第28話 聖女アリシアの願い
水の都市アクアテラは歌と踊り、恋に溢れていた。
陽気な音楽がそこかしこから聞こえてくる。
「観光者かな? 一曲どう?」
アリシアが街をきょろきょろと見渡しながら歩いていると、女性にダンスを誘われた。
「はい。ぜひっ」
踊ったことはなかったけど、この祭典で踊ることに憧れていたから断る理由はなかった。おっかなびっくり踊っていると女性が笑った。すぐに初心者と気づいたのだろう。ステップをやさしく教えてくれた。
「そうそう。イチ、ニ、サン。そうっ! いい感じだね。後はこれを繰り返して……お、あなた上手ねぇ! センスあるよっ!」
初心者の私に合わせて、基本のステップを踏むだけの踊り。
沢山褒めてくれた。とても楽しい。
あっという間に一曲終わった。
「ありがとうございますっ」
とお礼を言い、彼女と別れた。一生懸命ステップを踏んだから、少し身体が温かくなる。何人かの男性からも誘われたけど、素の姿で接したことはないから、少し怖くて逃げてしまった。
勇気を出そうと思ったけど、私に恋はまだ無理みたい。
笑ってしまう。
鐘の音が鳴った。アクアテラの祭典の午前の終わりを知らせる音色。
後、半日で祭りが終わってしまう。
街の中は依然として笑顔であふれていた。
雑貨屋さんを巡った。かわいい猫をモチーフにしたモノや、控えめに輝く装飾品があった。ルリにもらったお金で、猫をモチーフにした商品を買う。私とルリの分。おそろいの物。勝手に買っちゃったけどいいかな。怒られないかな。
でもきっと許してくれる。そんな気がしていた。
街の料理を楽しんだり、市民が通う市場を見たり、大道芸を観覧したり、路地で見つけた猫を追いかけてみたり、……ちょっと薄暗い路地に入ってしまい怖くなって戻ったり。
あっという間に時間が過ぎていった。
夕暮れの中、屋台の立ち並ぶ片隅にクレープ屋さんを見つけた。
確か新しい料理と言っていたっけ。
でももうお金は残ってなかった。
クレープを食べたお客さんは幸せそうな顔をしている。
こんなに幸せそうな顔するのってくらい、幸せそうで。
食べてみたかったな。今日ほどお金を欲しいって思ったことないよ。
けど隅の区画だからか、テラス席は空いていた。
テラス席に座って街の風景を眺める。
アクアリス魔法大学の子たちが、箒で空を飛び、魔法の光を打ち上げ、祭りを彩っていた。
水の都のアクアテラの祭典。水のきらめきと陽光と、学生のうつくしい魔法の光。
西日の斜陽が人々の笑顔を照らしていた。
希望に満ち溢れた、日常を祝う祭りが終わりに近づいている。
楽しい休日だった。
守りたいと思える光景だった。
明日にはまた結界の維持のお役目をしなければならない。
今度は嫌々ではない。私の意志で守りたいと思える。
本当なんだ。
これは本心だよ。
クレープを食べながら、恋人が歩いていた。互いに食べさせたり、おいしいと笑顔で伝え会い、喜びを分かち、人生を共有している。
幸せそうだった。
私もお役目を終えたら、料理屋さん、やってみようかな。
だって、こんなにも素敵な笑顔にできるのだから。
「……あっ」
頬に涙が伝るのを感じた。テラスのテーブルに黒いシミをぽたぽた作っていく。
ハンカチをもっていなかった。ルリの服だから服のすそでぬぐうこともできない。
手の甲で懸命に擦っても擦っても涙はとまってくれない。
しあわせなのに。ルリが作ってくれた魔法の時間なのに。
うれしくて、仕方がないのに。
本当に、今は心からみんなの幸せを願っているのに。
「……うっ。……うぅっ。……どうしてぇっ」
こんなにうつくしい世界を守れることを誇りに思う。
泣きたくなんてなかった。
ルリのくれた大切な時間すべてを笑顔の思い出にしたい。
けれど涙が、とまってくれない。
周囲の人々のしあわせな時間に水を差したくなかった。
俯き必死に隠す。嗚咽をかみ殺した。
誰かの気配が近くに来たのを感じる。痛いほどの斜陽が遮られ、顔を上げた。
「あまいものは苦手ですか?」
無精ひげだが、調理用の服を着ているためか清潔感のある大人の男性だった。みなを笑顔にしていた、クレープ屋さん。あまり表情は豊かではないが、やさしそうに思える。ハンカチを渡してくれた。
私は首を横に振り、ハンカチを受け取り涙をぬぐった。
ハンカチには甘い香りがついている。
「クレープはいかがですか?」
私は顔を横に振る。
「……お金が、ありません」
「そうですか」
と男性は淡々と答えて、クレープ屋に戻ってしまった。
本当は皆を笑顔にしていたクレープを食べてみたかった。
「……あ」
ハンカチを返しそびれた。だけど洗ってから返したい。でも、ここにはもう来ることができないかもしれない。
一度持って帰って、ルリに渡してもらうよう頼むことにする。
それを伝えるべくクレープ屋さんの前に行く。
もう閉店しているようで、お客さんの列もなかった。
「ハンカチ、ありがとうございます。洗って返したいのですが、よろしいですか? もしかしたら少し、遅くなるかもしれないです。それと多分、私は直接返しに、来られないかもしれなくて……申し訳ありません」
「かまいませんよ」
「あの、本当にありがとうございます」
男性はクレープを作っている所だった。彼自身の分を作っているのだろうか。
魔法のような手際だ。
丸い鉄板の上に、甘い匂いのクレープの素を垂らす。円形に手早く丸め、ひっくり返す。出来た生地を調理台に移し、クリームとトッピングの色を添える。
食べやすいように紙で包み、その上からさらにトッピングを重ねていく。
丁寧に盛り付けされた上品なお菓子に思えた。
どんな宝石より魅力的に見える。
「どうぞ」
と男性は控えめに笑った。頑張ったご褒美に、親族の子供に向ける笑顔のようで。
「あの、わ、私、本当にお金、なくて」
「これは試作品です。もしよければ感想を教えてください。既製品は買ってくれたお客さんに申し訳ないですから」
丁寧な盛り付けで、よどみのない手さばきで、とても試作品には思えなかった。
「甘いものが苦手じゃなかったら食べてみて」
「ありがとう、ございます」
受け取り、テラス席に移動し座って食べる。
一口食べるとひかえめなやさしい甘さが口いっぱいに広がった。
生地はもちもちしていて、うっとりするほどやわらかい。
孤児院で食べたやさしい甘さのお菓子を思い出した。
「おいしいなあ」
なんでうれしいのに涙が出るのだろう。
昔の私にとってこれは、何の変哲もない日常で。子供の頃の私は、あんなに特別を夢見ていたのに。
幸せな日常が、こんなにも輝いて見えるのはなんでだろう。
甘いお菓子に、涙の塩気が混じる。
「おいしい。すごく、すごく、おいしい」
「戻りたく、ないなあ」
塔の中に。
「戻りたいなあ」
孤児院の、あの頃の日常に。
けど私が祈りをやめたら、この幸せはなくなる。
「やるしか、ないよね」
こんな素敵な日常を守れるのなら、私は頑張れる。
クレープを食べ終わると、紙に文字が書いてあった。
『いつもありがとう』
うっうっ。
嗚咽が漏れた。
きっとこれは食べてくれてありがとうの、クレープ屋さんのお客さんへの心遣いなのだろう。
だが、私には毎日頑張っている感謝に、勝手に思えてしまった。
嗚咽が止まらなかった。
感謝を求めていたわけでは決してない。誰かのために頑張ってたわけでも、崇高な思いがあったわけでもない。嫌々祈りを捧げていただけだ。
文字を声に出して読む。震える声が漏れた。
「いつもありがとう」
なんでこんなに涙が止まらないのだろう。
夕日が沈んでいくのが目に入る。
そこで、はたと気づいた。黒髪の毛先が元の白髪に戻っていることに。
ルリの魔法が切れた。
どうして? まだ時間は……。
急いで塔に戻らなければならない。
走って間に合う?
ダメ。
黒髪が毛先からどんどん白くなっていくのが分かった。
ルリは夕暮れまでにって言ったのに。
もしかして私の魔力のせい?
いや違う。今は原因なんてどうでもいい。
とにかく髪を隠せるものを。そして早く塔に戻らなきゃ。
「大丈夫ですか?」
クレープ屋の男性が心配そうに声をかけてくれた。
無駄だと分かっていながら長い髪を隠すように抱きしめる。
「あの塔に、行きたくて。最短の方法を教えてください。私詳しくなくて」
「最短? 徒歩だと2時間はかかりますね」
大きな塔はあんなにも近くに見えるのに。どのみち間に合わなかった。
男性は布を髪にかけてくれた。
「きれいな布ですので」
「あ、ありがとう、ございます」
気遣いに感謝する。同時に白くなっていく髪に気づかれたのだとわかった。
「急ぎならもっと最短がありますよ……高い所は苦手ですか?」
「いえ……」
いつも高い塔から街を羨んでいるので、特に苦手意識はなかった。
「そうですか」
と男性はどこかに行き、戻ってきた手には箒を持っていた。
それは魔法大学の学生がよく乗っている飛行用の箒で。
普通の人には乗るのが難しいものだった。
「借りてきました」と男性は笑う。
「わ、私、乗れません」
「風の魔法の制御だけは得意なんだ。幼いころから教えてくれた幼馴染がいるので」
男性が箒を手放すと、箒は宙に浮かび安定した。
彼は箒に跨り、家族のようなおだやかな笑みを作る。後ろに乗ってもいいということなのだろう。跨ぐのは少し恥ずかしくて、横座りにした。怒られたら跨ぐことにする。けど男性は特に座り方を指摘しなかった。
「しっかりつかまってて」
箒の飛行は知っていたが、二人乗りは難しいと聞いていた。
茜色の空にぐんぐんと上がっていく。
最初は怖くて彼にしがみついていた。だが、空気の層に守られているらしく、振り落とされるほどの風は感じない。
しがみついているのが恥ずかしくなって、控えめに彼の服のすそを掴んだ。
心に余裕ができると、うつくしい夕日が目に入った。
上から見下ろす街の美しさは見慣れていた。
だけど、空から見る今日の街は、格別だった。
水の都市アクアテラ。都市全体に行きわたる美しい水に斜陽が反射して、きらきらと茜色に光って見える。遠く広がる米と小麦の小金色が風になびいてうつくしい。街からは楽しそうな歌声が響いてきた。でもどこか、祭りの最終日の夜が近づくにつれ、さびしい音楽のようにも聞こえた。
風に流され聞こえないと思ったから大きな声をだす。
「ありがとうございますっ!」
子供の頃のように大きな声を出すのは久しぶりで、気持ちがよかった。
「こちらこそ、いつもありがとう。俺たちがこうして安心して暮らせるのもアリシアのおかげだ」
男性の言葉に、聖女だとばれたのだとわかった。
名前を呼び捨てにされるのは慣れてなくて、彼から伝わる体温にも、この非現実的な状況もあいまって、胸の奥が暴れてしまう。
感謝の言葉に、泣きたいほどうれしいのに涙はでなかった。
うれしくうれしくて、うれし過ぎて、笑ってしまう。
きっと空の広さと、風の心地よさに自由を感じているから。
なぜか、兄のような頼もしい背中に安心してしまったから。
塔の近くで降ろしてもらった。
幸せな休日の終わり。
「その。ありがとうございます! クレープ、すごくすごくおいしかったです。ハンカチも。ここまで送ってくださったことも。本当に、本当にありがとうございます」
男性はうれしそうに笑った。
「そうか。うん。また感想聞かせて」
「あの、クレープ本当においしかったです。お名前、教えてもらっていいですか?」
「ん? あぁ。『花のクレープ屋さん』だ」
本当は男性の名前を聞きたかったのに、店の名前を知りたいと勘違いしたようだ。
頭を下げて感謝を伝える。男性はひかえめに笑顔を見せ、帰っていった。
……。
「今朝、無精ひげの男性が塔に届けてくれましたよ」
ルリから一つの包みをもらった。
『花のクレープ屋さん』
と書かれている。
包みをあけると、花の形をした砂糖菓子だった。
中には小さな手紙が添えられている。
『いつもがんばっているアリシアへ。
試作品。また感想を教えて』
とだけ書かれていた。
「こんなきれいなお菓子……たべられないよ」
笑ってしまう。
ルリがこちらを見て、ニヤニヤとしていた。
珍しい表情に、私は顔が火照るのを感じる。
何もやましいことはない。私は少しいじけて言った。
「……ルリさん、どうしたんですか?」
「いえ、今日は、いい日ですね、アリシア様」
こちらを見透かすような声音だった。
別に恋したわけじゃない。ただうれしかっただけ。
偶然に偶然が重なって、弱っていたところを助けられて、ちょっと心が勘違いしているだけのこと。
「む……様はいりません。アリシアですっ。アリシアと呼んでくれるまで、今日の結界の構築はしませんからっ」
アクアテラを人質にとったわがままにルリは笑った。
「アリシア」ルリが姉のような声音でいった。「休日は、楽しかった?」
答えは決まっていた。
だから家族のように、遠慮なく、私は彼女の胸に飛び込んだ。
「いつもありがとうっ! ルリさんっ!」
ルリに渡した、猫をモチーフにした商品が目に入る。
心の底から願った。
どうか、皆が幸せに暮らせる、平和な世界になりますように。
これこそが私の本当の願いだ。
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