夜に向かう



 その音を例えるなら、『ボーリングの球同士がぶつかった』ような硬い音だ。

 想像してみてほしい。

 人を殴った時に、ボーリングの球同士をぶつけ合わせたような硬い音がするということの惨たらしさを。

 かなりの勢いで殴ってしまった、もしくは、当たりところがだいぶ悪かったと想定できる。


 自身の血液で目を開けることができなくなった男の顔を、思い切り蹴りあげる。ミシリと骨が軋む感覚がやんわり伝わってきた。

 男は仰け反りながら、握りしめた拳を力なく振るう。が、仰け反りながら仰向けに倒れてしまった。戦闘意欲だけはいっちょ前のようだ。



「シキミ」

「ん?」

「……もしかしてそれ……殺してもうた?」

「いいや。生きてる。こいつの額が切れただけだ。」

「おお、よかった」



 コンクリートに横たわる大男を見つめる。さっきまであんなにも憎悪で満ちた目でこちらを覗き込み、たてがみのように髪を逆立てながら取っ組み合いをしていたとは思えないほどに呆気なく寝転がっている。

 トルクレンチで殴ったことにより、彼の額は割れ、大量の出血をしている。顔が自身の血液で真っ赤になっているのが遠目でもわかった。

 そんな有様を見て、一歩間違えれば俺がやっていることはヤクザだと、蓮仏さんが言っていた気がしたのを思い出した。

 確かに、トルクレンチで人を殴るのは警察官として倫理が問われるのかもしれない。

 しかし、歩く公害のような犯罪者達を殴って叩いて連行する。その事がどれほど社会のためになるのか。天秤にかけた時、答えは明白になるだろう。


「神宮寺さんになんか言われるかもしれへんな」

「いや、言われないだろ」

「えー?なんで断言出来るんや」

「あの人は、結果だけを見る。勿論建前としてなにか言ってくるかもしれないが……蓮仏さんよりマシだろ」

「たしかになぁ」


 そうだ。この世は結果が全てなのだ。

 

 男を殴ったトルクレンチを軽く振るう。べっとりと付着した赤黒い血の飛沫が、コンクリートに付着した。それを尻目に、神宮寺さんへの連絡をいれる。


『何かあった?』

「任務が一段落しました。これから荷の方をもっていきます」

『そっか。ご苦労様』

「はい。では失礼します」


 神宮寺さんと簡素なやり取りを終えた後、通話を切る。

 相良の方をみやれば、手錠をかけ、車内に気絶した男を運んでいた。

 男の脚を折りたたみ、縛り上げるのを手伝う形で相良と正面に向かい合う。気絶してる人間、しかも大男にもなると運ぶには一苦労した。

 しばらくして、なんとか押し込みドアをしめた。


「オレら、ほんまもんのヤクザみたいやな」

「似て非なるものだろ」


 

 あの日は、

 13年前の6月だった。

 冷夏なんて言葉はとうに死滅したような暑さだった。


 

「なあシキミって、なんのために警察やっとるん」

「何だ急に」

 

 幸せとは、

 世界が見せる一時の幻なのかもしれない。

 そんなふうに思った。

 その幻を追いかけた者は、決して助からない。安らぎと苦痛からの解放を求めたあげく滅ぶ、ジャンキーのようだ。

 

「ええから答えてーな」

「……自分のためだな」

「そんなんわかっとんねん!なにを目標にして警察、もとい神宮寺さんの所にきたっちゅー話や」

「……んー……そうだな」


 あの時期は、班のみんなと一緒に任務をすることが楽しかった。

 皆でひとつの事を成し遂げる。自分が苦手だと思っていたことだった。でも、公安部に移ってからは、楽しめるようになっていた。

 少なくとも、組対時代に比べれば、”たのしい”と思えたのは確かだった。

 

「…………」

「神宮寺さんに着いていけば、自分が目指すものに少しでも近づけるって感じたから、かな」


 目指すものがあるのは嘘ではない。

 でも、警察を続けている理由はそれだけじゃない。

 

「その目指すものってなんなんや?」

「……言いたくない」



 ダサいと思った。

 皆と、任務をこなすことが、

 たのしいから、なんて。


「…………さよか」


 今、警察官として生き続ける一番の理由が、そんなものなんて。


「……行こう、相良」




 そう呼びかけたが、

 後ろにいた相良からは、返事が聞こえなかった。


 










 *

 






 

 



 スマートフォンのバイブ音で目が覚めた。

 枕元からスマホを取り上げながら眠気眼をこらす。

 液晶画面に表示された名前を確認した途端、眠気などは瞬時に飛んで行った。


「もしもし」

『おはようございます。お休み中にすみません』

「いえいえ!大丈夫ですよ」

 

 電話の相手は本郷博だった。偽りの身分で所属をしている弁護士事務所の上司。

 応答をしつつ、目覚まし時計に視線を寄越すと、午前6時過ぎを指していた。


「それで、ご要件は」

『ご依頼です。あなた指名で、なにやら、お急ぎの』


 本郷は言葉を選んでいるようだった。

 若干のまごつきのようなものが感じられる。どうやら、只事ではなさそうだった。


「……なるほど、そうでしたか。詳細は伺っていらっしゃいますか?」

『いえ。それが全く。本日の12時に事務所の相談室でお話がしたいということしか連絡がなくて』

「わかりました。時間前にはそちらに伺います。朝早くからありがとうございました」


 通話を切ったスマートフォンをベッドに沈めた。

 寝起きに電話を貰うことなんて珍しくはない。しかし、未だに慣れない。明るい声で応答することが難しく感じる。

 枕の下に潜ませているマイナスドライバーを書き物机の引き出しにしまう。


 カラリ、と乾いた音が響いた。



 








 *



 









「よっ。元気してるか?」

「…………」


 それなりに腹を括ってきたつもりだったが、予想外な訪問人の姿に思わず言葉を失った。というか、こんなところにアンタがいていいのか?という懸念が大きかったようにも思える。

 福耳とホクロ、鈍色の紫が特徴的なその人は、随分陽気な笑みを湛えていた。

 しかし大きく異なったのは、服装だった。身なりは安物かつボロい印象が与えられるインナーとブルゾン。テーブルには埃っぽいニット帽が置かれている。後ろの棚には松葉杖が立てかけられていたが、彼は悠々と足を組んで大層健全そうにしている。


 なるほど、こんなところに来るのだから、それ相応の変装をして来たのだろうと思案した。

 彼は、本物の警察関係者なのだから。

 

「まあ座れよ」

「あの、どちらさまでしょうか」


 着席せずそう続ける。

 閑散とした相談室に、俺の声はよく響いた。

 相手の出方を伺う。全てを疑わなければ、何があるかはわからない。

 

「警戒心と初心を忘れないのはいい事だな。でも今は急ぎだ。まどろっこしいのは無しにしよう」

「……念の為、お名前とご職業の確認をしないと」

「蓮仏。蓮仏尊。警視庁警務部の監察官だ。元公安部特殊捜査課所属のな。ほら、もういいだろ」

「……そうですね」

「さっそくだが、俺がここに来た理由に心当たりはあるか?」

「一点だけあります」

「聞かせてもらおうか」

 

 椅子をひき、ようやく座る。

 面接のような、緊張感。

 取り調べのような、圧迫感。

 それでもまるで、悩み事を先輩に打ち明けるような感覚もあった。つくづくこの人は不思議な雰囲気がある。

 

「つい最近、神宮寺さんからの連絡が途絶えました」

「それで」

「だからきっと、行方が分からなくなっているのではないかと。そして、神宮寺さんの行方についての調査のため貴方はここに来た。違いますか?」

「そうだ、合ってる」

 

 蓮仏さんは少しだけ顔をあげた。それに伴って、パイプ椅子が軋む音が響く。

 LEDの白い光があたった蓮仏さんの顔は、少しだけやつれていた。

 

「もしや、僕が疑われているんでしょうか」

「いや。そうじゃない」

「では何故こちらに」

「まあ、簡単に言っちまえば……相良絡みだから、だな」

「……なるほど」


 自分が疑われているからここに来たのか、それとも自分自身か、自分の仕事内容に関わるから来たのか。いずれかのものではあると予想はしていたが、後者ふたつだとは思わなかった。

 自分の周りの重力だけが重たくなる。


「相良は見つかったのか?」

「該当すると思われる人物は一名、いましたが……」

「確証がない?」

「はい。DNA鑑定をしてもらうように神宮寺さんにお願いしていたんですが、結果がまだで」

「それを渡したら神宮寺がいなくなったと」

「ええ。明日には結果を送るという旨を聞いたのが最後です」

「証拠品はどこで、どうやって渡したんだ?」

「内通者を経由して渡しました。場所もとある店の個室に指定されています」

「この店であっているか?」


 蓮仏さんはスマホで画像を何枚か提示してくる。

 その中に、監視カメラの映像の一部と思われるものが見えた。

 

「……そうです。監視カメラ、もう調べてたんですね」

「ああ」

「映像はフェイクなどではなかったですか?」

「大丈夫。ちゃんとしたホンモノだった」

「……あの。ひとついいですか?」

「内通者のことだろ?」

「あ、はい。そうです」

「こっちで保護してある。……って言っても、俺が引っ張りだしてるだけだから、24時間安全とは少し言い難いな」

「……本当に、なんでここにいらしたんですか?」

「神宮寺が、潜入捜査官の連絡役を未だに担当してるなんて知らなかったからな。まあだから、ちゃんとお前を繋げられるように会いに来た。潜入捜査官にパイプ役兼サポート役がいないと困るだろ?それから、事実確認と裏取り、あとは……頼み事だな」

「頼み事、ですか」

 

 蓮仏さんは憂鬱そうに「ああ」と言った。

 その顔を見るに、若干やつれていたのはこの『頼み事』とやらが原因なのかもしれない。

 なんだか喉が渇いてきた。

 

「頼み事とは、なんでしょうか」


 恐らく、蓮仏さんにとって一番の難題と思われる話にメスを入れる。

 メスをいれられた蓮仏さんは、困ったように視線を下に落とした。

 駄々をこねるように、彼の視線がさ迷う。

 この人は昔から感情的だ。仲間内なら尚更顔に出る。冷徹であることが、できない。いや、冷徹に振る舞うことに、疲れてしまったのかもしれない。

 だから、とても嫌な予感がした。







 


 

 


「許可が、降りたらしい。法治国家として、あるまじき許可がさ。」



 ああ、予感が的中した。


 的中してしまった。







 




 




 *





 

 




 



「あいつの動きは?」

「午後からこっちでシステムチェックするから、その流れで昼過ぎに会う。確認してもらいたい書類があると声をかけておいた」

「昨日、事務所に一度戻ってたみたいだけど」

「手続きでもしてたんやろ」

「そう?このタイミング的に、警察関係者が接触してたんじゃないの」

「潜入捜査は、内々に済まされる。特に個人でのやつは当人と、その上司くらいしか把握してる人はおらん。仮に誰かに話してたとしても、神宮寺さんにはそんな人望はもうない。出入りしたやつでも見たんか?」

「いや。見てないよ」

「じゃあ、思い違いやろ。」

「蓮仏さんは生きてるじゃん」

「あの人は監察官になったらしいな。捜査権限なんてもうないし、動けたとて焼け石に水程度の話や」

「潜入捜査の話をしてなくてもさ、あの人がいなくなって騒ぐ警察官はいると思うよ。神宮寺さん、外ヅラだけは良かったから尊敬されてたみたいだし」

「騒いでも、アンダーカバーくんがSOS出さない限りしっぽ掴めへんで」

「そうかなあ」

「……今日はやけにつっかかるな」

「そりゃ、警戒するでしょう?」

「まあ、せやな。」




「だって、ワシらが会いにいくんは、あのシキミなんやからな」




 







 *





 









 これは罠であり、餌である。そう思う。

 相良が本当に潜入捜査官を殲滅したかったのなら、枝葉のような人間である俺はもうきられているはずだ。

 あの事務所内に何かしらをしかけておいたり、はたまた本郷博を買収したり……。やれることは数多くある。

 だと言うのに俺はまだ切られてない。それどころか、恐ろしい程に平穏な日常を過ごしている。

 それが意味することは、きっと彼らにとっての舞台に招かれているに違いなかった。ネズミを捕らえるためだけに待ち伏せ?見せしめにするため?それとも、何か交渉でもしようというのか?考えても狙いがわからない。が、全てに警戒を怠ってはならないことだけはよく分かった。

 

 神宮寺さんと連絡が取れなくなって数日が経つ。

 

 相良に大きな動きはない。変わったこともない。少なくとも、見てくれだけは。


 ひとつ大きく深呼吸をしながら、蓮仏さんの言葉を思い出す。

 


 

 ――お前に殺人の許可が出た。

 ――……殺人の、許可……?

 ――そうだ。死体は、事故死として内々に処理をしてくれるそうだ。

 ――あははは。簡単に言ってくれますね。そんな上手くいくんですか?

 ――13年も行方を晦ましてた奴だ。上層部も、いい加減この追いかけっこにケリをつけたんだろう。

 ――待ってくださいよ、上層部の皆さんは俺に警察官として死ねって言っているんですか?ちょっと頭が追いつかないな。

 ――そう聞こえるよな。俺も、こんな……。なんで……。

 ――…………取り敢えず、詳細を話してください。





 


 


 警察側は、まとめてゴミを処理しようとしているのではないだろうか。

 13年前のあれは、神宮寺さんが全て悪かったわけじゃない。勿論日頃の教育は、班員を危険因子に仕立てるには十分だったんだろう。昔の自分たちをそう客観視した。

 でも、13年前のあれは相良自身の決断だ。犯罪者の肩を持つ訳では無いが、相良の決断に神宮寺さんは関係ない。

 そんな神宮寺さんは監督責任不行き届きという名の汚名で犯罪者諸共葬り去られようとしている。

 俺が助けられれば、それも食い止めることができる。

 

「……勘弁してくれ」


 ため息と共にそんな言葉が出てくる。誰にも聞こえないそんな呟きは、空気中に溶けていった。

 素直に言うならば、助けられる希望はほとんど無いに等しい。

 蓮仏さん、もとい命令を下した上層部は兵隊を用意してくれたわけでもない。


 そう、上は、俺1人で特攻してこいと言っているのだ。


 とどのつまり、上層部は元神宮寺班全員をここで殺そうとしている。

 そうとしか思えなかった。


 蓮仏さんは、俺に『死ね』という文言、それを代弁させられにきたのだ。

 あの人のことだから、意味をすぐに悟り、どうしたらいいのかずっと悩んでいたのだろう。



 爪が手の肉に食い込む。いつの間にかぎゅう、っと拳を握っていたようだった。



 死ぬか、生きるか。それは俺の実力による。

 但し、生きて帰ってこれたとて、戸籍を元に戻して貰えない限りはただの殺人犯に成り下がるかもしれない。

 いや、戻されても殺人犯になるかもしれない。もう二度と警察官になんてなれないかもしれない。警察官に復帰できたとて、永遠に監視下のもとでデスクワークに励まされる。そうして墓場まで口をつぐまなければならくなるかもしれない。そんな懸念は無限に湧き出てくる。

 そもそも日常を送ることさえ困難になるかもしれない。何せ、顔や声、仕草などは既に構成員たちに覚えられているにちがいないのだ。


 陰鬱な未来へ思いを馳せながら、いつも使用しているビジネスバックに荷物を詰める。それから金庫をあけ、できたらもう使いたくなかった小型拳銃と、伸縮式の特殊警棒、それからいくつかのベルトホルスターを手に取る。『水卜泉吹』と『樒歩』に配られた拳銃の弾もまとめて小袋にいれた。

 金庫を開けていると不思議な気持ちになる。何者でもありながら、何者でも無いような変な感覚。『顧問弁護士の三浦一颯』にも、『公安警察の水卜泉吹』にも、それから、『13年前に死んだことになっている樒歩』にも戻れる気がする。


 この家にはもう帰れないかもしれなかった。それでもいい。それで困る人なんていない。いたとしても、些細な問題なのだろう。そんなんだから潜入捜査官を任されるし、人殺しになれと言われるのだから。

 金庫の中にふせて置いた写真をひっくり返す。

 写真には、幸せそうに笑う相良と、はにかんでいる榊と、無表情の昔の自分と、それから恥ずかしそうに笑う愛花がいた。今よりちょっと若い神宮寺さんも横にいる。彼もカメラに微笑をくれていた。

 暫く眺めてから、シュレッダーにかける。警察手帳も紙くずにした。

 さっきまでは写真だったバラバラの紙くずを見ていると、頭がクリアになっていく。

 

 自分の身体が、鉄の塊に変化していく気がした。



「……じゃあな」



 過去の思い出に対してなのか、

 相良達に対してなのか、

 今まで偽ってきた自分たちへなのか、

 この家に対してなのか。

 

 わからなかったが、口から反射的にその言葉が飛び出した。

 それから、会社に向かうために自室を出た。





 




 







 



 


 タクシーで先方の会社に向かう。

 先方とは無論、相良が所属している会社だ。

 今日の午後は税理士と現場を取り持つ社員と共にシステムの確認を行う。

 ビジネスバックから資料を取り出す。内容の確認といきたい所だが、中々頭に入らない。文字がまるで絵のように見えてくる。情報をすくうことができない。

 嫌でも思考を遮るのは相良たちの同行だった。ヤクザの世界には証拠物品はいらない。しかしながら、空振りをすればきっとそれ相応の対価は払わなければいけない。

 だから、相良が最初から踏み切るとは思えない。

 念の為製薬会社の方の地図も頭には叩き込んでおいたが、いざ戦闘になったとき逃げ込めるのはどこか、外への非常口はどこか、などもきちんとこの目で見ておきたかった。

 あとの懸念点は――あの2人。

 洸希と優希の2人だ。

 なぜあの子達がこの会社にいるのか?齢もたしかに良い歳ではあるものの、2人揃って、俺が目に届く範囲に置かれている。洸希は会社のどこの部に配備されていたのかは分からないが、少なくとも優希は共に事務作業をするような立場になっていた。

 それでも2人仲良くお喋りしているのを会社内で何度も見かけた。

 相良はきっと、分かってて雇っている。そうとしか思えなかった。

 そうなると、早めにあの2人を逃がす算段をつけなければいけない。


 これからのことをゴチャゴチャと考えている合間に、タクシーは目的地に着いていた。


 ピッタリの金額を支払い、タクシーから降りる。時刻は3時15分。予定の20分前に着いた。早めに入って中を確かめることも出来そうだ。

 ビル街の少し奥まった所にその製薬会社の本拠地はあった。会社自体はやはり何の変哲もない。外側からガラス戸が見える。特殊な探知機のようなものは見当たらなかった。このまま進んで問題は無さそうだ。

 自動ドアをくぐり、受付まで歩いていく。


「こんにちは」

「こんにちは。御用件の方伺います」

「15時45分に鏑木さんと打ち合わせがあるのですが」

「かしこまりました。お名前頂戴してもよろしいでしょうか」

「三浦一颯です」

「ミウラさんですね。……はい、確認がとれました。ご予定より少々お時間ございますので、401号室の会議室でお待ち下さい。時間になりましたら鏑木が迎えにいきます」

「わかりました。ありがとうございます」


 右方面に曲がり、エレベーターの方に歩いていく。

 エレベーターは5階にいた。暫く待つだろう。


「こんにちは、ミウラさん」

「……サナダさん。どうもお久しぶりです」


 何故ここに、というのが顔に出そうになったが、この場所は真田が転がり込んでいる会社でもある。何も不思議がることはなかった。

 しかし、このタイミングで声をかけてくることにかなり不可解さを覚える。


「久しぶりに貴方の顔見ましたよ」

「あはは。プロジェクトの方も最終局面になりましたから、顔を合わせる機会も必然的に減ってしまいましたね」

「もー、これからもコンサル業同士仲良くしたいのになー」


 真田は、ヘラヘラとした笑みを湛えながら身体を寄せてきた。親しげに肩を叩く。

 そして、耳元でこう囁いた。

 

「打ち合わせが終わったら、真っ直ぐ帰れよ」


 一瞬息が詰まりそうになるが、すぐに頭をはたらかせて応える。

 

「無理な話だ。やることがある」

「今日は動くな」

「何故」

「いいからオレの言うこと聞いとけ」

「……お前が打ち合わせの日時と場所指定したんだよな」

「……ああ。それが?」

「なのにおかしくないか。お前、今日の夜に何するつもりだ?」

「何事も緊急事態ってのがあるだろ。とにかく、怪しい動きしない方が身のためだぞ」


 チン、という音と共にエレベーターが到着した。

 真田と共に乗り込み、4階のボタンを押す。

 エレベーター内には沈黙が降りてきた。


 真田の言葉を反芻し、吟味する。

 彼の言葉を素直に受け取れば、詳しく話せない理由で俺に警告を出してくれたということなのだろう。

 しかし、そんなに単純なのか?

 ここ最近の真田は様子がおかしい。回答も具体性が欠くものが多かったり、なにかおかしな眼差しも向ける。

 榊だった時は、潜入捜査自体したことがなかったはず。取り調べや聞き込みはそつなくこなしていたものの、身分を偽るこの捜査だけはしていなかった。

 だから、不慣れゆえの”おかしさ”なのだろうか?

 そんな穏健な気持ちに対して、疑念も湧いてくる。

 彼がターゲットとしているのはあの相良だ。

 

 そこで頭にひとつ、最悪な想定があがる。

 

 呼吸が一瞬浅くなった。

 かぶりを振りそうになる。

 

 ……そんな馬鹿なことあって欲しくない。真田に限って――榊に限って、そんなこと。しかし、考えれば考えるほどその可能性を否定できなくなってきた。もがけばもがくほど沈む底なし沼のようだった。

 そんな焦燥も相まって、洸希と優希の顔がチラつく。

 危機感を匂わせておいて、洸希と優希の元へ誘導しようとしているのか?

 そうじゃないとしても、2人の身に危険があったらと思うと気が気ではなかった。真田が言っていることがもし本当なら、あの2人がなにか危ない目に合う可能性がだってありうるのだから。

 

 チン、という音が静かなエレベーター内に再び響く。


「お先にどうぞ」


 ボタンのそばにいた真田はにこやかに微笑んでいる。彼はジェスチャーでも『どうぞ』と呼びかけた。


「ああ、どうも」


 そう言いながら一笑する。

 自分の目が笑ってたかは分からなかった。






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