〇一 白秋、弧星児に占われる事

 春の盛り、桜桃宴おうとうのうたげをひと月の後に控えた時季のことである。

 湖上の京瑚滉ここうの城下は、とある二つの噂でもちきりとなっていた。


 一つ。

 向こうの条坊まちの人間が言うことには、夜中に出歩く者があると頭上から獣の唸る声がする。それは段々と笑い声のようにも聞こえてきて、そのうちよだれも垂れてくる。


 肝を冷やして帰ればよし、酔って気づかず進んだり、調伏ちょうぶくしようと腕をまくったりした者は、たちまち獣の爪牙に喉笛を裂かれてしまう。


 長屋の瓦の上に金の毛皮と黄の眼を見たという者がいたので、都の人々はこれを瑚滉の人食い虎と呼んでひどく恐れていた。

 妻子泣かせの呑兵衛が断酒を始め、博徒やくざも夜は店じまい、力自慢の武官でさえ夜警の番には仮病を使おうとする有様である。


 ここ幾月かというもの、都の宵闇はすっかり静まりかえってしまっていた。


 二つ。

 今上の帝が甥にして宰相である無弦むげんには白秋という名の養女むすめが一人いるが、今年で二十一になるというのにまったく嫁ぐ様子がない。


 また、彼女を人前に出すときには必ずおもてうすぎぬを付けさせ、その顔を窺わせないようにしている。


 これは姫君が大層な醜女しこめであるためだという者もいれば、国が傾くほどの美人であるからだという者もいた。はたまた、姫は正体を知られてはならないような血筋の御方であるとうそぶく者まで現れた。


 そのうち先の噂と合わせて、人食い虎は姫君を食ってしまおうと探しているのだとか、姫君は虎が化けた姿であるのだとか、好き勝手な話で盛り上がる始末である。


***


 ある朝、白秋がいつも通りの悪夢にうなされながら目を覚ますと、街はやたらに騒がしかった。


 様子を窺えば、今度は三条五坊の角に虎が出たとのことである。

 白秋は小さく喉を鳴らすと、甲虫のように寝床から這い出て侍女の弧星児こせいじを呼んだ。


「こせいじ……」

「ただいま鏡台をお持ちしますよ。少しお待ちくださいまし」


 障子の向こうから軽やかな声が返ってくる。

 白秋がぼんやりと布団の上で座り込んでいると、それまで部屋の隅で丸まっていた小犬が主人の起床に気づいて毬のように駆け寄った。


 雪虫せっちゅうという名に相応しい、白く小さい毛玉のような犬だった。

 雪虫を抱え、生温かい舌に顔中を舐め回されながら、白秋は弧星児が来るのを待った。


 白秋はとんだ佳人であった。

 濡烏ぬれからすの黒髪は腰よりも長く、月夜の幽谷を流れる河のようである。

 また、両目は瑠璃の宝玉が嵌め込まれたのとそっくりで、暗がりでよく輝いた。

 白磁の柔肌に松葉のような睫毛まつげが枝垂れる様は、人の持つ欲という欲をくすぐって惑わせる。


 優れた容姿もここまで極まっては六尺一八二センチもある長身さえ、蓬莱ほうらいむという仙女のそれとしか思われない。


 庶人が白秋の姿を知れば、宰相無弦はこの美姫を他のどれほどの男にやるのも惜しんで手放さないのだと思うだろう。


 まもなくして、狐顔の侍女────弧星児が現れた。白秋よりも六つ年上で、宰相家に仕えて長いため、信の厚い侍女である。肩口で揃えた藁色の髪が朝日を透してきらめいていた。


「おはようございます、白秋さま」

「おはよう。忙しかった?」

「いいえ! 昨日、雪虫が櫛の歯を欠いたでしょう。それで新しいものを下ろしていたんです」


 弧星児は雪虫の胸をつつきながらそう言うと、快活に笑う。雪虫も首を傾げて甲高く吠えた。


 しばらくすると別の女中が湯の入った桶とうぐいすの粉を持ってやってきた。弧星児が粉を練り始めると、ほんのりと麝香じゃこうの匂いが漂った。

 何分もかけて顔中に塗りこまれた後、瑚滉の清水で流される。


「これ要る?」

「要ります」


 肌によいと言えど結局は鳥のくそ、顔に塗っても何も楽しくないが、女中たちにとっては違うらしい。

 素面など養父か一握りの家人くらいにしか見せないというのに贅沢なことだと白秋はいつも思っている。


 洗面が済めば、弧星児は慣れた手つきで白秋の髪をき始める。

 白秋は欠伸をしながら大人しくしていたが、窓から聞こえる東市の賑わいに、ふと朝方の騒ぎを思い出して嫌な気持ちになった。


 もちろん自分が人食い虎でないことは分かっているものの、あまりにも話が大きくなれば与太話さえ信じる阿呆が出る。そうなれば無弦にも迷惑がかかるのではないか、と不安に駆られるのだ。


 やむにやまれぬ事情があって互いに了承したことではあるが、いつまでも顔を隠していられる訳でもないだろう。

 そんなことを考えて険しい顔をしていると、弧星児が白秋の額を指で押し、寄った皺を拡げた。


「姫さま、いつもの朝占いをいたしましょうか」


 侍女は姫君の頬を両手で包み、琥珀の瞳を合わせた。

 白秋の表情はぱっと明るくなり、目を丸くしてねだった。


「え、やって」

「ええ。お任せください」


 そう言うと、弧星児は梳くのをやめて立ち上がり、天に向けて手を花のように合わせた。

 ゆっくり目を閉じると、脂汗をにじませながら気合いを込め始める。


「ハァーーーーーーッ」

「それ……ずっと気になってるんだけど何の意味が?」

「これは……なんか……こう……宇宙の波を感じるのに必要でして……」


 弧星児の足元では雪虫が円を描いて走り回っている。

 窓外にかかる花の枝からひよどりが覗き込む。

 しばらく珍妙な呻き声が響いたあと、彼女は片眉をあげた。


「む……」

「何か感じた?」


 白秋の問いに弧星児は勿体ぶって答えた。こめかみに指を当てて何かをこらえているようだ。


「今日は……なんと……すてきな出会いがある、……かもッ!」

「そっか」

「反応軽いですね。これ後宮なら大盛り上がりなのに」


 白秋のつむじを押しながら弧星児がそう言って口を尖らせる。白秋は童女のようにころころと笑った。


「悪い日じゃなければいいよ」

「きっと善い日になりますとも」

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