第5話 さよなら愛しの婚約者

「お集まりの皆さん、聞いていただきたいことがある。」

 広場に買い物へ来ると、なぜか中央に人だかりができていた。声には聞き覚えがある。人だかりの隙間から見えたのは、毅然とした態度で立つリチャードの姿。

 彼の低く、威厳のある声が広場に響くと、その場にいた人々の視線がさらに彼に集まった。彼は一瞬の沈黙の後、口を開いた。

「皆さんもご存知の通り、オフィーリアとアーロの婚約について噂が広まっています。しかし、私は信頼できる情報筋から驚くべき事実を知りました。」

 彼の言葉に、ざわめきが広がった。リチャードは満足げに微笑んで続けた。

「彼らの婚約は偽物です。恋人同士ではないのです! 今まで見せられていたものは、ただの演技にすぎません」

 村の人たちの顔には驚きの表情が浮かび、互いに耳打ちする者もいた。リチャードはこの反応に満足したようで、さらに一歩踏み込んで言った。

「どうやら、オフィーリアは本当にアーロに愛されているわけではないということはお判りいただけますか。彼女が村の利益のために結婚を拒むための口実として、この偽りの婚約が使われているだけなのです」

 彼の言葉が広場中に広がり、次第に人々の不信感が募っていくのが感じられた。リチャードは笑みを浮かべた。

「そんな話、信じられるか?」

 群衆の中から一人が声を上げた。人々の中には眉をひそめ、リチャードの話に疑念を抱く者もいたが、彼はそのまま話を続けた。

「信じられないのも無理はありません。しかし、皆さん考えてみてください。アーロは騎士団長という立場にある男です。彼が婚約者を選ぶなら、それ相応の貴族の令嬢を選ぶはず。オフィーリアは、ただの村娘に過ぎない。アーロが彼女を本当に愛しているというのなら、なぜ公に発表しないのでしょうか?」

 彼の言葉に、再びざわめきが広がる。村の人たちはその場で顔を見合わせ、何を信じるべきか迷っているらしい。どうしよう。リチャードはその反応を見て、さらに口角を上げた。

「私は、この村の未来を案じているだけです。オフィーリアが本当に村のためを思っているのなら、偽りの婚約などせず、正々堂々とリチャード家との縁談を受け入れるべきだ。そうすれば、村はリチャード家の支援を得て、より繁栄することができるのです」

 リチャードの言葉が響く中、一部の村人たちは彼の提案に頷き始めた。確かに、リチャード家との結びつきは村にとって有益かもしれないと考え始めた者もいるだろう。

「でも、オフィーリアはどう思っているの?」

 また別の声が上がる。群衆の視線が揺れ動く中、リチャードはその声を無視するように続けた。

「オフィーリアも、この村の未来を考えれば理解してくれるはずです。だからこそ、私は彼女に真実を伝えるため、ここに立っているのです。アーロにとって、オフィーリアはただのお遊びでしかないと」

 リチャードの言葉が広場に響き渡った瞬間、村の人たちの表情は凍りついた。オフィーリアとアーロの婚約が偽装だったなんて、誰もが予想もしなかったことだった。特に私を昔から知っている者たちは、その事実を受け入れることができないような顔をしていた。

 ──お遊び。その言葉がやけに耳の奥へと響いた。

 そんはずはない。けれど、リチャードが言っていたことをすべて跳ねのけてしまうのも違うように思える。ただ子どものころ、短い時間を過ごしただけの仲。それだけの理由でどうしてここまで付き合ってくれるのか。それは、やはり遊びも含まれていたのかもしれない。

「嘘だったのか…?」

「本当に恋人じゃなかったの?」

「あんなに幸せそうに見えたのに……」

 ざわめきが広場中に広がり、人々は次々と口を開いた。その声は次第に怒りや失望に変わっていった。するとひとりが、私の存在に気付いた。「オフィーリア」と名を呼ばれると、一斉に視線を浴びた。

「今の話、どういうことなの⁉」

「私たちを見捨てるつもりなんでしょう!」

「騙すなんてひどいぞ!」

 言葉が詰まり、次が出てこない。視線が私を刺すように感じ、足元が揺らぐような錯覚に陥る。リチャードの嘲笑が遠くから聞こえる気がした。その時、すっと肩に温かい手が置かれた。振り返ると、アーロが私のすぐ後ろに立っていた。

「オフィーリア、ここは俺に任せて」

 彼の低く、穏やかな声だった。この人はどうして、私が困ったときに颯爽と現れてくれるのだろう。アーロは一歩前に出て、広場の人々に向き直った。

「皆さん、どうか聞いてください。オフィーリアは決して村を見捨てるような人間ではありません。彼女は常に皆さんのことを思い、自分の身を犠牲にしてでも村を守りたいと願っています」

 人々のざわめきが少しずつ収まっていく。アーロの言葉に、彼らの怒りが鎮まる様子が見て取れた。

「あの男が言ったことは事実ではありません。彼は自分の利益のために偽りの情報を流しているのです」

 広場に沈黙が戻った。人々は互いに顔を見合わせたが、しかし納得した者は誰一人としていなかった。

「オフィーリアが結婚しなければ、我々は捨てられたも同然だ!」

「今までの恩を仇で返すつもりか!」

 それはそうだ。私はこの村の人たちに助けてもらった。孤児院に食べ物を分けてくれた人もいれば、勉強を教えてくれる人もいた。それなりに不自由なく過ごせたのは、この村の人たちのおかげと言っても過言ではない。私がきちんと説明しないと。

 けれどそれは、アーロの手によって制止された。

「彼女が仇で返す人ではないと、皆さんのほうがよくご存知ではないのですか。それに、オフィーリアと私は偽りの婚約をしているわけではない。私たちは互いを大切に思い合っている。どうかそのことを理解してください」

 アーロが毅然とした態度で言うと、リチャードの顔には苛立ちが浮かんでいた。

「嘘だ! アーロ、お前が何を言おうと俺は信じない。それとも、お前にはこの村を救える手段でも持っているとでもいうのか」

 リチャードの言葉に群衆の視線が再び集まり、アーロは一瞬だけ私の方を振り返った。そして、私の手を取り、しっかりと握りしめた──かと思ったのに。

 アーロと目が合う。「ごめん」と小さく呟いたそれを、聞き逃してしまいそうだった。どうして謝るの。聞く前に、アーロが意を決したように前を見た。そして、その手はゆっくりと解かれた。私の手は今、寂しく宙に取り残されている。

「この土地のことなら、心配することはありません。私が引き受けましょう」

 なにを言っているの。そんなこと、アーロに出来るはずはない。この村を救えるだけの財産は、ブラックウッド家ぐらいしかないというのに。いくらアーロでも、そこまでのことができるわけはない。

「引き受ける? ただの騎士団長のお前が、この村ごと救えるとでも言うのか」

 リチャードが鼻で笑う。しかしアーロは動揺することなく、目を閉じ、そして再び私を見た。「オフィーリア」呼びかけられるその声は、いつにも増して悲しみが詰まっていた。

「君に、伝えていなかったことがある」

「……え」

 どうしたの、アーロ。それは言葉にならなかった。その直後に、衝撃があったからだ。

「俺は……国王の息子だ。だから、この村を救うことはできてしまうんだよ」

 王子? 

 今、アーロはそう言ったの?

 信じられない。王子、だなんて。まさか彼がそんな立場にあるなんて、想像したこともなかった。アーロの顔には真剣な表情が浮かんでいて、冗談を言っているようには見えない。

「嘘でしょう?」私は思わず問いかけた。

「だって、アーロが王子なんて……」

 アーロはゆっくりと首を振り、私の目を真っ直ぐに見つめた。

「今まで隠していたのは、君を巻き込みたくなかったからだ。王子であるという立場が、必ずしも幸せを意味するわけではないからね。君には普通の生活を送ってほしかった。だが、もうそれを隠しておくわけにはいかない状況になってしまったんだ」

 彼の言葉には隠し切れない苦悩がにじんでいた。私のために、ずっと自分を偽ってきたのだろう。そんな彼の姿に胸が痛んだ。

 村人たちは再びざわめき始めた。アーロが王子であることを初めて知った者も多く、その事実に驚いていた。

「だから、これで君は結婚をする理由もなくなる」

「そんな」

「今まで騙していてすまない。オフィーリアと一緒に過ごしたかったんだ。でも、これ以上巻き込むわけにはいかない」

 アーロが優しく微笑んだ。「幸せになってくれ。」

 そして、二度と私を見ることはなかった。

 幸せに、その言葉が合図だったかのように、多くの若い騎士たちが馬に乗って駆け寄ってくる。その中には、以前、訓練所で会った人たちもいる。

 たしかにアーロは王子のようだった。初めて会ったときから、その印象は変わらない。

 けれど今、騎士たちはアーロを見て「団長」とは呼ばない。

「このお方は、第一王子、アーロ・オルレアン様である。直々にこの村の視察に参られ、寄付をするべきかどうかを検討されていた」

 彼がここに来た意味。それらをつらつらと並べられるけれど、私の耳にはすんなりと入ってはこない。遠くでリチャードが一足早くこの場を逃げていくのが見えた。でも、そんなことはどうだってよかった。

「諸々の審議を行い、寄付に値する村だということが今日決定された。よって、リチャードとオフィーリアの結婚については無効とする」

 無効。つまり私はリチャードと結婚する必要はなくなった。

 でも、これでいいの?

 本当にこれでよかったの?

 アーロは背を向けて去って行こうとした。その姿を見送りながら、胸が締め付けられるような痛みを感じた。彼が去ってしまうことが、まるで自分の心の一部が引き裂かれるように感じてしまう。

「待って、アーロ!」

 思わず叫んでいた。アーロが立ち止まり、振り返る。彼の背中に向かって、私の心がどんどん言葉を紡いでいく。

「あなたが王子だってこと、知りませんでした。偽りの婚約も、寄付の話も、全部私を守るためにしてくれたのは分かります。でも、私は……」

 リチャードとの縁談が無効になっても、村は確かに救われる。だけど、それで私たちの関係が終わってしまうの? また会えなくなるの?

「私はあなたを利用してしまったのですか……?」

 教えてほしい。あなたはどうして、私の前に現れたのか。

「私のために、あなたが王子であることまで隠して……それは、あなたにとって辛い時間にはなりませんでしたか」

 アーロは一瞬目を伏せたが、すぐに私に向かってゆっくりと歩み寄った。その目には、深い憂いと、変わらぬ優しさが宿っていた。

「オフィーリア、俺は、ただのアーロでいられることが本当に嬉しかったんだよ」

「アーロ……」

「けれど、王子であることが知られてしまったからには、もうオフィーリアと一緒にいることはできない。それが、この村を救うために必要なことなんだ」

「……どういう、ことですか」

「君と離れることが、この村を救う条件だったから」

 その言葉が、私の胸に鋭く突き刺さった。

「……条件? どうして私と離れることが、村を救うことになるのですか?」

 声が震えていた。けれどアーロの表情は変わらないまま、優しさと悲しみをたたえた瞳で私を見つめていた。

「この村が寄付を受けるためには、俺が王子としての役割を果たし、王国の利益を最優先に考えることが求められる。リチャードとの縁談がなくなり、村が救われるためには、私が村から身を引く必要があるんだ。王子としての義務を果たすために、そして君の名誉を守るために」

 彼の言葉を理解するのに、少し時間がかかった。彼は村のために、そして私のために、自らを犠牲にしようとしている。それは、彼の優しさの表れだった。それが私にとっては耐え難い事実だった。

「アーロ……私は──」

「俺がいなくても、君は幸せになれる。そう信じているよ」

アーロはそう言って、私から一歩離れた。その姿が遠ざかるのを見て、私は手を伸ばしたくなったが、何もできずに立ち尽くしていた。彼の背中が見えなくなるまで、その場に立ち続けた。


アーロが姿を現さなくなって数日が経った。

村は以前と変わらず、いつもの日常を続けていたけれど、私の心はどこか空虚で、まるで時間が止まってしまったかのような気がしていた。朝起きても、目の前に広がる景色に色がなく、耳に入る鳥のさえずりさえも遠く感じる。村の人々と交わす言葉も上の空で、彼らの笑顔を見ても心から笑えなくなってしまった。

彼がいなくなったことで、村の寄付の話が進んでいることは知っている。それでも、その寄付が私たちにとってどれほど重要なものか、理解しようとする意欲すら失ってしまっていた。彼が私のそばにいないことが、私にとって何よりも重要だったのだから。

「オフィーリア、大丈夫?」

声に気づいて顔を上げると、リリーが心配そうにこちらを見ていた。その優しい眼差しは、私の心の痛みを見透かしているかのようで、なんとか笑みを浮かべる。

「……ありがとうございます、リリー。今日も来てくれたんですね」

「村長がこれを持って行けって……食べられるか分からないけれど」

 リリーは毎日のように食材を持って来てくれる。村長が気にかけてくれるのは本当だと思うけど、彼女が一番心配してくれているのだろう。

 ねえ、オフィーリアと彼女がりんごを拭きながら言った。

「アーロ様がいなくなってから、元気をなくしているのはみんな知ってるわ。今でも、あなたたちが偽りの婚約を結んでいたなんて信じられないもの。あれは本当に愛し合っていた二人だから」

「……そう見えてくれていたら成功ですね」

 偽りだった。婚約者のフリをすることで、お互いが協力関係を結んだ。

 本当に愛し合っていたなんて、そんなはずはない。

「オフィーリアのためを想って、アーロ様がこの村を離れることを選んだのよね」

「ええ、とても優しい方で……」

「オフィーリアはアーロ様を愛してはいなかったの?」

 直球過ぎるその問いかけに、息が止まった。

「……それは」

「私は、あなたに幸せになってもらいたい。その幸せは、アーロ様の隣で得られるものだと思っているのよ」

 隣、となぞる。けれど私が彼の隣にいることは許されない。彼はこの国の王となられる人なのかもしれないのだから。そんな人に、私が近付くことなどあってはならない。

「私は、気持ちを伝えることはいいと思う」

「リリー」

「だって、オフィーリアはアーロ様を愛しているでしょう」

 はっとした。愛している。そんなはずはない。そんなはずは──本当に?

 愛していなかったのなら、この喪失感はなんと言えばいいの。アーロが会えない日々をこんなにも憂いているのはなぜなの。私は彼を──「愛していました」

 涙が出た。頬を伝うそれを、リリーがそっと拭ってくれる。

「それなら、もう答えは決まっているじゃない。アーロ様に会いに行かないと」

 そのとき、足音が聞こえた。玄関扉をノックする音。そこにはイアンがいた。どうして彼がここに。

「呼ばれたような気がしてね」

 ふっと笑った彼は、後ろに控えていた馬を見る。

「寄付のことで村に寄っていたんだ。残念ながらアーロはいないけど」

「……あの、私」

「アーロのもとに行きたいんだろう」

 イアンの言葉に胸が高鳴る。アーロのもとに行く。その考えが頭の中でぐるぐると回り、次第にそれが唯一の選択肢のように思えてきた。けれど、不安もあった。彼を追いかけることが正しいのだろうか。

「オフィーリア、あのアーロ様が、あなたを拒むわけがないわ。彼がどれだけあなたを大切に思っているか、誰よりも分かっているはずよ。それに、たとえ拒まれたとしても、あなたの気持ちを伝えることは大事よ」

 リリーの言葉は、私の心を少しだけ軽くしてくれた。それでも恐怖は完全に消えることはなかった。イアンが一歩前に出て、真剣な眼差しで私を見つめた。

「オフィーリア、君が迷っているのは分かる。でも、アーロのことを愛しているなら、行動を起こすべきだ。彼も君のことをずっと思っている。だから、君が彼のもとに行けば、きっと喜ぶはずさ」

 彼はアーロの側近として、私以上にアーロの気持ちを理解しているのかもしれない。その彼が言うなら、信じてみる価値がある。アーロのために、そして自分のために。

「……お願いします。私をアーロのもとに連れて行ってください

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