第3話 スイーツ
ワッフルが食べたい。
甘いものに限らずお腹が空けば食べたいものが頭に浮かぶ私だが、お腹に入れたいものとしてワッフルだけが飢えた脳内を満たしていた。
ことの発端はやはり世界の終わりのことを考えていたからだ。
世界の終わるまでに、人生で食べ残してはおけないものを考えていた私は一つの思い出にぶち当たった。
それは喉に刺さった魚の小骨よりも小さく、みかんを剥いた後に爪や指が黄色の色素が付着したような僅かな不快感を伴った思い出だ。
見方を変えれば冬の風物詩のような、振り返ると懐かしさやクスリと笑えるような話なのだけど、私の散らかった心の中で片付けられていないモノの一つだ。
話は2年前、当時私は中学生だった。
ティーンズの仲間入りをして何年か経ち、そこら辺の女の子のように恋をしていた。
気になる彼は転校生だった。転校してきた生徒ではなく、転校する生徒。
自分の気持ちに気付いた時には容赦のないタイムリミットが発生していた。
「今月末には転校する」とホームルームで担任が伝えた時に、心の中がざわついた。
まだ教室の中に彼は居るのに、来月には居なくなってしまう。
近いうちにやってくる喪失感を私は先に感じてしまい、その喪失感、彼がいない教室を想像して勝手に感じた喪失感に、自分の恋心を認識した。
それまでは特に好きという感覚はなかった。仲の良いクラスメイトの男子っていうだけで、顔を合わせない日があってもなんとも思わなかった。
昔からクラスメイトが親の都合でクラスを去っていくことはあったし、ある程度慣れていたはずだった。
でも、彼だけはとても寂しくなった。
彼と何か思い出を残したかったのかもしれない。その時の自分の気持ちを整理して名前付けれなくて、どういう気持ちだったのかは分からないままだが、私は彼をカフェに誘った。
一度行ってみたかったお店で、そこのワッフルが有名で私はそれを食べたかった。彼と一緒に食べたかった。
土曜日の午後。精一杯オシャレをして、メイクも頑張って、カフェへと向かった。
私が着いてから10分後くらいに彼が来て、ワッフルは注文してから15分後くらいに来た。
転校先はどんなとこかとか、引越しの準備は進んでる?とかそんなことを質問して、ワッフルをもぐもぐと食べ始めた。
歳の割に、同い年としては落ち着いた彼はカフェオレをゆっくり啜りながら、少しおしゃべりをして私の食べる様子を眺めていた。
私が食べ終わるとお店を出て、「じゃあまた学校でね」と言って解散した。
その2週間後、彼はクラスメイトではなくなった。
こう切り取るとほのかな恋心を抱いた女の子の、どことなく甘酸っぱい思い出話だ。
彼は「転校してもLINEするよ」と言っていた。けど、私と彼のトークルームは作られずに、彼からのLINE通知は一度も鳴ったことが無い。
随分と遠くの学校に引っ越してしまったため風の噂も届かず、彼と連絡をとったっていう話も聞かず、私も高校へと進学して、彼との共通の友人もいなくなってしまった。
耳に残るのは「ワッフルってデコボコのホットケーキなんじゃないの?」って彼の質問だ。
ワッフルとホットケーキには大きな違いがある。それはイースト菌の有無、すなわち発酵の有無だ。
どちらも主原料は小麦粉、砂糖、水か牛乳、鶏卵、バター。ワッフルにはイースト菌が、ホットケーキにはベーキングパウダーが加えられる。
そしてワッフルは発酵させた生地をデコボコの型で挟んで焼き、ホットケーキはフライパンやホットプレートなどで平たく焼き上げる。
ホットケーキはベーキングパウダーの作用で焼いている途中に膨張し、ワッフルは発酵して膨張した生地を焼く。
ちなみにベーキングパウダーの膨張の原理は理科で習う熱分解。
ベーキングパウダーはガス発生剤、酸性剤、遮断剤が配合されていて、ガス発生剤は炭酸水素ナトリウムが主に使われている。
炭酸水素ナトリウムは掃除用品でも使用される重曹で重炭酸曹達を略された商品名が有名、曹達はソーダのこと。この炭酸水素ナトリウムは粉末だと270℃で分解し、水溶液は65℃以上で急速に分解が進む。炭酸水素ナトリウム、NaHCO3の熱分解式は次の通りで
2NaHCO3→Na2CO3+H20+CO2
この発生するCO2(二酸化炭素)が生地を膨らませているのだ。
ベーキングパウダーを利用しているお菓子で有名なのは、ホットケーキ、クッキー、どら焼き。
ホットケーキとどら焼きは原料はほぼ同一で、配合が違っている。どら焼きの生地は小麦粉と鶏卵と砂糖が同じ分量で配合されている。
ホットケーキはホットケーキミックス。ホットケーキミックスの細かい原料の配合比は分からないけども、砂糖と卵を増やせばどら焼きの皮に近づくと思う。
ホットケーキの生地に近しいものといえばドーナツとクレープ。ドーナツにもベーキングパウダーで膨らませたドーナツと、イーストで発酵させて膨らませたドーナツがあるけども、前者のドーナツはぶっちゃけホットケーキ焼く前の生地を油で揚げれば作ることが出来る。
クレープはホットケーキを薄ーく伸ばして焼けば出来上がり。
されども、ワッフルは何度も言うようにイースト菌で発酵させた生地をデコボコの型に挟んで焼いたもの。
あのデコボコの型で挟んで焼いただけじゃあワッフルにはならないんだ、それはワッフル風のお菓子だボケ。
って言ったのがカフェの席でのこと。
ワッフルは私の好きな食べ物、the most favoriteなスイーツ。
ホットケーキ、パンケーキも好きだけども、ワッフルのザクっとした食感としっとりした食感が両立した甘さに勝るスイーツはない。
好きなトッピングはバニラアイス、メープルシロップ、バター。気分によってシナモンパウダー。
春や秋といった気温が比較的低くて過ごしやすい気候にはシナモンの香りが合うと思う。
冬はなんか違う。
一般的にはシナモンは秋冬のイメージ、もうちょっと言うと秋冬限定商品に季節感を持たせるイメージだ。スタバのドリンクとかに。
ちなみにシナモンは古くから使われているスパイスで、紀元前4000年のエジプトではミイラの防腐剤として使用されていたり、旧約聖書のエゼキエル書にもシナモンに関する記述がある。エゼキエルは神からの言葉を聞いた預言者、バビロンで捕囚民に対して神の教えを説いた人。
エゼキエル書には神の怒りと共に、悔い改めて神に立ち帰る者には回復が与えられるという希望も書かれているけども、宇宙人来訪の様子を描写していると数十年前に話題になったらしい。
問題?の部分はエゼキエル書の第1章、すなわち開幕からクライマックスということだ。
4節から28節にかけて奇怪な神様の描写が続いていて、正直異様な内容。
で、シナモンはその香り高さからスパイスの王様と呼ばれていたり、桂皮という名前で漢方に使用されているけども、西洋医学的には薬効は見つかっていないらしい。漢方は西洋医学的には効果あるもの無いものがあるけど、『なんか効く』らしい。これは薬局で長年働いていた祖母のコメント。
そしてシナモンといえばシナモンロールだ。
親が観ていた映画にシナモンロールが出ていて、それがやたらと美味しそうに見えた。翌日、母とパン屋に行ったら映画と同様に焼きたてのシナモンロールが置いてあったのだ。
とても美味しかった。
美味しかったって言葉では言い表せないほどの美味しさと、香りだった。
人生で感動したスイーツといえば、あのパン屋さんの焼きたてのシナモンロールだが、人生で一番好きなのはワッフルだ。
お皿の上でナイフとフォークを使って、生地を切り分けて食べるワッフルが好き。
考えてきたらワッフルを食べたくなった。
あの彼と行ったお店のワッフルをまた食べよう。そうすれば明日世界が終わっても、エゼキエルが説いた神の怒りが落ちても、悔いなく人生を終えられる。
カフェに向かう途中、中学時代のクラスメイトのリリコと会った。久しぶりとかお決まりの挨拶をして、一緒にカフェに入った。
注文したワッフルが届いて、いざフォークとナイフで幸せを食べようとした時にふとリリコが言い出した。
「そういえば中学の時転校したやついたじゃん?そいつがTwitterでさ『女子に誘われてカフェ行ったらワッフルについてガチ説教されてガン萎えした』って書いてたの思い出してさー、急に食べたくなったんよねー」
「へー」Twitterやってたんだ。知らなかった。それよりも、ガチ説教されてガン萎えか・・・
知ってることを熱弁振るっただけなんだけど、そっか、ガン萎えしちゃったか。
何やってんだろ、昔の私。
興味を持って考えたら目の前のワッフルの味が落ちる気がして、もう何も考えなかった。
美味しいものの前にも後ろにも後味悪いものを配置してはいけないのだ。
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