第57話 大好きな幼馴染と同盟を


 私の幼い頃のほんの些細な誓い。

 まだ、ハインリッヒがどんな貴族なのかもわからなかった頃の。

 ただ、子供心に自分が他の貴族に笑われていることを理解していた。

 そして、社交界でもう一人笑われている女の子がいた。

 その子がヴァイオレット伯爵の娘でシャルだった。


……。


 すごい家の子なのに。

 みんなから陰で笑われていた。


 青い瞳の天使のようなうつくしい女の子で、みんなが馬鹿にする理由がわからなかった。

 偉い人とうまく話せなくて失敗したらしい。

 わたしだって、あんなおっかないおじさんと話せない。

 ちょっと緊張して話が出来なかっただけで、なんで馬鹿にするんだろう。

 もっと他にいい所、あるかもしれないのに。

 そのことしか見ないで馬鹿にするなんてもったいない。


 社交界の会場から、びくびくと怯えながら離れていくシャルを見かけた。


 ついていくとなぜか誰もいない庭の片隅で膝を抱えている。


 膝を抱えてうつむいて、泣いていた。

 どこか放っておけない子だ。

 とてとてと会場に戻って、ハインリッヒのホットチョコを持ってくる。

 商会で一番おいしいカカオから作ったホットチョコ。

 これを飲むと元気になる。

 たくさんあまくしてもらった。


 チョコを女の子にあげると笑顔になった。

 すごくその笑顔がかわいくて、びっくりしてしまう。

「これは、なんですか?」

 舌足らずな声だ。伯爵家の子が知らないものを知っているのがうれしかった。


「チョコレートだよ、あなた知らないの?」

「うん……ちょこれーと。おいしいね。すごくすっごくおいしいねっ!」


「あなた甘い物好きなの?」

「……す、好きじゃないよ」


「じゃあ返して」

「ぅぇ……」


「好きなのに、なんで好きって言わないの? 自分の心に嘘つくのはよくないわ」

「だって……ヴァイオレットだから」


「わけわかんないっ。好きなの? 嫌いなの?」

「……好き」


「好きなの? 大好きなの?」

「……大好き」


「そう」セシリアは笑った。「なら友達っ。お菓子同盟」

「お菓子同盟?」


「うん。お菓子が好きな間はずっと友達。私ハインリッヒと、シャルのヴァイオレットのお菓子同盟。いつか世界中の人々をお菓子で幸せにする誓い」


……。


 走って会場を飛び出す。

 

「セシリア様っ! これっ!」

 ネルから箒を受け取る。

「大学~! 第二演習場の裏のベンチです~! いつもシャル様が一人でご飯食べてた場所です~! 許可はとってありますから~!」


 ヒールが邪魔だった。脱ぎ捨てて走る。

 走るために余計なものは、宝石も何もかも捨てる。

 今はただ一秒でも早く。


 屋敷を飛び出して箒で青空に舞い上がる。


 空の青い色。

 どこまでも続く青い色。

 その先にシャルがいる。


 何で昔のことを思い出すのだろう。

 何でシャルはまだ覚えているのだろう。

 子供の頃の戯言。

 何も知らなかった時の真っ白な言葉。


 きっとシャルは、子供の頃の話をずっと覚えていた。

 そう確信している。

 だから、私が酷いことをしても、ずっと信じてくれた。


 けれど今の私には背負うものがある。

 誰に何と言われようと、崩せない矜持だ。


 チョコの感想を伝えるだけ。

 あまりにも美味しかったから。

 彼女のやさしさが、努力が、あまりにも美しかったから。


 ハインリッヒは職人に敬意を表する。

 だから最高のチョコレート職人に感謝を伝えるだけ。

 それだけ。


 その後、今度は言葉でお別れを告げる。

 誠心誠意の謝罪と、決別の言葉を。


 私は悪党シャイロックのセシリア・ハインリッヒだから。


 大学の第二演習場。

 誰も寄り付かない、木陰のベンチで。


 シャルは膝を抱えて座っていた。

 幼い頃のように。

 あの頃と違うのはうつむかず、空を見上げていたこと。


 私に気づき、彼女は立ち上がる。

 さらさらな金髪の碧眼。

 うつくしい青い色で私を見つめる。

 そして笑みを浮かべた。


「あの白いお菓子は、なんですか?」

 私の声は震えていた。


「チョコレートだよ、あなた知らないの?」

 私は気づいてしまう。

 それはいつかの幼い頃の会話で。

 私が話した言葉で。

 けれど違うのは、シャルは全く泣いていなくて、チョコレートを教わるのは私で。


「うん……ちょこれーと。美味しかったです。すごくすごく……美味しかったです」


「あなたお菓子好きなの?」

「……好きじゃ、ないです」


「じゃあ返して」

 シャルの言葉は、私の言葉と一言一句同じで。


「好きなのに、なんで好きって言わないの? 自分の心に嘘つくのはよくないわ」

 だって……シャイロックだから。

 悪党シャイロックのセシリア・ハインリッヒだから。


「わけわかんないっ。好きなの? 嫌いなの?」

 シャルは子供の頃の会話をなぞるように続けていく。


「好きなの? 大好きなの?」

 本当は好きだった。

 お菓子が好きで好きで仕方がなくて。

 けれど、子供のように好きに従うことはできなくなっていて。

 だからあなたに憧れた。

 ずっと変わってなかったから。

 何も変わってなかったから。


「お菓子が好きな間はずっと友達。私ヴァイオレットと、セシリアのハインリッヒのお菓子同盟。いつか世界中の人々をお菓子で幸せにする誓い」


 けれど、少し前のシャルとは全く違うシャルで。

 情熱はそのままに、前よりずっとやさしく、うつくしい。

 シャルが私に手を伸ばす。


 このやさしい手をとってはならない。

 私はハインリッヒ。

 悪党シャイロック家のセシリア・ハインリッヒ。


 悪党に涙は似合わない。

 悪党に希望の青は相応しくない。

 隣に立つ資格はない。


 全てを包み込むような、青い空のようなやさしさに、視界が滲んでいく。

 だから私は上を向く。

 彼女のやさしい手を拒む勇気を奮い立たせるために。

 私の胸には決して折れない、ハインリッヒの矜持がある。


 幼い頃の私は涙が溢れそうな時、青い空を見ていた。

 下を向くと涙が溢れるから。

 見上げると涙は溢れない。

 私の身体はそうできている。


 そのはずだった。


「なんで……」


 上を向いたというのに涙が一筋伝った。

 一度堰をきった涙は次々に溢れてしまう。

 必死に堪えても涙が止まらない。

 堪えても堪えても涙が溢れる。


 なんでこんなにも一途でいられるのだろうか。

 裏切り者の私をどうして。


 上を向いても涙が溢れて止まらない。


 彼女のやさしさがうれしいのに。嬉しくて仕方がないのに。

 悲しくなんてないのに。


 なんで涙がとまってくれないの。

 足の力が抜けて膝立ちになる。

 上を向いて嗚咽をこらえる。


 手を取らずにいると、やさしさに包まれた。

 シャルの小さな身体が、抱きしめてくれる。

 あたたかった。

 これはやさしさの中の情熱のあたたかさだろうか。


 必死に上を向く。

 懸命に。

 歯を食いしばって涙をこらえる。


 お礼を伝えに来ただけ。

 おいしかったから。職人の技術に感動したから。

 感想を伝えるだけ。


 手は取らない。

 今度はただの言葉で別れを告げる。

 事情を伝えるだけ。


 折れることのない矜持を胸に、上を向く。


「どうしてぇ……」


 涙が止まってくれない。

 別れの言葉が出ない。

 涙でせき止められている。

 うれしいのに涙が溢れるのはなぜだろう。

 あんなに手を伸ばしても届かなかった青が、どうして手を差し伸べてくれたのだろう。


 母を失っても泣かなかったのに。

 どんなに辛くても泣かなかったのに。

 苦しくても、すべてが嫌になっても、嫌われても、人前でただの一度も涙が溢れなかったのに。


 やさしさに涙が止まらないのはなぜだろう。


 上を向いても、涙を我慢できないのはどうしてだろう。


 どんな時も上を向けば涙が止まる。

 私の身体はそうできている。

 そう、できていると思い込んでいたのに。


 溢れて止まらない。

 押し込め続けた思いが次から次へと溢れるように、涙が止まってくれない。


 どうして。

 なんでこんなにもやさしいのだろう。


「シャルロッテ・フォン・ヴァイオレットが、セシリーを守るよ」


「……ぅっ」


 目の前にはうつくしい宝石のような青い瞳。

 憧れの青い瞳。

 全てを包み込むやさしい青い色。


「ヴァイオレット家のシャルロッテが、セシリーを守るから。だから、教えて。セシリーの心の声を。難しいことはどうでも、いいんだよ。私は本当の、心の声を聞きたいの」


「……同盟を」

「うんっ」


「……大好きなシャルと同盟をっ」


 私の10年以上積み上げ続けた矜持は、やさしさに打ち砕かれた。

 抱きしめ返した小さな身体は、全てを包む、ちょこれーとのような、やさしい情熱でできている。


「ごめんなさい……」


 一度溢れた本音は止まらなかった。

 私は憧れの青い空に向かって、涙を流しながら叫んだ。


「ごめんなさいっ! 叩いて、ごめんなさいっ! 酷いことしてっ酷いことを言ってっごめんねぇ! シャルちゃんっ本当にごめんねぇ!」


 あぁ、あぁ。嗚咽が漏れる。

 どうしてこんなにやさしいのか。どう償っていいのか何も分からない。

 自分を制御できないのは初めてで何もかもが分からない。

 私はただただ、子供のように謝り続けた。

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