」と尋ねたら、「お前知らないのか」って逆に驚かれた。それはお茶だった。当時、四畳半一間に十二人で住む暮らしをしていて、飲み物は水か沸かした湯しかなかったから知らなかったのだ。物凄い窮乏生活だ。それで飲まない習慣が出来てしまったのではないか。書いた人物の名前がノベナノリヒコだった。漢字は書いてなかったけれど、野辺名さんの今の年齢にちょうど合うのではないだろうか。ありふれた名前とはとても言えないし。
その後、端床さんから、
「そう言えば、高校も大学も定時制だったって聞いたことがあります」
と聞いた。蕎麦屋の経営にやたら詳しいし、綿糸の染色・洗い・織りにも詳しく、家政学部で染色を専攻してきた家庭科教師を驚かせたのだという。おそらくそういう関係の所で仕事しながら勉強してきたのだろう。
「だから夜更かしは平気なんだって」
「多分、当人だな」
「でも四畳半一間に十二人って、どんな寝方になるのかなぁ。期志丘さんも、貧しかったんですか」
「いや、うちはそんなことない。日本茶、紅茶、コーヒー、ココア、ジュース、何でもあった。僕のはただの趣味の問題」
門菊さんが、
「期志丘さん、コーヒーはお好きだもんね。学校に自分専用のコーヒーメーカーを持ってきてるぐらいだもん」
と言った。二人が帰った後、期志丘は飲み物で刺激すれば門菊さんの目尻ももう少し吊り上がって栗木さんの顔に近付くのではないかと思った。そんなことが可能かどうか、また樫原君が来た時にこっそり尋ねてみよう。
【9・棚のもの】
八月の上旬に英語科の方田文江が入院していた。彼女について教頭がすぐ全職員に伝えようとしたら、遺族からそっとしておいてほしいと言われたので連絡を止めていたそうだ。
下旬に行われた二学期の始業式に新着任先生の紹介があって初めて方田の退職も全員に周知された。
期志丘が担当クラスへの連絡メモを連絡ボックスのそれぞれの所に入れていると、一年生の片村さんが自分のクラスの分を取りに来た。入試成績の国語が学年でトップだったという生徒だ。入学後もそのままだ。垂れ目気味でいつも優しい表情でいるので、見た目は凄みを感じさせないのだが。
「本校で起きる災いというのは、野辺名先生たちの入院だったのかな」
「どうなんでしょう、占い研の中でも意見が割れてるらしいんです」
片村さんは占い研の部員だと思っていたが、違ったらしい。
「終息するというのと、まだ続くというのかでかな」
「そうなんです。でも私はまだ続くんじゃないかと思っています」
「どうして」
「野辺名先生お一人だけのことでしたら、学校全体で災いが起きるみたいなことを言わなかったんじゃないかと思うんです」
教職員の話題から方田は完全に抜け落ちたままだ。教職員の中でも小台さんの周辺以外は関連を知らないようなのだ。
「何人もが絡むということか」
「えぇ。考えたくないことですけど」
「稿本のカビに絡むのかなぁ」
期志丘は呆けたように呟いた。
「脈絡があの人たちにも分からないみたいなんです」
「どんな占いであの内容を掴んだことになってるのかは聞いてる?」
「地図を扱う占いで、別々にやっていた部員による複数の占いの結果が一致したんだそうです。不幸に襲われると思われる地域は幾つか浮かぶんですけど、それが綺麗に一致してしまったのでびっくりして、星占いも複数の種類でしてみたら、うちの学校に割り当てた星がどの占いでも光らなくなったそうです」
「二種類の占いということか」
「いいえ、たくさんの占いで一致したんです」
乱数の発生を「念を込めて止めた時の数字」によって表された地形が、現実にある山や谷によるカーブの形状と一致する場所を世界中から探す。そこが呪われている場所だ、という新しい起伏地形占いも使われていた。同じようにして指定された緯度と経度で囲まれた四角形の地域が呪われている、或いはこれから呪われることになるという緯度経度占い。北極星からの厳密な角度で示された場所が、特別素晴らしい場所または呪われた場所という極星角占いだ。あれもこれも重なった。姓名判断に使われる数字の不幸な数が、ある集団の過半数に現れると良くないという過半数占い。占いをしている地点から災い現場までの距離で描く円周上に乗っているとまずいという距離占い。これらは全てパソコンが普及したことによって始められた占いだ。これらの全てで、この学校に不幸が訪れることを示したという。
「それだけでなく」
「まだあるのか」
「そうなんです。姓名判断でも名前がつながったループがあって、これは珍しい、と。ただこのループの人が共通して何かに関わっているかどうかは生徒の立場からは分かりません。それで保留しているそうです。顧問の先生に話したら首を捻っておられたそうです。だからループは単なる偶然で結合したものかも知れません」
門菊さんはカビの話を隠しているらしい。
新しい占いは初めて聞く人にはインチキに聞こえるだろうが、歴史のある易占と根本的な構造は同じだった。易占は「念を込めて」五十本の筮竹という細い棒を二つに分けて片方を捨てる。残したものの数が偶数か奇数かを記録して六回繰り返す。それによって六十四通りの運命が定まるというのだから。
「流綱先生がとても意地悪になって、みんな困っています。野辺名先生も入院する直前そうなっていましたから、悪いですけどいなくなられてホッとしたというか」
「意地悪って、どんな」
「もの凄く細かいことをねちねちと口にしてしつこくなったんです」
君はさっき九時二分に私語をした、その六分後には内職をした、十五分後に居眠りをしていたといった指摘をして説教するのだという。それが授業時間の三分の一近いという。期志丘は笑ってしまったが、片村さんは笑い事じゃないという。一事が万事、そのしつこさと接するのは実に苦痛だとか。
「そうなのかな」
「そうですよ。先生、奥さんがそうなったら人生はお終いですよ、きっと」
「結婚してないから分からないな」
「生徒にそういうことを指摘しながら、御自分はアー、ウーと間奏が長くなって、授業が面白くなくなっていました」
返事をしようと思うが、何だか唾液がひどく粘っこくなって口を動かすのが大儀だ。結局、そうかそうかと頷くだけになった。流綱さんの名誉のためにも何か言うべきだったのだろうが、この頃こういう状態になっていることが多い。
晩になって、なぜか突然習字をしたくなった。大学時代に中学校国語科教諭免許を取るために習字の授業を受講しなければならなかった。習字をするなんてその時以来だ。我ながら珍しいと思ったが、用具を棚から取り出して墨を擦り、しばらく大きな文字を書いた。それを片付けないまま寝てしまっていたのだが、起床すると、
「ごとうとうづきは始末仕りました」
と紙一枚に収まる文字数の小ぶりの文字が書いてあった。そういえば何だか誰かに誘導されるような気分で筆を走らせていた覚えがある。ゴトウとウヅキは人名のようで、それを始末というのは何だか不穏だ。後藤は何人か知り合いがいるけれど、たぶん卯月というのだろうがそういう人は知らない。
夏休みの感覚が消えて生徒も教師も授業があることに慣れて来た日の朝、野辺名さんの入院は長引きそうだと聞いた。入院直前の様子から考えても当然だろう。
岩鍔君が無事に発見されたという情報も伝わった。物理部の現役・OB合同の山狩りでは見付けられず空振りに終わっていたのだが、その翌日に山菜を摘みに来た近所の奥さんグループに見付けられたのだ。山頂付近から下りてきた細道が実は大きくカーブしていて、駆け下りる時に踏み外して吹っ飛びそのまま意識を失ったらしい。本人はどこをどう落ちたか全く覚えてなかった。落ち葉がふかふかして軟らかい上に温かかったので、何事も無かったのだ。
岩鍔君が見つかったことは、期志丘個人にもとても喜ばしいことだった。雨月物語の稿本かも知れない紙束を自分が紛失したような気分になっていたので。ホッとした。
ところが緊張を解くのは早過ぎた。
あの持ち出した紙束。今は貴重な稿本だったと思われる、あの紙束。あれを岩鍔君は持ち帰ってくれなかった。転げ落ちた時、あの紙束も転げて無くなってしまった。警察の現場検証では、そんな紙束は無視されてしまっていた。本人の身体に異常が無かった。だから目出度しめでたし。
無いということに慌てているのは期志丘と門菊さんだけだ。国語科の他の教員たちは、そんなものが本当に存在するとは信じていないので全く平気でいる。
「無い」ものは他にもあった。一冊のファイルを紛失したと、岩鍔君が嘆いた。彼にとっては稿本はもうどうでも良くなっていた(樽木先生が治癒したので)が、このファイルの紛失はショックのようだ。野辺名先生が、どういうわけか炭のようなものの塊の下に敷いてあったのだ。岩鍔君は病院に出向く途中、そのファイルに気付いた。中身を確かめると、人間の手首の筋肉が欠けてしまっている場合にどう回復させるかの研究資料のようだった。活字ではなくボールペンで書いたものなので、野辺名先生が自分で書いたものらしい。これは返さなくてはならないと思いながら病院に出掛け、そして失くしてしまった。どうしよう。
野辺名先生が記憶を失うという異常な状態で入院してしまっているので、そのファイルが再び必要になるかどうか分からないのだが、返すべきものを返せないのは何とも心地の悪いものだろう。
「手首の筋肉」という言葉に栗木さんが反応した。岩鍔君を呼び出して、聞き取れる限りの内容を掴んだらしい。栗木さんも明るい雰囲気を失って、性格が暗くなってしまった。
期志丘にまたあの日の記憶が訪れた。今度は笑い声だった。
ヒャヒャヒャ フェフェフェ
それに鼻水をすすり逢上げるブシュブシュといった感じの音。
辺りの木や草の匂いもした。ヤマブキ、ノイバラ、アジサイ、ヤマツツジといった灌木が生えていた。その下や際にはドクダミ、カタバミ、ヨモギ、エノコログサ、メヒシバ、ヒメジョオン、スギナ……。季節外れでまだ青葉を見せてないものもあるが、どれも崖の上で咲き乱れていた。
こんなものを思い出させる意味は何だろう。もしかして人としての生き方を正すためなのか。生物として生き延びるためには結局誠実に生きるのが一番良い方法だと思う。そのために良くないことをした記憶がいつまでも残って苦しめることで、その後の生き方を正すためにこんなものが浮かんでくるのではなかろうか。記憶の意味はそういうことかも知れない。
期志丘は手足にひび割れが生じているのに気が付いた。ところどころ血が滲んでいる。冬ではないのにそうなんるのは貧血がひどかった時の症状だ。いやだな、まだ治ってなかったのかと思う。
小台さんからは、調査に来た病理学者の見解として、①伝染する心配はない、②野辺名さんの集めていたカビの内、秋成のお墓から採取したカビと襖の裏張りから採取したカビとは特殊なので、近付かないようにという二点が広報されていた。カビの近くにネズミを置いていたら一方ではミイラ状に老化したし、もう一方では内臓が体の表面に押し出されてきたからということだ。その指示に従っているせいか続けて入院する人がいない。占い研の予言は、野辺名さん入院と方田さん退職で二人分的中したから、もう気にする必要はないのではないかという意見が小声で囁かれている。
流綱さんたちは粘っているらしいのだが続きの聞き取り内容が伝えられないので、期志丘も門菊さんもカビのことをすっかり忘れてしまっていた。夕方期志丘は職員室にやってきた流綱さんに肩を叩かれた。
「喋りましたよ」
と言われても最初は何のことか分からなかった。生物科に行くと、前のままの器械が置いてあった。ぶーんと唸った後、
「タスケテクダサレ」
と声がしたので、期志丘も門菊さんも驚いた。
「やっぱり崇徳院よ。脅す声がしてたでしょ」
門菊が言った。この時、なぜか期志丘は門菊さんの髪が少し短くなったのに気が付いた。そんなことはどうでも良いことだし、以前の期志丘なら全く意識しなかったはずだ。しかしこの頃は時々そんなことに気が付くようになった。なぜか分からない。記憶が良くなったということなのかも知れない。記憶が良くなったり悪くなったりする理由は何一つ思い当たらないのだが。
「崇徳院が、秋成を脅したんじゃないかと思うのよ。秋成がタスケテと言わざるを得なくする人間はやっぱり崇徳院しか思いつかないのよ」
秋成の周囲にいて、彼が頭を下げそうな人は、加藤宇万伎と徳川家一族の田安宗武の二人ぐらいらしい。宇万伎は国学の先生で、宗武は国学や和歌の仲間のような存在だ。秋成の弟子のような一面もある。身分は遙かに宗武の方が高いが、そういう点で同格のような交際が窺える。田安宗武と加藤宇万伎の二人は非常に紳士的で人を脅したり、何か無理強いしたりするような人柄ではないようだという。そうすると秋成を脅しつける人物は現実世界では誰もいないことになる。
そこで執筆のために調査したはずの人物たちを思い浮かべると、浮かんできたのが豊臣秀次と崇徳院だ。秀次は凶暴であったようだが秀吉に切腹を命じられた後の話は何も無い。ということは恐れるに足らず、だ。崇徳院は秋成のいた頃も祟りを及ぼす霊力が強いと信じられていた。
門菊さんは、秋成が執筆のために崇徳院のことを調べる内に、その意思や思考内容に取り憑かれてしまったのではないかというのだった。
そういう秋成が、崇徳院に従わずにタスケテというのはなぜだろうか。
「火事に遭った時、恐らく必死に神仏に拝んだと思うのよ。でも願いは叶わず破産してしまった。それで秋成は宗教的な想念から離脱して合理主義者になったんだと思う」
「拝んだところで、全く意味が無いというわけですか」
「そう」
「本居宣長と論争したようですね」
「そうなの。宣長の神秘主義を攻撃してるの。私たち現代人から見れば、完全に秋成の勝利なのよ。晩年の『春雨物語』では宗教者を登場させるけど、全然宗教的神秘性といったものとは関係無い人たちなの」
「それで、火事の前に書いた『雨月物語』とは距離を置きたくなったんですかね」
「そうかもね。期志丘さん、なかなか鋭いわ」
「今、脅されているように聞こえるのはどういうことでしょう」
「心の中に崇徳院を呼び込んでしまった後、彼の願望に気付いて恐くなったのかも知れないわ」
「崇徳院はどういう風に脅したことになるんでしょう」
「言うことを聞かないと、ミイラにするぞ」
「げっ」
野辺名さんの入院直前の様子から思い付いたという。あれが崇徳院の脅し方なら、あり得る姿だ。
秋成が晩年に書いた『春雨物語』の中に、ミイラのようになった入定僧の話があるらしい。「入定」というのは偉い坊さんが生きながら地中に埋め込まれて、読経しながら息絶えるというものだ。それほど覚悟がしっかりしていれば悟りを開くことが可能になると信じて行われたようだ。海辺の村では、埋め込まれる代わりにたらい船程度の粗末な船で沖に漕ぎ出したりした。そういう偉い坊さんが何十年も経ってからたまたま掘り出されたのだが全く仏教修行の甲斐の無い情け無い様子だったのを嘲笑されたという話だ。
それがなぜ雨月物語の謎解きになるのか。
「ミイラになったのが生き返ってるのよ」
「なるほど」
「そうして仏教修行の無意味を書いてるわけで、それは秋成の哲学的な思想に合致するの」
「仏教が嫌いだったんですね」
「仏教だからと言うんじゃなくて、人がやるから自分もやりますといった真剣さに欠けるような行為を嫌った人なのよ」
「入定はかなり真剣と思いますけど」
「どうもそうではないらしい人もいたみたい。檀家の皆様の前では行ってきますと言って、埋められて置いて、後でこっそり掘り出してもらう」
「メリットは何ですか」
「名声よ」
「埋めたり、掘ったりした人が喋るんじゃないですか」
「もっと凄いところに出向く準備だとか何とか言って協力させるらしいんですけどね」
「でも、それをきちんとインチキと見破った人がそういう記録を書いてるんでしょ」
「そうなの。ふふふ。とにかく生き返って、ザマアミロっていう書き方が崇徳院に対する反抗のような気がするわ」
「八年粘って粘って、でも抵抗しきれず恐くなったから出版に同意したんですか」
「じゃないかな」
「本当にミイラになる人がいたんでしょうか」
「ほとんどの入定僧がそうよ」
「それにされそうな危険性を覚える出来事があったんですか」
「それが無いから謎になってるの。でも野辺名さんの状態を聞いて、あり得るのかもと思った」
崇徳院様の祟り。日本一の大魔王。それに睨まれるとミイラになる? 緑牧高校は睨まれているのか? では、あの巨大な鳥は崇徳院が派遣した鳥か。『雨月物語』の「白峰」を講義した時、「相模」と呼ばれる巨大な鳥が登場した。お話の中だけのことだったはずなのに、それが実在して学校に来たのか? 確かにその鳥が目撃されると翌日に誰かが奇妙なことになっているようなのだ。
抵抗か。易々と服従するのは簡単だが不愉快だろう。
不愉快さ?
期志丘は、自分で書く気のないことを書き付けていたことを思い出した。自分の場合は大した内容でなかったが、きちんとした物語などで同じことが起きたら我慢しがたい気持ちになるのは理解出来る。
「ゴトウとウヅキは始末仕りました」
と書いてあったことを話すと、門菊さんの顔色が変わった。
「後藤さんと鵜月さんは懇話会の会員で、続けて亡くなった方たちだったのよ」
「あの法事というのはそのお二人のための?」
「そぅ。それを始末だ、なんて。ひどい」
期志丘は気味が悪くなった。まるで「相模」に取り憑かれていたようではないか。
「何を助けてと言うわけですか」
端床さんが尋ねた。
「『雨月物語』を無理強いして書かされるのはいやだ、というケース」
それを聞いて、
「それなら謎が解けるじゃありませんか」
と期志丘が言った。雨月物語の作者であることを認めなかった問題だ。
「そうよ。でも、こんなに簡単に解けるわけないよね」
しばらく期志丘はいやなことを思い出さずにいられた。学校でも、誰にも災いらしいことが起こらずにいたので誰もが安心していた。野辺名さんが突然入院したことに驚きはしたものの、生物科を含む理科の校舎が職員室のある管理棟から遠いこともあって、衝撃を受けた人は少なかった。ところが一ヶ月ほどして一気に四人の人の体調がおかしくなってそのまま入院したというので、皆は驚いた。社会科島田さん、体育科の船田さん、音楽科並木さん、英語科の正岡さんの四人だ。四人とも一旦顔から血か汗か分からないものを大量に流した後、記憶障害になり、夕暮れ時にミイラ化して病院に運び込まれたということらしい。いわば急性老化したと言えそうだ。急いで大量の記憶増強剤を服用したらしいが間に合わなかったようだ。もちろん面会謝絶である。
原因が分からない。珍しいことと言えば、門菊さんの持ち帰ったカビが野辺名さんの手で培養されていたことは徐々に知られていたが、カビごときに何が出来るかという印象しかなく誰も問題にしなかった。しかし五人とも急性老化したのは事実なのでこの五人に共通する原因があるはずなのだ。
ところが話は奇妙な進み方をした。五人の共通性を探らないで、一人と四人に分けたのだ。一人というのはもちろん野辺名さんである。後の四人には共通点があるという。
野辺名さんが樫原と二人でたくさんの猫を殺したことについて激しく批判したということだ。彼ら四人だけではなく多くの教職員が非難したのだが、この四人が一番攻撃が激しかったのだという。期志丘には分からない話だが、職員室で話されていることを聞いていると、野辺名氏を追いかけてなぜ殺したと詰め寄るようなことまでしていた人たちらしい。
そのために入院するほどまで重態になった野辺名さんが、報復として四人を巻き込んだのだ、つまり野辺名さんの祟りによって四人は倒れたというのだった。祟りたくなるほど激しい攻撃を加えてしまったのか、野辺名さんにとっては恐かっただろうなと期志丘は同情した。
四人は同じ一年の担任団の人で、学年主任と校長・教頭で対策を考える一方で、進路指導部・生活指導部・教務部・保健衛生部ではメンバーの欠けたことによる仕事分担の組み直しに追われている。生徒会指導部は彼らが担当していたクラブのそれぞれの他の顧問たちと指導体制をどうするか協議している。祟りの話の後、この四人が来年の修学旅行に向けての会議を頻繁に生物科の部屋で開いていたことが伝えられたのだが、一旦広まった祟り説はなかなか強固なもので、いつまでも問題にされるのだった。期志丘は会議の話を聞いた時も納得出来ないと思った。
怪しいカビの置かれた部屋で毎週一回、多い時は二回会議を開いていたというのは、客観的に見て危険度が高いと感じられるはずなのかも知れない。しかし、と期志丘は思う。
この自分は週に一回、二回ではなく、ほとんど毎日カビを見に行っているのだ。その自分が全く健康で、週に二回以下のその人たちが影響を受けるというのはおかしい。
そういうことを期志丘が国語科の人たちに話したせいか、カビの危険度よりも祟りの方に心の向く人が多かった。野辺名さん自身はきっと猫たちの怨念による祟りで倒されたのだ。
急性老化は極度に体が乾燥するようなので、対策としては体を瑞々しく保つ必要がある。記憶増強剤を服用すれば、体が若々しくなり頭がすっきりするから予防になると思ったのだろう。職員室のあちこちで、増強剤を練る音がゴロゴロと鳴っている。
その薬を意識するたびに期志丘は鮮明な記憶が蘇るのを恐れていた。
今日はあいつの服装だった。灰色のセーターに茶色の太い横縞。何だかどんどん世界が狭まってあいつ当人に焦点が絞られてきたような気もする。この先何が浮かぶのだろう。記憶の存在するのはそれを保持する当人のためではないのかも知れない。では、誰のためか? そう。人類という種のためではないか。自分は年号や人名を鮮明に記憶して仲間と議論して論文を書いてきたけれど、それは人類という種が僅かにこぼし与えてくれた恩恵に過ぎなかったのではないだろうか。もう思い出したくない。どうすれば見ずに済むのだろうか。
樫原は、現役部員たちから大量の入院者が出たことを伝えられたので、面会謝絶ながら現状はどうなっているのかを調べ始めた。この県では公衆衛生院からの通達により、同様の症状を呈した患者を乗せた救急車は全てなにわ総合大学病院まで走ることになっているそうだ。ここで県下の全患者の面倒を見させることにしたのだ。樫原はここの薬学部の学生だ。だから緑牧高校の先生たちは野辺名先生を含めて全員がどの病室に収容されているかを調べた。
ところがどの病室にも該当者の名前が無かった。面会謝絶というからたいてい看護師詰め所に近い病室のはずなのだが。患者の名前は全て名札に書かれて廊下に掲示されている。内科と外科を見たがどこにも見当たらない。人数が多くなったので、眼科や耳鼻咽喉科などの他の科の病棟かも知れないと思って見に行ったが、やはり見当たらない。病院の正面受付で患者名を言うと病棟を教えてくれ、そこの看護師詰め所に行けば病室も分かるはずなのだが、そういう人は入院していないと言われた。緑牧高校の先生たちはこの病院に入院していると校長から伝えられているというのに。どういうことか。
ご家族に尋ねてみようと思って、現役生に先生たちの自宅の電話番号を誰かから聞き出せと命じようとして立ち止まった。ダメだ。病室がはっきりしないなんて言うと家族は不安がるに違いない。やはり自分で見つけるしかない。もう一度探し直している内に親しくしている先輩に会った。事情を話すと、病棟だけでなく法医学教室や病理学教室など各科の教室にもベッドがあるという。
樫原はゆくゆくは薬理学のゼミに入りたくて、部屋の掃除などをしに行って顔を売っていた。そこにもベッドがあるのは知っていたが、いつも空いたままなので、そこに患者がいるという感覚は無かった。ともかく確かめに薬理学教室に行った。やはりベッドは空いたままだ。短い通路を抜けると医学部になり、その研究室が並んでいる。掲示を見ると法医学研究室だった。法医学教室は死んだ人が相手なので関係ないと思うが、一応見に行ってみようと歩き出したところで、医学部所属らしい助手さんと擦れ違った。狭い通路なのでかなり端に寄ったつもりなのだがぶつかってしまいよろけて、近くの棚に手をついた。
その棚に熱帯魚を飼うのに使う水槽ほどのケースが多数並べられているのは知っていた。樫原が今手を突いた場所の近くに、赤黒い肉塊を入れたものが並んでいて、その一つに、「並木」という名札が付いているのに気が付いた。
音楽を習った先生の名前と同じだ。
その隣を見ると、「船田」と書いてある。授業でラグビーを習った先生と同じだ。二人とも特に珍しい名前というわけではないがありふれてもいない名前だし、それが同じ場所にあるというのは偶然と思えなかった。別人とは思えない。……ということは、この周辺は緑牧高校の先生たちに関わる物が置かれているのか。順番にケースを見ていってハッとした。「野辺名」という名札を見付けたのだ。猫一匹の三倍ぐらいある大きさの赤黒い色の肉塊だ。
これは野辺名先生の体の一部だろうか。ミイラ化したと聞かされているが、ずいぶん瑞々しい。容器の下の方には透明な液体が五センチぐらい溜まっている。先生は亡くなったとは聞いていないのに、こういう形の物が存在するのはなぜだろう。一体、これは体のどこの部分なのか。すぐ隣にある「K」というのは誰のことか分からない。なぜこれだけイニシャルらしいものを使っているのだろうか。これだけは白い脂肪や骨が突き出しているように見えて、他のものとは様子が異なっている。それで扱いが異なるということなのだろうか。
さっき擦れ違った助手さんとまた会ったので、
「すみません」
と声を掛けた。
「私の出身校の先生方がここにおられると聞いて探しているのですが、そのお名前がここに並んでおります。この物体はどういうものなのですか」
助手さんは、表情を引き締めて、首を振った。
「先生方からは何も聞かされていないな。どうも厳格な箝口令が敷かれているようだよ。君もここでうろうろするのは止めた方が良い」
ただ、そこに並べられた水槽は病理学研究室のものだということは教わった。
緑牧高校ではまた三人入院した。体調不良。そして記憶増強剤を急いで服用したが間に合わず。意識不明という経過だ。その前日、期志丘はジガジガジガジガと鳴る音を学校ではなく、自宅の電話で聞いた。遠くにあった危険が一歩身に迫ったような気分だ。なぜ自宅だ?
期志丘も最近体調が良くないと思うことがある。体がガチガチした感じで動かしにくいのだ。前は何でも貧血のぶり返しのせいだと思っていたのだが、それでは納得出来ないほどひどい状態だ。自分も学校の他の人たちと同じ問題でこうなっているのではないのか。
期志丘は端床さんから流綱さんが鼻唄を歌っていると聞いた。たった今期志丘の歌っていた鼻歌で思い出したのだという。門菊さんも歌っていたそうだ。鼻唄ぐらい誰でも歌うだろう。端床さんが深刻そうに話すのを、通りがかった人が笑った。
「そんなに心配しなくても、結局、ちょっと入院するぐらいよ。しばらくしたら戻ってくるんじゃないの」
こんな強気の人もいるが、入院がいつまでかかるか分からないことに不安を覚えるという人が増えてきた。期志丘にも、それが少し気になっている。端床さんがそっと付け足した。
「入院してしまった先生たち、一人残らずみんな、その鼻歌を歌ってたらしいんですよ」
まさかと思った。しかし、天罰なのかも知れないとも思った。なぜ今頃になって、あの問題が浮上してきたのかは分からないけれど、自分が入院することになったら世話してくれる人間はいないし、もう死ぬなら死ぬで構うものかと思った。
樫原は薬学部の学生控え室で同期の連中に緑牧高校の異変について相談したいと思った。何か参考にならないかと思ったのだ。しかし先輩たちからは、
「その人たちは何か変な物を触ったんだろうな」
と言われただけだった。
「接触ですか」
樫原が尋ねる。
「とにかく体の中から表面に出て来てるんだよな」
「何かに誘導されたんだろう」
という返答が返ってきて終わった。見たものの具体的な姿を話せば、そうはならないはずだが、口に出来ないのがもどかしい。同学年の連中は何一つ参考になることを言わなかった。薬学部の一回生は忙しい。文科系学部に進んだ友人たちの時間割は一年間変わらないらしいが薬学部は四期に分かれて時間割が変わる科目がある。そして毎週試験がある。あまり雑談にうつつを抜かしている余裕が無いのだ。ふらふらと高校のクラブにやって来る樫原は例外なのかも知れない。何のヒントも得られず、樫原はがっかりする。しかし、落胆しているだけではすまないとまた思う。先生たちは復活出来るのか。その見込みを何としても得たいと思う。ヒント、ヒント、ヒント、……。
緑牧高校の生物部では、丁寧に状況を分析していた。ここも物理部と同じように有能で活発なクラブだ。一、二年生が自分たちの習っている先生たちに異変が起きていると言って騒ぎ出したからだ。
生徒に一々伝えないでいるが、色々な学年、クラスから集まっている部員たちは知り合いを訪ね歩いて異変の状況を全てつかんでいた。何しろ休講になれば、生徒たちはその理由を考えずにいない。
「去年はこんなことはなかったんだから、今年になって変わった出来事が原因に違いないんだ」
去年部長をしていた三年生が言った。今年部長をしている二年生が状況を説明する。
国語科門菊先生と期志丘先生の頭髪。物理科流綱先生と生物科野辺名先生、北山、中石各先生の爪。期志丘、日本史島田、英語科正岡、体育科船田各先生の出血に物忘れか集中力の欠如。野辺名先生の出血と物忘れ、記憶喪失。門菊、数学科久野、期志丘、保健室小台、図書室河合の各先生に端床さんのひどい物忘れ。……。
「野辺名先生のが一番ひどいから、その周辺のことだな」
三年生が言う。彼らには猫の祟り説は伝わっていない。
「他の科の先生が関わるって、どういうことかな」
他の三年生も言う。二年生が一人すぐに助手の端床さんに尋ねに行って、北山、島田、正岡、船田の各先生は二年の修学旅行の準備に従事していると聞いてきた。
「修学旅行が悪いのか」
「まさか、そんなもの毎年やってるだろ。どうして今年だけだ」
議論の最中に部屋を覗きに来た端床さんに尋ねると、生物科で頻繁に会議を開いていたという。北山先生が同じ学年だから可能性が高い。場所は生物実験室ではなく、生物講義室だ。
「講義室で会議して、どうしておかしくなる?」
また端床さんに聞きに行く。端床さんがしばらく考えて、今年サイエンス科で始めた培養実習のカビがあったと言った。
「でも、もう無いよ。原因を調べてる大学の先生が持ってっちゃったから」
「そういうことなら培養物が原因に違いない」
生徒たちはカビを遠ざけるようにという病理学者の勧告を知らない。教職員がさっさと片付けたからだ。
上田秋成の墓のカビをA1カビ。襖の中にあったススの塊についていたF1カビ。学校がある住宅団地の端にある古墳からとったK1、K2、K3カビ、……。全部で二百種類ほど。この内、増殖力の特に強いA1カビとF1カビは面白そうだと、野辺名さんが自宅でも培養していたそうだ。
「体の中から押し出させる奴と、頭をぼけさせる奴か」
意欲的な生物部員といえど高校生には皆目見当が付かなかった。
樫原は自宅に帰ってからも大学で見た物のことを考える。あれが緑牧高校の先生方だとしたら、あんな形でも先生たちは死んだりはしていない、面会謝絶で入院中という聞こえている情報と辻褄は合う。しかし、あれはどういうものなのか。
新陳代謝の異常を誘導したものはあのカビだったらしいと、緑牧高校で聞いた。先生たちの異変が全て一つの原因によるものとはとても思えない。しかしその原因が何一つ浮かばない。今学んでいる最中だが、医学について自分が如何に無知かを痛感させられる。
「カビは何をしたのだ?」
そして箝口令はどのレベルから出されたのだろうとも思った。病理学教室主任か、医学部長か、まさか学長ではないだろうな。破ったら、おそらく退学処分は免れないということなのだろう。高校時代、社会科の先生が放校処分というものについて話したことがある。退学処分はただ退校させられるだけで、他の学校に入り直せば済むのだが、もしも放校処分というものを受けた場合は受け入れてくれる学校は存在しないだろうというのだった。そんなことになったら完全に人生設計が狂ってしまう。箝口令のレベルによっては放校処分の可能性もありそうだ。やはり、もう見に行かない方が良いかも知れない。
しかし、しかし、あれは人体のどこの部分なのかが気になる。ミイラ化した人体の乾燥した外皮のような部分を剥ぎ取ると、あれになるのだろうか。今のあの状態、恐らくどこかの部分から元の全て揃った健やかな姿に戻れるのだろうか。
箝口令はあるが、誰かにこの話を聞いてもらいたくて仕方ない。しかし大学で話題に載せると危ない。誰にも言えない。こういう重要なことは野辺名先生に聞いてもらいたかったが無理だ。誰に聞いてもらえるだろう。
樫原は医学部の図書館に行き狂ったように図版をめくった。あれに似たものはないか。肉腫が少し似て見えた。しかし、肉腫を「生きている」と称するだろうか。生活反応はあっても、大脳の指令を受けられないので長く生き続けることは出来ないはずだ。それを人が「生きている」と見なすことはあり得ないだろう。胎児も少し似ていると思った。しかし形態と生育時期とでぴったり一致しそうな図版はなかった。だいたい先生たちはみんな成人なのだ。
あれは先生たちの肉体の一部で、他の部分はどこか他に置かれているのだろう。
薬理学教室の先輩たちに尋ねると、その棚以外にも治療中の病気に関わる棚はあると教えてくれたが、一人分の体を分けて置くかなと首を捻る。念のために棚の置き場所を見て回ったが、それらしいものは見当たらなかった。捜索は振り出しに戻ったが、やはりどこの研究室のベッドにも見当たらなかった。精神科教室のベッドまで見たのに。
念のために標本置き場も見て回った。病理学教室の標本置き場は広大である。が、やはり先生たちの姿は見当たらない。あの棚は標本置き場ではなかったと思い返す。酸素か栄養分か、とにかく生き延びさせるための機材が装着されていた。狭いけれど、標本置き場よりも、生き返りそうな人を寝かせておくのに相応しいとも言えそうだ。あれが先生たちの一人一人の分の肉体なのかも知れない。しかしそうだとしたらなぜあんな姿になっているのだろう。
戸外は暑い。湿度も高く、長時間歩いていると頭がぼうっとなる。病理学教室の通路脇の棚はヒンヤリとして少しだけ薄暗かった。
二学期の始まりに合わせて、末期ガン治療で休職していたあの樽木さんが復帰した。土曜日に手術を受けて翌週の月曜日には平熱に下がり、その翌日にCTスキャンで癌細胞が完全に消滅した、つまり治癒したことを確認できた。それからしばらく栄養の補給を受けるうちに裏返っていた体が急速に普通の形に戻ってきた。それで化学検査などを経て退院し、しばらく自宅周辺を歩き回るリハビリをしていたとか。今日早くも職場復帰の挨拶に出校という流れだった。信じられないような話だが、事実なのだろう。ほとんど死亡宣告を受けていた人が同年齢の誰よりも生気あふれる様子で現れたのだ。みんなから祝福の言葉を掛けられて嬉しそうだ。期志丘は当人の人格が変わってしまっていないか気になったが、相手している同僚たちは別に変な顔をしたりしていないので、元のままなのだろう。当人にとって自分自身の肉体がどのように認識されているのか気になるけれど、樽木さん本人にそれを尋ねられるほどの人間関係はない。
人は死に、また一方では生まれてくる。そんなことを色々なところで読んできた。まさにそれを実感する。
そんなことを考えていた時、突然栗木さんに噛み付かれるような勢いでものを言われて吃驚した。緑牧高生の学力基準を定めるための委員会が設立されて期志丘が国語科選出の委員になっていたのに、その水準表を提出してなかったという。それを作成するための教科会の開催要請もしてなかったじゃないかと言われた。そんな委員会、そんな仕事を期志丘は全く覚えてなかった。指摘されて自分の記憶はどうなっていたのだろうと思った。きつい語調で話されると、電話のジガジガジガジガが思い出される。頭にビンビン響く。
流綱さんがいないというので、期志丘は代わりに柔道部に届いたゴムベルトを事務室に受け取りに行った。たった今落ち込んだ気分がそれで少しだけ晴れた。そのまま部室棟に持っていくと、柔道部員はいなかった。
「柔道部は住宅街の外周を走りに行きましたよ」
と居合わせたサッカー部員が教えてくれた。
隣人の奥さんが、「気味悪い」と言っていたのだが、それはサッカー部とラグビー部だった。ボールを脚でお手玉のようにしながらバスを待っているクラブと、独特の形をしたボールを抱えているクラブというのだから間違いない。しげしげ顔を見たが、違和感はない。何だか彼らの顔が脂ぎりすぎていたとも。若いのだから脂ぎるだろう。奥さんの方の体調がおかしいのではと思う。ついでに時々伝えられる巨大な鳥の話も、奥さんの錯覚ではないのかと思う。何かの光の加減で鳥に見えたのだろう。
しばらくしてから柔道部室に出直して、品物を引き渡した。打ち込みという練習に使うものだった。サッカー部では、一年生らしい三人が記憶増強剤を練っていた。マスクも手袋も帽子も着けていない。
「おい、マスクや帽子はどうした?」
期志丘に尋ねられてうろたえている。しかし取りに行こうともしない。
「どこにあるかも知らないのか」
「すみません」
「食中毒にでもなったら、公式戦に出られなくなるぞ」
「はい。すみません」
サッカー部の顧問は誰だったかな。ひとこと言って置いた方が良いかも知れない。
期志丘が帰宅して門の周りの落ち葉を掃いていると、お隣の奥さんが、その向かいの奥さんに、
「いつからだったかな、無言電話が掛かるようになったのよ。いやだわ」
と言っている。
「あら、うちもよ。何だかものを押し潰して引きずるような音までするから気持ち悪いの」
ジガジガジガジガだ。
「それは聞いてないけど」
「変な音が始まらないうちにさっと切らないとね」
「そうね。こっちが聞く様子を見せないことが肝心よね」
あの雑音は学校だけではないようだ。我が家に掛かってきたと思ったら近所にまで掛かっているらしい。どこまで広がるのだろう。
野辺名さんと方田の入院で来校した助教授から野辺名さん一人についてという名目で報告書が出された。「体内から特殊な細菌もウイルスも検出されなかった。病因は依然不明のままだが、少なくとも感染する恐れはないと思われる」
万一に備えてスポーツドリンクを机の足元に置く人が多い。元々担当クラスやクラブに関わる物品が置かれているので、一層狭苦しい座席になった。
感染しないと分かれば何も恐れることはない。校内に安心感が広がった。代わりにまた祟りが口にされるようになった。特に英語科と家庭科の教員が祟り論を吹聴した。方田と親しかった連中が中心だ。
「もう大丈夫だってよ」
「本当かなぁ。祟りって御祓いしないといけないんじゃないの」
さすがに生徒に直接話す馬鹿者はいなかったが、教員同士で話すのを生徒に聞かれているのに気が付かないようで、徐々に生徒にも祟り説が広がっていった。占い研究会には御祓いの仕方を教えろという要望が殺到し、部員たちは応対に困惑した。ドラキュラ伯爵の遺灰を厳重に箱詰めして大きな石や十字架を載せて地中に埋め込むように、何かを封じる必要はないのか、何を封じれば大丈夫なのかという質問だ。そんな物は存在しないと言っても、祟りを気にする人には通じないようだ。
職員室のすぐ前で、ガツンと凄い音がした。期志丘たちが飛び出すと、女子生徒が二人廊下に転がっていた。一人は片村さんだった。もう一人は同じクラスで占い研究会所属の山木紀子という生徒だった。こちらも片村に張り合う才媛だ。仲良しらしく、いつも二人でいるのを見かける。慌てて走ってきて衝突したらしい。
五、六人の女性教員たちに保健室に連れて行かれた。
「血が噴き出してるから吃驚したけど、二人とも元気だった」
と戻ってきた一人が言った。同じく一緒に行った人も、
「記憶増強剤を食べてたから、すぐに治るよ」
と言った。傷の治りが速くなるというので、欲しがったそうだ。少しましだった片村さんが練って、二人で食べた様子が可愛かったそうだ。記憶増強剤にそんな効果が本当にあるかは怪しいのだが、この学校ではどうもそんな風に気軽に食べられているようだ。
「凄い才媛たちでも、あの様子は子どもよね」
と笑っているので、思ったほどひどいことにはならなかったのだろう。
小台さんが職員室に来て門菊さんと話している。ほとんどの人が帰ってしまってひっそりしていた。
「昨日ね、出張に行く時に、生徒がたくさん帰る時間になってしまっててバスの中で押し潰されそうだったわ」
「座れなかったの?」
「ちょっとタイミングが悪くて、御近所の人たちがたくさん乗り合わせてたから。でね、それはどうでもいいんだけど。その時にね、気になることを聞いたわ」
方田が生物準備室で何か食べていたことがあるらしい。
「端床さんが何かおごってくれたんじゃないの」
「何を食べてたのかは聞き取れなかったんだけど、一年生だと思う、話してたのは。まさかあんなものを食べる人がいるなんてとかいう話をしていて。厚化粧の先生だというし、絶対あの人の話だと思った。このルートで真相が分かるかも知れないと思ったわ」
気候の良い時期で保健室にほとんど生徒が来なかったので、あちこち歩き回れた。変なものを食べて中毒しないようにという話で話題になったのかも知れないので、保健の授業で話してないかと体育科に尋ねた。難民の生活に関わる話かも知れないので社会科にも尋ねた。雑学の国語科にも回った。そして方田が生物科で何か食べたらしいと突き止めた。
「カビを食べたわけ?」
「そうなの。海苔の佃煮と思ったというのが本人の言い分なんだったけど、野辺名さんが、あいつは自分のものと人のものの区別が付いてないんじゃないかとぼやいたらしいの。端床さんが言ってたわ」
薬学部の学生控室にいた樫原は、やってきた医学部の事務員に助教授の綿崎先生が呼んでいると告げられた。学部が違うので驚いた。薬理学のゼミに入れば医学部の病理学科とも連携しているのでゆくゆくは関わる可能性があるので御顔は覚えている。しかし講義を受けたりしたことのない先生だ。何の用事だろうと思いながら、恐る恐る研究室に出向いてドアをノックした。
「薬学部の樫原良平だな」
「はい」
「聞きたいことがあるので、来てもらった」
「はい」
「緑牧高校で、記憶増強剤というものを開発したそうだな」
「私はただのお手伝いで御座いましたが」
「君は具体的に何をした?」
「実験用の猫を調達致しました。御指導下さった先生が開発なさった物質を体内に取り込むためにどうすればよいかとお考えでしたので、直接食べるのが良いのではと提案させていただきました」
「材料の内容は知っているかな」
「詳しくは存じません。ある程度は教わっておりますが。ただ、私は材料の現物を少々手元に置いておりますので分析することは可能と思います」
綿崎先生は頷いた。
「緑牧高校で、記憶増強剤について詳しく知っている人間は二人だけだと聞かされた」
「はい。大体その通りで御座います」
「野辺名さんから話を聞けなくなってしまっている」
「面会謝絶と聞かされております」
「そうだ。それで君に尋ねるしかないことがいくつかある」
成分と製造法を詳しく尋ねられたので知っている限りのことは答えた。成分の効果をどう認識しているかも。ほとんど完璧に答えられたと思った。ただ、なぜ記憶が良くなるかの薬理学的な経路については分かっていないと答えるしかなかった。
「よく分かった。今回の事態についてそれの及ぼした影響についてこれから調べようと思っている」
話が終わりそうだ。病理学教室の通路沿いに置かれた肉塊について尋ねなければならないと思った。ここに呼ばれたのはチャンスだ。
「先生」
「ん?」
「あれは何でございますか。法医学に向かう通路沿いの棚に緑牧高校の先生方の御名前が書かれておりました」
「それには答えられない」
しかし樫原は粘る。
「とても人間には見えません。腫瘍かとも思いましたが」
「私にも何か分からない」
「他の部分はどこにあるので御座いましょうか」
「他の部分というと?」
「あれは人間一人分の肉体では御座いませんよね」
「いや、あれで一人分だ」
小さすぎると思う。先生が嘘をついていないかと顔を見た。いつも見かけている穏やかな表情だ。誤魔化されてはいないようだ。
「高校の先生方は入院なさった方は全員生きていると信じておられます」
「生きてるよ」
「でも、あれでは当人の意思や判断は出来ないのではないでしょうか」
「それは窺い知れない。無いようには見えるが、あるかも知れない。今は判定し難い。とにかく、アミノ酸や鉄、カルシウムなどを保護液に入れておくと、濃度が下がるし、アミノ酸の破片や尿素の量が増える」
それなら食事し、排泄していることになる。生活反応があることになる。医学的には間違いなく生存状態にあると言える。
高校時代に法学部志望の友人が、人間はいつから人間か知ってるかと聞いてきたことがあった。彼に言わせると、法学者の間では出産する女性の膣から頭が見えた瞬間から人格が認められるというのが定説なのだということだった。一方死亡の瞬間は、推理小説に度々書かれている通り、瞳孔散大、心拍停止、自発呼吸停止、脳波消滅などということになっている。普通の人ならこの間が人間の生存状態と考えられる。逆にいえば、これらが揃っていてこそ生存状態なのだ。あの肉塊にはこれらが本当に揃っているのか。それに当人の判断や行動があってこそ人は生きていると言えるのではないか。あれで人間が生存していると本当に言えるのか。綿崎先生が「生きている」と言えば、うちの医学部は先生たち一同声を揃えて「間違いなく生きている」と言うに違いないけれど。うちの大学だけがこの病気を扱っているということはおそらく厚生労働省も同じ立場を取るに違いない。瞳孔も、脈拍も、呼吸も、脳波も無さそうに見えるのに。これからあれの死亡宣告はどのように行われることになるのか。そういう考えが瞬間的に頭の中を巡った。
「患者は変になった、だから病気だろう、何とかしてくれと我々の所に駆け込んでくる。それのために我々は頑張る。それだけのことだ」
「でも奇形です。人間一人分には見えません」
「形状を含めて、現在の症状があれだから仕方ない。何をもって奇形と決める? 物差しは無いんだ。患者が、家族が幸せだと感じればそれでいいわけだ」
「御家族はあの形状を御存知なのですか」
「知らせてない。あの形状を教えてもらって喜ぶかな。喜ぶ見込みがあるのなら見せるよ。それが行動の基準だ」
「どうして箝口令が敷かれているので御座いますか」
「患者の家族が希望したからだ」
「ということは現状をいくらかは御存知なのですか」
「部分的にしか知らない」
「発表しなくて宜しいのですか」
「同じ事例が他の場所でも起きているなら、発表せざるを得ないだろうな」
「緑牧以外では起きていない。でも内部では複数で御座います」
「そうだ。全貌は県の公衆衛生院が把握している。その上で他では起きていないと判断した。何か問題があるかな?」
イライラすることがあると高校の物理部に顔を出して、様々な問題についての彼らの度外れた着想を笑っていると気が紛れた。今日も行こうと思って歩き出した。家の近所では道ごとにケヤキの並木、銀杏の並木、プラタナスの並木など樹木の種類が異なっている。そこを次々と通りながら歩いていた。自宅から学校までの道沿いに一軒小さなスーパーがある。何かお菓子でも買っていけば喜ばれるかも知れないと思って、中に入った。陳列棚を眺めていると誰かに肩を叩かれた。顔を上げると期志丘先生だった。
「何か、難問を考えてるみたいだね」
「まぁ、……そうです」
「何か問題なの?」
「そう、ですねぇ」
ボンヤリしているうちに、期志丘先生の家の近くに来ていた。角を曲がれば緑牧高校だ。
誰かに言おうか言うまいかかなり迷っていたはずなのに、言葉が口を衝いて出た。
「野辺名先生たちは医学部病理学教室の棚に保管されています」
しまったと思ったが、相手は期志丘先生だ。大丈夫だろう。
「保管?」
期志丘の方は奇妙な表現だと思った。樫原君は一言喋ってしまうと、続きが出やすくなった。
「はい。温度や湿度の管理できる棚なのです。そこに並べられています」
保管? 並べられている? まるで物体だ。人間扱いでない。
「方田先生も?」
「方田先生は分かりません。最近入院して来られた先生方、並木先生や船田先生は見ました」
名前に間違いはないようだ。
「ひょっとしてフラスコか何かで?」
「直方体の水槽のようなケースですが、まぁフラスコやシャーレの一種と言えます」
「どんな形になってるわけ?」
「そこが申し上げにくいのです。厳重な箝口令が敷かれているようでして、私のような学生や院生が漏らしたと分かった場合、恐らく退学処分になるかと思います」
薬剤師や研究者への道を絶たれてしまいそうだ。
「でも、言います」
いいのかと思ったが、
「期志丘先生なら他に漏らしたりはなさらないでしょうから」
と言う。大変なことを聞いてしまいそうだと思った。しかし仕方ない。
「勿論」
「先生たちは、もう人間の形はしていません」
期志丘は天を仰いだ。「水槽」と聞いた瞬間に想像した。職員会議で裏返し猫の話を聞いた時に、肉屋の棚を思い浮かべたが、今またそれを思い浮かべてしまった。それからの樫原の説明はその想像を裏付けるものだった。入院した人はもう十人近い。一人は分からないが、全ての人が気味の悪い姿になっているのだという。
「先生方がうちの学校の病院に入られたとお聞きしましたので、お探ししたのです。そうしましたら、どこの病室にもおられないのです。困って歩いておりますうちに病理学教室の棚に知った御名前が並んでいるのを見付けましたので驚きまして、助手の方に尋ねましたら、言うなよと念を押されました」
「死んでるわけじゃないんだね」
「その通りです。生活反応は続いておりますから、亡くなったことにはならない、名目上は生きておられるということになっています。でも……」
樫原は言葉が続かない。時々息が切れる。期志丘が、
「元に戻る可能性は有るの?」
と尋ねると、首を左右に振った。期志丘もそうだろうなと思う。
そのまま生き続けて意味があるのだろうか、当人にとって。誰のために保管するのだろう。自分の意思を持ち、自分の判断で行動出来るうちだけが人間が生きていることになるのではないのか。
「それを知っているのは、どういう人たちなんだろう」
「箝口令がどこから出ているのかによると思いますが、とにかく学部の幹部の先生方だけではないかと思います。病理学教室の助手の方は御存知なかったものですから」
樫原は期志丘に話せたのでホッとしたような様子を見せた。しかし今度は期志丘が困った。漏らすと樫原の将来が危なくなる可能性がある。
「前にも話題にしたけど、記憶の時点を移す研究とか言ってたな」
「はい、野辺名先生が欠損した筋肉の復元を志しておられましたので、そのお手伝いをしたいと考えました」
と言った。何かの拍子に再生しなくなった筋肉を復元する研究だという。
「うまく行ってたの?」
「いいえ。停滞しておりました」
「何が引っ掛かったわけ?」
「回復させる時点が、思うように動かせないのです」
「よく分からない」
「患部に栄養を与えますと筋肉や皮膚が回復してくるのですが、最近ケガした時の直前の状態になるだけで、さらにそのはるか前の状態に戻らないのです」
「昔の状態に戻したいわけだな」
「そうなのです」
野辺名さんの説明通りだ。
「そんなこと、まだ分かってないのか?」
「昨日今日に失った組織を回復するのは出来るのです。でも、数年、或いは数十年前に欠損したものがまだうまく治療できません」
一口に体組織の欠損と言っても、皮膚の欠損・脂肪組織の欠損・筋肉の欠損・骨の欠損などがあり、それぞれ治し方が異なるという。一番初めに考えたのは栄養補給だった。何と言ってもタンパク質がいる。それでダメなら体の他の場所から移植してくる。なおダメなら遺伝子治療といったことになるそうだ。
「そんなことを高校の教師が研究してたのか」
SSHの生徒が凄いことは色々と聞かされたが、その彼らを指導する教師陣はどうなのだろうと思っていた。流綱さんにしても野辺名さんにしても、やはりただ者ではなかった。
「そうです。感動しました。それで、その研究に参加させていただいたのです」
「成果はいくらか見えたの?」
「少しずつですが、着実に」
最初は質の良いタンパク質を投与すれば良いと思ったのだが、それでは数日前のケガを治すのには有効だが、何年も前のものには全く意味が無かった。
「しかも野辺名先生の想定しておられる患者さんは、先生とウマが合わなくて傷をきちんと見せて下さらないのです」
期志丘は栗木さんの手袋を思い返す。
「手首が凄く細いのです」
樫原君が期志丘の想像を察したように、その症状を説明する。栗木さんのことだろう。
「私が職員室で他の先生の戻ってこられるのをお待ちしておりました時のことです。その方が手を洗っておられる時に風が吹きまして、手首のものが強く巻き付いてしまいました。すると手首がボールペンぐらいの太さしかなかったことが分かったのです。あっ、どうなっているのだと思って無意識で触りに行ってしまいまして、ひどく怒られました。当然ですよね」
栗木さんだ。それで彼女に触りに行ったのか。期志丘は症状について自分の想像を話した。
「本物の手首じゃなくて、義肢かも知れないぞ。それなら関節部は細くなってる方が動かしやすいんじゃないか」
「でも手の動きが自然なら、やはり本物の手首でありましょう。精巧な義肢なら出来るかも知れませんが、それは高額すぎて普通の人は装着できません」
確かに、そんな上等の義肢を購入できる人なら、いじめや不登校、果てはモンスター・ペアレントといったうるさいことの多い公立高校の教師になんかなっていないと思えた。
「筋肉の欠損は、幼児ならさっさと治療を始めましたなら治る可能性があるのですが、少年期以降になりましたら、今はまだ治せません」
「成人なら絶望的ということだね」
そのために義肢・義足が作られているのだろう。
「そのうち野辺名先生が、体組織の修復は神経が大きな機能を果たしているからそれを改善しようと提案なさいました」
神経を活性化するのはビタミンB1とかアセチルコリンという物質が既に知られている。
ビタミンB1はチアミンとも呼ばれる。日本の鈴木梅太郎が抽出に成功した物質で、脚気の予防薬になる。不足すると心臓の機能を損なってしまう。これに気付かなかった森鴎外、当時陸軍軍医総監をしていた森林太郎のことだが、彼の判断ミスのせいで日露戦争時に兵士が大勢亡くなってしまった。豚肉・穀物の胚芽・豆類に多く含まれる。神経伝達機能に関わる物質だ。アセチルコリンも副交感神経や運動神経の働きに関わる。水俣病で有名になった有機水銀はアセチルコリンの生成を妨害するため、患者の発話や運動に障害をもたらした。
「体内で出来るのかな」
「そうです。普通はそんなにたくさんはいりません」
「神経って、痛いとかかゆいとかいうのを感じるための組織じゃないの?」
「それもありますけれど、ここに傷がある、つまり組織が繋がるべきところなのに欠けているということを感知するための組織です。それが元々の意義かも知れません。まだそこまで習っておりませんが」
「欠けているから、そこに栄養を補給せよという指示を出すことになるわけか」
「そうです。でも、ただ漠然と食べさせたりするだけでは狙った通りに傷を修復してくれるわけではないのです」
一息ついて、
「古い欠損場所はもう欠けているということを感知させることも出来なくなっているみたいでしたので、それを言わば叩き起こそうということをしないといけなかったのです」
と言った。その過程で野良猫を次々実験に使ったという。
「野辺名さんは止めなかったのかな」
「先生も私も全く考えてなかったと思います。それが出来れば医学に貢献できるということに言わば陶酔しておりました」
ということは猫の筋肉を無理に欠損させて、それを薬物を与えたりして復元しようとしていたのに、うまく行かずに死亡したということか。これはかなり惨い研究だなと思った。
「じゃあ、猫を死なせたのは、野辺名さんの仕業か」
「御言葉ですが、『仕業』という表現は適当では御座いません。私たちは真剣に取り組みました」
「百匹以上の猫を殺したそうだが、それは常識はずれだぞ」
医学の研究にどれほどの動物が使われているかを期志丘は知らないのだから、百匹という数が常識を外れているのかいないのかは実は明らかではない。しかし樫原君はそういうことを知っているのかいないのか、反論したりはしなかった。期志丘の顔を真っ直ぐ見たまま、緊張した顔で、
「それは可哀想なことをしたと思っておりますが、この研究が実れば、もっと多くの猫や、うまく行けば人間が助かります」
とはっきり言い切った。
「どうして」
「私たちの研究は、いつ生じたか分からない古傷を治す研究でしたので、その実物を入手する必要があったのです」
「実物?」
「そうです。そして、野良猫は古傷を負っていることが多いのです」
耳や腹に穴を開けられたり、尻尾を切られたりして、それが治らないままの猫が多いのだという。古い傷を修復できるかどうかを確かめるためには、古い傷を持った動物が必要だ。野良猫や野良犬にはそういう傷を抱えているものが多いという。それが研究材料としてちょうど良いので利用することにしたのだという。きちんと飼われて可愛がられている猫では役に立たないわけだ。犬は狂犬病が怖くて避けたそうだ。
「詳しいんだな」
「音楽の並木先生を御存知ですか」
「あぁ、もちろん知ってる」
「凄く猫好きの方なのです。五、六匹飼っておられるとか聞いたことがございました」
「へぇ」
「並木先生が拾ってこられた猫が、たまたまお腹に大きな穴がありまして、獣医さんに見せても治らないと言われたそうです。そういうことを生物準備室で端床さんと話しておられたのです」
「でも、そういうことを聞いて、すぐに実験材料にしようと思い付くなんてね」
別に非難するつもりは無かったが、樫原君にはそう聞こえなかったらしい。
「確かに無情と言えば無情ですが、端床さんが使える話だねと教えて下さったのです」
端床さんが発端だったのか。
「確かに皮膚欠損・筋肉欠損、中には骨格欠損の猫がいました」
「でも、やっぱり珍しいんじゃないの」
「十二パーセントでした。かなりの高率です」
「君は猫を百匹は殺したんじゃないかと聞いたよ」
「そうです。一万匹以上の猫を見ました」
一万匹という数字にゾッとした。
「どこに、そんなにいるの?」
一万匹の死体を想像した。
「保健所の関連施設です。近くの県のも見て回りましたから。そこで傷を抱えている猫を探しました」
学校の近所で百匹を捕まえて殺したという単純なものではないらしい。
「それで結局、欠損の猫が百匹になったということか」
「そうです。生かしておいてやりたかったのですが、傷が改善すると元気になりすぎて檻の中で暴れて死んでしまうのです。おとなしくさせる方法も並木先生に教わっておけば良かったと後で思いましたけれど」
「……」
「経口薬も開発しました。カルニチンという物質を核にしたもので、治しやすくなると思って使ったのです。そうしましたら」
笑いをかみ殺すような様子だ。
「物覚えが良くなりました」
「猫の?」
「猫も私たちも」
「君ものんだの?」
「野辺名先生もです。そうしましたら猫は迷路を早く通るようになりましたし、私たちもそんな風になりまして。でも太りました。どうしてか分かりませんが、副作用かと思っております」
内心なるほどと納得したが、それは口に出さなかった。野辺名さんが記憶増強の薬として承認を求めようとしなかったのは、おそらく自分の狙いとは違う効果だったからに違いない。そういうどうでもよいことにエネルギーを割くのは真っ平だというつもりで管理職の希望を蹴っていたのだろう。
「それと、猫の外見が妙なことになりました」
「どんな風に」
「黒猫の毛に、三毛猫のような茶色の毛が生えてきました」
「どうして」
「分かりません。大学の先生たちにも聞いてみましたが、みんな錯覚だろうと言って信じて下さいません」
「大学の先生って、薬学部の先生かな」
「そうです。助教授や講師の先生、それと大学院生、みんな笑うばかりでした」
「本当なら、何か特異な作用を表しているということになるね」
「そうなんです」
樫原君は猫のことを話してしまってホッとしたような顔をした。
「野辺名先生は、忙しすぎました」
とポツンと言葉が洩れた。
期志丘は記憶増強剤で、病理学教室の棚に保管された同僚たちが復元出来ないものだろうかと思った。不気味に思っていた増強剤だが、今はそれにすがるしかないような気がした。毒を持って毒を制すというか、不気味な事態に不気味な増強剤、という図式が浮かぶ。
たくさん入院した。でも誰も亡くなったという連絡は聞かない。しばらく入院する人が出なくなった。それで校内の緊張が弛んできた。樫原が期志丘に漏らした現状を誰も知らないのだ。期志丘もそれを誰かに話したくなることがある。しかし、樫原の前途を塞ぐ訳には行かないので我慢している。どこの国のお話か忘れたが、王様の散髪をしていた床屋が王様の耳がロバの耳だということに気が付いてしまった。この王様はよく家来を処刑するので恐れられていたので、それを誰かに話す訳には行かない。しかし誰かに話したくて話したくてたまらない。そこで地面に穴を掘って「王様の耳はロバの耳」と三回言った後、埋め戻した。しかしそこから生えた草を使って子どもたちが笛を作って吹くと、「王様の耳はロバの耳」と鳴ったというのだった。その床屋の気持ちだ。
職員室前で激突した片村と山木、二人の顔が、何となく脂ぎってきた。テカテカしている。生徒の顔を見ても近視のせいで表情の掴めない期志丘でも気が付いた。どういうことだろうか。
職員室の近くで、期志丘は片村さんと雑談した。
「あの子たち、何だか表情が乏しくなってきたなぁ」
呉味さんが言う。須賀さんが、
「そう言えば、そうねぇ」
と言った。期志丘は隣家の奥さんの話を思い出した。生徒たちの顔が互いに似てきたというのだった。表情の乏しさがそう思わせるのかも知れない。
小台さんと会った時、片村と山木の話をした。
「山木さんが凄いことになったのよ」
『平家物語』の「敦盛」の本文を完全に思い出したというのだ。実際、その全文を暗唱して見せたそうだ。小台さんがひたすら感心すると、
「佐晶だって、これぐらい出来るよね」
と言った。片村さんは、
「それが」
と一瞬詰まって、
「『スイミー』を思い出しました」
と言った。
「何よ。小学校じゃん」
「そうなんだよ。受験にちっとも役立たないからいやになる」
いずれにしても長い本文だ。それを全て覚えたり、暗唱したりするのは大変なことだ。それが出来るようになったというのは彼女らの能力が優れているからか、記憶増強剤の効果か、どちらなのだろう。
その頃から新しい説が唱えられた。誰が気づいたのか、五人の教師が災いの発生源ではないかというのだ。
キシオカ→カドギク→クリザル→ルツナ→ナミキ→
名前が尻取りでつながっている。期志丘が着任する前に異常が無かったのは、連鎖が完成しておらずエネルギーが足らなかったからだと説明していた。どうでも良いような話なのに、また皆はその説に飛び付いた。
「祟りって本当にあるとは思わなかった」
祟りが真相であると決めつけるのだった。
「私が転勤すれば収まるんですかね」
職員室の出入り口で期志丘が言うと、
「さぁ、どうだろう。後の祭かも知れないよ。もうたくさん入院してしまったからなぁ」
と言われた。
腹が立つ。しかし追い討ちをかけるような情報が流れた。
ヨウセイ→イナノ→ノリヒコ→コレヒト→トミヨ→
として、五人の教師は姓だけでなく名前の連鎖も成立している。それを言い出したのは占い研究会ではない。気付いてはいたらしいが、無意味だと考えて言わなかったそうだ。呪いを気にする暇な人がいてわざわざ調べたらしい。そんな組み合わせは校内で他の誰とも成立しないという。これには期志丘も言葉が出なかった。大体、そんなことを調べようと思い付くのが変だ。並木富代さんが関連を疑われているが、当人が聞けば不思議がるのではないか。しかし並木さんが入ったことで秋成の言葉をつかめたわけだ。そう考えると五人の鎖の後ろに三年生物理部員の木鋤義清を加えたら鎖はさらに大きくなると期志丘は密かに思った。これだけ繋がりの密な氏名を持った人間が五人(実は六人?)揃って、同じく上田秋成のカビに関与したということがあるだろうか。
期志丘はこういうところに関係づけられた自分が、まだ無事でいることに不思議さを感じる。ひょっとすると自分も逃れられないのではないか。しかし、名前の連鎖から外れている人たちがたくさん急性老化して入院しているのが分からない。順番が滅茶苦茶だ。インフルエンザが流行っても、発病してしまう人と全くどうもならない人がいるのは知られている。それと同じことなのか。
「門菊さんが入ってるというのはどういうことでしょう」
期志丘が尋ねると門菊さんは、
「本校が不幸に見舞われるということは、野辺名さんだけでなく何人かがだめということですからね」
と平然としている。門菊さんは名前の連鎖に関わるが、カビにはほとんど近付かなかった。少し変な出来事に見舞われたが、無事だと信じているのかも知れない。
「怖いじゃないですか」
「まぁ、どうせ一回は死にますから」
「凄い落ち着きですね」
笑ってしまった。
「占いって、とにかく巡るんですよ」
訳の分からないことを言いだした。
「巡る?」
「そう。ぐるぐる」
「……」どういうことだろう。
「今日ラッキーでも、いつかアンラッキー。今日アンラッキーでも、いつかラッキーということなの。大吉に意味があるのは、凶や小吉があるからで、ずーっと大吉ならだれも占いなんかしませんよ」
なるほど。それはそうだ。だから幸運の後には必ず不運が控えているから仕方ないのだそうだ。
「キリスト教世界の考え方とは異なりますね」
「そうかしら」
「キリスト教世界では時間は一直線と言いますよね。創世記で世界が誕生して、黙示録で世界の終わりが描かれる。それで欧米は自然科学の研究を進めることが出来た」
「あれは違うと思うの。全部、回ってると思う」
「そうですか。でも、それが仏教世界の時間との一番の違いで」
「違う違う。私はこう考えてるの」
門菊さんは、途方もない年数で循環する仏教の教えをヒントに、輪があまりに大きいとその一部分をとると直線に似ると考えたのだそうだ。
その部分の端から端までだけ見たら、キリスト教世界の直線時間になるというのだ。
「キリスト教は真実の一部しか見てないことになりませんか」
「その通りよ。仏教の方が現実を正確に捉えていると思うわ」
「それで何でもどんどん変化すると考えるわけですか」
「そうそう。運勢も時間の経過も同じなのよ」
そういう感覚が恐怖に対処するのに良いのかも知れない。
野辺名さんが休職したので、後任に井形桂司という人が着任した。度のきつい眼鏡をかけ、丸刈り頭という見かけのあまり芳しくない人だった。生物科には出入りしにくくなるかも知れないと思った。どんな人なのだろう。
「大学の研究員だったんですよ」
端床さんがそっと教えてくれた。野辺名さんの後任者捜しに苦闘する管理職を見かねて、流綱さんが研究会の仲間を推薦してあったらしい。流綱さんは聴覚を拡張する研究をしていたが、彼は視覚の方をやっているんですと紹介した。それで期志丘たちは視覚の補助機、つまり高性能の眼鏡を研究しているのだと思ったのだが、よく聞くと再現機とでも呼ぶべきものだった。誰かの見たものを後で映像として映し出すというのだ。
「どう役立てるんですか?」
「ものが見えにくいと言われても、具体的にどう見えにくいのか、患者さんの言語表現能力にもよりますが、医師にはよく分からないことがあるんですよ。もちろんしつこく尋ねて解決していくんですけど。だから、ほらこんな風に見えにくいんですと言えれば、簡単でしょ」
現在、医療器具の中に球面視野計という機材があって、患者は光った部分があればその瞬間スイッチを押すことで見えていない場所をいくらか探ることが行われている。光っているのに押さなかったら、そこは見えていない場所だというわけだ。それで視野の欠損部分を確認する。しかし指が動かしにくい人などでは検査しにくい。井形さんの機械があれば誰の視野も一目瞭然だ。
流綱さんの研究のことは聞かされていたという。
「僕も頑張らなくてはと思いましたよ。同じ職場に勤められて光栄です」
しかし実体はまだ存在しない。
「まだ理屈だけで」
と肩をすくめた。
人間の視神経は約百万本あるという。これらを伝って刺激が大脳に達し、影像を描くと考えられている。それで彼はこの視神経に番号を振り、一本一本をパソコン・ディスプレーの画素一つ一つに対応させるつもりでいる。視神経の受けた刺激を途中で捉えて、それに対応する長さの時間に、対応する強さで、試行錯誤してあてはめた色彩を画面に描き出すと、全体としての映像も再現できるというわけだ。その試行錯誤の仕事量が膨大で進捗していなかったのだ。計画は斬新だが、いつになれば実現するのだろう。
人の気配を感じて期志丘が振り返ると、栗木さんが医師が診断する時のような目つきでこちらを見ていた。
「何かまた、忘れてたっけ」
「忘れたことがあるのを忘れてないから、まだ大丈夫ですけど」
「忘れないようにメモを書いてるんだけどね」
机の端にメモを貼ってある。
「書き忘れたら終わりですね」
「どうかな。まだ何かあったっけ」
栗木さんはメモを見ていくと、
「私も関わる仕事は大丈夫みたい」
と言った。
「よかった」
「でも、何だか変な感じがするんです。何事も無ければいいんですけど」
「脅かさないでよ」
「脅かしたりはしませんけど」
そう言って栗木さんは期志丘の机から離れようとして、
「あれっ」
と言った。
「まだ何か?」
「違うの。期志丘さん、カレーは苦手と言ってなかった?」
「あぁ、言ったような」
「これ、カレーじゃないですか」
期志丘の机に置かれた皿を指した。さっき食堂から運んできて食べたのだ。
「そうだ、カレーライスだな」
皿を眺める。
「食べ物の嗜好が変わるなんて珍しいですね」
「そう言えばそうだなぁ。でも、今日は並んでいる物を見たら、これをと思ったな」
「ふーん」
期志丘にとって一番気楽に雑談できる相手が今は端床さんだ。しばらくその端床さんのことが頭から消えていた。鼻唄よりも物忘れがひどくなる方が怖い。野辺名さんについても日常の細々した事柄を忘れたことは誰も気にしていなかった。収入に直結する仕事に関わることまで分からなくなっていたというのが問題なのだ。自分は今、そのレベルに近付いているのだろうか。
これでは公務員の労働条件が極端に悪いと言われるこの県では生き残れない。真っ先に失職する。いや、この県でなくてもだめだろう。
栗木さんが出ていき、入れ替わりに門菊さんが席に戻ってきた。どういう訳か彼女の顔がつやつやしている。
「門菊さん、顔の艶が素晴らしいですね」
「あら、そう? 嬉しい。新しい化粧品を試したからかな」
「増強剤は違うんですか」
「私、あれはほとんど飲んだこと無いな。他には特別なことしてないよ」
羨ましい。造作は依然まずいままだが皮膚の色つやは抜群だ。名前の連鎖はやはり考えすぎだろう。門菊さんと自分の状態が違い過ぎる。この頃、期志丘はよく水を飲む。水道の水がまずくてたまらないので一度湧かした湯冷ましを飲んでいたが待ちきれなくなった。それでペットボトルの水を飲む。そのボトルがたくさんたまってごみバケツを塞いでいる。飲まずにいられない。
授業中に口の中が乾き過ぎて声が出なくなることが起こってきた。小便の頻度が上がった。体から水分が減るのに。去年入院中に、病室で親しくなった糖尿病患者に、
「糖尿病って、喉が渇いて渇いて苦しいんですよ」
と聞かされた。気になってかかりつけの内科医に相談したが、尿の成分に問題は無いようだ。煎った銀杏を食べてみてはと言われて試してみたが効果は無かった。赤血球が少なくなっていると言われて驚いた。折角貧血が改善したと思っていたのに。
これも野辺名さんの症状に似てきたということなのだろうか。しかし、と考える。野辺名さんはカビを培養し、流綱さんはそれから音を聞こうとしていた。それでカビの培養器であるシャーレに触れることがあっただろう。カビに接触すると死ぬ。でも自分はそんなことをしていない。どうして二人と同じことになるだろう。名前は確かに緊密に結び合っているが、それが何だと言うのか。
物忘れがひどいのは気になる。栗木さんに何度怒られたことか。妙な鼻唄を歌っていたと指摘されもした。しかし血が滲み出したりはしていない。貧血が治ったのか治ってないのか自信が無くなっているのが問題だ。そこが他の人たちとは違うところだ。自分は危ないのか危なくないのかが分からない。どういう心構えで居れば良いのだろう。
期志丘はまた栗木さんに怒られた。
「先生、これ、実力考査の問題の原案、私の担当分。先生のも下さい」
「あっ、そんな時期だなあ」
「……」
「いつまでだっけ」
栗木さんが呆れた顔をした。
「今日でしょ」
「決めた?」
「まあぁ。……怒りますよ。何考えてるんですか。真面目にやって下さい」
本当に約束したっけ。しかし、栗木さんが冗談を言っている様子でもない。忘れていたのか。全く記憶がない。不安になる。記憶をなくしているうちただ沈黙していればよいのだが。貼ってあるメモを見ると、確かに実力考査問題と書いてあった。昨日今日はそのメモも見てなかった。
「全然覚えてないんですか」
期志丘の顔に、栗木さんが顔をぐっと近づけてきた。強烈な圧迫感を覚える。期志丘は改めて彼女の顔を見た。視線を返さないとまた怒鳴られそうだったからだ。
「御免なさい」
いつもの栗木さんだ。異様なものに接した形跡はない。美人だと思った。そして何が他の人と比べて違っていて、美人顔になっているのだろうと思った。長く見詰め続けていると彼女の怒りをきちんと受け止めていないと思われそうなので間もなく視線を外したが、期志丘の頭には仕事のことは残っておらず、彼女の美貌だけがあった。
目の下の筋肉の膨らみが同僚たちよりも少なく、すとんと下に落ちるような形状だと思った。そこの筋肉が薄いので、耳から顎に向かう顔の輪郭線がはっきりしてシャープな印象を与えているのだ。どこが他の人たちと違っているのかと思っていたが、いわばその一点が異なっているだけだった。
その後小台さんの顔を見た時に、栗木さんの顔を思い浮かべながら違いを考えた。やはり頬の筋肉の膨らみが大き過ぎるせいでお多福っぽい顔になるのだと思った。もしかしたら違いはこの一点だけなのではないか。形成外科で美人顔に作り変えるのはわりに簡単なことかも知れない。
小台さんを思い浮かべると必然的に門菊さんの方も連想する。あの人の顔の輪郭はお多福っぽい顔を顎の張った四角い形にしたものだと思った。耳から顎にかけてのラインは小台さんよりも意外に栗木さんのものに近い。しかしそれがはっきり顎の先にまっすぐ届かず、唇の両端の真下にそれぞれ切り落としたような形なのだ。それが女性らしい優雅さからかけ離れた男性っぽく力強い顔のラインになってしまっているのだ。そうか、鬼瓦は男の顔を下地にしてデザインされているのだ。
こんなことを考えた期志丘の内面に気が付かないようで、栗木さんは、
「信じられません。どうしたんですか。先生、記憶増強剤を飲んだ方がいいんじゃないですか」
と言った。
期志丘は入院中に膨大な量の薬を服用させられたので、今は薬を避けたいと思っている。それに記憶が良くなり過ぎて思い出したくないことまで思い出しては困ると思っている。勧めた栗木さんにしても全く飲まないようだ。自分には薬が効かないのだから、服用するだけバカバカしいということらしい。門菊さんは、薬が必要な状態になっても死ぬなら死ぬで構わない、薬を使わなくて死んだらそれはそこまでの寿命だったということだからということで飲まない。小台さんに、薬は毒と吹き込まれているという気がしている。野辺名さんはきっとたくさん食べただろう。流綱さんの状態は知らない。
「いや、すぐにお渡ししますよ」
昼休みに言われたのだから、精力的に作業すれば、明日の朝には渡せるはずだ。うまく行けば、今日の退勤時刻に間に合うかも知れない。栗木さんから逃れるようにして給品部に行った。与志夫と会わないことを願った。彼は来ていなかった。職員室に戻ると、
「大事な仕事をよく忘れるから、先生も服用した方が良いかも」
とまた栗木さんに言われた。
「ダメで元々」
と言いながら、わざわざ期志丘のために記憶増強剤を練った。
「食べて下さい」
と突き出され、じっと見詰められた。何だか気味悪い。ふと樫原から聞いた入院中の人たちの症状はこれのせいではないのかと思った。
いやだ。しかし仕事を忘れていた。いやだが仕方ない。ほんの僅かだけ一口含んだ。何の味も無かった。みんなこんなものをよく我慢して食べているのものだ。
しばらく席を離れていた栗木さんが戻って来て、「一体どうなってるんですか。見放しますよ」と言った。その直後、国語科会の様子が浮かんだ。
――「沢井毛綱の文章が入ってるのは、全部外しましょう」
開始早々に須賀さんが言った。
「賛成」
「えっ、何で? 私は沢井で授業したことないんだけど、何か問題?」
神崎さんが驚いて質問した。期志丘は前任校でも嫌う人がいたのを思い出した。
「評論がよく載ってるんだけど段落の切り方が滅茶苦茶。父親が著名な作家だから編集者がきちんと注意出来ないのかも知れない」
「作家で通ってるのが不思議なのに、教科書に載る。現代の魔術」
「へーぇ、そうなの。じゃあ、ダメだな」……――
思い出しても仕方のないことなのに、あまりに鮮明なのが気味悪い。居並ぶメンバーの表情までが浮かんできた。かえって、この後本当に自分の記憶がすっかり無くなる予兆ではないかと恐ろしくなる。いやなことも浮かんでくる可能性がある。
橿原がこれは記憶の時点を移す試みだと言っていたのを思い出した。あの時は聞き流していたが、気味の悪いことだと思う。
橿原は記憶の時点が少し遡らせれば、例えばひき逃げを目撃した人に、車のナンバーを鮮明に思い出させることが出来そうだと言った。後で、期志丘は被害者側にとっては便利なことだが加害者側にとっては非常に困る技術だと思った。
またあのことが浮かんだ。あいつだ。落ち始める一瞬、こちらを振り返ろうとした……。次にこれが浮かぶ時は、こいつの表情が見えるのではないのか。目と目が合ってしまうのではないか。そんなもの、絶対に見たくない。二度と思い出すことのないようにする方法は無いものだろうか。
しかしそのことは誰にも言えない。
【10・見え方】
栗木さんが生物科にカビを見に来たことは端床さんにとって意外なことではなかった。調査団のレポートが発表されてからたくさんの人が見に来たからだ。みんな恐る恐るといった様子で覗くとそっと部屋を出ていくのだった。
ところが栗木さんのその後の行動は予想外だった。栗木さんが、シャーレの蓋を取って、中のカビを指でつかんで食べたのだ。
「馬鹿、何をするの」
声を裏返らせて叫んだ端床さんと対照的に、栗木さんは落ち着いていた。
「大丈夫よ」
「野辺名さんを病気にさせたカビよ」
「そうよ、分かってるわ。カビぐらいどうせ私のお腹にもいるものじゃないの。少しぐらい食べたってどうってことないでしょ」
「カビというのはほとんど正体が分かってないんですよ」
端床さんは野辺名さんや流綱さんに教わったことを大声で怒鳴った。
「負けたらの話よ。私は勝つわ」
そう言って微笑んだ。
「まさか、食べる人がいるとは思わなかった」
しばらくして出会った小台さんに端床さんがぼやいた。
「食べたの?」
「そうなんですよ。でも実は、このカビ、前にもシャーレ一個分無くなってるんです」
「それも誰か食べたの?」
「いえ、無くなった理由が分かりません。シャーレは床に置いてあったんですけど。カビが無かったんです」
カビの成長を促すために、野辺名さんは最適な生育条件を探ろうと、六百個ほどのシャーレに分けて温度・湿度・栄養分を少しずつ変えたものを移動式の棚に置いていたそうだ。
「それが一個だけですが無くなってまして」
「保健所が知ったら、うるさいことになりそうね」
「まさかこんなことになるとは思ってませんでしたからね」
端床さんは、学校に残っていた分を廃棄することになったため、A1カビとF1カビの両者を一つのシャーレにまとめておいた。栗木さんはそれを食べたのだ。一つだけでも何をするか分からないカビを二種類まとめたものなので、影響が恐いと端床さんが呟いた。小台さんは眉をひそめたが、この後どういうことになるか全く分からない。野辺名さんが突然休職することになったので生物科の教員たちが机の整理をした。カビについての研究ファイルがあったので、手分けして内容を確認しているそうだ。
栗木さんは元気だ。カビを食べたが何の異常も無い。端床さんによれば、栗木さんも最近あの鼻唄を歌っていたという。カビは変死と無関係かも知れない。では、なぜ野辺名さんはおかしくなったのだろう。
樫原は昨日栗木先生から電話をもらって驚いた。ひどく嫌われていて、口を利くのも避けられて当然と思っていたのだ。
「はい、樫原でございますが」
恐る恐る名乗ると、
「あなた、学校の近くに住んでるのよね。もし学校に来ることがあればちょっと立ち寄ってほしいんだけど」
と言われた。
「承知致しました」
何の用事か分からないのだが、野辺名先生は彼女を何とかしたくて研究しているということに薄々気付いていたので、その栗木先生からの呼び出しには応じなければならないとすぐに思った。研究成果が彼女のために役立たなければ意味が無かったことになってしまうのだ。いずれ接触しなければならない相手だ。
「すぐに伺います」
顔を合わせると、すぐに先生の担当クラスのHR教室に連れていかれた。
「他の人に聞かれたくないから」
「はい」
「野辺名さんの研究ファイルに、私の名前が出てると聞いたから」
野辺名先生の研究についての質問だった。どのように効果があるのか。今、どこまで研究が進んでいるのか。奇妙なカビは関係があるのか。分かっている限りのことを詳しく説明した。自分が当事者であることを自覚したせいでだろう、質問の内容は極めて鋭いと思った。
「はい。関係は間違いなくあると思います」
「カビの効果を高めるにはどうしたら良いわけ?」
「そこは、まだ」
「もし、カビを食べたらどうなる?」
「それは御止めになった方が」
「どうして」
「まだ、どう関わるかが分からないのです。先生のお体に障るかも知れません」
「野辺名先生のように入院することになるのかな」
「恐らく」
「でも、体の変異にカビが関わるのは間違いないのね」
「と思います」
「分かった。有難う、その点を確認したかったの。時間を取らせたわね」
「いいえ、大したことではございません」
期志丘先生から、どうなるだろうかと問合せがあった時、会ったことを話した。息を飲む様子が窺えた。
期志丘は翌朝起きようとした時に、体からバシバシという畳んであった硬い紙を開くような音が出るのを聞いた。初めて聞く音だ。どこから、なぜ出たのか分からない。とにかく自分の体の中からということだけ分かった。初めてのことなので、気になる。
いつものようにコーヒーを淹れようとして、ふと手が止まった。飲みたくない。コーヒーを飲みたくない? これも初めての感覚だ。起きている現象を自分で納得出来ない。
流綱さんの頭髪と爪が急激に伸び、その処理で休むということだった。入院には至らなかったが気味の悪い話だ。しばらく誰も入院しないのでまた緊張感が無くなっていたので、伝えられた教職員は動揺した。そしてまた門菊さんと期志丘に注目するようになった。あのループで残っているのは、あと二人?
岩鍔の裏返しネコはほとんど正常に復したが、肝臓の一部がはみ出したままでいるらしい。猫自身は気にせず走り回っているとか。担任が、そんな話を職員室でしていた。期志丘は「ほとんど」というのは、やはりあまり意味が無いような気がした。「完全」と「ほとんど」は全く意味が異なる。
しばらくまた、問題が起きなくなった。しばらく続いていた物忘れや頭髪、爪などの異常は誰にも起きなくなっている。
「これで打ち止め、かな」
と期志丘は思った。そう思いたくもある。これは偶然なのだ。他の人たちの異常は関係ない。しばらくすれば消えてしまって、後でそんなことがあったなぁと思い返す類のことなのだ。期志丘はほとんど毎日あのカビを見に行っていたのだ。修学旅行の会議は週に一回、多い時に二回開いていた。その人たちが入院して自分は無事だ。ということは順番が滅茶苦茶ということだと思う。それを一々恐れていても仕方ないと開き直る気持ちにもなっている。
栗木さんが入院した。母親が教頭に連絡し、期志丘はそのことを教科主任の呉味さんから聞いた。遂に来たか。ただ面会謝絶では無いらしい。それが他の人のケースとは異なる。ともかく慌てて病院に向かった。詰め所の看護師によれば、急に激しい腹痛を覚えたのだという。それから妙なことを口走ったというので一旦面会謝絶になったらしい。症状が落ち着いた後、カルテを作るための情報を聞き取っていった。病名は急性大腸炎というありふれたものだそうだ。ホッとした。
しかし腹痛が落ち着くと、栗木さんにはもっと恐ろしいことが起きていたのだ。視界がおかしい。目に見えるものが普通に見ていたものと、今まで見たことのないものとの二種類になった。交互に見える。どうなったのだろうと見ている内に、訳もなく悲しくなってきた。誰もいないのを幸い、しばらく涙を流し続けていた。そのうち、ふと『歯車』を書いた芥川龍之介が自殺したのも、こんな視界になって怯えたからではないかと思った。自分は死なないぞと思う。まだいつもの視界が部分的でも維持されているのだから。死んでたまるか。これを治し、この手首も治し、全て普通の体になってから死にたい。
母が来た。この気持ちを聞いてほしいと思うけれど、心配するだろうな。聞いてほしい、そして思い切り泣いて、甘えたい。でもショックを受けるだろうな。とても言えないな。父も来て、大好きなクッキーの箱をベッドの脇の小さなテーブルに載せた。私、大腸炎なんですけど。
「今食べたらダメよ。治った時に、何か食べたいと思うのに手元に何もないと悲しいでしょ。それで置いておくだけ」
母がそう言って、毛布や布団を整えてくれる。安静にしてなさいと、ピンク色のタオルを顔に掛けた。
「死んだ人みたい」
「だから、わざと色の付いたタオルにしたのよ。白いと縁起が悪いでしょ」
消灯時刻の寸前に期志丘さんが見舞いに来た。状態が落ち着いて面会謝絶が解かれたばかりだった。
タオルを取って迎えた。期志丘さんの顔を見た瞬間、
「私、芥川の自殺した理由が見えたわ」
と言った。両親は何の話をしているのだろうかと訝しそうな顔をした。
「どんな風に?」
期志丘さんは記憶がおかしくなる前の優しい顔で尋ねてくれた。
「期志丘さんには両方見えるみたいなこと言ってたけど、これかな」
「どんなもの」
今見えているものを述べると、両親が恐怖に取り憑かれた顔をした。けれど期志丘さんは全く平気だ。どうせ他人だからなと思いかけたら、
「僕が、いつも見ているものと全く同じだ」
という。まさか。
「ずっとこんなものを見てるの?」
震えた栗木の肩を撫でてくれた。
「それって普通見ないものなのかな」
「当然でしょ」
泣きそうな顔をしたと思う。
「そうなのか」
栗木の発言の後、期志丘さんはまるで足元が地面ごと沈んでいく人のような顔をした。
「そういう見え方が当然のことと思ってきたのでね。……ちょっと」
じっと床を見つめて悲愴な顔をした。病人の栗木の方がいたわるように手を差し伸べる。
「ひょっとしてズーッとこんなものの見え方の中で生きてきたの?」
期志丘さんは黙ったままうなずいた。かすかな声で、
「そうだよ。みんなは違うんだね」
と言った。期志丘さんのものの言い方が時々おかしくなるのを不思議に思ってきたが、これが関係するのかも知れない。
「違うのよ」
「そうか」
つぶやくような声になった。しばらくして、自分のことを話してくれた。
――幼い頃のことだ。近所の子に一人だけ連れられて川の近くまで行った。向こうにいる人の顔が笑っているのか怒っているのか判定出来ないぐらい幅の広い川だった。この二人の立った場所の近くには橋が無く、鉄道の鉄橋が掛かっているだけだった。枕木の間から川の表面が見下ろせる怖いところを、その子に手を引かれて歩いていった。落ちないようにと緊張しながら、でもまだまだ先は長く、恐る恐る歩いているうちに列車が来てしまうのではないかという恐れとでへとへとになりながら渡った。渡った先で何をしたか覚えていない。ふと、その子が帰ろうと言い出して鉄橋を走り出した。帰りも当然手を引いてくれると思っていた幼い期志丘には予想外の出来事だった。助けを頼めそうな人が近くにいたかどうかは忘れた。意識の世界の中には自分自身の姿しかなかったと思う。仕方なく期志丘は恐る恐る鉄橋を渡り始めた。枕木の隙間がさっきよりも広くなったような気がする。期志丘は五、六枚ほど枕木をやり過ごしたが、疲労感を覚えてしゃがみ込んだ。それからまた気を取り直して七、八枚越した辺りで、片足が次の枕木を捉え損なって一瞬泳いだ。期志丘はゾッとした。その時、ふと外界が少し変わったような気がした。最初何がどうなったのか分からなかった。もちろんなぜそうなったのかも分からない。恐怖というものを知らずに育ってきて、今初めて何かしらひどくいやな気分になっているのだけ分かっていた。とにかくこの鉄橋を渡り終えなければならない。そればかり考えていた。ただ川の表面の模様が、枕木や鋼鉄の線路や、鉄橋を支えている大きな鉄骨の表面にも映っているのは見えた。川がどんどん流れすぎるのと同じように、枕木もどんどん流れて減っていくような感じがした。そう見えるようになったということに気が付いてなかった。線路もさっきは真っ直ぐに延びて銀色に光っていたのに、細かくひび割れてある部分は黒く、ある部分は茶色くまた白く見える。鉄橋が流れて無くなってしまう! 期志丘は慌てた。線路は細かく粉々になりそうに見えたり、また今までと同じように銀色の立派な塊に見えたりした。どちらが線路の本当の姿か分からないが、銀色の線路にすがりつこうと思った。もう少しで渡りきれると思った頃に、線路に、遠くから列車の接近を伝える重い振動がし始めた。もう少しなのに。何度も振り返った。ファーンファーンと警笛を鳴らされたが、だからといって幼い期志丘には出来ることがなかった。渡りきるしかない。あと二歩。警笛の直後からキィーンと高いブレーキ音がしていたが、列車は全く速度が落ちずに近付いてくるようだ。かろうじて渡り終えて、線路敷きを横に飛び降りた。転ばずに渡り終えられたと思った。「コラーッ」という大きな大きな怒鳴り声が降ってきた。我に返った後、普通の道を全速力で逃げ出した。――
期志丘は急な崖で背中を押した相手が、この薄情者だったのを思い出した。またいやなことを思い出してしまった。しかしこいつの顔はどうしてもはっきりしないようだった。実際、完全に忘れてしまっていた。今はそれが嬉しかったなと思う。こいつには顔を火傷させられた。今もその痕跡が僅かに残っている。顔は、顔は人間の人格の象徴のような気がする。それをあいつに傷つけられたのだ。期志丘は自分の尊厳を傷つけられていたのだと思った。当時、それをはっきり意識していたわけではないか、それが根底にあって押したのだと思った。
「道理で変な言い回しをしたはずね。期志丘さんはわざとそういうものの言い方をして目立とうとしているのか、それともすごく人に逆らいたい屈折した人なのかと思っていたわ。でも、これって、何が見えているのかしらね」
「多分、物の変化する最中の様子なんだと思う」
「そうなのか。私ね、何だか凄い勢いで人生を駆け抜けている気がするの。今までの中で一番頭がよく回ってる感じなの。変でしょ」
そう言って、笑った。栗木もようやく笑えたようだ。
「ついさっきはね、どうしてこんな気味悪いものを見なきゃいけないのかしらって思った。それから、今自分が見ているものは一体何だろうと思って、一生懸命考えたの。期志丘さんが来るまでにそれだけ考えてたのよ。きっと意識がない状態だったはずなのに」
「僕の恐怖感はこの見え方とか長い間の貧血症でかなり鈍くなってるかも知れない。他の人たちはこういうことがあれば、何でもすぐに予言と結び付けるかも知れないけど」
「あまりあれを怖がってる様子は無いもんね」
「門菊さんの影響もあるかも知れない」
井形さんの構想した器械が物理部員たちの協力によって完成した。最初は部員たちが実験台を務めていたが、栗木さんのものの見え方がおかしいという話を聞き込んだ端床さんが勧めて、栗木さんがやって来た。
栗木さんの見たものが皆に説明した言葉通りに映し出された。栗木さんが見ている井形さんの頭蓋骨の接合部が少し緩んだり締まり直したりしている。頭蓋骨にかぶさっている筋肉や脂肪、血管、神経、それ以外の管はリンパ管とかいうものなのだろうか。そして皮膚、毛髪がジュルジュルと変化していっているのが見える。ずっと変化せずにいるものは何一つ無かった。栗木さん自身の腕が僅かずつ衰え、脆くなり、色々な細かい組織が剥がれ落ちていくのも見えている。
「色即是空、空即是色」という般若心経の文言が井形たちの頭に浮かんだ。普通は見えないものが見えるようになった高僧が、この世界の様子をそのまま言葉に表したらこうなったのだろう。栗木さんが感じているのは色や形だけではなかった。
「それとね、そういう景色からいつもの普通の景色へ、あるいは逆になる時に、チカ、チカって、何だかスイッチを切り換えるような音がするの。耳が変になりそう。もうなってるのかな。井形さん、助けてよ」
井形は興奮して話し続ける栗木を穏やかな表情でしばらく眺めていた。
「怖いでしょう?」
言われた井形の表情は変わらない。証視鏡の映像はまだまだ見えにくい。それが原因なのかなとも思う。ものの形と赤青緑といった三原色は正しく伝えても、色の深みとでも言うか微妙な差異を表しきれていない。
「これ、USBか何かに保存してあるの?」
「今はクラウドと、ハードディスクですけど」
「普通のパソコンのデータと同じと考えて良いのね?」
「そうですね」
「データを持ち帰ったら、うちのパソコンでも見られる?」
「それ用のプログラムもコピーしておきましょうか?」
「そうしてくれる? 自分の見たものをじっくり見直してみたいわ」
翌日栗木は、もっと長い記録は出来ないかと尋ねた。
「疲れますよ」
「眠っていたらその分は、記録できないの?」
「いや、真っ暗な映像が七時間ほど続くだけだと思います」
「真っ暗かぁ」
「目を瞑って寝てるんですから」
「そうか。そうね」
「それでも良いなら、記録してみます?」
「うーん、記録してみて無駄だったというのもいやだなぁ」
「まだ、そういう試みをしたこと無いから、ひょっとしたら何か映るかも知れません。栗木先生がやってくれると嬉しいですけど」
「恥ずかしいから、井形さんにデータを上げるわけにはいかないよ」
「なぁんだ」
「だって、化粧して顔を作ってるところなんか見せられないもの」
「栗木先生が見たものなんですから、栗木先生自身は映りませんよ。それに夜の分だけくれたらいい」
「私がデータのコピー範囲を指定できるなら上げるわ」
週末に井形さんが栗木さんの家にやって来て機材をセットし、操作手順を書いたメモを置いた。そして休みの終わる日にまたやって来て、データを早送りで見た。ずっと真っ暗だと思っていたら、黒いところと色の付いた映像とが細かく交互に並んでいた。あの奇怪な映像だけ段々暗くなりながら映り、普通見回して記録されるものが真っ黒になって見えない。それらは目を瞑って寝るから見えなくなり、奇怪な映像の分は外界から入るものではないということか。
栗木が指定したところだけ持って、井形は帰った。
二、三日して生物準備室に現れた栗木さんは、「期志丘さんのも記録して下さい」と申し入れた。期志丘のも奇怪なものだからだ。期志丘も自分の見たものが人目にさらされるのを嫌ったが、栗木さんの熱心な説得に折れた。データが多いと気が付くことも多いと期待される。ただ、内容のチェックは済ませた。
二人の睡眠中のデータはよく似ていた。明らかに井形さん自身のとは違う。現実の情景が全く異なっているのに、その情景に映っている全てのものが崩壊していく様はどうしても似てくるらしい。その様相はほとんど同じと言って良い。
井形さんが、暇があったら来ませんかと期志丘に電話を掛けてきた。証視鏡のデータで少し気になる現象が見つかったというのだ。栗木さんが待ち構えていた。
「期志丘さん、自分のデータを見返してみた?」
「いぃや、もらったけど全然」
栗木さんがデータを見ていたら、画像が急に変わる箇所があったのだという。
「真夜中に、見ているものの画像がクッとずれてるの」
それで皆と一緒に期志丘は自分のデータを早送りして眺めた。
「あっ」
井形さんが叫ぶ。期志丘も声を上げた。時間を遡らせてもう一度再生する。
「二時四分十三秒」
「栗木さんも真夜中だから、同じ頃だろう」
「何でしょう。このズレ」
物理部の生徒たちの発想は、必ず数量の処理で解決しようというものだそうだ。期志丘は井形さんからその様子を聞いた。
クッとずれるリセット前の記録とリセット後の記録を比較したという。そうするとリセットの意味が分かるかも知れないというのだ。一日分の視界の記録を画素毎に数で表し直したものを使ったそうだ。最初、記録を数字化すると一口に言ってもどの量を数字化するべきなのかが分からなかった。あれこれ相談した結果、一年生部員から出た意見が採用された。
百分の一秒単位で刻んだ時間毎に、一つ一つの画素を埋めていた色が青緑赤の三原色を何パーセントずつ使って作られていたのかをそれぞれ計算する。そしてパーセントの変化ごとに棒グラフを描く。その量のメジアン(中央値)かトータル(総量)、時間で割ったアベレージ(平均値)の三つを比較しようというのだ。普通なら作業量が膨大で普通の人なら初めから手を付けずに逃げるところだが、若いからか数字をいじるのが好きだからなのか、視野の記録から数値化するプログラムを皆で書き上げてしまった。ただひたすら事実を探り当てたいという願望だけが頭にあったようだ。
「毎日、全く同じ量になるのかな」
「人ごとに固有の量が決まっているということか?」
照合したが、結局数値はバラバラだった。人によっても違うし、リセットの前後でも違っていた。
「また違ったな」
その言葉を絶望でもなく、からかいでもないが、何か言葉に出したくて発する挨拶のように言い合う。そのうち一番扱いに手がかかりそうなモード(最頻値)を使ってなかったのが良くなかったということになった。しかし、これも照合して一致しなかった。
得られたデータが絶対に何か意味があるというのが、彼らの旺盛な行動意欲を支えている。
比較の対象を色々と取り替えていく。新しい組み合わせを発案する度に、ほとんどの部員が集まる席でヤァッという掛け声と共に、データの実際の動きと想定した動きとを左右に並べて表示した。
「一日分のモードの数値と、リセット後の最初の瞬間はどうだろう」
もうこれしかないと思っていたのに、また外れた。しかし今までの数値とは違って、かなり実態に近く見える。
「ちょっと似てきたな」
「どういうことだろう」
「基本的にモードに意味があるのは間違いないと思う」
「俺もそう思う。でも、うまく重ならないのはどうしてだよ」
「何か邪魔が入ってるんだよな」
「何のための邪魔だろう」
「何のため、は置いといて、すっきり重なるデータを探そうよ」
「データ? どこにある。メディアンもアベレージも丸っきり違ってた」
「だから、モードのデータに何かがくっついたんだろ」
数日間どうしてよいか分からなかった。
この数字との格闘の間しばらく休んでいた二年生部員がニコニコしながらやってきた。学校を一週間ほど休んで従兄弟に連れられて八ヶ岳の登山を楽しんできたのだと言う。その岡田が記録してきた自分の視覚データをみんなに見せた。美しい景色に歓声が上がった。
しばらく見惚れていた。そのうち深夜のリセット段階の映像になって画面が一瞬黄色く染まった。山道の赤土の色と思われた。真夜中で、眠っている間の出来事なのに、なぜ明るく色鮮やかな映像が出たのか。
「登山って、地面ばっかり見てるのかよ」
最初みんなで大笑いした。笑い声が静まった時、三年生の席の方から、
「岡田のデータ、二日分重ねてみようか」
という意見が出た。一日前の分のモードではなく、二日分のモードとリセット後の比較だ。
一日分よりもぐんと実際のデータに近付いた。範囲を広げて三日分で見ると、大体同じになった。厳密な比較はまだ進行中だが、七十五日分ほどになるのではと予想しているようだ。「ひとの噂も七十五日」というのは意外に真実を反映したものかも知れない。他のメンバーのデータを次々調べても同じだった。大きなどよめきが起きた。実態に近い組み合わせを遂に突き止めたのだ。数日ないし数十日分に見たもののモードをまとめて、それをリセット後の出発点として新たな映像が始まるのだ。それが分かった。
この日はみんな大成功に酔いしれたが、直後に流綱先生の病状が一段と悪くなったということを伝えられた。せっかくの研究成果を報告出来ないことにがっかりした。
【11・治癒】
「うおっ」
期志丘の呻きに門菊さんが驚いて顔を上げた。実力テストの採点中だったが、それどころではない異様な声だったらしい。
「いや、たまにフラッシュバックが来るんですよ。幼児の頃のいやな思い出」
フラッシュバックという言葉は時々耳にする。学校教師の覚えておくべき教養の一つで、知らずに済ませられるような問題ではない。百科事典には、人の死亡や火事など衝撃的な出来事に直面すると、何年たっても突然その情景を鮮明に思い出すことがある。その再現される情景のことだと説明されている。一般に思い出したくないいやな経験について生じるので、その解消法の開発が切に求められているのだ。多少効果がありそうな物質も見つけられてはいるのだが、それでも七十パーセントほどの人に有効なだけで、三十パーセントほどの人については手の施しようが無い。
そういうことは教師ならみんな知っている。しかし一番気になる、なぜフラッシュバックが起きるのか、その原因は何かという根本的な疑問に対する解答がまだ用意されていない。
期志丘のフラッシュバックは、あれだ。その延長か、大きな石で誰かの頭に叩き付けるというものも浮かんでくる。時々本当にそれをやってしまっていたのではないかと思うこともある。記憶の時点を動かせればそれがはっきりするのかも知れないが、それで本当のことが分かってしまうのが恐ろしい。誰にも言わずに来た。教員採用は当然のことながら、殺人を犯した者は除外される。隠していても、ばれた時点で免職になる。しかし不景気の世の中で、歴史学専攻者が生きていく道は少ない。何が何でも隠し通さねばならない。
「そう言えば、河合さんもフラッシュバックに襲われるって言ってたわ。五、六年前に高速道路で衝突を目撃しちゃって」
「そうなんですか。これはかなわないんですよ。よくこれだけ覚えてるなと自分でも呆れますけどね。周辺のものの色や形や、その時の自分の状態も全部思い出すんですよ」
「自分の状態って?」
「体を揺すられるみたいな感覚です」
期志丘は両腕で胸を抱えた。門菊さんはふと、
「記憶で体が揺すられるのかなぁ」
と言った。何だかボンヤリした表情だ。
「そんな感じですね」
その後のことはなぜか記憶にない。
先月、期志丘は皆を騒がせた。職員室の自分の席で、
「首都書房ばかりでも良いじゃないですか」
と大きな声で言った後、突然意識が無くなったらしい。栗木さんが椅子から崩れ落ちた期志丘に気が付いて悲鳴を上げたので、職員室中が大騒ぎになったそうだ。駆け付けた小台さんは顔色が意外に良いので保健室でしばらく寝かせれば十分ではないかと思った。門菊さんが「近いから」と言うので保健室の車椅子に乗せて自宅まで運んだ。男の先生たちがついてきてベッドに寝かせた。そういうことを聞かされたが全く覚えがない。意識の無いうちにどんなことをしゃべったかが気になる。もしも言ってはならないはずのことを口走っていたら、単なる目撃者だったということにしようと決めていた。しかし何とか無事だったようだ。
もう大丈夫だと思ったのは、ちょうど初めて教員採用試験を受けた頃だった。それが、死人の体についていたカビをうまく培養すれば、その語る内容を聞けてしまうという話にゾッとした。あいつは火葬されたはずだから、カビが生えるはずもないのだが、自宅の周辺に生えたカビが何をしゃべるか聞き取られたら困る。
意識のない期志丘に夜通し付き添ったのは門菊さんと小台さんだった。とうとう期志丘も入院かと思ったそうだ。名前の連鎖の話もあったし。
「増強剤で何とかならないかな」
皆から顔の艶が良くなったと言われていた門菊さんは、記憶増強剤で何とかなるのではと思った。校内では健康食品の扱いだ。
「いつもので効くかな」
「そうね。あっ、樫原君に頼もう。彼も詳しいんだ」
さっそく連絡を取る。特別に効果を高めた物が欲しい。彼が返事に詰まったので、一つ提案する。
「期志丘さんには話したんだけど、上田秋成は、晩年に書いた『春雨物語』で自分自身の姿を映したような人物を描いているんです」
「……」
彼は晩年、『春雨物語』以外に『胆大小心録』という雑感も書いている。その中に、酒や匂いのきつい物は不快だといったことを書いているのだと説明する。
「記憶増強剤の成分にアルコールやニンニク、ニラといったようなものを含んでないかな」
「それは含んでおりませんね」
樫原君の返事に門菊さんは落胆した。問題のものを除外すれば効果が高まり、期志丘さんの体調を良くする薬が出来ると思ったのだ。
「じゃあ、どうしよう」
「どうなさりたかったんですか」
「秋成が避けようとした物は、きっと彼の体を損なう物だったと思うのよ。だからあの増強剤からそれを除くと効果が出ると思ったんだけど。元々入ってなかったのよね」
「はい。そうです」
「じゃあ、何か足すのかな。何を足すんだろう?」
樫原君が、
「秋成の好物は何でしょうか」
と尋ねた。
「好物? 好物のことは書いてないんだなぁ……。あっ、彼はね、あまり世間に知られてないけど煎茶道の大家なのよ」
千利休の抹茶道では、茶葉の粉末を湯に溶いて飲み込むことになるのでいわば茶葉を食べてしまうことになっているが、煎茶道では茶葉から湯の中に溶け出した成分のみを飲み込み、茶葉そのものはカスとして捨てる。現在日常的に飲まれる番茶の飲まれ方と同じだ。
「お茶ですか。そう言えば……、お茶の成分は入れてませんでしたね」
「どうして」
「いや、どういうわけか、野辺名先生がそういう発想をお持ちで無かったからと申しましょうか」
お茶の効能は主成分のカテキンによると思われる。今、手元にカテキンに関わる資料がないのだが、抗菌・抗酸化・抗ガンの効能があったはずだと言った。門菊さんが保健室のパソコンでインターネットに繋ぐと、抗アレルギー・抗高血圧症・抗ウイルス、そしてコレステロールの適正化にも優れるということだった。万能薬だ。こんな物質が本当にこの世に存在するのが不思議なぐらいだ。
門菊さんは野辺名さんの生育歴のことを考えた。ずっと飲んでなかったから、ループのメンバーの中で一番先に倒れてしまったのかも。とすれば期志丘さんも危ない。
「入れて下さい」
「はぁ、どれぐらい入れましょう」
「出来るだけたくさん」
たくさんと言われても、と樫原君は戸惑ったままだ。
「お茶の成分ですから滅多なことはないと思いますが」
「樫原君、急いで。普通に飲むお茶の量と同じでいいわ」
しばらくすると樫原から電話が掛かった。
日本茶の主成分であるカテキンは六種類ある。カテキン、ガロカテキン、エピカテキン、エピカテキンガレート、エピガロカテキン、エピガロカテキンガレートだ。それぞれがどのように働いてこれらの効能を示すのかはまだ解明されていない。
「とにかく濃いめのカテキンを用意することにします」
そうして期志丘は生理食塩水を大量に飲まされ、記憶増強剤も食べさせられたそうだ。その御陰か今は嘘のように元気になっている。意識の無いうちに変なことを譫言でしゃべったりしてないかが気になったが、皆の様子から考えると大丈夫らしい。
結局入院した人たちがなぜおかしな体調になったのかは分からないままだ。運が悪かったとしか思われていない。感染しないという病理学者のお墨付きもある。災いが降りかかるという予言の終了時期も近い。
「期志丘さん、給品部でクリアファイル買ってきてくれない? 教科会議の資料が多くなりそうだから」
給品部? 行きたくない。与志夫に会いそうな機会は出来るだけ少なくしておきたい。しかし、コーヒーを飲んでぼんやりしていたところだった。担任をしていない教員がヒマそうにしていると、この手の雑用を頼まれる。断りたいところだが、理由が思いつかなかった。
普通のクリアファイルなら事務室でもらってこれるが、かなり厚みのあるものが必要だった。仕方なく席を立った。
支払いを済ませ、領収書を書いてもらっている時に人の気配を感じて振り返ると与志夫がいた。期志丘の顔を見て一瞬ハッとしたようだった。期志丘は全身の血の気が引くのを覚えた。
気付かれた?
期志丘は人違いを演じるつもりで、そ知らぬふりをした。絶対に気付かれてはならない。
しかい職員室に戻りながら、与志夫がもしも書籍の発注書を調べたりしたら、与志夫の名前に気が付くだろうかと思った。苗字は幸いなことに変わっているが、下の名前は昔のままだ。書籍を発注者に引き渡した段階でそういう書類を処分してくれていればよいのだが、業者の方ではどうしているのだろう。商慣習を全く知らないので、心配しなくて良いかどうかが分からない。どうすれば良いのだろう。
学年末考査の問題を完成して、期志丘が夕食を作っている最中に、誰かが来た。回覧板か。そんなもの黙って郵便受けに入れて置けよ、忙しいのにとブツブツ言いながら玄関に出ると、栗木さんが立っていた。彼女が来るのは初めてだ。珍しい。
「期志丘さん、助けて」
「どうしたんですか」
と言い終わらない内に、腕を掴まれて家の裏のバス停に連れて行かれた。なんと意識の無いような門菊さんがベンチに横たわり、小台さんがその体を揺すっていた。
「どうしたんですか」
「ここで倒れたの」
「救急車ですね」
「ちょっと寝かせて上げてくれない? それで復活すると思うのよ」
小台さんが言う。それで門菊さんを背負った。意外に重く、一歩一歩力を込めないと倒れそうだった。
「どうしたんでしょう」
「分からない。突然しゃがみ込んで、声を掛けたけど意識が遠のいてるみたいだったのよ」
期志丘は今まで人を背負って歩いたことがなかった。こんなに大変なものとは知らなかった。バス停は家のすぐ裏というつもりでいたが、随分遠い気がした。息を切らしながら角を曲がり、転ばないようにと気を付けながら足を進めてまた角を曲がり、門を通ると鍵を預けて栗木さんに玄関を開けてもらった。玄関で靴を脱ぎ、ささやかな段差を必死で上がるとリビングに倒れ込んだ。三人がかりで門菊さんをソファに寝かせる。
コーヒーを淹れようとしたが、思い直して御飯を炊き足す。夕食を摂ってもらおう。どうせすぐには解散出来ないだろう。小台さんが察知して、
「御免ね。とんだことに巻き込んだわ」
と言った。
「すぐに治りそうですか」
小台さんに尋ねると、
「と、思うんだけど」
と頼りない。
生理食塩水を大量に作った。それを僅かずつ口に含ませる。
蒼白だった門菊さんの顔に赤みが差してきたが、同時にひどい肌荒れが生じている。目尻や口元、こめかみから顎にかけてひどいひび割れを起こしている。所々うっすらと血が滲んでいる。
「ひどいね」
小台さんが言った。クリームを塗れば良いのかも知れないが、期志丘の家にはそんなものはない。擦り傷、切り傷の応急処置用の塗り薬を取ってくると、栗木さんが自分のバッグから小さな瓶を取り出して、丁寧に擦り込んでいた。
期志丘は食事の準備をする。予定していたものだけでは少ないので、有り合わせの野菜を刻んで炒め、粗雑なオムレツを作る。ミンチ肉が僅かでも残っていて良かった。
「おいしい」
小台さんが顔をほころばせた。
「期志丘さんには、おいしいものを食べさせてもらってばっかり」
と言う。
「そうだ。記憶増強剤って肌荒れに効いたよね」
栗木さんが上の空で呟いた。そう言えば、そういうことを言う人がいた。こんなにひどい肌荒れでも効くのだろうか。
「うちには置いてませんよ」
と期志丘は言う。
「樫原君の家にはあるかも知れないけど」
「樫原君の家もこの近くよね」
小台さんが電話すると、樫原君がすぐにやってきた。
「練ったものがありませんので、材料のまま持参しました」
と言って、大小様々の瓶をテーブルの上に並べた。四十個ほどあった。
「先月お持ちしたのと同じ物です。門菊先生が教えて下さったお茶の材料として、カテキンを含みます」
と、濃い緑色の瓶を指差した。
「なかなか記憶力には効くようです。ネズミの動きがいつも以上に良くなりまして」
「どの材料が肌荒れに効くのかな」
小台さんが尋ねたが、一つ一つの素材の効果は覚えていなかった。
栗木さんと小台さんが大きなボウルに材料を順番に入れて練り始めた。栗木さんがため息をつく。学校でサイエンス科から分けてもらう時には、いくつかの材料ごとに既に混合してあるのだった。多めに作ろうとするとかなり力のいる作業でくたくたになったようだ。なかなか滑らかと言える状態にならない。
「薬を作るのって、こんなに腕力がいったっけ?」
「忘れてたな」
と言っている。二人とも一回食べたことがあるだけだったそうだ。時々門菊さんの額に載せたタオルをひっくり返す。またボウルに戻って練る。
「その粉、もう少し、加えられそうよ」
「それ入れると、途端に硬くなるんですよね」
急ぐので休む間がない。額から汗が流れると言っている。
小台さんが、
「流綱さんまでいなくなってしまったけど、物理部、誰が指導してるのかな」
と言っている。
「顧問なんかいてもいなくても関係ありませんよ。OBが来てるんじゃないでしょうか?」
栗木さんが返事している。
期志丘は食器を洗うと、コーヒーを淹れる。一時期飲めなくなっていたが、また日に何度も飲むようになった。樫原は余った材料の瓶を箱に詰める。ジグソーパズルのように上手く並べないと隙間無く詰められない。ずれて動くと瓶にひびが入る。入らない瓶があると運ぶのに困る。樫原も順番を覚えてないらしく、所々で入れ直す。
捏ねる。ゆっくりと流れそうになるぐらい滑らかになるまで。それが表面張力の働きか木片状に結晶する。
門菊さんが、アァと言った。意識が戻ったようだ。小台さんが唇を湿らせる。そして出来上がったばかりの記憶増強剤を少しずつ口に含ませた。顔をしかめるが、吐き出すことはない。小台さんと栗木さんが、肌荒れに効くかなと言いつつ自分たちも食べた。
「樫原、食事は?」
「お電話の直前に済んでおりました」
「門菊さん、食べられる?」
門菊さんがゆらゆらと体を起こした。分厚い本を積み重ねて臨時に作った低いテーブルに向かう。一口食べる。
「おいしい」
半分ほど食べて御馳走様と言った。ソファに戻って横たわり、また目を閉じた。まだ体調は戻ってないようだ。しばらくして小台さんが、
「変なことを思い出したわ」
と言った。三十年近く前、教員採用試験を受けた時のことだという。試験官の顔が自分の祖母に似ていると思いながら答案を書いた。試験が終わって帰宅すると、祖母が急逝したと聞かされて驚いたという。記憶増強剤の効果が現れているのだろう。栗木さんが、
「私も変なことを思い出していたわ」
と言って、小学校六年生の時のことを話した。
「合唱コンクールで歌う曲をクラス役員で相談していた時、一人の子が机の落書きが気になるようで、その線を鉛筆で力一杯なぞっていたの」
途中でやって来た担任が、それに気が付いて、傷が深くなるじゃないか、何やってるんだと言って、十人ほどの役員全員が拳骨で頭を殴られた。なぜか栗木さんだけが二発殴られたという。
「栗木先生だけ、特別な役員だったんじゃないでしょうか」
樫原が言った。
「あぁ、私、副委員長だった」
「委員長は?」
「いなかったと思う」
「代表格だから二発か」
「そうか。でも、ひどいよね。思い出したら、今でも腹が立つわ」
「私も変なことを思い出した」
いつの間にか目が覚めていた門菊さんも、
「私、中学校の時、お弁当箱が恥ずかしかった」
と言った。友人たちと机を寄せ合って昼食を食べていたのだが、みんなは漫画のキャラクターが描かれた弁当箱なのに、自分だけ地味な牡丹の花が描かれた蓋だった。しかもその絵の一部が剥がれて欠けていたのだ。
期志丘も樫原も特に思い出したことは無かった。三人のグチを笑いながら聞いただけだ。三人が奇妙なことを今頃思い出した理由を考えることもしなかった。
やがて寝息が聞こえた。小台さんが壁に凭れて眠っていた。四人は何となく部屋のあちこちに座り、その様子を眺めた。
気が付くと、期志丘はリビングの床に横たわっていた。毛布を掛けられていた。小台さんが、キッチンに立っていた。樫原君が部屋の隅に座り込んで居眠りしていた。期志丘が肩を叩くとゆるゆると立ち上がったのでベッドに寝かせた。小台さんが、
「やっぱり、お茶は無いのね」
と、言っている。
「御茶を飲まない日本人って、何人ぐらいいるんだろ」
「一パーセントに満たないと思いますよ」
栗木さんが返事している。その遣り取りが聞こえたのか、急に門菊さんが唸りだしたので驚いた。枕元に集まる。また静かな寝息になった。
樫原は、叫び声で目が覚めた。朝になっていた。リビングのガラス戸の外が白々と明るくなっていた。期志丘先生が部屋の端で寝ている。高校の先生だ。驚いた。そして、呼び出されて慌てて製薬材料を抱えて走り続けてきたのを思い出した。期志丘先生がもぞもぞ動き出した。門菊先生も、両腕を伸ばした。元気になったようだ。小台先生が体を起こした。エアコンの暖房がよく利いていた。みんなよく眠れたようだ。
「テガナオッテル」
また叫び声。しばらく何のことを言ってるのか分からなかった。
「私の手首、治ったわ」
栗木先生が庭に面したガラス戸の際に立って、手袋を外した両手をしげしげ眺めていた。
「私の手首、この辺でくびれてたんです」
皆が息を呑むのが分かった。樫原も息を呑んだ。
しかし栗木先生の興奮にまだ誰も同調できないでいた。
樫原がボンヤリしている間に、小台先生が栗木先生に近付いて手首を眺めた。門菊先生も起きてきてキョロキョロしていたが、小台先生や栗木先生がいるのに安心したようだ。
「良かったね」
小台先生の声に、意識のはっきりした門菊先生の声が重なった。
「でも、どうして治ったのかな」
「樫原君、薬学生としての見解は?」
「そんな。見当も付きません」
しつこく尋ねられて、憶測ですがと言葉を発した。
「記憶増強剤が、肉体の時計をずらしたとしか」
「時計をずらした?」
「十数年前まで遡ったのかぁ」
「今回は野辺名先生がお使いにならなかった材料が入りましたから、出来たのかも」
「お茶のカテキン?」
「そうです。でもカテキンにはいくつかまつわりついている物質があるんです。それの働きかも知れません。新しい増強剤を電子顕微鏡で覗いたりしてみないとはっきりしませんが」
ボンヤリしながら、何とか返事した。
「私、教科会議を物凄く鮮やかに思い出したわ」
と栗木先生が言った。学校の将来像をどう組み立てるかの話を職員会議に提出するための教科としての提案をまとめる会議だった。
「記憶力と、手首の復元は一体なのかぁ」
小台先生が言った。
もし一体ということなら、記憶は七種類だから肉体を七つに分けて関係づけないといけない。部屋の中にいる者はそれぞれ考え始めていた。筋肉、骨格、内臓、神経。血管・リンパ管。こんな分類だろうか。あと一つ。何だろう。排泄の関係か。脂肪か。
樫原君の携帯電話が鳴って、エッと驚いている。期志丘は頭がすっきりしだしていた。
「実験動物の建物が火事だそうです。失礼します」
そう言って、樫原君は慌てて出ていってしまった。
期志丘は皆に昼食を振る舞うつもりで冷蔵庫からスパゲティを取り出した。湯を沸かした鍋に麺を投入した。いつもながら扇のようで美しいと思った時、エッという息を飲む声がした。振り向くと、小台さんが栗木さんの顔をじっと見つめている。
台所から出てきた期志丘が栗木さんの顔を見て、腰を抜かした。幼い顔になっているのだ。
「どうして?」
期志丘が言ったのか、小台さんが言ったのか。
幼い顔になった栗木さんが辺りを盛んに見回している。何だか、突然ここに来たような様子に見える。慌てて窓から外を見、そして三人を見て、震えだした。
それに気が付いて、門菊さんが、
「あなた、栗木さやかさんよね」
と声を掛けた。彼女は恐る恐るといった様子で頷いた。
「今、何年生?」
「中学二年生です」
三人は顔を見合わせた。手首が戻ったのを喜んでいたのだが、全身がその時点に戻ってしまったらしい。
「困ったな」
呟いた小台さんの膝を門菊さんがぴしゃっと叩いた。そして、優しい声で、
「私たち、緑牧高校の教師なのよ。緑牧高校って、知ってるわよね」
と言った。
「はい」
頷いている。
「あなた、おうちはどこ?」
彼女が答え、また尋ねる。
「家の人はいるかしら」
「多分、いると思います」
「元気だということと、間もなく帰るということを、伝えないといけないわね」
「はい」
声がかわいい。間違いなく栗木さんの声で、柔らかい感じだ。
「タクシーでお送りするわ。どうして私たちがここで一緒になったのかはお家の人と一緒に聞いてもらうわ」
栗木さんの母親はさやかさんのいつもの様子に似て上品だった。しかし娘が子どもの姿になったのを見てひどく驚いた。ここでの時間経過に沿って門菊さんが記憶増強剤の話、突然の異変、服薬の経緯を順に説明した。母親も当人も、目を丸くした。
「増強剤のことは聞いておりました。こんなことになる薬だったなんて」
とハンカチで目元を抑えた。
期志丘の家に戻ると、門菊さんが、
「辛い説明だった」
と呟いた。
「そうよね」
と小台さんが応えた。
期志丘は飲み物の用意をしようと台所に立っていた。門菊さんがギャッと叫んだ。振り返って覗くと両手で顔を押さえている。何事が起きたのかと近付くと、先に寄り添って顔を覗き込んだ小台さんもギャッと叫んだ。
この二人の声がいつもと違うので期志丘が二人を見た。
そして、腰が抜けた。
栗木さんの顔が二つ並んでいたのだ。ついさっき十四歳になった栗木さんの顔を見たばかりだが、今そこには美貌の冴える五十歳の栗木さん、四十歳の栗木さんの顔が並んでいた。
【12・服用】
門菊さんも小台さんも別の学校に転勤することになったと聞いた。栗木さんは退職だという。
学校では久しぶりに校庭の奥に茂った雑草を業者に刈らせた。すると地面に幾つも穴が空いて、そこから動物の死体らしきものが見えた。近付くと驚くほどたくさんのカラスの群がっていたのが一斉に舞い上がったそうだ。近くの電線にカラスの巣がいくつかあったので通信会社に連絡して撤去させたら、電話に雑音が入らなくなった。
春休みに入ったが、期志丘は一年間の授業の記録を整理し、退職に備えて机の整理をしていた。樫原君の母親から電話を受けた。何の用事かと思いながら応じると、彼が一気に体調がおかしくなり入院したが、そのまま面会謝絶の状態になってしまったという。どうやら野辺名さんたちと同じらしい。何ということだろう。
小台さんがずっと休んでいるので、代わりに美化保健部の教師たちが交替して保健室に詰めるようになっている。端床さんもその一員で、ポツンと座っていることがあった。運動部の生徒がたまにケガして治療を受けに来る。重症でクリニックに行かせる方が良いかどうか分からない時は、保健体育科の先生を呼ぶ。体育の先生は養護教諭ほどではないが病気やケガについて素人よりはかなり詳しい。期志丘は帰る前に保健室を覗く習慣が付いてしまっていたし、端床さんがいるならとついつい足が向いた。
試験休みで実質的に春休みになっていた。期志丘は学年末考査の採点も終えて、成績の計算を保健室でしていた。そこになにわ総合大学の綿崎助教授がやって来た。端床さんは養護教諭ではないので応対に戸惑っている。体育の先生を呼ぶべきか悩んだようだが、期志丘がいるので一人で代理を務めるつもりになったようだ。期志丘は端床さんの隣に座って一緒に応対した。綿崎氏が穏やかに学校の状況を質問していく。期志丘は話を聞いていて、緑牧高校に起きた出来事の発生理由がようやく掴めそうな気がした。助教授の説明は次のような内容だった。
最初、カビが原因で体調を崩したほとんどの人たちは、そのまま何もしなければ、干からびて死んでいたと思われる。
それを記憶増強剤が幾らか救った。それで生き延びている。但し、面会出来ない状態に陥ったままで、いつ回復するかは残念ながら分からない。
今、面会させられない状態になっている原因は、おそらく記憶増強剤の過剰な摂取にあると思われる。
この物質は肉体の回復状態を、かなり前の時点まで遡らせようとしたものだった。それが効くようになったと思われる。
入院には至らなかったが、従来通りの生活を送りにくくなった人が複数いる。(期志丘は栗木さんのことを思った。)
なぜなら、入院してきた人たちは乾燥状態を脱した後、肉体の特徴が胎児の状態に非常によく似てきたからだ。肉体の構造、滲みだした体液の組成がそれだ。
体の記憶を遡らせた記憶増強剤は、同時に他の身体要素にも影響を及ぼしたようだ。
従来通りの生活を送りにくくなった別の人たち(門菊さんと小台さんと思われる。)は、記憶増強剤に別人の記憶内容が入り込んだものを服用してしまったために、別人の身体構造の影響を受け入れてしまったものと思われる。
記憶増強剤の服用者に肥満症状が多く見られるという事象(小台さんがしきりに気にしていた生徒の状態だ。)についてだが、それは数日前の肉体状態を維持しようとする力が強く働く一方、新たに豊富な栄養を受け入れたために生じた現象と思われる。
次に、最初期に入院してきた人(方田のことだろう。)の症状だが、やはり体の記憶に関わる混乱と思われるが、記憶増強剤が時間を遡らせるとすれば、こちらは将来に向けて時間を動かそうとしたもののように見える。ただ、それはまだ肉体各部の構造から推定出来るという段階になっていない。結局、この事例については原因が残念ながらまだ掴めていないと言うしかない。
以上が、緑牧高校に発生した病変の原因の分析である。現在の症状がどういう方向に変化するかは記憶増強剤の働きと効能の有効時間にかかっていると思われるので、現在、記憶増強剤の構造とそれに由来する効能を分析中である。
記憶増強剤はお茶が主体の材料になったが、厳密な製造管理をしていないので付着した何か別の素材による作用かも知れないのでそのチェックをしないといけないようだ。それは樫原君自身が話していた。だから今回のことについての原因食品の特定だけで数年は掛かるはずだということだ。なぜ異様なことが起きたかの原因特定はさらに少なく見積もっても十年は掛かると思われるらしい。
これは記憶増強剤が引き起こした事態としか考えられない。あれはどの記憶を増強したことになるのだろう。入試向きの知識はすぐに向上し、そして維持の努力が無ければすぐに低下する。記憶が肉体の保全と絡むものであるなら、それに似た変化をする記憶はエピソード記憶が挙げられそうだ。短期記憶ほど儚いものではないだろう。
そして栗木さんの手首が治ったということは、おそらく皮膚の記憶を加工したということなのだと思う。皮膚は自他の区別をするのが機能の核心なのだから、異変が生じてからこれまでの間、手首の変形を直さなかったのは、皮膚が手首周辺について自分の肉体の範囲であると判定しなかったということに違いない。それに対応する記憶はどれだろうか。手続き記憶か。幼少時はああいう手首になっても治療しやすい。ということは、手続き記憶が確立するまでは流動的で、一旦確立すればその後は動かない、変化しないわけで、皮膚の機能に上手く対応していると思う。
最後の疑問。なぜ先生たちは奇妙な形になって次々入院してきたのか。最も可能性が高いと考えている推測は、記憶増強剤を食べ過ぎたのではないかということだ。門菊さんも小台さんも期志丘もほとんど食べていない。栗木さんの手首について、時間を動かしたのだから、多くの先生たちの時間も記憶増強剤が動かした可能性がある。あれは入院した先生方の胎児まで遡った姿ではないか。他の物体という可能性が考えられない以上、この推測は当たっていると思う。なぜなら野辺名さんによる記憶増強剤の研究はどんどん進んでいて、効果もどんどん向上していた。そのため校内で配布される記憶増強剤の材料は減らさなければならなかった。それをサイエンス科で話してあったらしいが、当番の教員たちはうっかり従来通りの分量を渡し、受け取った方もそのまま何も考えずに使ったために効果が強すぎることになったのだ。
期志丘はそこまで考えると、今回の件について全て解決がついたような気分になった。既存の記憶増強剤と添加したカテキンが化合したことで増強剤が新しい機能を持ったのだ。野辺名さんも知らなかった新しい領域か階層についての知見が求められる。
「綿崎先生、この学校では今年災いが降りかかるという予言がなされていました。来年は大丈夫でしょうか」
「医学は予言とは関係ありません。その話は聞きましたけどね。医学的には何とも言いようがありません。仮に一年間という予言が出たのが医学的な定説によるものとしても、まず御自分でお考えになるのが肝心でしょう」
期志丘自身が市民講座で語ったような発言をして引き揚げていった。最後の言葉が頭に残った。
「学校の先生というのは」
助教授がにやにやした。
「無防備な方が多いんですね」
「どんな点ででしょうか」
「増強剤に何か妙な副作用が無いかと気にした方が一人もおられなかったようですね。たいていどこの職場でも、必ず誰かが疑いを抱くものなのですが」
何だか君たちは幼稚だと言われたような気がした。
玄関まで綿崎氏を見送ってきた端床さんが戻ってきて、
「記憶増強剤の乱用が始まったのは、春頃でした。サイエンス科からそんな報告があって、みんな本当かと言いながら食べて、効果を実感してからは乱用ということになっちゃったんですね」
と言った。
野辺名先生も樫原君もいなくなったら材料が補充されず、もう乱用することは出来なくなるから次の春には収まるということではないか。生徒に入院する者が出なかったのは乱用してなかったからではないか。それなら一年間で災いが収まる説明になるのではないか。
期志丘はなるほど、そういうことを見通せるのなら、予言とか占いとかいったものも馬鹿には出来ないと思った。
それにしても入院したことになっている彼らはいつ帰って来られるのだろう。十数年の歳月を歩み直すことになった栗木さんのように、みんなこれから新しい人生に踏み出し直していくのだろうか。
小台さんたちによる記憶増強剤の取り分けは一人分入れた後、別のスプーンを用意して次の人の分を入れるということをしていなかったようだ。服用してすぐに接触した相手には、どうも何らかの予期しない作用が働いてしまうらしい。門菊さんと小台さんに生じたような異変を防ぐには、一人分を取り分けた後、別のスプーンを用意する必要があったのだ。それは、野辺名さんがカビを使ってサイエンス科の生徒に徹底的に直させようとした実験の手順そのものだった。
栗木さんたちは三人とも離任の挨拶をしなかった。事情を知らない人たちは、「たくさん退職して一人、二人の挨拶が欠けることはよくあるけど、三人も欠けるとは珍しい」と言った。
期志丘は、教頭に指示されて校長室に行った。校長がにこにこ顔で、
「先生、来年度の件ですが、引き続き本校がお世話になります。今年は異様なことが続きましたね。教員の方は大変でしたが、生徒や保護者には何も起きませんでした。混乱ももう収まるでしょう。誰も死ななくて良かった」
と言い、講師の身分が次年度も確保されたことを祝福してくれた。
一瞬、困ったと思った。そして不思議に思った。
「誰も死んでない?」
校長は真実を知らされていないらしい。知ったら、どう言うだろうか。確かに医学的、生理学的には生き続けているのかも知れない。でも、と思う。樫原君に知らされたこと、綿崎助教授から聞かされたことが事実なら、それを生きていると称して良いものなのか、とまた思う。秋成はそういう生き続け方は考えなかったのだろう。期志丘自身が思うように、自分の意思を持ち、自分の判断で行動出来るうちだけが生きていることになるのではないのか。いや、いつか元のようになることを願う人が傍らにいる限り、彼らは生きていることになるのだろうか。
そういうことを考えながら他校の教壇に立つ自分自身の姿が消えていくのは感じた。せめて野辺名や流綱、栗木、門菊といった人気抜群だったメンバーに教わった学年は担当したくない、彼らの授業と比較されたくないなと思った。今年、それ以上に問題と思うのはもちろん与志夫だ。彼の関わらない学校に勤めたかった。あと一年、息を潜めるように過ごすしかなさそうだ。
【エピローグ】
期志丘の秘密は守られている。記憶増強剤の開発は止まった。材料の分量と製造過程が野辺名さんの思考と共に消滅したからだ。期志丘はこのままあれが世間に流通しないことを祈っている。いや、仮に流通することがあっても、あの時に一緒にいた連中の誰の手にも渡らないことを祈っている。
このことに関わるかどうかよく分からないのだが、岩鍔の裏返しネコは、その後肝臓の位置が動いて完全に正常になったそうだ。カテキンを強化した記憶増強剤を食わせた成果らしい。岩鍔のようにあちこちに記憶増強剤をまだ持っている人間がいることに、期志丘は不安を覚えた。材料はあまり日持ちしないというのが、僅かな心の支えである。(了)
記憶効果 @kinutatanuki
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