墓の前を歩く者たち
しかたないことだと しっている。
だって、自分がそうなるようにえらんできたから。
「……ーッ!……」
にがい あじでも がまんする。
くすりとは、苦ければ苦い程よいものらしい。
そう言いながら錠剤を飲み下す姉の顔は、へのへのもへじみたいにバラバラに歪んでた。福笑いのように、顔のパーツがしっちゃかめっちゃか。それに倣って、口の中にある何かを俺も嚥下した。
――あれ?俺と姉に持病なんかあったけ?
「あゆっ……む……!おき…っ……ぁ”………」
ただ、本当のことが思い出せなくなってきているんだ。悪い夢の中を永遠に歩いている気さえする。でも、鼻がもげそうなほどに強烈な鉄臭さとか、冷たいコンクリートの床が、現実だぞって話しかけてて。
「おーおー、まだ起きひんか」
でもいまさら、昔のことなんて考えることでもない気がしているから、
かんがえることをやめた自分がいる。
「……がっ……は……はあ……」
いい加減?そうかもしれない。でも、もう疲れた。放っておいて欲しい。
1人でいい。
1人がいい。
「なあシキミ。こないボロボロになってしもて……もう、楽になりたいか?ん?てか、お前って死にたいとか思うんか?」
その答えはNOだ。いつもの俺なら。
でも、今は……そっちの方がマシかもしれない――そう思ってしまう。とてつもない苦しみから解き放ってくれる"死"というものに、魅了されている。途方もない希死念慮に吸い込まれている、危険である、そう知覚できても、はやくあの世に連れて行って欲しいと願う思いは止まらない。
でも、それは思うだけ。
思って、終わり。
「――アンダーカバー大先輩からの餞別やで。ほら、もう一眠りしいや」
あの大嫌いな相良國春の耳障りな声は、今日に限って、やけに心地が良かった。
信じていた物に裏切られた経験はあるだろうか。
いや、裏切られたというより、こちらが見ていたものの正体が、想像もできない嫌悪感で満ちていた塊だったことを知るような経験――の方が近いかもしれない。
俺には6つ上の兄と5つ上の姉がいた。2人とも血は繋がっていない。母親の再婚で兄と姉になったからだ。血は繋がっていないけど、2人とも目の色が俺と同じ赤色で、本物の兄弟みたいで嬉しかった。後は髪色さえ同じだったら、と何度も思った。兄と姉の髪の毛は綺麗な白髪。雪のように真っ白で、さらさらだった。俺も2人と同じ髪色になりたいってずっとごねたけど、2人に「綺麗な赤髪やね」って褒められるのがうれしかったから、いつしかそんなわがままも言わなくなったのをよく覚えている。
歳も離れていたからこそ、2人は俺を可愛がってくれていた。兄は野球少年で、よく俺とキャッチボールをしてくれたし、なんでも貸してくれる。挙句にはお下がりだってしてくれた。だから、小学生の頃では友達の中でも鼻が高かった。小学生なんて、道具を揃えている奴がかっこよく見える。しかも、中学生の兄からのものなんて。齢8つの小学生からすれば、中学生とは十分に大人。カッコイイし、怖いとも思う。
姉は、大人しい人だった。活発な兄貴の近くにいたから余計そう見えるのかもしれないが、家の中でお友達とお喋りをしたり、編み物をしたりするのが目に付いた。姉の編み物技術は凄かった。寒い冬の日には真っ赤なマフラーを編んでくれるほどで、その優しさと姉の思いが詰まったマフラーを貰った日には、嬉しすぎて布団の中でもつけていた。
子供は風の子なんて言うが、姉にはそんな言葉は当てはまらない。そんな性格を子供ながらに感じていた。
正反対な性格だが2人とも仲が良かったし、帰りの遅い父親と母親に代わって、俺の事を良く面倒見てくれていた。
今でも、それには感謝しか無かった。
兄と姉がいなかったら、きっと寂しさで押しつぶされていたから。
「歩は大きくなったら何になりたいんや?」
「んーとね」
元々、母親とは関東にいた。でも、あの頃は関西のある一角に住んでいた。
「もちろん野球選手よな!」
自分の実父は、すでに死んだらしい。
人が死ぬという事をよく理解出来ていなかったあの頃はよく分からなかったが、きっと母親なりに頑張って絞り出した結果だったのだろうと思う。母親の実家がある関西で、俺を育ててくれた。それからまもなく再婚。
実父は、交通事故で亡くなった。幸い、と言えるのかは分からないが他の車との衝突事故ではなかった。いわゆる自損事故。死人も出ていない。
「それはお前の夢やろ?わたしは歩に聞いとんねん」
飛び出してきた猫を避ける為にハンドルをきった。が、その先にあったガードレールに思い切り突っ込んでしまった。打ちどころが悪かったのか、即死だったらしい。ガードレールの悲惨さがその衝撃を物語っていた。
猫は生き延びた。道路という全くの危険地帯を横切ろうとした、猫。でも父親は死んだ。ただ、家に帰るために運転をしていた父親は。
この話は、大きくなってから聞いた。死というものを受け取れる年齢になったから、母親は話してくれたんだと思う。俺は「そっか」しかいえなかった。
それから、なんとなく猫というものを避けるようになった。
別に、猫が嫌いとかではない。
事故をきっかけに、そうなってしまっただけ。事故においてはもはやしょうがないし、誰も悪くない。動物に「手を挙げて横断しなさい」「車には気をつけなさい」なんて言う方がおかしい。普通じゃない。そんなことは分かっている。
運が悪かった。それだけのこと。
でも犬派?猫派?と聞かれると、犬と答えるようになった。
それだけのこと。
「んーとねー俺はね〜」
「カッコイイヒーローになりたいなあ〜」
不幸とは、突然やってくるものだ。
運転中の車の前に、突如飛び出してきた猫のように。
「にいちゃんかえってこおへん……」
「……せやなあ」
兄が、帰ってこなくなった。
自分の年齢が10のときの出来事だった。
「俺が、にいちゃんにあんなこというたから?」
昨日は兄と喧嘩をした。
6歳も上の兄。それでも、やはり子供。16歳と10歳の喧嘩。
兄がキャッチボールに連れてってくれると言うのだが、いかんせん、気分じゃなかった。本当になんとなく。
それがきっかけで口喧嘩。それから、数発身体をぶたれた。やはり突然叩かれれば痛いしムカつくので、仕返しとしてひっかいたり、腕を噛んでやったりもした。そうしたらまた鉄拳が飛んでくる。怒りの応酬。それは兄弟の日常だ。
兄は我に返ったのか、元々用事があったのか、途中でやめて、ドスドスと足音を立てながら外へ行く。
兄は最近、機嫌が悪いとあからさまに足音を立てるのだ。
「そないなことあらへんよ。あれはにぃちゃんが大人気なさすぎや」
「にぃちゃんも子供やで」
「うん。わかっとーよ。でもなぁ、あれはにぃちゃんがやりすぎやで。こないになるまで殴るなんて、どうかしてる。どうせすぐ帰ってくるからまっとこうな」
「……うん……」
「歩はいい子やねえ」
今思えば、兄も兄でなにか追い詰められていたんじゃないだろうか。
年端もいかない小学生の弟に、何かを見出そうとしていたんじゃないだろうか?そう思える歳になってから気づいてももはや手遅れなのだが。
その夜は、よく眠れなかった覚えがある。
いつもならば、母親におやすみを言って、姉と兄が眠る所で身を寄せて眠りにつく。それがいつものルーティン。義父はたまに家に帰ってくるから、その時は父親にも挨拶をする。
でも、今日は姉しかいない。そして、父親もいなかったし母親も帰ってきていなかった。布団が寂しい。広いと感じることに寂しいと思うなんて、随分かなしいことだなと小学生ながらに思った。
「歩はにいちゃんとねぇちゃんの自慢の弟やで。愛しとーよ」
「俺もねー、にーちゃんとねーちゃんのこと大好き!」
「ふふ、ありがとうなぁ」
姉が頭を撫でてくれる。その手が少し震えていた気がする。
その日は兄から貰った、すこしよれた野球帽を握りしめながら、眠るために目を閉じた。
数日経って、今度は姉がいなくなった。
忽然と消えた、と言えるほどに跡形もなかった。
それは夏休みの真っ最中。学校がないから、いつまでも眠りにつけたはずの朝。
隣に姉がいないことに気づいて、一気に不安が押し寄せる。兄のこともあって、姉がいなくなる恐怖はいつもあった。
「ねえちゃん……?」
台所にはラップのかかった朝ごはん。鍋には味噌汁。鍋の近くに手をやれば、温かさが肌に伝わってきた。それらはねぇちゃんが今朝作った証で、少し前までここにいたことを指し示す。
エプロンはダイニングテーブル付近のイスにかかっていた。姉は自分の意思で外に出たのだろうか。
電気は消えたままで、やけに静かだった。家の中にセミの鳴き声がジリジリと響くだけで、人の気配など感じられない。
人生で初めて、家全体を広く感じた。とにかく部屋の隅まで探して、ねぇちゃん、どこ、ねぇーちゃん返事してよ、とひたすらに駆け回る。
でも、いない。
どこにも、いない。
いない、いない、いない。
そうして、姉がいなくなった事実が鮮明に写り始める。不確定な事実であってほしいのに、その事実の輪郭はどんどんと濃くなる。
夏なのに、寒い。それから、体の奥から何かが溢れて爆発した気がした。
「ねえーちゃん!」
朝9時。
踵が擦れてきた運動靴を履いて、外へ行く。
ガラガラと横引きのドアを思い切り引く。
ちゃんと鍵はかけなきゃ、とどこか日常の習慣をわすれられないのが煩わしい。
なぜか穴に鍵が入らないな――そう思ったときには鍵を閉める手が震えているのが目に付いた。
――臆病なやつ。自分のことをそんなふうに感じた。
臆病者の少年は、蒸し暑い朝の大地をかけていく。
もう見つからないはずの姉を探して。
*
「俺らの父ちゃん、もうだいぶアカンくなってもうたらしいねん」
「……そう……」
「前々からやばかったけどな。あー、やっぱ人間、極限になるとほんと、なんていうか……はは、ほんま、……アカンくなるもんやね。俺も含めて」
「なにそれ。和希はアカンくないやろ?」
「アカンよ。最近ほんまにアカン……。また注射打たれてからなんかおかしいんや……」
「それは和希のせいとちゃうやん!」
「……俺なあ、もう父ちゃん殺そう思うねん」
「…………えっ……何……言ってんの……?」
「瑞希。今までありがとうなぁ。よく喧嘩してきたけど、お前のこと大好きやで。血は繋がってないけどさ、歩のことも食べちゃいたいくらい大好きやってん。かわいくてしゃーないわ歩。一緒に野球すんのも、楽しくてたまらへんわ」
「ちょ、ちょっと和希」
「でも、このままやと俺ら3人路頭生活まっしぐらや」
「だからって急やろ!」
「急やあらへんよ。前々から考えてたんやで。シャブ中なってからどんどんおかしなるやん。あいつ」
「………」
「義理の姉も兄も妹も出来るくらい色んなバツイチとかワケあり女に手ぇ出しくさりおって。次は弟……笑えるでホンマ、フルコンプリートや。しかも、歩はまだ小学生やねん。頭ごなしに怒鳴らてんの、ホンマ見てられへん。父親が帰ってくるだけで怖そうに震えてもうて可哀想……あんな男選ぶ母親も母親やで。あの家に味方居らへん。俺らん周りの大人は馬鹿ばっかりや」
「……うん……それは……」
「瑞希もあの父親のこと殺したくなったことあるやろ?」
「あるよ。何回も思った。一矢報いてやりたいって思っとる。でも……でもそれじゃあ和希が」
「大丈夫。大丈夫やで瑞希」
「そんなわけないやろが!」
「大丈夫!大丈夫!ほんまに大丈夫なんやって!もうほんま、大丈夫やから!もうなんだ、この世のあらゆるものに誓って言うわ!この俺、樒 和希は!ほんまもんの大丈夫な男やで!」
「ねえ和希!!!」
「だいじょーーーぶっていってん!!な?こんだけ大丈夫言うてる人間、ほんまのほんまに大丈夫なんやから!!!」
和希はニカッと音が出そうなくらいに大きく顔を歪めた。
口角は引きっつってて、目はギュッと力強くつむられている。笑顔、というには不格好だった。
「歩はまだあの父親の本性気づいてあらへんのや。いや、もしかしたらうっすらくらいは……気が付いてる可能性すらある。……もう、今しかないねん。俺耐えられへん。父親のせいで道踏み外して、おかしくなって行くなんていやや。義理の兄とか姉たちみたいに、俺らの可愛い弟がヤク漬けになるなんていやや……」
「和希……」
「本当は、ただ父親に対して恨み晴らしたいだけかもしれへんな。でも、自分のためであって、歩のためでもあって、お前のためでもあるのもホンマやで」
「わかっとーよ……」
「……うん。ありがとうなあ」
父親殺害実行は明日。
歩と喧嘩して、家をでていく。しばらくは友達の家で泊まってるふりして、父親の所に。
そこからは、もう、運任せに近い。
でも、これでもうあの親から解放されるなら儲けもん。この僅かな希望にかけたい。和希はそう言ってるみたいだった。
「今日の夕飯、特製のオムライスバーグ作るね」
「えー!いいんかー?!」
「和希も歩も大好きやもんね」
「瑞希もやろがい〜!」
夕焼けに向かって、2人分の影が街で揺れる。
身を寄せ合うように、揺れている。
*
姉が消えてからというものの、母親の帰りが早くなった。
ごめんね、ごめんね、ごめんねとしか言わなかった。何に対しての謝罪なのか。免罪符が欲しいだけのごめん、にしか聞こえなくて、でも母親に対して素っ気ない態度なんて取れなかった。
大丈夫、しかいえない。いわせて、もらえなかった。
義理の父親は顔も見せない。連絡もよこさない始末だった。
前々から義父のことは怖かった。機嫌の良い時と悪い時が激しくて、1度、カブトムシを取ったのを見せたらぶん殴られてことがあった。でも次虫をとった時には「天才や!」とか言ってて、何が父親の正解なのか分からなくて怖かった。母親も父親からはまるで家政婦のような扱いを受けていて、無意識に父親という存在が嫌なものになっていった。
実父がもし、生きていたら。
それは、何度も考えたもしもだった。
1ヶ月後、死体となって兄と姉は見つかった。
あまりの損傷具合から身元は判明しなかったが、失踪日時と体格、それから制服姿などの情報により、樒 和希と樒 瑞希の死体だと判断がなされた。
兄は弟宛に手紙を残していたようで、警察の人から見せてもらった。が、あまりの気味の悪さに顔を顰めた。
その手紙は、ひらがなまみれだった。
5.6歳の少年が書いたと言っても言いその様は、怪奇と断言出来るほどにおぞましい。内容も偉く拙くて、本当に兄が書いたのか不安になるほどだった。
死体から検出された薬物反応と、首に残る注射痕から恐らく2名とも薬物を摂取していたようである。
いや、厳密に言えば摂取させられて、の方が正しい。
その日は自分が11歳になった日だった。兄と姉が死んだ日に、俺は誕生日を迎えた。
いつもなら兄と姉が祝ってくれる。そんな優しくて温かい2人は、もうこの世に居ない。冷たくなって、森林に捨てられていた。
自分だけが生きている感覚に吐き気がして、誕生日が来る度に兄と姉を思い出すようになって苦しくなった。
実父がこの世にいないことを知った時は、こんなに苦しくなかったのに。
俺の事をあんなにも愛してくれて、たまには喧嘩して、それでも共に時を過ごして。そんなふたりを突然失った喪失感は、145cmぽっちの身体では受け止めきれなかった。
なぜ、平仮名まみれの手紙があったのか。あの落書きまみれの紙は、兄の字だったのか?そんなわけない。兄は16歳だ。読み書きなんてバッチリできる。信じられない。兄は確かに学校が嫌いだったみたいだけど、あんなにハチャメチャなことは書かない。だから、兄が死んだなんて嘘。きっと夢。まだどこかに居る。そうなんだ。
兄が生きてるなら、姉も生きてる。2人して俺とかくれんぼしてるだけ。姉は、俺らが大好きなオムバーグとかをまた作って待っててくれるんだ。
そう、これは悪い夢なんだ。
*
小学五年生の秋。東京の方に引っ越すことになった。苗字が変わってないことから、義父と母は離婚してないのかな、くらいのことしか家族のことは考えられなかった。
俺は、その年の後期から東京の小学校に通い始めた。
それから、特に思い出も残らない小学校生活はあっという間に終わりを迎えた。卒業式中、すすり泣く子もいた。それをやけに冷めた気持ちで見ていたのを憶えている。
中学校に上がる頃にはもう関西訛りは抜けていた。中学校生活は、一言で言えば可もなく不可もなくという感じだった。
友達はあまり出来なかった。あの時の自分を客観視するなら、地蔵みたいだったと思う。姉と兄を失った悲しみはあまりにも大きくて、楽しげにはしゃぐ同級生を見ると底なしに虚しくなったし、イライラした。幸せそうな人間を恨みがましく思うなんて、とは思っていたが、あの空間では息がしずらかったのもまた事実である。自分だけ、この空気を受け入れられることのできない苦しみを誰にも吐くことなく、1人で抱えて、湧き出るあぶくを潰していった。
そして季節は巡り、高校生になった。
「歩くんってさあ、ボクと中学一緒だったよね?」
「あ、うん、そうだった……かな」
「小学校は?どこ小?」
「小5の時に大阪の方から転校してきて、卒業したのは東京のサンノミヤ?小……ってところ」
「あれ!隣じゃん。てか転校してきたんだ?」
「まあ、うん。」
「奇遇〜!ボクもそうなんだよね。京都だけど」
「へえ、そっちも。訛り抜けてて分からなかった」
「まあ越してきて長いしねー。こっちに染まってきた感ある」
「そう……ええと」
「あれ、もしや名前覚えてくれてない?じゃあ改めて自己紹介しよ!」
彼の名前は榊 清。丸メガネ奥の瞳は夜空のような色をしていて、その瞳はよく軽薄そうに歪む。
フルネームが全部で二文字の人間、自分以外初めて見た。
確かに、ボクもかも。あはは!
これが俺と榊のファーストコンタクト。
そして、これから続く、長い地獄を共にする人との出会いだった。
「樒くんってガリ勉くんなんか?」
「……違うけど」
「図書館でこんな熱心にものを見てるって勉強大好きにしか見えないよ」
「調べ物してるだけ」
「……へえ……え……なに、麻薬に興味あるの?」
「……お前に関係ないだろ」
「実はさー、ボクもなんだよね」
「……そんなの、べつに聞いてない。」
同じことを考えてる人間に出会うのは初めてだった。
榊も俺と同じく、麻薬――というより麻薬犯罪に対して興味があったらしい。
そういえば前に警察官に興味がある、なんて言ってた気がする。
「友達の親がさあ。麻薬に手ぇ出してたらしくて。んで、友達もさあ……一緒になって吸わされてたか……吸いたくて吸ってたんかまではよく知らないけど、まあそんなことがあったんだよ。」
「……そうか……」
「でさ。ボクさ、ねーちゃんがいるんだけど、そのねーちゃんも吸ってたんだよ。もう逮捕されたけどね」
「…………」
「あは。……だから越して来ました〜……なーんて。ははは。」
「……」
榊の口元は愛想笑いを浮かべているようだが、目が笑っていない。
勢いでつい言ってしまった、という感じと相手の反応を伺うような色があった。
「んはは!居づらそうにしてる人見るのスキ。なんて声掛けたらいいかわからないでしょ?」
「うん。わからない。なんて言われたくてそんなこと言ったんだ?」
思いのまま、そう口にする。
榊の目はまん丸になっていた。回答を待つために見つめ続けていても、榊からの答えは返ってこない。
「……ふふ……ふふふ」
「……なに?」
「いやあ?君さあ、友達いなかったでしょ」
「気の合わない奴と群れる道理は無い」
「道理って!あははっ!気難しっ!」
榊はコロコロと笑う。腹の中に鈴でも入っているのかと思ったほどだった。
さっきはニンマリと嫌な笑顔を浮かべていたのに、いまは楽しそうに笑う。変な奴、としか思えなかった。
「バカにしてるのか?」
「いや。そう見えたなら謝る。――でさ!」
榊はガタン、と立ち上がった。椅子が後ろに引かれ、ギギっと床を擦る音が聞こえて、自分の鼓膜が大きく震えた。気がしただけだ。
「なに」
「ボクと群れる道理はある?」
「……まだわからん」
「確かに。じゃあ、群れる道理があるかどうかその目で値踏みしてよ」
警察官になりたい。その思いを自覚してからの行動は早かった。
昔から、犯罪に対して強い憎しみがあった。兄と姉のことを思い出して叫び出したり泣き出したこともあった。毎晩毎晩この身が切り裂けてしまいそうなくらいだった。兄と姉が死んでから、這い上がれないほど深い谷に突き落とされた気さえした。這い上がろうともがいても暗くて深くて冷たい所では動けやしない。小さくて弱い。そんなガキが声を上げても誰も助けてくれやしない。見向きもしない。そんなどん底でひとり思うのだ。どうしてあの二人があんな酷い目に。許さない。許せない。犯人が生きているなんて、絶対に許されていいはずがない。
それから、自分だけ生きていることも許せなかった。
なんで、俺なんかが生きてるの。
なんで、死ぬのが俺じゃなかったの。
犯人を見つけ出して同じ目に合わせて、そのはらわたまで引きずり出して中身を見てやりたい。この世で最も大きな苦痛を与えたい。姉と兄の痛みを、その身をもって味わうべきである。そう思っていた。
同時に、こんな風に思う人間が、警察官になれるのだろうかとも思った。犯罪者を目の前にして、冷静でいられる自信が正直なかった。だから、警察官になりたいなんて言う気持ちには蓋をした。憎しみまみれの自分が、なっていい職業ではないと思ったから。
でも、麻薬犯罪の話を調べたり見聞きするうちに、どんどん興味が引かれていった。蓋をしていた気持ちが徐々に煮えていくのを感じる。それから、榊も「いっしょに警察官になろうよ。歩に向いてると思う」と言ってくれた。
榊には詳しく話さなかったけれども、理由があって犯罪を強く憎んでる告白もした。そうしたら「自分の過去ともケリをつけられるかもよ」とも言ってくれた。
”自分の過去とケリをつける?”
それじゃあ、あの二人がまるで終わったものみたいじゃないか。そう思って血の気が引いていったが、一旦は過ぎ去ったのもまた事実であるということを、そのときやっと受け止めることが出来た気がした。
兄と姉は、もう帰ってこない。兄と姉は、生きている自分にとっては過去の人になった。
そのことを受け止められた気がした。ずっと、向き合ずに逃げいたは自分だったことにも気がついた。
苦しんでいた自分を認めた。
兄と姉がいなくなったことを認めた。
自分が、警察官になりたいことも認めた。
「同じ道にきてくれてありがとう、歩」
「お前のためじゃないよ。ぜんぶ、俺のため。俺が生きていくための道だから」
「……そっか。それもそうだな」
いつものように、そっけなくそう返した。
暗い谷底に少しだけ、光がさした気がした。
まず、身体を鍛えたいと思った。
警察官に必要なもののとして、あげられるのは、やはり強靭な肉体や体力だろう。目指すからには早速手に入れる必要があった。
しかしながら、自分で鍛えるにしてもひとりじゃ限度がある。だから、部活に入ることにした。
入部届けを提出した先は剣道部。理由は、榊に誘われたからだった。
「警察官になったら、武器も扱うしさ」という武術を学ぶには有るまじき理由で共に入った。
同級生には中学から始めていたやつも多かった。そんな奴らとはもちろん差がある。だから、彼らからたくさん吸収していくことができたし、お互い闘争心を刺激しあった。そんな毎日の中で上達するのは楽しかったし、同級生に負けたくなくて、余計にのめり込んだ。気がつけば、鍛錬は日課になった。
その結果、3年になる頃にはキャプテンも務めた。インターハイにも出場し、結果を残した。
この頃から、自分は武術に向いている性分なのだと思い始めた。これは驕りでもなんでもなく、3年間でインターハイに出場出来たほどに努力ができて、確実に結果を出す――そんな自分には、どこか武術的なセンスなどがあるのだろう。
そんなふうに思うと同時に、兄と姉の命を奪った人間たちを叩きのめすための力だとも強く感じた。
誘ってくれた榊は「歩、マジですげーな」と笑っていた。そういう彼も副キャプテンだ。
後で知ったが、榊は中学でも剣道をやっていたらしい。でも、部活のメンツとそりが合わなくて退部したんだと、ほかの同級生が聞かせてくれた。その時はそうなんだ、と聞き流したが、喉に小骨がひっかかるような気分になった。その骨はまだ取れない。
「樒くんってさ、男の子にしては髪長いよね」
「ねー。ロン毛が似合う男子って中々居ない気がする」
「わかる、ロン毛なんてアイドルでしか見ないから新鮮」
ねえそれ、聞こえてるよ。と言えばよかったのだろうか。
部活にて提出を強制されている自己管理のノートを書いている最中だった。
あー、何書こうとしたか忘れた。集中しろ自分――なんて思いながらも、思考の端で女子たちが自分のことについて話す様がチラついた。それは、首元にナイフを突き付けられている気分だった。思春期男子が異性にドキドキする様なものとは別の何かが胸に残る。
「カッコイイというより可愛いよね」
「女顔っぽいから髪長いの似合うのかな」
「目元とか切れ長だし」
「榊くんとしかいつも話さないよねー」
腹の底が、ぐにゃりとねじ曲がった気がした。
蛇に睨まれたカエルみたいな気持ちだった。
「清は顔広いからわかるけど」
「2人って中学同じなだけでしょ?」
今は、2時間目と3時間目の間。たった10分で50分分の休憩をする時間で、室内はザワザワしてる。そのはずだが、なぜかこの女子3人の声が鮮明に聞こえた。たしかな輪郭を持って、自分の耳に運ばれてくる。
あー、次は現文。宿題なんかあったけ、と思考を生み出すことに切り替える。それでも耳はその3人の方に向いていた。磁石に引き寄せられる砂鉄みたいだった。
「仲良すぎる〜」
「あ、てか部活もいっしょか〜。部活から仲良くなったのかな?そういう友情って漫画みたいで素敵」
「わかるー。あーなんかもう仲良くなったきっかけ聞きたくなってきた」
榊の声がこだまする。
――え、キミ麻薬に興味あるの?
――へー。実はボクもなんだよね。
あの時の榊の目は、なにかを抱えた者が一緒に背負ってくれと縋るようだった。
「あ、清ー!」
不幸とは、突然訪れるものだ。もはや、事故みたいなもん。
猫を避ける為にハンドルをきって、たまたまガードレールにぶつかって、ぽっくり逝く、みたいな感じの。
彼女たちに悪意は無い。だからと言って、放っておいても良いとは思わなかった。
グズグズと脳みそがゆだりそうで、咄嗟に立ち上がった。
「さ、榊っ!」
自分でも大きな声が出たな、と思った。どこか他人事だった。
教室内の話し声がすこしだけ消え失せ、無数の視線が向けられたのを肌で感じる。胃がきり、と痛んだ。
「ん?どしたん?」
ざわざわとしてた室内は、一瞬静かになるものの、またざわめきを取り戻していく。
榊は微笑みながらこちらに寄ってきた。女子の呼びかけも聞こえていたはずだが、こちらを選びとってくれた事に僅かな安堵を覚えた。
「……トイレいこ」
え、いいけど。なんて言う榊の後ろで、「仲良いな」と誰かが言った気がした。
なぜ急に呼んだのか、ということを正直に話した後、先に戻ってて欲しいと頼んだ。なんでもっと上手く出来ないんだろうなんて、自分を責めたけど、「ありがと、お前はやさしいな」って困ったように笑われた。
手洗い場で鏡を見る。鏡の中の自分は無愛想。はあ、とため息なんかついている。
こちらからしたらよく知らない人間に、自分のことが一方的に知られていたり、関心を持たれる事が怖かった。
兄と姉が死んだ後、家にマスコミが来ることがあった。世間に疎かったあの頃はよく分からなかったのが幸いだったかもしれない。
でも、何かを得ようと、根掘り葉掘り手を突っ込んでくる他人を見て、心はどんどん擦り切れた。多分、それと似てるからだと思う。
それでも、教室にいた彼女たちの言葉を気にする自分がいるのも嫌だった。他人の思想や興味に消費されることがこんなにも嫌なのに。
自分の顔はそんなに女々しいだろうか。
男なら、髪は切ったほうがいいのだろうか。それが普通なのだろうか。
『歩の赤い髪はほんまにきれいやな〜!夕焼けみたいで、ねーちゃん、大好きやで』
『にーちゃんも赤くしてまおうかなぁ!歩とおそろいや!』
……いいや。
この長さは、ふたりに誓った信念。
この顔は、ふたりが可愛いと言ってくれた大切な顔。
だから、大切にしたい。
大丈夫。
今のままの自分で、きっと大丈夫。
「君、随分仲間内から嫌われているようだね」
「……はあ。」
全治1週間。謹慎は2週間。
怪我を負った樒歩は、潔癖そうな面の男を気だるげに見やった。樒の顔が面白いのかは知らないが、その男はフフッと可笑しそうに笑う。
樒は、刑事として有るまじき暴力性を同僚の前で披露してしまった。
まだ犯人グループを逮捕できたから良かったものの、ひとりで無茶をした結果、警察組織として宜しくない結果を招いた。
樒歩に足りないものは?と聞かれれば1番に出てくるのは協調性。そして報連相の能力。それから相手を思いやって行動する力。エトセトラエトセトラ。恐らく、両の手では数え切ることは不可能だろう。
22歳にして、組織対策部犯罪課の超新星と担がれる程に爆速で成果をあげた。
新人だの若者だの経験が大事だのをこねくり回した人間達にただ結果と事実を叩きつけた。スーツがまだ不似合いな新人風情が大きな成果をかっさらう。キャリア官僚の息子でもないのに。それは前代未聞であった。
上司の一部には、結果を褒められた。
上司の一部には、社会人として、組織としての説教を垂れられた。
同僚には、やり口を非難された。
成功さえすれば別にやり口なんてどうでも良いと思っていた。でも今回のは見過ごされなかった。流石にオイタがすぎたらしい。
そんなんこんなで、まだ骨がくっついていない腕があるというのに書類を書かされることになった。呼び出され、めっちゃ反省してます。ここが悪かったです。謹慎明けは必ずあなた方に従います。みたいなことを取り敢えず書類に書いてきた帰り。
その人は樒の前に立った。
「君に聞きたいことがあるんだけど。5分……いや3分くらいお時間貰えるかな」
「嫌です」
「回答によっては君の理想のお手伝いをしてあげられるよ」
「……!」
「ふふ、興味持ってくれたみたいだね」
思わず黙る。胡散臭いが、なにより自分が「何かを強く望んでいる」ことを見透かしている口ぶりに驚いた。相手のことは何一つ知らないのに、相手はこちらをよく知っている。流石に不気味さを覚えた。
そんな樒を見て、夜空に輝く月のような色の男の瞳が弧を描く。まるで半月だ。
「取り敢えず、あなたは誰なんですか?」
「ジングウジ。公安部の人間だよ」
「公安部……?」
「そう。公安部の特殊捜査課に所属していてね。君の噂とその実力に胸撃たれてお話がしたいと思っていたのさ」
特殊捜査課、という単語に少し興味が引かれた。
それと同時に、この人はそうやって興味関心を引こうとしていることを悟る。
「はあ、まあ、大体はわかりました。……お話の方どうぞ」
「ふふ。ありがとう。じゃあ早速。君は過程と結果、どっちを大事にする?」
「結果」
「どうしてかな?」
「結果が全てだから」
「世の中には過程が大切だと言う人もいるよ。君の同僚達もそうだろう?だから、君のその危ないやり方に非難轟々という訳だ。その人たちのことはどう思うかな」
「なんとしてでも変えたい現実がない人達。さっさと成果をあげて登りあがりたいって思わない腑抜け共」
「ふふふ。そこまで?」
「ええ。」
「上司にやり口の相談とかしたことは?」
「一度話したことがあります。でも、話して思いました。なんにも考えてない。俺が新人だからって、聞く耳を持たないし。そもそも、現場に赴かずにいる人間にどうして相談する必要があるのでしょうか」
「そっかそっか」
ジングウジさんは――何かを考えるみたいにうんうんと頷く。もはや何か決定してるみたいな頷き方だと思った。
「君、公安部に向いてるよ」
「……は?」
「ぜひウチの特殊捜査課に来て欲しい。君が良ければだけど」
「……意味がわかりません」
今の質問で、一体自分自身の何が分かったというのだろうか。そんな気持ちを表すように、樒歩は益々険しい顔をした。
「やり方に囚われない人間は組織を大切にする刑事部より、公安部の方が向いているんだよ」
「……そんなの、貴方の偏見でしょう」
「偏見かどうかはその目で確かめてみてよ」
「警察は組織を大切にします。元より社会がそういう構造をしているんだから、そりゃそうでしょう」
警察組織とは、正義と倫理、そして秩序の奴隷だ。
その精神を図太く持っている奴じゃないと生きてなんていけいない。そんなのはなんとなく、分かり始めてた。
「そうか……君はそう考えているのか。じゃあ言い方を変えよう。特殊捜査課の私の班においで。そんな君の考えとは真反対なところ。ゆえに、私といれば君の願いは叶う。いや、一緒に叶えよう。」
「…………」
どうしてそう言い切れるんだ。
不愉快だった。
自分の思いも、その背景も知らずに易々と言ってのけることに腹が立った。
「僭越ながら、君の経歴を拝見させてもらってね。君は、ヤクザみたいな反社会的勢力を叩くことを第1としているようだ。でも、それだけじゃ麻薬犯罪のない世界なんて作れない」
「…………」
気に食わない。そう思った。
この人は、自分の願いと、練り上げた信念をたった少しの言葉で否定した。
でも、同時にそうなのかもしれないと思った。
どこかでそう思ってるからこそ、こんなに腹立たしいのかもしれない。
「クスリを社会にまわしているのは誰だと思う?」
「……半グレとか、ヤクザとか、金に困った奴ら」
「そうだね。それも間違いじゃない。たしかにヤクザは、借金返済に首が回らなくなった人間や、随分いい加減に生きてきた人間から搾取していく。その人間たちを見捨てるとは言わないが、”普通”の一般市民とは少し訳が違うよね」
「はっ、警察が言うことじゃないですね」
「たしかに。今のは警察官の私ではなく、1人の意見として聞き入れてくれ。」
神宮寺さんは、そう言いながら困ったように笑った。
少し会話を交わしてわかったが、この人、掴みどころがない。
「……わかりました」
「それで話を戻すけど、一般市民で最も近しいヤクのルートというのは、そんな輩よりもっともっと身近にあるんだ。しかも、大人から子供まで、家族全員を飲み込む魔の手。現代日本の家族問題とも密接な関係にあるんだ」
「……それは?」
「反社会的な新興宗教だよ」
「お前さんが最後のひとりっちゅーわけやな。てか髪長っ、前髪長っ!切ったらどうなんや?」
関西訛りの言葉を吐きながら、自分より大きな背丈の男が顔を覗こうと近づいてきた。頭には大きめなサングラスをつけていて、本当に警察官なのか疑うような軽い雰囲気だった。
「相良!初対面なのにグイグイいくなって神宮寺さんに言われたばっかでしょ」
「言われたけど直せなんて言われてへんもーん」
センター分けでセミロングの女はサングラスの大男に何か言い返している。
白いまつ毛が縁取る、紫とピンクの間のような瞳が申し訳なさそうにこちらに微笑んだ。まつ毛が白いことから、もしかしたら地毛は白髪なのかもしれない。
「そういえば、私の自己紹介がまだだったよね。私はシロヤギ アイカ。白に漢数字の八、木曜日の木で白八木、愛する花で愛花。よろしくね」
「……よろしくお願いします」
「くっらぁ〜!新人、ほんま暗いなぁ〜!!返事も表情も暗すぎるんやが」
横に押しのけられていたサングラスの先輩が、横から口をだしてくる。今はサングラスを目元にかけていて、今度こそ顔をのぞきこんでいた。
薄暗いサングラスから見える松葉色の瞳は、俺の内側を覗くような力を感じさせる。
「……だからなんですか?」
「もっと明るく振る舞え言うとるんやコウハイ」
「その必要性を感じません」
「愛嬌っちゅーのはな、仲良うやるのに必要な潤滑油やろがい」
「私はここに遊びに来た訳ではありません。愛嬌振りまいて仲良くするつもりは毛頭ないです」
「……へぇ。おもろいこと言うやんコウハイ」
「お気に召したなら光栄ですね、センパイ」
部屋の空気がピリ、とし始める。
まるで静電気でも起きそうなほど。
「はーい3人ともお待たせ〜」
「………………」
「……お疲れ様です」
神宮寺さんがこの部屋にやってきた。
途端に、さっきまでの、なにか張り詰めた空気感は一瞬で解けた。
「仲良くやってくれてたかな?」
「勿論やないですか〜。ね、コウハイくん」
相良、と呼ばれていたこの男はいきなり肩を組んでニッコリと笑って見せた。
この男、本当の本当に嫌いだ――そう思いながら視線を床に落とした。
「…………ええ、おそらく」
「はは。まあ、徐々に打ち解けてくれたら嬉しいな」
神宮寺さんはにこり、と優しくこちらに笑いかけた。この笑みが意味するのは両成敗というものに近いと思う。
「それで。”技術者”の方も見つかったんですか?」
白八木愛花、と名乗った女が神宮寺さんに食い入るように質問をする。
「ああ。警備部から来てくれたよ」
「ほえー、またえらい所から……」
「入っておいで、サカキくん」
サカキ、という呼び名に思わず目が引かれる。
高校の同級生だった榊も、警察官になったはず。
でもたしか、交通課に行ったとか言っていた気がするので、恐らく人違いだろう。
なんて、思っていた。
「せっかくだし、自己紹介してもらおうか。」
「サカキです。サカキ……え?」
サカキ、と名乗った青い髪の男は、目を丸くさせてこちらを見ていた。
「ん?」
「なんや?」
「……えっと……歩?」
「……うん、そうだけど」
「いや、”うん、そうだけど。”……じゃないだろ!え、あの……神宮寺さん!?」
そこに現れたのは、少し疲れた顔をした榊 清だった。
榊は、交通課にいったわけじゃなかった。
公安警察といえば、昔は警備部も指した。それほどまでに限られた人間しか入れない所に、彼はいた。
何があったかは分からない。話したがらない。基本的に、みんなそうだった。俺も、みんなには話さなかったし、話したくなかった。
「高校の同級生なんだってね」
「ああ」
「多分、神宮寺さんは分かってたよね」
「……多分な」
某月某日、午前10時過ぎ。公道を運転中。
助手席に座っている白八木が沈黙を破った。彼女は先輩だが、タメ口でいいと言われた。存外フレンドリーな性分なのだろう。
公安部特殊捜査課としての研修、のような名目でとりあえず2人1組になって雑用に等しい内容の任務を行うことになった。俺は後輩だから、車の運転を任される。
刑事時代の常識は、勿論公安部にも適応されていた。
「神宮寺さん、ああいうとこあるよ」
白八木の言葉には、なにか含蓄的なものを感じた。
でも、触れるのも面倒だと思った。
「そうか」
「樒は、怖いと思わない?」
「思わん」
「……本当は?」
「思わない。2度も言わせるな」
「そっか」
怖いとは思っていない。ただ、やはり気がかりにはなった。神宮寺さんは、俺らになにか隠している……そんな底知れぬものがあるのではないか、なんて勘繰る。
そんな疑念を、白八木には見透かされて居たような気がした。
「到着したらすぐに被疑者達と交戦になると思うけど……警棒は使ったことある?」
「勿論だ」
「あ、組対出なんだっけ。そりゃあるか」
「ああ。まあな。むしろそっちは?」
「あるよ、全然あるある。公安部きてから尚更使ってるしねえ」
やんわりとした口調だが、なんだか物騒なことを言われた気がする。
「へー」
「ふっふっふっ。お手並み拝見といこうか。元組対の樒くん?」
「……そういうノリ、ウザイ」
「えー!!!」
思えば、この時から……
いいや、もはや神宮寺さんに声をかけられたときから、俺たちの運命は決まっていたのかもしれない。
*
カルトという言葉には本来、悪い意味は一切ない。
崇拝や礼拝。実に崇高な意味しかそれには存在していなかった。
悪い意味が付与されたのは、報道機関の影響が大きかった。本来の意味よりも、犯罪行為を犯すような反社会的な宗教団体を指して現代日本では使用される。
「今回任務の”アレ”、実は私が育ったところなの」
「……育ったところ……、って……」
そう言われた時は、正直絶句した。
「なんや?ビビったかシキミ」
「いや、驚いただけだ」
「因むとオレもここ育ちやで」
「……そう、なのか」
「あはは。神宮寺さんが私らを引き抜いた理由、絶対コレだもん」
「内部事情に詳しいやつ身内にいた方がええもんな〜」
相良と白八木は、所謂カルト教団内で育った二世信者。筆舌に尽くし難い日々を送り、15歳くらいのとき宗教から解脱および家出をしたらしい。
何の因果か、そのカルト教団は、公安警察によって長らく監視下にあった。
そして、最近目立つ動きがあったらしい。
潜入および解体へのメスを入れるには、今しかないという判断が下され、特殊捜査課に任務が課せられた。
「滅びこそ至高などという終末思想を唱え、あらゆる暴力行為を救済とほざく連中だ。挙句、生命の危機を脅かしながら苦痛に耐えることを修業と称し……そしてついに、死人を出した。」
「一部のジャーナリストや弁護士達から、人権侵害やテロリスト予備軍などと謳われはじめていたようです。そしてどうやら、そんな人達にも手を出し始めている。ほら。見て、資料」
榊は、六法全書並の厚さの資料を机に置いた。
表紙には「危険新興宗教教団 アヴェスター捜査資料集」と書かれている。
「アヴェスターってのはどっかの言葉で原典とかの意味や。それをこの世の聖典とかなんかわけわからんこと沢山ほざいとったなあ、教祖様」
「……そうなんですか」
「そして、私の家族がまだここにいる」
「オレのもな!」
「…………」
榊と目が合った。
なんと口にしたらいいか分からなかったからだ。
「そう。だから君たちが適任ってことだよ」
「神宮寺さん」
さっきまで奥の薄暗い資料庫にいた神宮寺さんは、いつの間にか光の射す方にいた。
「君たちをこの課に引き入れた時にも話したように、君たちの願いを叶えられる時が来た」
「わはは!さすがやわ〜ワシ嬉しゅうてしゃーない!」
「でも、大丈夫なんですか?おふたりとも……その」
「榊。私達は平気だよ」
「せやせや。もうな〜、トラウマすぎて足腰立たへん〜とか、辛すぎてむり〜とか、悲しすぎて困っちゃう〜とか……そないなウジウジした気持ちはもう鞘に収まっとんねん。」
相良は、辛い気持ちが消えた、とは言わなかった。
収まった、と表現した。
「話を戻すけれど、どうやら件の教団は終末思想にどんどん拍車がかかり、本気で国家転覆を掲げ始めているようだ。自衛隊のものではない軍事訓練も散見された。数年にわたり、離島の購入も行っている」
「叩くなら今ってわけですね」
白八木が低い声で神宮寺さんに同調する。
普段の彼女は朗らかで優しそうだが、今の彼女は、腹を空かせた肉食獣のようだった。
「その通り。早すぎても取り逃がす可能性があり、遅すぎたら大惨事になりうる」
「そんでそんで?決行日はいつなんや?」
「そうだね。それについても、今から話そう」
榊と俺は緊張した。
普段の2人からは感じられない、何かが発散されていたような気がした。
「怖いか?」
「そんなことない」
「……正直、オレは怖いで」
「……そうか」
特殊警棒を握りしめる手が強くなる。
今の時刻は22時。夜の森は、それだけで恐怖心を煽るものだが、身を隠すにはうってつけだ。
「お前は道を切り開くんやぞシキミ」
「ああ。分かってる」
神宮寺班は、前線の人間と後方の人間でわかれる。
前線は俺と、相良と、それから白八木が担当をする。基本的にスリーマンセルで動いて、確実に敵を潰している。
だが、その白八木は今、敵組織の内部事情を把握するために潜入をしている。
『正面入口に2人。南西に見回りが巡回してるよ』
「おう、おおきに」
後方メンツの1人、榊からだ。
耳元の小型イヤフォンから情報を伝えてくれた。
『白八木からの合図がきたら、即突入。でも、連絡が無ければ25分に突入。手元に時計は持っているね』
今度は神宮寺さん。彼は司令塔だ。前に出るなんて、滅多にない。でも多分、神宮寺さんに肉弾戦を挑んでも、武器でのやり取りを挑んでも、きっと勝てない。
「はい。持っています」
「オレも持ってる。時報でバッチリ揃えてきたで!」
「声でかい」
「おーわりわり。っておい!ワシにも敬語使わんかいシキミ!」
『――楽しそうなところすまないね。噂をすればなんとやら、だ。白八木から合図がきたよ。さあ行っておいで』
「ははは!いてこましたろやないかい」
「用心しろよ」
「どの口がほざきやがるんや」
月明かりが差し込む暗い森を歩く。
少し生ぬるい夜の風が、俺たちの背中を押して、頬を撫でた。
*
扉を開けると、酷い悪臭と灯りがひとつも灯らない部屋、そこにうずくまる小さい体がふたつあった。
近付くと、まるで意味を孕まない喃語のような言葉を発した。そして、爆発した様に叫び出した。
「あ、あぁぁあ!!!やめろ!穢れる穢れるさわるなぁああ!!!!」
「……君は、白八木 萌愛だな」
「黙れ!気安く名前を呼ぶな!!!帰れ!!」
「そっちの君は、黒八木 正か?」
「へへへ、もうそれは私の名前じゃないよ」
「何笑ってんの!!ねえ!コイツ、ケーサツだよ!」
「ケーサツ……?へへ……そんなのもういないんじゃなかったの。教祖様がみんな殺したってきいたもん」
確か、保護対象の子供たちは14歳だか15歳だと聞いていた。しかし、見てくれはまるで7歳くらいの子供にしか見えなかった。腕も細く、やけに色白なのも外に出ていないことがよくわかった。
栄養失調に低身長。発育不良なのがひとめでわかる。
「いいや!あれはケーサツだ!ケーサツは我々の敵だ!汚い土足であがるなあああ!!!」
「そーなの?ケーサツ、はじめて見た。ふふふ、へへへ」
白八木萌愛は、俺を見てずっと叫び散らしていた。
かなり折檻をされていたのか腕は赤黒く蚯蚓脹れになっている箇所が多く、膿ができているのも見えた。この教団内の人間は、基本的にみんな白髪だった。でも、彼女は黒髪だった。だから、どんな扱いを受けていたか想像に難くなかった。
男の子だと見間違うほどに短く、さんばらにきられた髪と傷だらけの細い体躯は異様だった。
黒八木正は終始楽しそうにヘラヘラと笑っていた。白八木萌愛同様、異様な身体の細さと幼そうな言葉遣いに年齢を疑う。ボロボロで傷だらけの身体と反するように、顔はとても楽しげだ。まるで、大好きな親と楽しい話でもしている小学生なようだった。
「わかった……誘拐だ……誘拐されるんだ……それで地獄に落とされるんだ……あたしのおかあさんみたいに土の中にうめられて……わたしたちの髪が黒いのはやっぱり吉兆だったんだ……」
「……誘拐されるのやだなあ……まだ死にたくないなあ………」
「違うよ」
「違くない!!!この嘘つきが!嘘つきが!!」
「うう……死ぬ前ににーちゃんにあいたいよう……」
「あたしも…愛花おねーちゃんにあいたいよ……うっ、うわぁぁぁぁぁん!!!!!」
2人は、共鳴するように泣きわめき始めた。生き物が本能的に恐怖を感じている時に出る叫び声みたいに、2人の鳴き声は強烈だった。空気をビリビリと揺さぶった。
白八木萌愛は紫色の大きなめからたくさんの涙を流して、黒八木正も緑の瞳からほろほろと涙を流している。
相良と白八木の顔が浮かぶ。目元だけなら、彼等そっくりだな、と思った。
それから、ここに来れたのが、俺でよかったと思った。
「会わせてやるから泣くな」
「うそつき!!!」
「うそばっかぁぁあ!」
「…………」
彼らに1歩、近づいた。
「近づくなぁァァ!!!!!」
「たすけてにーちゃぁあぁぁ!!!」
彼等は、壁に背中を押し付けて仰け反る。
非力にも、限界まで距離を取ろうとしていた。
「ごめんな」
どすん。
小さくて、骨と皮だけと言える華奢な体躯に重い拳をいれる。さっきまで壊れた玩具のように暴れ狂っていた2人は、怖いくらい静かになった。
後にも先にも、こんなにも小さい身体を殴ったのはこれきりだった。
「……ごめんな」
2人の泣き声が、絡みついて離れない。
流石に、すこし疲れた。
*
自分を大切にするってなんなんだろう。
『もっと自分を大切にね』
ボロボロの自分を見て、あの人たちは私にそう言ってた。だから、怪我をしていけないことだと悟った。でもどうにも違うらしい。
この社会にいる普通の人は、当人の感情を尊重するらしい。だから、自分の立場や信念を突き通すことこそが、自分を大切にすることだって思うようになった。
私は、あの教団にいる末の妹を救いたい。
あの子だけでも守りたい。
その事だけ考えて生きるようになった。
「…………呼んで」
「……?白八木さん?もっとハッキリ――」
「救護!呼んで!!!」
教団から解脱してから、沢山の道徳や倫理を学んだ。一つ一つを理解していく度、自分のことが嫌いになった。自分の親を恨んだ。傾倒している人間たちが気持ち悪くなった。
そこから、自分の心と身体を、土足で踏み荒らされることから守ることも自分を大切にすることだって思うようになった。
でも、これって人に気を許すなって事なんじゃないかなんて思った。
私は、器用な人間じゃない。
人のことを程よく信じて友達作りなんて、できない。
だから、ここまで人に頼らずいたのに。
本心を打ち明けることを避けたのに。
「こんなに怪我して……馬鹿じゃないの!?」
なんでこの人はいつもボロボロになるの?
なんでこんなに痛みを恐れないの?
「しょうがないだろ。子供二人も抱えてたんだから」
「そういう問題じゃない!なんでこんなに……」
なんで、こんなにも、自分を”大切”にしないの?
地べたに倒れ込んだ状態の樒からは、異様なまでに鉄の匂いがした。
樒に寄り添うように眠る萌愛と正くんの有様も酷かった。想像していた通り、酷い折檻に合っていたのがひと目で分かった。ろくに食べ物を与えられていないような小柄さに息が詰まる。
それでも二人が生きていて嬉しかった。間に合ったんだとほっと胸を撫で下ろした。
でも、その嬉しさをかき消す程に目の前の男がボロボロになってて。
樒の身体に触れて、とりあえず起こそうとする。
「触るな」
「っ!ごめん、痛かった……?」
「ちがう。衛生的に良くないと思って。こんなに血液が出てると血液感染――」
「そんなこと!?いいから!息しにくいでしょ?自分で起きあがれる?」
「力が入らない」
「うそ、もしかして筋繊維ちぎれてる?えっとそういう時は確か……」
「……ちがう。その、肩、脱臼してて」
思わず目を見開く。
そんな身体で、2人を抱き抱えていたのだ。思わず樒の痛みを想像して顔をしかめる。とんでもない痛みのはずなのに、この男はなぜこうも気まづそうにするだけに留まるのだろう。
「……無理しすぎだよ……樒」
「……無理なんてしてない」
樒の長い髪はぐしゃぐしゃだ。
誰かわからない血液と、汗と、泥と、人の脂で嫌な光り方をしている。
「…………してる……してるよ……。なんで……こんなになるまで頑張っちゃうの。本当に死んじゃうかもしれないんだよ」
「死なない」
「死ぬよ」
「そんなヤワじゃない」
「……馬鹿じゃないの」
人はどうしようもなく呆れると、感情のやり場に困るのかもしれない。樒のバカみたいに無謀で、貴方の身を案じてる人の気持ちなんて考えない言葉に思考を手放した。
何も言わない代わりに、樒の髪に手を添えて、頭の形に沿うように撫で始める。樒は何も言わない。
痛みを堪えているのか、少し息が震えているのが見える。
「生きてて、よかった」
「……」
「本当によかった」
「…………そう」
「もうこんな無謀なことしないで」
「……」
「樒」
「…………それは……約束できないな……」
「…………」
「……白八木」
「…………嫌」
「……任務は俺の生きがいだから、むりだ」
遠くで榊くんが呼んだ救護隊がきているのが見える。
「……生きる目的のために命を捨てられるの?」
「捨てる、じゃない」
こっちです、こっち、と誘導する榊くんの声が聞こえる。
「この命で、麻薬に苦しむ人が減るなら……いくらでも命を掛けたい。そう思う」
白八木さん、呼んできました!
歩のことはこっちで引き取りますから!
し、白八木さん……?大丈夫ですか?!
白八木さん、白八木さん!
樒の頭の形を撫でた感覚が、しばらく手の中に残っていた。
*
件の教団は解散となった。俺ら5人は切込隊長。そこから、ほかの公安部の人間と警備部が協力して人を投入。
大きな力と小さな力を持ってして、この教団は解体された。
そんな任務のすぐあと、休暇を与えられた。
任務のために準備してきた荷物を持ったまま、神宮寺さん以外の4人で海が見えるホテルに泊まった。
神宮寺さんは俺らの班長。だから、多分やることがある。大変だなーなんて呑気に榊と話した。
「……ねえ、怪我。大丈夫?」
「うん?うん。平気」
「……包帯、巻き直してあげる」
「いやいい」
「じゃあ、私が巻きたいから巻かせて」
「……意味不明だな」
部屋は2:2に別れた。生憎2部屋しかなかった。
グッパーして部屋割りを決めた。そこだけ見れば、俺らはまるで学生のようだった。
どうせ寝て終わるだけなのに、ひとつひとつに騒げる3人は元気だな、と思っていた。
部屋は豪華だった。窓から海も見えた。オーシャンビュー。その言葉が脳裏を過り、値段がするだけはあるなと他人事のように思った。
俺らは仕事が生き甲斐だった。だから、金を持て余していた。ちょっとした贅沢として、高くてもホテルに泊まった。
窓からは見える海を見下ろす。ふと、死んだ兄と姉の事が過ぎる。
2人とも、よく海に行きたがっていた。そんな2人は、海の日生まれでもあることを皮肉に感じてもいた。
海、見たいなぁ。なんていってもいた。あの土地は内陸の方だったから、俺らの足じゃ頑張っても海には行けなかった。
「ありがとうね」
「なにが?」
「今回の任務のこと」
「別に。仕事だし」
「……あんただけだよ、こんなにボロボロになってるの。何無茶してんの」
「お前らより人殴ってたから」
「でも、正くんとモエのこと抱えてたよね」
「抱えてる所を結構狙われたから受けてやった」
「もう、アンタ、自分のこと合金だと思ってる?」
「いいや」
「あー、ほんと、はーあ。……ほんとにね、あんたに感謝してるの。あんたじゃなかったらあの部屋たどり着けなかったよ」
「だから、お前の為じゃなくて」
「知ってる。自分の為、でしょ?でもありがとう」
「……お礼なんて言うな」
「言うよ。言う。たとえ、自分のためだったとしても、言う。」
「変なやつ」
「なんとでも言って」
「……はあ。早く巻き終われクソ女」
「ふふ。ねえ、今から言う言葉にはそっか。とかそうか。だけで返して。」
「……はあ?なんだそれ」
「私、あんたに言いたいことがあるの」
「あ?やだよ……」
「いいから」
「……はあ……そうかよ」
「自分勝手なこと言うけどさ、私、あんたが優しい人だと思う」
「そうか?」
「あ、クエスチョンマーク禁止。……で、今の返答聞いて尚更そう思っちゃった」
「……そうか」
「お前のため、って言われるのが嫌だったの。教団にいたときも、家族が幸せになるため!とか言ってて。あたし、皆が生きてるだけでよかった。大声で聖典叫ぶとかじゃなくて、遊園地に行って騒ぎたかった。絵本を読んで欲しかった。宗教の教科書じゃなくて」
「そうか」
「だから、理由付けにあたしが含まれることが嫌だったの。何か、重いものを背負ってるみたいで嫌だった。そいつの行動責任があたしにあるっていうか。そんなもの感じてさ」
「そっか」
「……わかる?あたしの言いたいこと」
「…………」
「……あは。ごめん。……だから、重いものを背負わせないでくれて、ありがとうって言いたくて」
「そうか」
「あとね」
「……」
「愛花って呼んで欲しいな。あたしも、歩って呼びたい」
「……そうか」
愛花の瞳が柔らかく歪む。
宝石でも埋め込んだかのような光沢を孕んでいた。
「ね、朝起きたら海行こうよ、歩」
「朝起きられたらな、愛花」
*
自分は、才能にも、運にも恵まれなかった。
オマケに、自分というものがどんな形をしているのかわかっていなかったらしい。
「さ〜かきぃ〜〜」
「なんすか。眠いんすけど……」
あの最悪最低の過去を叩き潰す。そのことだけを考えていた。しかし、言い換えてしまえばそのことさえ考えていれば生きていけた。ほかの難しいことには目を瞑ればよかった。目を瞑ったままの猪突猛進は、気持ちが良かった。
「シキミとアイカの部屋遊びに行こかな〜思って。サカキはくる?」
「んーちょっと眠すぎるからいいや…………」
「お〜い!……はあ。まあ、たしかにあれは疲れるわな。ごめんやで、おつかれさん」
知ってしまった。
自分はきっと、救えぬ程の寂しがり屋だということを。
「…………」
ドアの前に立つと、樒と愛花の楽しげな笑い声が聞こえた。
それは、友達と面白いことをして、ゲラゲラと笑い合うものなんかじゃなかった。
寝る前に世間話を交わして、眠たげな相手が微笑ましい余りに零れた笑みのように優しかった。
樒と愛花は相性がいいと思う。特殊捜査で特攻する時も、潜入捜査の時も、書類整理とか聞き込みとかも。
オレでもわかる。小手先だけの技術だけじゃなくて、潜在的な何かの波長がすこぶる合うのだ。
そのことがなんだか、とても焦れったくてしょうが無かった。
「(……なんや……これ)」
皆は何のために警察をやっているのだろう。
何のために、公安警察になんかなったんだろう。
何のために、神宮寺さんの下に――
「……あほくさ」
歩を進める先は、あの班員がいる部屋から、夜の海へと変わった。
警察とは、上が言うことが絶対。
黒いものも、白いと答えなければならない世界。
本当のことを、
言いたいことを、
全て噛み殺して、成果をあげられる奴の勝ち。有能で使える忠犬が、正義。
出来ないのなら、負け。負け犬。いつか捨てられる。
でも、この世界なら?
血の通った仲間が、家族が手に入るとしたら?
「……鏑木です。鏑木、春一。」
「鏑木……そうか。大体はわかった。でもまだ信頼も信用もしちゃいねぇ。」
「ええ、わかってます。だから、私に証明させて下さい」
「へぇ。どうやって?」
「潜入している警察官、それから配備されてる警察官。全員、殺してきますよ」
才能に恵まれ、しかし人間の愛を知らない化け物のようなお前には分からないのだろうな。
「……さが、……らッ……?」
努力が実らない虚しさも、
「よぉやっとお目覚めか?コウハイはお寝坊さんやのぅ〜」
命を尊いと思うこの切なさも、
「……おま………え……っおれに……なにし…た…」
正しいとは何かを考えるこの愚かさも、
「なにって、ちょっとチクッてやっただけやで。」
お前には理解できないのだろうな。
なあシキミ。
お前は哀れな奴だよな。最後の捜査員として特殊捜査課にきちまって、こんな目にあって。若いのに結果を残す。残し続ける。神宮寺さんを信じて。
なんで、あんなに神宮寺さんを盲信できるんだ。
「何も考えられへんやろ?」
「……っぁ………」
昔の父親とか、あの教団にいた人達見てるみたいで、反吐がでる。
賢い犬みたいに上に従う。
脳みそ空っぽで、本能だけで付き従う。
そんなの、死んでるみたいで嫌だ。
「あはは、頭ハッピーになれてよかったや〜ん。でも正気に戻ったらきっと辛いで」
クスリの辛さは、オレがよく知ってる。
潤うことの無い果てしない乾き。
ジェットコースターに乗っているかのような高揚感からの落下。
視界が歪み、不安が煽られる。
それを味わったのは12歳の頃だった。
カスみたいな親だったと今も思う。
義理の父親は元々医療関係者だった。人を生かして、ナンボの世界。でも、ある時限界を迎えた。積もり積もったなにかが、一気に崩れるようにして父は破綻した。
死とはなにか。本当の救いとはなにか。当時の父親は本気で考えた。
父親は、優しくもあり、弱くもあったんだろうとおもう。
父親は考えた果てに、とある宗教団体に入信した。
そして、イカれたカルト思想に浸り、頭のネジがどんどん外れていった。
狂った教義を盲信し、傾倒した。
救済と銘を打った暴力を肯定した。
施し措置として薬物接種を強いた。
薬物で、貧した人々を依存させて、しぼりとっていくのもこの目で見てきた。
貧相で、不健康そう。
でも、表情と声色はとてつもなく幸せそうで。
そんな狂気を目の当たりにして、まともにいられるはずがなかった。
自分の過去を否定したくて、
いまの自分自身を肯定したくて、
警察官になった。
でも、オレの理想はどうも、自分自身に嘘をついていたようだった。
「オレは、こっちの方が居心地がええみたいや」
樒に打ち込んだのはデソモルヒネ。俗称、クロコダイル。
非常に安価な癖して、効き目はバツグン。その効果といったらロシアの街郊外の一角を壊滅させるほどの依存性と威力を誇る。
不愉快な気持ちなど一瞬で晴れていき、全てが満たされた気持ちになれるシロモノ。
でも、粗悪品ほど安くて即効性がある。
だから、貧困層ほど沼って命を落としていく薬物のひとつだ。
オレはこれを改良して、日本にも広める。
今の日本なら、きっと可能だから。
日本という国は、緩やかに”死”へと向かっている。
その証拠に、平均年収はここ20年間ほどあがっていない。昔の日本は、今や超大国のアメリカより平均年収が高かったはずなのに。
しかしながら、貧富の差はゆるやかに広がりつつある。ゆるやか故に、その異常性を若い層は知覚できているものが少ない。できたとて、改善する術がない。政府も、なんとか食い止めることしかしない。
とどのつまり、今の日本は貧困に喘ぐもの達が増えてきているということだ。
何も、皆生活が成り立たないほどではない。
でも、みんな屍のよう。生きる為に働いているのに、働く為に生きているみたいな。
だからこそ、売りがいがあるのだ。
己の過去を否定しようとか、自分を肯定しようとか、そんなのはもうどうでもよくなった。
今、心地よい方を選ぶ。
首輪を外して、自由に、力強く生きる獅子になる。
他人から見て、その場所がたとえ地獄に写っても、オレにとって心地よくて、暖かい場所だった。
”コレ”は、そんなオレの決意表明。
神宮寺さんへの、返事。
『これからどうしたい?』
任務が終わってしばらくして、オレに神宮寺さんはそう聞いた。
用済みとも言われているような気がした。
『まだ……わかりません』
オレはそう答えた。
自分のいるべき立ち位置が見えなくて、そう答えた。
「お前らの死体は見苦しいほどええからな。往生せえよ」
「久しぶりだね、水卜くん」
「……神宮寺さん……なんの用ですか?」
「新しく組んだバディの子、辞めちゃったんだってね」
「どこから聞いたんですか」
「友達から」
「……丁度、俺も聞きたいことがありました。榊を潜入捜査に向かわせましたよね」
「…………」
「俺の警察学校同期の奴が、真田と連絡がつかないって心配してました」
「…………そうかい」
「ちゃんと答えてください。沈黙は肯定と見なしますよ」
「……君はラッキーだったね。”真田”くんはずっと独り身だった。だから頼んだのさ」
「…………」
「そうだ。君にも、伝えておきたいことがある」
「何ですか?」
「相良が生きてた」
「なっ…………」
「そして、いま君はバディ関係を断たれた」
「……」
「この意味、わかるよね」
「…………はい。大方」
「……私もね。鬼じゃない。もう君に頼るつもりは無かったんだよ」
「……でも、いずれ貴方は来ると思ってました」
「ふふ、そうかい」
「ええ」
「まあ、兎にも角にも。相良を捕えるか殺すまで……それか、私達が死ぬまで、この追いかけっこからは降りられないらしい。それを忘れないでいてね、”樒”」
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