〇二 司春、水京に来る事

 瑚滉ここうの宰相無弦むげんは意外にも弓の腕で知られた男だった。


 齢三十四、身の丈六尺四寸一九四センチの大男。

 文官の身でどんな武芸も一通りはこなすが、とりわけ射道に秀でており、弓の一張、矢の一条も持たずに野山に出かけ、どうやってかがんを落として帰ってくるという話である。


 一方で、温厚な気性で人と武を競うことを好まず、故に自ら巨躯をちぢめて机に向かうという奇異な人物であった。


 彼は未だに妻妾を持たない身でありながら、訳あって白秋を養女とし、実の娘のように可愛がっている。


 そんな訳で無弦は今朝も忙しい時間を縫って休みを作り、朝食の場に現れたのである。


「この間さあ、俺、公務で地方行ったじゃん」

「うん」


 白秋は汁物に口を付けながら返事をした。

 無弦は帝の妹の子という身の上もあり、並の高官よりも重用されていた。


 行幸の留守を任されることもあれば、代理として遠方へ出向くこともある。先の頃にも、丁度そういう視察の任が与えられたのである。


「帰る前、そこの役人たちと宴会やってたらすごい御手水トイレに行きたくなって」

「お酒入ってますからね」


 無弦のしょうもない語りに弧星児が相槌を打つ。

 およそ身分ある人物が朝から零してよい話ではないが、この場にいるのは白秋と弧星児、そして腹心の若武者である夏却かかくばかりである。物を食う時間に下のことを申しているのには目を瞑る。


「でも何かすごい盛り上がってるから全然言い出せなくて黙ってたら、俺が不機嫌になってると思われたらしくて」

「いつも朗らかな人が真顔になってたら、そりゃ怖いっすよ」


 無弦の横で座っていた夏却が茶碗を片手に呆れたように声を上げた。彼の主君は、己が素の目つきの悪さと図体の大きさを理解していない。


「それで長官がお詫びのつもりなのかお土産に枇杷びわをいっぱいくれたんだけど、なんか箱の底にお金が入ってて」

「それ賄賂」

「そう! 俺も帰り道で枇杷食ってて気づいたの! だから道を引き返してお金も返してさあ!」


 無弦は白秋の指摘に激しく首を振って同意した。さらに当時の驚きを表現しようと大きな手を一生懸命に動かしている。


 もっともなことではあるが、この国でも贈賄は大層な重罪である。知らずに受け取ってそれが露見すれば、無弦でも処罰は免れない。

 もしかすれば、そもそもが彼の失脚を狙う罠であったかもしれないのだ。聴衆はものも言えなかった。

 しかし、当の本人はそれを気にも留めていないらしい。


「これ半分くらい俺が悪いよな? 見なかったことにしたほうがいいかな」

「……常習してないか密偵に調べさせます」

「あと多分それ小水の我慢は絶対関係ないですよ」

「ねえ、もしかして枇杷全部ひとりで食べた?」


 無弦は黙って米を頬張った。


 食後、近く催される桜桃宴についてのやり取りを四人がしていると、急に横の通りが騒がしくなった。透かし彫りの窓から聞くに、何やら酔漢よっぱらいの揉めごとのようである。

 すると廊下から入室の許可を求める声がして、白秋は慌てて面を付けた。


「どうした」


 無弦は彼を部屋に通し、話を聞いた。その家臣は目にはあざ、鼻は歪み、口の端も切れている様子である。付いてきた女中が横で手当てをしていた。


「実は表で乱闘騒ぎが起きたので止めさせているのですが、一人どうにも手の付けられない暴れ馬のような奴がおり……旦那様のご判断を仰ごうと」

「その怪我もそいつにやられたのか」

「いえ、これは観衆に揉まれました」


 無弦の後ろでは白秋たち三人が、開けた窓枠に詰まりながら身を乗り出して通りの様子を窺っている。丁度ここは楼の三階。少し遠いが、野次馬に遮られることなく覗き込むことができた。


「おー、赤毛のあいつかな。すげえ、人が吹き飛んでらあ」

「あいつ無弦よりでかい」

「珍しい色合いですね。てきじゅうか……だいぶ西方の血が入っていますよ」


 弧星児はすこぶる目がよかった。三十間五五メートルはあろうかというこの距離にあっても彼の面立ちがはっきりと知れるようである。

 事情を理解した無弦は膝をついて立ち上がると、背を丸めて鴨居をくぐった。


「どれ、俺が出ようかな。そこらの官吏じゃ荷が重そうだ」

「それでは、すぐに刀か弓をお持ちします」


 追った家臣がそう言うが、主人は片手を上げて制した。


「いや、必要ない。都で射ると陛下に怒られるし……」


 それから無弦は一度振り返ると、白秋に向かって強く惜しむように謝った。


「あまり話せなくてごめんなあ」

「いいよ、私は上から見てる」


 白秋は肩を竦めて答えた。


***


 司春ししゅんという若者は草原の市から来た。瑚滉の霊峰三山を越えた北西にあるむらである。

 老いた父の跡と財産を利巧な異母弟が継いだので、働き口を探して都にやってきた。


 司春の祖母は遥か遠い西方の異国から連れてこられた娘だった。

 彼女に由来する、司春の燃えるような赤毛と若草色の瞳は、いかに多様の人々が行き交う瑚滉の路といえども好奇の視線を受けた。


 例えば、故郷から道程を共にした馬が長旅に痩せて気の毒だったので都の郊外で農家に売ろうとした。

 司春が戸を叩き、目の悪い老農夫が表に出ると、老人は司春を見て妻に言った。


「傷薬を持ってきてやりなさい。頭にひどい怪我をしている」

「いや、してない」


 また、都で最初に入った宿では、珍しい色だと危うく薬を盛られて人さらいに遭うところだった。

 二軒目では眠っている間に眼を抜かれそうになった。三軒目で渋々、髪のひと房を切って宿の主人に渡した。


 効果のほどは分からないが、恐らく薬屋か卜師うらないしが高値で買ってくれるだろう、と三軒目の主人は言った。


 碌に休めないまま朝を迎え、疲れ切って茶屋の長椅子に座っていたところ、泥酔した若い男が司春に絡んできた。どうやら酒代のあてがないようだ。


 媚びてはへつらい、おべっかを叩くので、不愉快になって立ち去ろうとすると、司春は妙に懐が軽いと思った。振り返ってみれば勘の通りである。

 なんと手癖の悪いことか、男は口説の最中に司春の銭入れを抜き取っていた。


 司春はとうとう腹に据えかねた。

 何せ、その銭入れの中身は泣く泣く手放した馬の代金である。到底、他人に握られてよいものではなかった。


 司春が咄嗟に掏摸すりの襟首を掴んで放り投げると、茶屋の看板娘が悲鳴を上げた。


 すると、どうしたことだろうか。物陰からぞろぞろと荒んだ男たちが現れる。手には刀にすいに角材とやたら物騒な様子である。ははあ、なるほど、と司春は思った。


「お上りさんを可愛がってやろうって魂胆か」


 要するに掏摸すりもごろつきも同じ一党なのである。無一文を装って話しかけ、隙をみて金を盗み、咎められたら囲んで痛めつける。

 司春のように派手な見かけの人間は、新参者と分かりやすい。恰好の獲物だろう。


 司春は上衣をはだけると、男たちを下品に挑発してみせた。

 実のところ、この瑚滉というふざけた街で大人しく堪えているのも限界だったのである。


 これが、司春が乱闘に至るまでの顛末である。

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