第8話 お月さま

 結局、その日は23時まで残業してしまった。


 僕が勤務しているような中小企業の場合、このくらいの残業時間なら可愛いものだと思う方も少なくないだろう。実際、友人の中には月に数回ほど会社に泊まりながら仕事をしている人もいる。


 だが、僕の会社では残業する部署は決まっており、その他の部署はほとんど残業せずに帰っている。この格差は社内でも問題となっているが、僕の所属する開発部署は業務量が多過ぎて、全員が忙殺されており、残業せざるを得ない状態であった。


 花形の部署ではあるが、プレッシャーも大きく締切がとにかく多い。研究開発業務だけでなく、市場で起きた問題やクレーム対応、特許や化学物質の調査、学会への参加や技術営業など、それぞれデータ取りから報告書の作成まで行っている。

 一つでも漏れがないかと常に不安に襲われてしまう僕は、心労的には一日中働いているようなものだ。


 入社時は「世界中の人に愛される商品を作るんだ」と意気込んでいたが、新しい企画を提案してもこれまで実績のある処方であるかを最初に確認されるし、上司の顔色を伺って気分に合わせて提案内容を都度変えている。


 力のない中小企業では当たり前の話なのかもしれないが、日本の丁寧すぎる対応が企業の発展を阻害しているのだと感じることも多い。

 何をするにも実績調査や許可が必要で、肝心の開発が全く進まなくなる時があり、その度に他国のスピード感に関心してしまう。日本では本業以外にやることが多いから、置いていかれてしまうのかもしれない。


 なんて僕が考えてもどうしようもないが、疲れてくると現状の原因がどうやったって変えられない所にある(あって欲しい)と思ってしまう。


 帰りの電車(帰る時間によってバスと電車を使い分けている)に揺られながら、そんなことを繰り返し考えていると最寄りの駅に到着した。

 時刻は23時を回っているが、仕事帰りの人が多く見られた。こんな景色でさえ孤独感を埋めてくれると感じるのは良くないと自分を叱責し、コンビニで夕食の弁当を買って帰路につく。


 帰り道は閑静な住宅街を通るため、すれ違う人はほとんどいない。はずだった。


「おう、サトウ!顔が死んでるぞ」


 いつの間にか下を向いていた顔を上げると、そこにはワヤマが居た。大きな犬を連れて。


 ワヤマとは昨日会ったばかりなのに、昨日会ったはずなのに、とても懐かしい気持ちになった。それだけ今日が濃厚な一日だったのかもしれないが、このワヤマという男には理解不能な安心感があるのも事実だ(下には下がいるという下向きな安心感では無いと、彼の名誉のために補足しておく)。


「ワヤマさんこそ、こんな時間にお散歩ですか?」


「あぁ、こいつが散歩したいってしつこくてな」


 僕は見ないように努めていたが、おそらくケルベルスだろうなぁ。

 これ以上厄介ごとに首を突っ込みたくないなぁ。

 めっちゃ疲れてるから帰りたいなぁ。


「ムーンキャットのベティだ」


「ムーン…キャット…?」


 世の中には聞いたことのないネコ科の動物がたくさんいるとは思っていたが、この体格に似合わずお洒落な名前だ。大きさからするに、ヒョウやチーターの類だろうか?


「ミーアキャットっているだろ?太陽に向かって直立する動物の。あれの月バージョンだ」


「そんな生き物知りませんでした。てっきりケルベロスかと」


「あんな犬っころと一緒にするな。私は気高い月の使者であるぞ」


 ムーンキャットが急に二足で立ち上がった。体高はゆうに2メートル近くありそうだ。恐い。

 てか、こいつしゃべるのか!?


「なんなんですかこの生き物は!?地獄から持ってきたんですか!?」


 ワヤマは缶コーヒーを飲んでいる。余裕だ。


「そんなわけないだろ。昨日お前に締め出された後、ルナと少し飲んでな。酔っぱらって帰ったら、窓際で月に向かってけつを突き出している変態がいたんだ」


「変態とは無礼な!我々のお月様への信仰心を馬鹿にするな!」


 と、それっぽいことを言いながらお尻を月に向かって突き出し始めた。大きさも相まって気持ち悪い光景だ。本当に恐い。


 ワヤマはもう見慣れたのだろう、話を続ける。


「ベティはケルベロスに食われて腹の中に居たらしいが、ケルベロスの電池が切れて出て来れたらしい。んで、月への信仰心とかやらで、けつを月に晒してんのさ。意味が分からんよな」


「じゃあ、ケルベロスの件はしばらくは大丈夫そうですね。でも、このベティとかいう地獄の生き物を外に連れ出しても危険ではないんですか?」


 ワヤマは、缶をゴミ箱に捨ててベティの方に近寄り、しばらく謎の生物を見つめていた。


「こいつは気色が悪いし、お月様への信仰心とか理解できないが、危険ではない。ただ、月が好きなだけなんだ」


「お前も大概意味わかんねぇけどな」


 ついつい本音が出てしまった。疲れているから、気が短くなっていることにしよう。


「おい、サトウとかいう人間よ、我は害をなすつもりはないぞ。この世界に興味が出てきてな、しばらく滞在することにしたのだ。その代わり、この世界のルールに従ってやると言っておるのだぁぁ!!」


「うわぁ!何ですか急に!?」


 突然、ベティは重低音を響かせ騒ぎ始めた。苦しそうな表情で倒れこんでいる。本当に何なのだろうか。帰りたい。


「落ち着けベティ!深呼吸だ!」


 ワヤマがベティの背中をさすっている。外観からは怪我をしているようには見えないが、病気なのだろうか?それともこの世界の空気が合わないのか。


「すまぬ、もう大丈夫だ。落ち着いてきた」


 ベティはその場に座り込んだ。理由は分からないがひとまず落ち着いたらしい。


「一体何があったんですか?」


「こいつはな、ケルベロスの中でしばらく暮らしていたから、久々に月を見た時に…」


「ワヤマよ、みなまで言うな」


 何やら重い雰囲気が漂う。ケルベロスの中で暮らしていたって表現も気になるが、それは置いておいて、しばらく月を拝めなかった副作用か何かだろうか。興味はさほど無いが。


「勢いよくけつを突き上げた反動で、けつが裂けて痔になったんだよ!」


「本当に、みなまで言わなくてよかったな!」


「名誉の負傷だ…」


 ベティには害が無いと分かった途端、急に疲れが押し寄せてきた。定時上がりじゃないのにファンタジーだ。


「僕は帰りますよ。ベティは一応地獄の生物なんですから、他の人に見つかる前に帰ってくださいね」


「分かってるよ。だが帰る前にルナのところに寄って行ってやれないか?やはり、異世界で心身ともに疲れているのか、元気がなさそうなんだ。酒でも買っていってやってくれ」


「今日も会ってきたんですか?というかルナさんはどうやって生活しているんですかね」


「金なら心配ない、生活できる分は渡してある。まぁ、いつまでもって訳にはいかないがな」


 ワヤマがお金を出しているなんて意外だった。この男をよく知らないが、ギャンブル好きなのは間違いないだろうし、お金にはがめつそうなイメージだった。これは偏見でしかないが。


「ワヤマさんって意外といい人なんですね。わかりました、少しだけ様子見てきます」


「意外ではないだろう、魔界にも寛容なんだぞ俺は」


「異常ではあるがな」


 ベティが冷静な顔でツッコむ。


「あと、ルナに手を出すなよ!」


「出しませんよ!」


 二人?が夜の街に消えていくのを見守って、僕はルナさんのいるホテルに向かった。決して手を出すつもりはないが、一応、本当に念のため、紳士的な行動として、僕はコンビニで原料に天然ゴムラッテクスが使用される商品を生まれて初めて買った。

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