隣にいるのは

 目を覚ますと、窓の外は真っ暗だった。

 ホットケーキを食べて、紅茶を飲んだ後に眠ってしまったらしい。


 もしかしたら、今見ているこれも夢なのかもしれない。


「皆に死んでほしい、と願うのに。君は死を拒むじゃないか」


 耳元で声がして、顔を上げた。

 グロ―アさんが隣に座っている。

 筆でなぞるように、優しく頭を撫でられると、意識ごと引っ張られる感覚があった。


「辛いことがあったんだね」

「……まあ」

「母親のこと?」


 グロ―アさんは何でもお見通しだった。

 話していないはずなのに、ボクの考えている事が全て分かっている。


「あぁ、なるほど。体を売る仕事をしているんだね」

「……」

「でも、君は良い子だ。親を大事に思ってる」


 母さんは、いわゆる風俗で働いている。

 ボクが小さい頃に父親と離婚して、最近では大学に行けるように、仕事をより頑張っている。


 ただ、風俗をしていれば、クラスメイトの親が利用する事もあり、発覚するリスクだってある。

 ボクの場合は、ピンポイントで同じクラスの親が通い、発覚してしまった。


「みんなの事は、もうどうでもいいよ。皆、自分勝手なんだよ。気分で意地悪してくるだけだもん」


 横から顔を覗かれ、ボクはついそっぽを向いてしまった。

 ふつふつと湧き上がる小さな怒りのおかげで、今日はいつもよりスラスラと言葉が出てくる。


「なるほど。それで、君は世界を憎むわけだ」

「おかしいかな?」

「いいや。世界を憎んでいる人は、実のところ君だけじゃない。この地にも、海の外にも大勢いる。ワタシがここにきたのは――君の場所にきたのはね」


 優しく手を握られた。

 チラっと隣を向くと、グロ―アさんがにこにこと笑っていた。


「あの日――町を埋め尽くす雨をがいたからだ」


 また、見透かされた。


「住んでみれば、なかなか悪くない」


 手を引かれ、立ち上がる。

 グロ―アさんに連れられ、ボクは家の外に出て行く。


「君の思う通り、人間は醜い。産まれた時点で、大罪を背負ってると言っていい。生きる事さえ、他の動植物にとっては迷惑極まりない」

「す、すごい否定しますね……」

「事実だからね」


 車庫の裏側に立つと、グロ―アさんは指を鳴らす。

 ボクが一瞬上を見た隙に、車庫の裏側には見覚えのない階段ができていた。作りは非常階段と同じだ。鉄でできた折り返し階段で、それがずっと上まで続いている。


「存在が否定されるほどの醜い生き物だからこそ。その逆もまた、あるものだよ」


 階段の上に着くと、ボクは足が竦んだ。

 車庫の屋根の上に立っているのだ。

 自宅よりも縦に長く、裏山とほとんど変わらない高さ。

 その真上に立ち、足元の屋根から目が離せない。


「見なよ。今日は満月だ」

「そ、その余裕がなくて……」

「やれやれ」


 脇の下に手を差し込まれ、ぐいっと持ち上げられる。

 借りてきた猫みたいに大人しくなるのは当たり前だ。

 高い場所で、さらに高い位置に視線が移動すると、腰が抜けそうになった。


「落ちないから。上を見て」


 そう言われて、ボクは恐る恐る空を見上げた。

 こんな高い場所で月を見上げる事はなかった。

 黄金色の丸い月。その周りには、白い光を放つ星々が浮かんでいる。

 真っ黒い水溜りに、石英せきえいが散らばったような光景だ。


 砂浜を歩いていると、キラキラ光る粒がある。

 あれが、石英。

 それを広い空に満遍なく散らしているみたいで、ボクは言葉を失った。


「醜いものを知ってるからこそ、綺麗なものが何なのか。分かるかい? 片方だけしか知らない、というのは土台無理な話なんだ。君が醜いものを見て、知ってきたことは、今まで当たり前に存在していた綺麗なものを、ちゃんと見る事ができるようにするためだよ」


 ほら、とグロ―アさんが真横を向いた。


「ご覧。あれが、人間の作ったものだ」


 真横を向いた先には、のどかな田んぼ景色が広がっていた。

 手前には疎らに民家が建っている。

 奥へ視線をやると、民家はなくなり、田んぼ景色が広がっている。

 一番奥には、山々の稜線りょうせんが見えた。


「……おぉ」


 感嘆の声が漏れてしまった。

 空から降り注ぐ黄金の光が、ありとあらゆる表面に反射していた。

 山は光を受けた事で、いっそう陰影が濃くなっている。

 視線を手前に戻すと、田んぼには稲が無数に並んでいる。


 適当に置いたわけでも、自然に生えてきたわけでもない。

 農家の方が等間隔にきちんと植えたから、綺麗に整列しているのだ。


「これ、都会では見れないんだよ」

「そう、なんですか?」

「うん。余計な光が多いからね。他の輝きを奪ってしまうんだ」


 田んぼの中には外灯がない。

 疎らにある民家にだって、外灯は数えるほどしかない。


 だからこそ、月の明かりがきちんと届いている。

 ボクが見ているのは、普段から見慣れた田んぼだ。

 これが上から一望すると、黄金の海に化けた。


 柔らかい風が吹くと、田んぼの中では稲が端から端へとそよいでいく。

 それがまるで、穏やかな海で見かける、さざ波のようだった。

 黄金色に照らされた稲が波打つことで、黄金の光が微かに点滅しているように見えた。


「……綺麗だなぁ」


 本当に、ここは日本なのか、と思った。

 見慣れてしまっていて、気づけなかった。

 綺麗なものがすぐ身近にあった。

 地元の町中に、こんな綺麗な景色があるとは思わなかった。


「醜いものを見た時。必ず、その逆がある事を知るといい」

「……うぅん」

「ははは。全部、意識次第で変わる事を、これからは当たり前にしていけばいいんだよ」


 視線が徐々に下がり、隣にはグロ―アさんの顔が並んだ。


「今度は自分で探してみなさい。すぐに見つかるから」


 黄金に照らされたグロ―アさんは、微笑を浮かべていた。

 容姿は全然似ても似つかないのに、何だか母親のような柔らかさを感じてしまう。


 月光の下で前を向くグロ―アさんが、ボクの見ていた景色を眺める。

 その時、ボクはふと頭にが浮かんだ。

 浮かんだ途端、言葉にしようとするが、すぐに出てこない。


 隣にいるのは、まるで――。

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隣にいるのは…… 烏目 ヒツキ @hitsuki333

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