第2話

 カーテンの隙間から、朝焼けの光が漏れ入ってくる。


「瑠璃、起きろ」


 隣で眠る瑠璃の体を揺り動かすと、彼女はしずかに目を覚ました。首につけられたネックレスが、ちゃり、と小さな音をたてる。瑠璃はその存在を確かめるように、チェーンの先の指環に触れた。


「時間だ。行くぞ」


 彼女は無言で頷き、ベッドから降りる。俺は軽くシャワーを浴びてから、クロゼットに並んだ皺ひとつないシャツに袖を通した。スラックスの穴にベルトを通し、腰にシースナイフを提げてから上着を羽織る。



 俺らがアサギに買われたあの日、連れてこられたのは郊外にあるアサギの屋敷だった。はじめに案内されたのは、アサギの自室の隣の部屋だ。


「もともと使用人が使っていたんだが、今は空き部屋でね。質素だが複数人で使える大きさだから、ふたりなら十分だろう。朝五時に、私の部屋の前で待機。朝六時から一緒に朝食を。日中は私に付き従うように。世間には、君たちは私の警護担当となってるからね」


 彼が説明している間も、瑠璃は部屋に見惚れていた。無理もない。俺らはその日の朝まで、薄暗い檻のなかで暮らしていたのだ。毎日毎日、一歩間違えれば殺されかねない状況の中で訓練を重ね、食事は一日二回。パンにカビが生えていることもあった。それなのに、今日はまったく違う世界にいる。少なくともまだ、アサギには唾を吐きかけられたり、殴られたり、怒号を浴びせられたりしていない。


「もちろん、〝本業〟もこなしてもらうよ。必要なものがあれば言ってくれ。すぐに揃えるよ」


 アサギは目を細めて微笑む。俺はそれが計算されて作られた笑顔であるとわかっている。


「じゃあ、シースナイフを。俺と瑠璃、一本ずつ」

「メーカーや型の希望は?」

「ない。ベルトで体のどこかに提げられれば、あとは自分たちで使いこなすから」


 アサギは「了解」と呟くやいなや、どこかに電話をかけた。通話を終えると、「明日には届くから」と言い、「さあ、もう疲れたろう。今日はもうおやすみ。明日からよろしく頼むよ」と部屋を出ていった。俺と瑠璃は、清潔なシーツがかけられた大きなベッドをしばらく立ったまま見つめていた。慣れない環境でなんとか眠りにつく。翌朝には、部屋の前に箱に入ったシースナイフが届けられていた。



     *



「さあ、今日はボスへの定例報告だ。いくぞ。縹、瑠璃」


 アサギの仕事はよくわからない。裏の世界の仕事だということ以外にわかるのは、アサギはとてつもなく力を持った男だということだ。行く先々で、大人たちはこの華奢で美しいスーツを着た男に頭を下げる。なんとかして恩恵を受けようと媚びへつらう者、彼を崇拝し盲信して従う者、妬み憎む者、邪魔をする者。多くの人間から注視されるのが彼だった。


 しかしそんな彼にも上司はいるようで、それが「ボス」と呼ばれる男だった。あとで使用人に聞いたら、アサギはボスの愛人の息子らしい。ふたりは親子とは思えないほど淡々とした会話で定例報告が終わる。他の現場も似たようなもので、アサギは誰かと会って話をすることが多いが、時には何かを納品し、時には大金が支払われた。警護の仕事はほとんどアサギの後ろに付き従うだけで終わるので、それほど難しくなかった。彼自身が、慎重さがスーツを着ているような男だったことも、警護が難しくない理由のひとつだった。行きと帰りで決して同じ道を通らない。部下は信頼できる数名しか雇わない。仕事以外は家から一歩も出ない。千の人間から恨まれ、百の人間から殺したがられているのだということを、アサギ自身がいちばん自覚していた。


「私はまだ死にたくなくてね」


 アサギはいつしか、俺にそう話したことがある。俺が瑠璃よりも寡黙だからか、時折アサギは独り言のように話し出すことが多かった。


「だから殺される前に殺すことにしているんだ。そのために、君たちを買った」


 そう語る彼の瞳は、まるで銃筒の奥底のように恐ろしく、暗く、深かった。めずらしく、俺はアサギに尋ねてみた。


「アサギはなぜそんなに生きたいんだ?」


 この世界では、いつも死と隣り合わせだ。俺だって、死にたいわけじゃない。でも、生きていたいからナイフを握る、というわけではない。俺はただ、これしか知らないだけなのだ。アサギは違う。いろんな世界を見、いろんな人と会ってきたはずだ。そんなアサギは、何のために生きているのだろうとふと思ったのだった。


「『望み』があるからだよ、縹」


 望み? アサギの言うことは難しくてよくわからない。俺は右足に提げたナイフにそっと触れた。冷たい柄が、震えているように思えた。


 警護の仕事だけでなく、〝本業〟をこなす回数もだんだんと増えていった。標的はひとりのときも複数人のときもあったが、たいてい夜だった。暗い檻に入れられていた俺らは夜目がきく。一見武器の持たない十五歳くらいの兄妹という俺らは、油断をさそうのに適していた。本業をこなした日は特に、アサギの声が弾んだ。「よくやった」と俺は肩を叩かれ、瑠璃は頭を撫でられる。瑠璃はアサギの細い手を、くすぐったそうに、すこし恥ずかしそうに受け入れていた。そしてまた朝を迎える。よく干された乾いたシーツに身をくるみながら目が覚める朝は、とても気に入っている。



     *



 十九回目の殺しの仕事も簡単だった。多少の武装はしたが、どれも扱い慣れた小銃やナイフだったので、呼吸をするように仕事ができた。最後に生き残った男の首にめがけて、俺はナイフを薙いだ。男は血が噴き出す首をあわてて押さえて俺を睨みつける。


「おまえら……〝ブルー・ブラッド〟の差金……か……」


 そう言い放つと、男は口からごぷりと血を吐いて絶命した。俺は男の血がついたナイフを男のネクタイで拭く。


「〝ブルー・ブラッド〟……?」


 はじめて聞く単語だった。俺は血に塗れたネクタイを投げ捨てあたりを見回す。八人いた大人は誰も息をしていない。鉄の匂いが充満する部屋の扉が開いた。


「縹。終わった?」


 現れたのは瑠璃だった。服のあちこちに血が飛び散っているが、彼女が怪我をしている様子はない。俺は右足に提げている鞘にナイフを納める。


「ああ、そっちも終わったんだな」


 瑠璃がすでに左足にナイフを提げているということは、別室にいた対象者もみな死んでいるはずだ。


「行こう。アサギがポイントD4で待ってる」


 彼女は踵を返し、部屋を出ていく。ブルー・ブラッド。妙に口に馴染むその言葉をひとり呟きながら、俺は瑠璃の後ろをついていった。



     *



「ああ、それは私のことだよ。縹」


 アサギの居室はいつも薄暗い。眩しいのが苦手なようで、天井の照明を点けることはほとんどなく、デスクの上にある白熱灯だけが橙色の光を放っている。暗闇で育てられた俺らにとってはありがたかった。


 自分たちの部屋で返り血を落とし、任務完了の報告をしているときだった。俺は「ブルー・ブラッド」という言葉を思い出し、アサギに尋ねたのだった。


「世間にはね、私のことを『青い血が流れているに違いない』とわらう人間がいるのさ」

「なぜ?」


 瑠璃が尋ねると、アサギは机の上の書類に万年筆を走らせる。


「私は極悪非道な人間らしくてね。普通の人間の血は赤いけれど、とてもそうとは思えない。きっとアサギは人間ではなくて、青い血が流れている悪魔なんじゃないか、ということらしい」


 アサギの笑い声は乾いている。


「アサギの血は赤いの? 青いの?」


 瑠璃の声がしずかに部屋に響く。


「ははは、どうかな。私が死ぬときに、ふたりで確かめるといいよ」

「そのとき、たぶん私たちはもう死んでる」


 瑠璃の言葉に、「確かに」と頷きながらアサギは椅子から立ち上がった。仕事が片付いたのだろう。アサギは羽織っていたガウンを翻し、居室のさらに奥にある扉を開く。


「もう寝るよ。おやすみ。縹、瑠璃」


 アサギが寝室の奥に消えていくのを見送ってから、俺らは防護壁で何重にも囲まれたその部屋を後にした。

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