お散歩
お姉さんと出会った翌日。
ボクは玄関先の段差に座り、つま先を弄っていた。
「い、ってぇ……」
親指の爪が剥がれたのである。
元々、ボクの親指の爪は剥がれかかっていた。
絆創膏を貼って誤魔化していたが、ついに限界がきたらしい。
白くなった爪には赤い血が滲んで、ボクは憂鬱になった。
「こんなんで学校に行ったら、……もっと痛くなっちゃうよ」
爪の事など関係なしに、ボクは学校に行きたくない。
唯でさえ憂鬱な学び舎生活なのに、爪が剥がれるという苦痛は堪えてしまった。
ため息を吐き、学校を休もうか考えた。
その時、ボクの足先に黒い影が差してきた。
雲が太陽を覆ったのだろうか。
見上げてみると、ボクはギョッとしてしまった。
「あ、グロ―アさん……」
「おはよう」
グロ―アさんがポケットに手を突っ込んで、ボクを見下ろしていた。
太陽を背にしているので、顔は陰影が濃くなり、表情が見えない。
でも、口調は相変わらず穏やかだった。
「お困りのようだけど」
「い、いや、……爪が」
関節に力を入れて、親指をくいっと持ち上げる。
ピリピリとした痛みが走り、自然と尻に力が入った。
グロ―アさんは何も言わずにボクの足を見つめて、「あぁ……」と声を漏らす。
「痛そうだね。どうしたらいいのかな」
「あ、はは。病院に行こうかな、って考えてました」
「治したいって事かな?」
「まあ、そうですね。痛いの……嫌だし……」
「ふむ」
グロ―アさんがその場にしゃがむと、ボクの足先には再び太陽の光が当たった。
さっきから何も言わないで、傷口ばかり見てる。
何となく気まずい時間が流れたので、ボクの方から切り出して、さっさと家の中に戻ろうと考えた。――その矢先だった。
「剥げばいい」
「え?」
何を言ってるのか分からず、ぽかんとした。
ボクが呆気に囚われている隙に、グロ―アさんは白くなった爪を長い指で摘まむ。
「ちょ、ちょっと!」
制止するよりも早く、グロ―アさんはひょいっと引っこ抜いてしまった。
「ああああ!」
心臓が止まるかと思った。
ボクの体は激痛に備えて縮こまり、奥歯をきつく噛む。
とんでもない事をしたというのに、グロ―アさんは薄っすらと笑みを浮かべた。
「痛い?」
「……い……た……」
痛くはなかった。
傷口は見ないようにしたが、何となくさっきまでの感覚とは違う気がした。ピリピリとした小さな痛みはなくなり、親指だけが張るような感覚がない。
恐る恐る足を見ると――傷なんて、どこにもなかった。
他の爪と同じで、ちゃんと爪が生えてる。
剥がれかけていない。
「はい。返すよ」
握りしめた手を差し出し、指を開いていく。
グロ―アさんの手の中にあったのは、金色の石だった。
夢でも見てるんじゃないか、ってくらいに訳が分からない。
差し出された石を指で摘まむと、さらに混乱してしまった。
「お、……重い!」
「金だからね」
「き、金? え、金色? なに、それ」
「だから、金だよ。貴金属の金」
自分が馬鹿なのは自覚済みだ。
グロ―アさんが教えてくれるけど、ボクの頭にはお母さんが昔持っていた金色のネックレスが浮かんでいる。
小石程度の金の塊が、どれだけの価値を持つかは分からない。
「その、……いらないです。すいません」
というか、重くて持ちたくなかった。
ボクが金から指を離すと、グロ―アさんは小首を傾げた。
「後悔しない?」
「しないです」
「……ふっ」
何がおかしいのか、グロ―アさんが腕を伸ばして頭を撫でてきた。
照れくさくて、ボクは黙ってしまった。
頭を撫でられている間、視線の先には桃色の薄い唇が目につく。
口角を少しだけ持ち上げ、笑みを作っているが、どこか奇妙だ。
にこり、というよりは、にっと笑ってる感じ。
「ハルト君は……無垢だね……」
「どういう、意味です?」
「可愛い、ってこと」
「……う」
手が頭から離れ、グロ―アさんが立ち上がる。
再び、大雲のような影が視界の半分を埋め尽くした。
「どこかにお出かけ?」
「学校に、行ってきます」
「学校。……なるほど。じゃあ、途中まで一緒に歩かない?」
「え、っと」
誰かに見られたらどうしよう。
見られた時、もしくは近所のおばさんに声を掛けられたら、どう説明しようか困ってしまう。
ボクが返答に困っていると、グロ―アさんはクスリと笑う。
「誰とも会わないから。大丈夫だよ」
「そんなこと、何で分かるんですか?」
「会わないから」
手を差し伸べられ、悩んだ末にボクは根負けした。
(本当に変な人だなぁ)
手を掴むと、氷のように冷たかった。
真夏の炎天下だから涼しくていいけど、やっぱり変だ。
グロ―アさんと並んで立つと、自分で言うのもなんだが、大人と子供って感じだった。
ボクの顎下は、ちょうどグロ―アさんの腰辺りだ。
足が長くて、普通に歩くとボクをさっさと追い越してしまう。
すると、立ち止まってボクが来るのを待っているので、自然と小走りになってしまった。
*
家から徒歩五分の場所にある郵便局の前までやってきた。
信号は青になり、渡れるようになったが、ボクはついスマホの画面を点けて時刻を確認する。
「7時半……」
都会はもっと違うんだろうけど、ボクの住む田舎町は、6時半になると通勤ラッシュが始まる。これは8時まで続くのだ。
地元が工場で潤っているので、サラリーマンではなく、作業服を着た大人たちで道路や歩道はいっぱいになる。
「どうしたの? 渡らないの?」
「い、いやぁ……。なんか……変……っていうか……」
ボクの頭には、ある事が過った。
東日本大震災。
あの時に、ボクは家の中でジッとしていられず、外に出たことがある。
幸い、ボクの住む田舎町は、震源地から離れた場所だった。
でも、影響は酷かった。
ガソリンの値段が上がったせいで、夜の10時になると、道路を走る車は全くなくなった。
どれくらい車が通らないかといえば、道路で仰向けになり、少しだけ眠れるくらいにはいなかった。
時間帯が違うだけで、同じ現象が目の前で起きている。
「ハルト君は……人混みが嫌なんだよね」
「……話し……ましたっけ?」
「うん。話したよ」
ボクは首を傾げた。
昨日会ったばかりで、詳しい話はしていなかったはずだ。
グロ―アさんは赤信号を渡り、十字路の真ん中に向かって歩いていく。
「あ、危ないですよ」
「平気だよ。ほら。おいで」
考えれば考えるほど、ボクの頭には混乱が起きてくる。
左右を確認するが、遠方から車が来る気配はない。
耳を済ませれば、蝉の鳴き声がするだけで、他の環境音はなかった。
いつもは青信号を渡っていたけど、お姉さんの誘惑に負けて、ボクは車道に片足を突っ込んだ。
「せっかく友達ができたんだ。会話をする時間くらいは欲しいよ」
「……友達……ですか?」
「嫌かな?」
友達、という言葉の響きは、ボクに無縁だった。
ちょっと苦手だったりする。
気持ちは落ち着かないけど、グロ―アさんがそう言ってくれているのなら、とボクは頷いた。
「じゃ、じゃあ、友達で……」
グロ―アさんの後に続き、ボクまで十字路の真ん中に立つ。
その時に見えた光景は、形容しがたいものがあった。
いつも、うんざりするくらい見ている景色だ。
前後には道路が延々と続いていて、左を向けば山の稜線が見える。
反対側は緩やかな坂になっていて、その先はガードの下に続いていた。
背筋がぞわぞわとする背徳感。
同時に込み上げるのは、高揚感だった。
「す、っげぇ」
本当に人がいない。
人間がいないだけで、こんなに町って綺麗になるんだ。
言葉にすると怖いけど、目の前に広がる現実は、有無を言わせない証明を見せつけてくる。
「ここって、良い場所だよね」
グロ―アさんが歩き出し、ボクは後に続く。
「都会とは違う。自然に恵まれているのに、町は発展している。人は多すぎず、少なすぎない。やっぱり、住むなら田舎町だね」
「グロ―アさんは、どこからきたんですか?」
「んー、……ここから遠い場所。待ってね」
人差し指を顎に当て、グロ―アさんは空を見上げた。
ボーっとする姿が何だか様になっていて、見惚れてしまった。
目の前に立つと感じてしまうのだが、グロ―アさんは人間らしくなかった。
AI以上に、精巧に作られた人形。
どこか妙で、怖く感じる時があるけど、美しい人型の生き物。
「アフリカにいたかなぁ。それから、西に行って、……逃げてきて。ムーランに行って、……逃げてきて。うん。大きな自然はたくさんあったけど、落ち着きはしなかったな」
冒険家だろうか。
世界中を飛び回っているらしいし、多くの経験をしているのだろう。
「一つ言えるのは――」
濁った目がボクを見下ろした。
「――みんながここを目指す理由が――分かった気がするね」
指先で頬をつつかれ、ボクは恥ずかしくなった。
照れくさくて顔を見れず、下を向いたボクは、ふとある事に気づいた。
「?」
グロ―アさんの影が――ボクの影を抱きしめていた。
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