第3話

 アサギに雇われて半年が経った頃、いつものように彼の自室に呼ばれた。


「あっちの仕事だ。縹、瑠璃」


 アサギにそう言われるだけで、俺は全身の血がすう、と冷えていくのを感じた。彼に雇われる前の、いつ死ぬかわからないという諦めにも似た覚悟のようなものがわきあがってくる。


「ターゲットはこの男だ。情報屋によると明日の二十時頃にスマルト通りに現れる」


 アサギは一枚のポラロイド写真を机に置いた。細長い指でトントンと机を叩きながら続ける。


「その機会に殺せるなら殺していい。難しければ追跡してタイミングを図ってくれ。あとは任せるよ。これが資料だ」

「わかった」


 俺が返事をすると、アサギは満足したように立ち上がり、コートを羽織った。


「期待してるよ。縹、瑠璃」


 別の警護の人間を連れて、アサギは部屋から出ていった。扉が閉まる寸前に見せたアサギの顔は、少し笑っていたように見えた。


 夜は好きだ。闇にさえ紛れてしまえば、見つかることはない。俺と瑠璃は無線を共有しながら、別々の場所で待機していた。アサギが残していった資料にはスマルト通りからどこへ移動するかは予測しづらいため、スマルト通りで殺すにしても泳がすにしても、俺と瑠璃、どちらか一方はターゲットの近くにいなければならない。必要最低限の情報を共有しながら、瑠璃はビルの屋上から、俺は近くの別のビルの路地からスマルト通りを監視していた。


 スマルト通りはこの世界中の誰からも忘れ去られたのではないかと思うほど閑散としていて、言うなればいつでも人を殺せそうな道だった。ポツンと佇む街灯だけが、誰も通らない石畳をしずかに照らしている。周囲の建物も廃墟となってしまっているのか、人影はない。今回も簡単な仕事になりそうだと、俺は心のどこかで思っていた。時間を確認すると、もうすぐ二十時というところで、ジ、とかすかに無線機が鳴った。


「縹の斜め左前から人影。男」


 ひそめられた瑠璃の声が耳元で聞こえた。俺はひとつ息を大きく吸い、ビルの影に身を潜めながら瑠璃が言った方角に目をこらす。コツン、コツン、と足音がだんだん大きくなってきた。足音は武人や殺し屋のものでなはく、いたって一般的なものだ。これならナイフで事足りるだろう。音もなく鞘からナイフを抜く。アサギに与えられたナイフの柄は、すでに俺の手に吸いつくように馴染んでいる。間合いに足音が入った瞬間、ビルの影から道に出た。急に路地から出てきて目の前に立ちはだかった俺に驚き、男は足を止めた。


「は、え……?」


 街灯の明かりに照らされた男は、一言で言えばみすぼらしかった。縮れた髪は無造作に伸びており、服も薄汚れ、ところどころほつれていた。靴は穴が空いている。俺は顔を確認した。煤けて汚れ、歯も二、三本抜けているが、資料で見た顔に違いはなかった。


「アーザン・ラズリだな?」


 俺はターゲットを確認するために男に問いかけた。男は背中をまるめたまま、ぎょろぎょろと濁った目を動かす。


「いかにも、それは私の名ですが……」


 しゃがれ声が震えながら肯定したそのとき、俺のナイフがひらめく、はずだった。


「……セレスト?」


 ラズリのその言葉が、俺の手を止めた。セレスト。その名を聞いた瞬間、頭の奥がズキンと痛んだ。その隙に、ラズリは俺の腕をすばやく掴んだ。その力の強さに驚く。俺を舐めるように見つめるラズリの目は、みるみるうちに潤んでいく。


「セレストじゃないか! こんなに大きくなって……。 そうだ、サルビア……。サルビアはどこだ? 一緒じゃないのか?」


 頭痛がおさまらない。俺は思わずナイフを持っていない左手でこめかみを押さえる。どくどくと血液が流れていく音がした。吐き気と一緒に、何かがこみあげてくる。もやがかかっているように、何かが思い出せなかった。この目の前にいる、アーザン・ラズリとは、いったい……。


 ジ、と無線機がつながる。


「縹!」


 耳を突き刺す瑠璃の言葉に、俺は反射的にナイフを薙ぐ。アーザン・ラズリの首から、血飛沫が飛び散った。俺の顔にも温い液体が飛んでくる。思わずラズリの体を突き飛ばした。どさりと崩れ落ちたそのみすぼらしい体のまわりに、血溜まりが広がっていく。勢いで倒れてしまった俺のもとに、瑠璃が駆け寄ってくる。


「縹。大丈夫? どうしたの? 一瞬、ナイフが止まったように見えたけど」


 瑠璃に引き起こされた俺は袖で顔を拭った。こんなに派手に返り血を浴びることは滅多になかった。血のぬるさが気持ち悪い。


「……何でも、ない」


 落としてしまったナイフを拾い、鞘にしまう。瑠璃はラズリの体をためらうことなく触り、「死んでる」と呟いた。


「瑠璃……」


 俺はラズリに掴まれた腕をさすった。熱をもっているような、毒をうけたような感覚だった。瑠璃は、俺に顔を拭くための布を渡す。


「このアーザン・ラズリっていう男、何か知ってるか?」


 俺の問いに、間をあけることなく瑠璃は答えた。


「今回のターゲットでしょう? 待ってて、車を呼んでくる」


 瑠璃の抑揚のない答えに、俺は「そうだよな」と返した。瑠璃が無線で会話している間に、俺はおそるおそるラズリの顔を覗き込んだ。この男の首にナイフを薙いだ瞬間、一瞬見えた銀色の光。血でぐっしょりと濡れた男の襟を掴んで開く。


 そこには、血に濡れたネックレスがあった。瑠璃が首から下げている指環と同じものが、もう動かないラズリの胸の上で鈍く光っていた。



     *



 俺がアサギに「ふたりで話がしたい」と頼んだのは、アーザン・ラズリを殺した三日後のことだった。あいにくその日はアサギに夜の用事があってかなわなかったが、彼が「明後日なら時間がとれるよ」と言ったので、俺はいつもどおりアサギを警護しながらその時を待った。


 二日後の夜、アサギの自室の扉の外に瑠璃を置き、部屋の中で俺はアサギと向かい合った。ゆるりと弧を描く唇が開かれる。


「さあ、縹。人払いはしたよ。瑠璃も同席させないなんて珍しいね。いったい、話ってなんだい?」


 俺は右手の人差し指の付け根をさする。ナイフを握るときに擦れて、その部分だけ皮が分厚く、かたくなっている。呼吸を整えてから、目の前のアサギに投げかける。


「五日前に殺ったアーザン・ラズリという男。いったい何者だ?」


 棘のように、この問いが胸に刺さっていた。ラズリの、俺を見た途端光が宿った瞳が忘れられない。


「何者って? いつもどおり、私の望みを邪魔する人間だよ」

「あのみすぼらしい、裏社会とは縁のなさそうな男が?」


 そもそもアサギに狙われるような男が、あんな殺されるのにうってつけの場所にひとりで現れるわけがない。アサギは眉のひとつも動かさずに、俺の目をじっと見つめている。まるで生きながら脳を解剖されている気分だ。アサギは椅子から立ち上がり、俺のほうへ歩み寄ってくる。わざと革靴の踵を鳴らし、ゆっくりと。それは獲物を追い詰めていく猛獣のようだった。


「ああ。アーザン・ラズリはとてつもなく大きなくさびだったんだ、私にとってね」

「楔?」

「私と君たちとの間に打たれかねない、大きな楔だ」


 どくん、と心臓がはねた。胸は熱いのに、手足がキンと冷えるこの感覚はいつぶりだろう。物心ついた頃から、俺と瑠璃は「養育施設」で教育されてきた。だとしたら、物心つく前の自分と瑠璃は、誰にどのように育てられていたのか。アーザン・ラズリを殺した夜と同じように、頭の奥が痛みだした。


「あの男は……」


 喉は渇ききっていた。目の前に立ちはだかるアサギに向かって、絞り出すように声を出す。


「アーザン・ラズリは、俺と瑠璃の父親だったんじゃないのか」


 部屋のなかの空気がひりついた。肌の産毛がそば立つ。アーザン・ラズリの首にかけられていたネックレスの指環の内側には、「F to A」と刻まれていた。そして瑠璃が持つ指環には、「A to F」の文字があることを俺は知っている。アサギは、俺と瑠璃にわざわざ父親を殺させたのか? アサギの返事を待っていると、彼の口から、ふ、と笑いが漏れた。


「なんだ、知ってたのかい?」


 ゴミのように放り投げられた言葉が、俺の足元に転がった。アサギは溜め息をついたあと、俺に人工的な笑顔を向ける。


「知ってたというより、気付いたのか。さすが縹だね。そのとおり、アーザン・ラズリは君たちの父親さ。もちろん、施設で記憶を操作された君たちは何も覚えていないだろうけどね」


 親というものを、俺も瑠璃も単なる知識としてしか知らない。「養育施設」で教えられたのは、普通の環境で育った人間にとって親というものは、何ものにも代え難いものだということだ。自分を無条件で愛してくれる、唯一の存在。「親にさえ売られたおまえたちは、誰にも愛されていないのさ」というのが、施設にいる大人たちの口癖だった。でもアーザン・ラズリは、俺を煙たがる様子はまったくなかった。それどころか彼の口ぶりは、まるで俺たちがいつのまにか失踪してしまっていたと言いたげだった。


 もしかして俺たちは、親に捨てられたわけではなくて、施設の人間にーー。


「縹」


 アサギの低めいた声に、体がぎゅ、っと動かなくなった。アサギに名を呼ばれると、自分のなかの感情の波は瞬く間に引き、殺し屋としての自分に支配される。彼の暗く深い瞳の中へ足を滑らせて、どこまでもどこまでも沈んでいってしまいそうになる。


「私はいつしか君に伝えたね。私には望みがある、と」


 突然、アサギは俺のシャツの首元を掴み、ぐいと引き寄せた。俺は右腿に提げているナイフに手が伸びそうになるのを必死で抑える。鼻と鼻が触れ合いそうになるまで顔を寄せたアサギは、口角を嫌というほど引き上げて笑った。


「私の望みはね。〝ボス〟と呼ばれる私自身の父を殺すことさ。私の母をゴミのように捨てた、ただ金と血が好きなだけのあのクソ野郎をね」


 この細腕にこれまで力をこめられたのを見るのは初めてだった。ふりほどこうと思えば、簡単にできる。でも、俺はアサギに呪われてしまったのか、体はひとつも動かない。


「あの男はこの世界の〝王〟だ。殺したいからって、この世界の人間ですら誰も手を貸してやくれない。だから、君たちを買った。私の言うことを絶対に聞く、私だけの殺し屋。君たちは私の期待に大いに応えてくれた。同時に怖くなった。私のもとを離れていってしまったらどうしよう、私の望みは叶えられないじゃないか、ってね」


 心臓の音がうるさい。自分で自分の息が震えているのがわかった。


「君たちが持っているあの指環を調べさせてもらったよ。記憶はないはずなのに、唯一の家族の手がかりだからきっと無意識に大切にしていたんだね。だから、君たちには本当の家族を殺してもらうことにした。そうすれば、君たちに帰る場所は無くなる。私のそばにいて、私の望みを叶えてくれるはずだ。そうだろう? 縹」


 アサギはその薄い唇で俺の口を塞いだ。途端、熱にも似た痛みが走り、口の中にじんわりと温い何かが広がっていく。鉄の味がした。


「これは〝命令〟だよ、縹。これからも瑠璃とともに私のそばにいて、私の望みを叶えてくれ」


 アサギの口端には血がついていた。砂地に水が染み渡っていくように、俺の全身はアサギの言葉に侵されていく。ああ、アサギの異常さに気が狂いそうなのに、アサギに名前をもらってから、この男には抗えない。


「……わかったよ、アサギ」


 俺はそっと冷たいナイフの柄を握る。心が凪いでいく。ああ、俺はもう、こうして生きていくことしかできない。

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