第4話 風の吹く初秋
……やってしまった。いや、まだ大丈夫だ。
なんてったって、今回は全教科赤点回避しているのだから。
一番低くて、数Ⅱの38点。でも、30点より上なわけだし。よし、まだいける。
10月初旬。目の前に広がるのは、さっきの授業を最後に全教科返ってきたテストたち。
でも絶対これ、お母さんに怒られるよね~……。
そして、おまけに成績優秀のまーほからマウント取られるんだ。
「お姉ちゃん、またこんな低い点数とったの〜」と笑うまーほの姿が脳裏によぎる。
ああもう、だめだ〜。
「うわ、どうしたんだよ。この世の終わりみたいな顔して」
声が聞こえたので隣を見ると、侑人がファイルの中を整理しながら話しかけてきていた。
こいつは無自覚煽りスキルカンストしてるな……。
そういえば侑人って頭よかったんだっけ。
「侑人、今回のテストの平均点数は?」
「えー分かんないよ」
「予想は?」
一瞬考えるそぶりを見せると、すぐに口を開いた。
「たぶん、多分82点だと思う」
「は、はちじゅうに!? カンニングは意外とバレるよ」
冗談交じりでそう言うと、「カンニングなんてしてないし」と答える。
今日も真面目だなあと思う。でも、侑人のこの勉強熱心なところは見習わなきゃな。
今も、さらっと暗算してたし。
って、こんなに侑人と話してたら奈央ちゃんにまた何か言われかねないや。
私は身体を起こして、机の引き出しから取り出したファイルに答案用紙をしまう。
……そういえば侑人って結局まーほのこと、デートに誘うんだろうか。
テスト期間に入っちゃったから、あの日から陸人くんとは会っていない。
まあ、学年も違うし。テスト終わったし、まーほに陸人くんのこと、聞いてみるか。
私はぼんやりとそう、考えていた。
その日の放課後。
「佐藤さん、いる?」
部活が休みなので自分の席でゆっくり帰りの支度をしていると、覚えのある声が聞こえた気がした。
「佐藤さーん!」
「うわっ、はい!」
と思ったら、大声で自分の名前を呼ばれたのでちょっとびっくりしながらも、慌てて返事をする。
椅子から立ち上がりドアへ向かうと、そこには誰かが立っていた。
いや、“誰か”じゃない。
「ちょっといい? 麻里花」
それはまぎれもなく私の幼なじみ、早瀬奏太の姿だった。
教室前じゃ邪魔になるからと、連れてこられたのは廊下の一番端。
この辺は電気がなく窓もないので、年中暗い。
でも、それが今はちょっと好都合だ。
「えっと、私になにか、用事があるの?」
「ああ、うん」
話すのは、いつぶりだろう。二年生になってからは一度も話してない気がする。
それに二人きりってなるともうずっと。中学のころもきっと。
まあ今その会話が、途切れてしまったのだけど。
なんでこんなに気まずい雰囲気になるのか、私には謎だった。
だって奏太くんとは喧嘩しているわけでも、付き合っていたわけでもないし。
ただ私が昔、一方的に好きだっただけで。
そのまま沈黙が1分ほど続き、そろそろ話さないとまずいんじゃないかと思い上を見上げたとき。
奏太くんの真剣そうな表情が、目に入った。
そして、それは一瞬誰かに重なって見えて。でもそれが誰なのかは分からない。
「……あの、奏太くん」
あ、待って今、昔からの癖で“奏太くん”って呼んでしまった。
学校なんだしそもそも高校生なんだから、“早瀬くん”か“奏太”って呼べばいいのに。
だけど、彼は私の“奏太くん”に顔をあげてくれた。
「ごめん。ちょっと、いろいろ考えてて。呼び出したの俺なのに、ごめん」
「ううん。そんな、謝らなくても」
「いや、俺が悪いから」
奏太くんは一呼吸置いて、口を開いた。
「実は麻里花には、文化祭の司会をやってほしいんだ」
「え、司会?」
まったくの予想外の言葉に、私は思わず聞き返す。
司会……文化祭の。
「そう、吹部の。といっても、開演前のなんだけど。あとは、去年もあった吹部の宣伝動画。麻里花に出てほしくて」
私たちの通うここ、等花高校では毎年11月に文化祭が行われている。
クラスだけじゃなく部の出し物もあって、もちろん吹奏楽部も毎年演奏をしている。
今だって、それに向けて練習しているわけで。
「大変だっていうのは、分かってるんだけどさ。俺も協力するから。……もしだめでも、大丈夫だから」
という奏太くんの表情は、明らかに大丈夫そうではなかった。
昔から押しに弱い奏太くんのことだから、きっと他の部員たちにも声をかけたけど断られてしまったんだろう。
……私がどうにかできるのなら、やろうと思った。
別に悪いことじゃないし。
引き受けることを告げると、奏太くんはなぜか顔を曇らせた。
「ごめん、ほんとに。急だし」
「奏太くんが何回も謝ることなんてないよ。私、頑張るからさ!」
気持ちが伝わるようにガッツポーズをして笑って見せると、奏太くんはおだやかに微笑む。
ああ、そうだ。こういう笑顔を見せる人だった。
私は、それが好きだったんだな。
「ありがとう麻里花。じゃあ、よろしくね」
「うん」
そして奏太くんは、忙しそうに廊下を駆けて行った。
風のうわさで聞いたけど、奏太くんって文化祭実行委員なんだっけ。
終わったら終わったで吹部の次期部長としての準備だってあるだろうに、大変だなあと思う。
でもああやって頑張る姿はかっこいい。それは、一人の友人として。
さて。私は教室に帰るか。と歩き始めようとしたとき。
「あ」
「あっ」
三階へと上る階段で、ある男子生徒と目が合ってしまった。
思わず二人で声をあげてしまう。
「……久しぶりに顔見るよ、陸人くんの」
目の前には、約二週間ぶりに会う陸人くんがいた。
まさか、こんなとこで会うなんて。
「倒置法で話す先輩、暇そうですね。今から屋上にどうですか」
「陸人くん怖いね~」
「もうほら、早く行きますよ」
出会って30秒。私は彼に無理矢理手を引かれ、四階までの階段を上った。
「陸人くん、テストお疲れ様!どうだった?」
「まあまあでしたね。そして、俺の話は今いいです。テストは関係あるけど」
季節はもう完全に秋で、さすがに私も陸人くんもシャツは長袖だ。
屋上の風は冷たくて、袖から出る両手は少し冷たい。
「今日は、侑人のことで先輩に報告です」
侑人の、こと……。まーほとのデートの話か。
そういえば、テスト終わったら誘うって言ってたっけ。
陸人くんの口ぶりからすると、どうやら誘えたらしい。
いつのまに。侑人もやるときはやるんだな。
「侑人が昨日の夜、デートプランはどうしようとか聞いてきたんですけど」
「え、ええっ!? もうそんな段階まで言ったの!?」
なんとびっくり。まさかここまでとは。
ほんとに侑人本人なのかと疑ってしまうくらい。
……だけどなぜか、陸人くんの顔がほんの少しだけ曇っているように見えた。
気のせい、かな。
保っていた一定の距離を縮めて、陸人くんに近づいてみる。
顔色はいいし、具合が悪いわけではなさそう。
「大丈夫?陸人くん」
「え————」
陸人くんがそう、声を出した瞬間だった。
ガチャリ、と今絶対聞いちゃいけない不穏な音がした。
声にならない空気がのど元を掠める。
「ま、まさかとは思うけど陸人くん」
「……はい」
「私たち、屋上に閉じ込められた……とか?」
「……はい」
はいはいbotか君は!とツッコんでいる余裕はなかった。
閉じ込められたって、ど、どうしよう———!
確かめるように何度かドアノブを動かして押したり引いたりしてみたけど、全然ダメ。やっぱり、鍵がかかっている。
まずは連絡しなきゃ。と思ってスカートのポケットをあさるけど、スマホが見つからない。これ、持ってないやつだ。
「陸人くんスマホ持ってる?私たぶん教室に置いてきちゃったんだけど……」
「俺も、教室ですね」
なんて言うけど、表情はあまり焦ってなさそう。
まあでも、なんとかなりそう……。
「いやでも、連絡手段ないよ!?なんとかなんてならないよ~!」
私が膝をつき頭を抱えていると、「先輩、声大きいです」と余裕そうな声が聞こえてくる。
今の時間は、多分五時くらいだ。秋だから日が落ちるのも早いし、どうにかして屋上から出なければ。
陸人くんが座ったので、私も姿勢を整えてその場で体育座りをする。
どうしよう。このまま本当に出られなかったら、お母さんたちが心配するよね。
陸人くん家だって、きっと……。
もし今日部活があったら、部活中の人がいるであろうグラウンドに向かって大声で叫ぶとか、いくらでも方法はあった。
でもまさか、こんな偶然が重なるなんて思わないし。
余裕そうな感じの陸人くんでも、きっとちょっとくらいは不安なはず。
こ、ここは、先輩の私がなんとかしなきゃ。
……そうだ!
私は四つん這いになって陸人くんに近づき、正座する。
「……なんですか」
「陸人くん。私と手遊びしない!?」
「は? 何言ってるんですか、あなた」
両手を広げて自信満々に言ったのに、即座にツッコまれる。
というか、出会ったときよりツッコミの速さに拍車が掛かっている気がする。
これが本来の陸人くんなのかも。と思うと、ちょっとは心開いてくれてるのかなってうれしくなった。
「だって、もう秋だよ。寒いからさ、手を動かしたら温かくなるかなって」
試しに握ったり開いたりしてみると、陸人くんはあからさまなあきれ顔をこっちに向けてくる。
「なんですか、それ……。頭の中、お花畑なんですか。先輩って」
お花畑……ではないとは思うけど、まあそんなことは別にいい。
今はただ、陸人くんと仲良くなってこの状況をなんとか乗り切りたい。
私の頭の中にあるのは、それだけだ。
「じゃあ、ちょっと見てて。えーっと、こうして……」
私はさっそく指と指を重ね、中指を内側に折り曲げる。
作っているのは、なんか一番簡単そうな蛙だ。
あとは、左右の人差し指と親指同士をくっつけて……。
「よし! 出来たよ! 梅雨の蛙~!」
バッと思いっきり手で作った蛙を空に掲げる。
夕日がほとんど沈みかけた暗い空には、ちょっと場違いな気もするけど。
「……梅雨限定、なんすね」
ぼそっと陸人くんが独り言のようにつぶやく。
私はよくぞ聞いてくれましたと思い、上に伸ばして疲れてきた腕を下ろす。
「なんだか、夜の蛙って梅雨って感じがするんだ。まあ、見たことないけど。あはは」
と笑って見せると、あきれ顔と無表情顔しかしてなさそうな陸人くんが笑ってくれたような気がした。
「……なんか、先輩と一緒で鈍臭そうですね。その蛙」
「え、ちょっとっ、陸人くん!」
今度はいじわるそうな笑みを浮かべてそんなことを言い出す。
思わずちょっと言い返したりしてみる。
……あれ、待って。
「ど、どうして陸人くんが、私のことそんな、鈍臭いだなんて……」
そもそも私たちって初めてしゃべってからあんまり時間たってないし、陸人くんの前でヘマした覚えもないけどな。
すると陸人くんはいつもの無表情に戻り、あぐらをかいた。
「だって先輩、覚えてますか?四月の部活紹介」
ぶ、部活紹介……?
確かに陸人くんの言う通り、四月には新一年生のために体育館で部活紹介が行われている。
……あ。
一つ、心当たりがある。あるけど……。
「吹部の紹介のクラリネットのターンで先輩、盛大に楽器を体育館の床に落としてましたよね。すごい音がして。吹部ってやばい人がいるんだなーって思ってましたよ」
「あ、あれは、あの、記憶から消してほしいです……」
まさか、陸人くんも見ていたなんて。いやそりゃ休みでもしない限りあの場にいないほうがおかしいけど。
「というかあれでクラリネット壊れちゃって、修理出すより安いからってお小遣い前借りして買い換えたんだよ〜。だから今私の全財産300円なんだよねー……」
「小学生男子くらい貧しいですね」
「うっ、思い出すと、心の傷が……」
私は蛙の手を崩して胸に膝を抱える。
時間はあまり経ってないはずなのに、もうあたりは真っ暗だ。空には、きれいな星が瞬いている。
……でも、陸人くんがいてくれてよかった。屋上に一人で閉じ込められたりなんかしたら、柄にもなく泣いてしまうだろうから。それに、少しだけ仲良くなれた気がする。
まあこんなの、陸人くんにしてみれば災難でしかないだろうけど。
……もう、一時間経つのだろうか。
そういえば、ちょっと寒いかも。
初秋だからって油断してシャツ一枚だけになんてしなきゃよかったかなぁ。
私は寒さを紛らわすように両腕を手でさする。
「……寒いですか。先輩」
「え?」
声のした方を向くと、意外にも陸人くんが近くにいた。
まあ、寒いと言えば寒いけど……。本当のことを言ったらきっと心配させてしまうだろう。
「ううん。寒くないよ。私、寒さ耐性あるんだよね~」
と言って笑うと、陸人くんはへ〜と感情の読み取れないような表情を浮かべた。
「私、そんなに信用ない?」
「はい」
ふざけるように言ってみたけど、がっつり返事が返ってくる。
私、先輩……だよね? あれ、どうだっけ。
「大勢の人の前で楽器落としたり、バスケットボールを顔面で受け止めた挙句、ひょろひょろのボールを返すようなことするからですよ」
ば、ばすけっとぼーる?そんなの……。あ、そういえば。
でも、陸人くんはそのこと、知ってるはずないのに。
どう言おうかと考えていると、ふわりと肩に何かがかかった。
きゅっと引き寄せてみると、明るいクリーム色のカーディガンが目に入る。
びっくりして言葉が出ない。
「ほら、ちゃんとかけてくださいよ」
「あ、ご、ごめんね、ありがとう……」
それは、さっきまで陸人くんが着ていたもの。当然、ぬくもりが残っているわけで。
シャツを通して暖かさが伝わってくるみたいで、寒さが和らぐ。
……こんなこと、今までされたことないから。不覚にも、心臓がどきどきして。
まるで、さっきまでの元気がどっかに行ってしまったみたいだ。
「……陸人くんは、寒くない?」
今まで暖かったのに、急に一枚無くなって寒いはずだ。
でも、陸人くんは首を振る。
「俺はいいです。暑いくらいだったんで。それに先輩、寒さ耐性なんてなさそーだし」
「そ、そっか。でもね、今日はたまたまだっただけでだからね?」
「はいはい、分かりました」
雑そうに言ったその言葉に優しさを感じたのは、きっと気のせいじゃない。
ちょっぴり火照った頬と心臓の鼓動をごまかすように、「陸人くーん!」と叫んでみる。
そうすると、いつもの私が戻ってくるみたいだった。
「そういえば陸人くんって、なんで私の顔面にバスケットボールが当たったこと知ってるの? 誰も見てないって信じてたのに……」
あのときのことを思い出すと、やっぱり恥ずかしくなる。
ああ、と思い出したように口を開いた。
「先輩、知ってると思ってたんですけど。俺、男子バスケ部所属なんですよね」
「えっ、あっ、そうだったの!?」
予想外の言葉に思わず半立ちになると、動いた拍子に風でカーディガンが飛びそうになる。
慌てて掴むと、「なにしてんすか」と陸人くんが小さく笑った。
その笑顔は、侑人に似ている。
初めて出会ったときは、磯田兄弟は似ていないなんて勝手に思っていたけど。今日こうやって陸人くんとちゃんと話してみて、ふとしたしぐさとか表情が似ているなって思った。
私とまーほは、全然まったくなにからなにまで似てないけど、どこか一個でも共通点があったら、きっとそれは私にとって誇りになる。
だって、まーほのすべてが、誇りだからね。
立ち膝になっていたのを元に戻し、足を崩して座った。
……というところで、暗闇の奥のほうから微かに音が聞こえた。
遠くな気がしたから、陸人くんじゃない。だとしたら……。
続いて耳に入ってきたのは、バンと勢いよくドアの開く音。
と、そして。
「まーりかーーっ!」
なんと、自分の名前を叫ぶ声。
しかも、聞き覚えのあるもので。
「なっ、奈央ちゃんっ!?」
叫んだけど、暗くて姿が見えない。
幻聴かと思ったけど、隣の陸人くんが半立ちになったからたぶん違う。
「麻里花、やっぱりいるのっ!?」
すぐに返答が返ってきて、夢じゃないことが確定する。
そして急に、パッと目の前が明るくなった。
だけど暗闇に慣れてしまったせいで、眩しくて目が開けられない。
「よかった、麻里花……っ!」
「わあっ」
そしたら、身体に何かが覆いかぶさった。
そのまま腰に手が回され、ぎゅっと抱きしめられる。
もしかして私、たぶん奈央ちゃんにハグされてる?
だんだんと慣れてきて、目を開いた。
私を抱きしめていたのはやっぱり奈央ちゃんで、きれいな髪が頬をくすぐる。
そして目の前にもう一人、誰かがいた。
そうだ。奈央ちゃんがここにいるってことは、この光の持ち主がいるってことで。
誰かと思い上を見上げれば、また見知った姿。
「奏太くん……」
スマホのライト機能で私たち三人を照らすのは、焦った表情の奏太くんだった。
「なんで、二人がここに……」
疑問をそのまま口にすると、奈央ちゃんが背中に手をやったまま顔だけ私から離れる。
「私実行委員で居残りしてて。鞄取りに行こうと教室戻ったら麻里花の荷物も置いてあって。机にスマホもあったからどうしたんだろうって。もう最終下校時刻過ぎてるから一般生徒は帰ってなきゃいけないのに探してもいないから~!」
“実行委員”っていうのは、たぶん文化祭実行委員のことだ。
涙目で言うそんな奈央ちゃんを見ていると、申し訳ない気持ちになった。
奏太くんが、繋ぐように言葉を続ける。
「ほんとは大人数で探したほうがよかったんだろうけど、校則破りになるだろうから先生にも相談できなくて。ごめん」
奏太くんは申し訳なさそうに笑ったけど、見つけてくれて本当に良かった。
閉じ込められたことを楽観的に考えていたけど、今思うと恐ろしい。奏太くんと奈央ちゃんがいなかったら、下手すれば朝までここにいたかもしれないんだ。
気づかないうちに安心している自分がいた。
「……すみません。ありがとうございます」
横目で見れば、陸人くんが立ち上がって頭を下げていた。
私も慌てて立ち上がると、奈央ちゃんがその拍子に離れる。
「ほんとに、二人ともごめんね。でも、ありがとう」
二人に頭を下げてお礼を言った。
二人が探してくれなかったら、本当に私たち、どうなってたかわからない。
もう、命の恩人といっても過言ではないくらいだ。
奏太くんが先にドアを開けてくれて、私たちは屋上から出る。
一年生の教室の前で別れるとき陸人くんが私に向かって巻き込んでしまったと謝ってくれたけど、そこまで気にしないでほしいことを伝え、私たちは教室に戻って荷物を取りに行った。
「じゃあ帰ろうか、と言いたいところだけど、俺は職員室に寄ってから帰るよ。二人とも気を付けて帰ってね」
「早瀬も、気を付けて帰りなさいよ!」
奈央ちゃんがそうあいさつしたので、私も何か言わなきゃと戸惑う。
「じゃあ、またね」
「うん」
ちょっと不自然になってしまった別れの言葉を告げると、奏太くんは頷いてくれた。
奏太くんに“またね”なんて言ったの、きっと小学生ぶり。
―――だけど、今の会話が私の中のどこかで決定打になった。
私が思う、奏太くんへの気持ち。気まずさとか、距離の測り方とか。
あんなに離れていたせいで話すことすら怖かったのに、今はちょっとだけ心が軽くなった気がするのだった。
一階で奏太くんと別れ、奈央ちゃんと二人で下駄箱に向かう。
奈央ちゃんは、なんで侑人の弟と二人きりで屋上にいたのかとか、そもそもなんで知り合いなのかとか、奏太くんとの少しばかりある距離についてとか、そんなのは一つも聞いてこなかった。
それは、奈央ちゃんの気遣いなのか単に気にしていないのかは分からない。
けど、説明すると長くなりそうだからよかったかも。なんて思ってしまう自分は、嫌だなと……思う。
「じゃあね、麻里花。私こっちだから」
「うん。また明日ね!」
田舎のそう大して広くない駅内で、方向の違う奈央ちゃんと別れる。
階段を下りてホームに出ると、冷たい風が吹いた。
午後7時過ぎの空は、もうほんとに真っ暗。澄んだ秋の空にきれいな星が瞬いている。
寒いな、と思って手の平まで服を伸ばしたところで私は重大なことに気が付いた。
……陸人くんのカーディガン、返してない!
というか、がっつり着ちゃってるし。
後輩の制服借りパクするとか、とんでもないことしてる。
いや、今日は週末じゃないし別に明日都合が合えば陸人くんに返しに行けばいい話なんだけど。
謝罪のメールでもしようか、とカバンからスマホを取り出す。
そういえば、朝から一回も開いていないかも。
だからもちろん家族に連絡なんてしていないわけだから、絶対お母さんから鬼電入ってるだろうなあと思いながら電源ボタンを押す。
……あれ。
待って、つかない?
何度も押すけど画面は明るくならない。
暗すぎてボタン間違えたかなと、ある限り全部押してみるけどつかない。
……電源を、切った覚えはない。
ってことは、つまり。
「ええー、うそー!」
絶望過ぎて思わず大声を出してしまった。
でもホームには無人駅かというほどに人がいないので、誰にも聞かれていないよね?
そして……これはやっぱり、充電切れてるってこと、だよねー……。
いや、それ以外ありえないんだけど。
公衆電話にかけてみるかとも思ったけど、そもそももうホーム入っちゃったからかけられない。
電話かメールでもしないと、家族にこれ以上心配かけるだろうし……。
「先輩」
「え、うわあっ」
とつぜん何者かに背後から話しかけられる。
びっくりして振り返ると、そこにはついさっきまで考えていた陸人くん呆れ顔verがいた。
「先輩、声大きいので気が付きました」
「す、すみません……」
小さく頭を下げながら、立場大逆転だ……とひそかに思う。
実は精神年齢陸人くんのほうが高いんじゃないか説を疑っている。
というかそういえば、陸人くんってこっちの電車だったんだ。
侑人と帰ったことってほぼないから知らなかったけど。
そこであることを思い出した私はかばんを地面に置いて、着ていたカーディガンを脱いで陸人くんに差し出した。
「ごめんね、借りっぱなしで返すの忘れちゃって」
「……別に、大丈夫です」
陸人くんはカーディガンに触れると、私に軽く押し付けてくる。
いや……え、受け取ってくれないの?
あ、そうか! 洗って返せってことか! なるほど!
確かに着たものをそのまま返すなんて、非常識だもんね。
一瞬疑問に思ったけどすぐ答えにたどり着き、カバンにしまっておこうときれいに畳む。
「いや、なにしてるんですか」
なのに即座にツッコまれて、私は驚く。
「えっ?」
「着ないんですか。寒いんじゃないんですか」
「な、え?」
「てか、あの人誰ですか」
「……え?」
陸人くんが詰め寄ってきたので思わず後ずさりすると、バッと右腕を掴まれた。
整っているきれいな顔がほんの十何センチ先にあって、不覚にもドキッとしてしまう。
これが、美葉ちゃんの言っていた無自覚女キラーの威力……。
って、そうじゃなくて。
今陸人くん、あの人は誰かとか言ってなかった?
「あ、あの人……とは」
そのガラス玉みたいな瞳から放たれる視線に耐えられず、若干目を逸らしながら問う。
陸人くんは顔の距離を元に戻し、それでもなぜか手は離さないまま口を開いた。
「先輩が“奏太くん”って呼んでた人です」
「そ、奏太くん? ……ええっと、苗字は早瀬、吹部所属で二年六組?」
意図の読めない質問に答えながら、自分でもよくわからずに疑問形をつけてしまう。
だって、誰だって聞くなら奈央ちゃんと二人セットで聞くはずだよね?
奈央ちゃんのことは知ってたとか? それなら納得だけど。
でも、本人の陸人くんは納得してないみたいで、なんともいえない表情をしていた。
—————まもなく二番線に、列車が参ります。黄色い線より内側に———。
「……だから、そういうことじゃなくて」
カーディガンを手に持ったまま置いていたかばんを手に取る。
ガタガタと走行音が近づくのを感じる。
「———麻里花先輩との、関係って—————」
その瞬間、横を電車が風を巻き起こしながらホームに入ってきた。
陸人くんの口は動いているけど、何を言っているのかは聞き取れない。
あっという間に止まった電車は、音を立ててドアを開けた。
「ごめん陸人くん。さっきなんて言ったの?」
電車の音で聞こえなくて、今度はちゃんと聞き取ろうと耳に手を当ててそう尋ねる。
だけど、「別に、いいです」とそっぽを向かれてしまった。
……よく分からないけど、陸人くんがいいならいいか。
田舎の電車内は帰宅ラッシュと重なって、割と混んでいた。
こんなの都会のと比べれば空いているんだろうけど、あんまり乗ったことないので分からない。
ここから、目的地まで30分と少し。
ドアに寄りかかりながら、私は眠気と格闘していた。
陸人くんとは、最寄り駅が違うから途中で別れる。
私は、あと一つ先の駅。
カーディガンは結局返した。明日も使うからって言って。
車内アナウンスがなり、ホームへの到着を知らせる。
私はかばんを持って降り、駅を出た先にあるバスに乗った。
私の住む家の住宅街付近まで走っているこのバスは、いつも乗客が少ない。
一人席に座ったあとすぐに出発し、流れる窓の外を眺めてみる。
家族に心配かけてるとか、あのとき陸人くんはなんて言ったのかとか、お腹が空いたとか。
考えることはいっぱいあるけど、その中でも一つ、忘れかけていたことが頭に浮かぶ。
今日、屋上で話すつもりだったであろう陸人くんの話を一つも聞けてないことだ。
あとは、あの曇った表情。なにかあったのかな。
分からないことばかりだ。侑人は、あんなに分かりやすいのに。
10分ほどで着き、バスを降りると冷たい秋の風が吹くのを感じた。
短い髪がなびいて、右耳にかけてみる。
寒いな。もう夏が、終わってしまった。
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