第7話 真面目くん
翌朝、カーテンの隙間から差し込む陽を受けて目を覚ます。硬いベットから起き上がり、顔を洗って歯を磨く。食パンをトースターに入れ、焼きあがるまでの間に着替えを済ませる。
タイマーの音でキッチンに戻り、食パンにマーガリンを塗って熱々のうちに食べる。内容の入ってこないニュース番組を片目に、荷物を整理する。
再び洗面所に戻り、整髪料で髪を整えて歯を磨く。数秒間、鏡と向き合って髭や眉毛、鼻毛を確認する。
リビングに戻り時間を見ると、いつも乗るバスの発車時刻まで余裕があるので、コーヒーを飲みながらスマホで漫画を読む。
バスの発車時刻10分前に、腕時計をして気持ちのスイッチを入れて部屋を出る。最寄りのバス停まで歩き、定刻通りに来たバスに乗り込み、いつもと変わらない街並みをを眺める。
乱立するコンビニエンスストア、庭付きの豪邸、老犬を散歩させる子ども、歩き煙草を警官に注意される美少女。
バスを降り、数分歩いた先にあるコンビニで昼食とコーヒーを買い、会社へ向かう。ここから、心臓の鼓動が気になり始める。いつもの行動、いつもの職場のはずなのに言いようのない不安が付きまとう。
会社に到着して守衛に挨拶をし、社員証をかざして自動ドアを開ける。すれ違う人たちに挨拶をしながら、ロッカールームへと向かう。
柔軟剤の香りが残る制服に着替えて、鏡で髪を確認してから居室へと向かう。階段を上がり、居室に入るときに少し大きな声挨拶をする。
「おはようございます」
返事はない。
ここで挨拶が返ってくることは少ない。しかし、挨拶をしないと「元気がない」「挨拶もできないのか」と、挨拶を全くしない年配の役職者達に説教を食らうのだ。
いつものことながら、少し不快な気持ちになりながら自分のデスクに向かう。居室内ではパソコンと向き合い貧乏ゆすりをする人や、スマホでSNSを見ている人など、業務開始のチャイムが鳴るまで各々の時間を過ごしている。
ここまではいつも通りだ。入社してから全く変わらない行動と景色。若い時間を代価に得た安定した時間。真面目な僕はこのレールから外れることはしないだろうから、定年までこのまま過ごしていくのだと思う。
デスクが近づくと、動悸が激しくなる。心臓はアラートを出していたのに、脳での処理が追いついていなかった。そう、僕は昨日定時退社しているのだ。
そう気づいた時には手遅れであった。僕のデスクにはお花畑が広がっていた。無機質だが、色鮮やかな付箋たち。付箋にはそれぞれ、個性あふれる文字と思われるものが書かれている。
「急遽休暇を取ることになったので、イベントの進行を代わりにお願いします」
「取引先より急ぎの電話がありましたが、その案件はサトウさんが担当だったかと思い、先方には折り返すよう、伝えておきました」
「今週末までの報告書を直ぐに共有してください」
「実験データを取っておいたので、整理と資料の作成をお願いします」
全てを読む気にはなれなかった。メールで伝えてくれれば良いと思うのだが、社内ルールでメールにはCCに上長を入れることになっているため、面倒な業務を押し付けるにはバツが悪いのだろう。あくまでも、自分の成果にしたいと考えているのだ。
実際に、自分のデスクにお花畑があると心的苦痛は想像以上だ。言いようのない怒りと悲しみが押し寄せてくる。が、早々に処理して自分の業務を進めようとする自分もいた。無駄な感情は消して仕事をした方が良いことは理解しているので、直ぐにとりかかることにした。
付箋内容の確認と整理を終え、直ぐに対応できる件を処理すると、昼食の時間になっていた。この段階で本日の残業は確定し、日付を超える前までにどれだけできるかの問題になる。
コンビニで買った弁当を食べながら、昨日の悪夢を思い出していた。今日の代償に得たはずの最幸になるはずだった時間が奪われたあの悪夢を。
だが、その悪夢さえ今と比べたら幸せだったのかもしれない。いや、前言撤回します、悪夢でした。
今のままの生活を変えたいとは思っているが、自分では絶対に動き出せないだろう。真面目という仮面を被って、自分を押し殺して生きている僕には、現状を変える勇気がない。安定のレールを外れるのが怖い。
きっと、昨日の様に外部から強制的に巻き込まれないと僕は変われない。
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